第488回 番組審議会議事録

1.開催年月日
平成19年12月14日(金)
2.開催場所 読売テレビ役員会議室
3.委員の出席 委員総数 10名
出席委員数 10名
出席委員の氏名 熊谷信昭、秋山喜久、金剛育子、林 千代、馬淵かの子、阪口祐康、佐古和枝、川島康生、吉岡征四郎、菊池卓雄
会社側出席者 ・土井共成 (代表取締役会長)
・髙田孝治 (代表取締役社長)
・越智常雄 (代表取締役専務)
        編成・制作スポーツ・東京制作・報道担当
・三山秀昭 (取締役)
       内部統制・コンプライアンス・コンテンツ・事業担当
・本田邦章 (取締役報道局長)
・森岡啓人 (執行役員コンプライアンス推進室長)
・村上博保 (執行役員制作スポーツ局長)
・丸山公夫 (編成局長)
事務局 ・新谷 弘 (コンプライアンス推進室次長兼
        番組審議会事務局長兼視聴者センター部長)
・菱田千佳 (コンプライアンス推進室番組審議会事務局次長)
・森本泰輔 (コンプライアンス推進室考査・著作権部)
4.審議の概要 1.審議「現在のテレビについて思う事」
  報告者 吉岡 忍(ノンフィクション作家)
2.報告『ウエークアップぷらす!』のグリーンピア南紀報道に関する
  BRCの決定について (森岡啓人コンプライアンス推進室長)
3.報告「ニュース番組の謝罪について」(本田邦章取締役報道局長)
12月度の番組審議会は12月14日(金)に、大阪市内のホテルで開催された。
審議会では、ノンフィクション作家の吉岡 忍氏をゲストスピーカーに迎え、委員と意見交換が行われた。
吉岡氏は、関西テレビの外部調査委員会委員、BPOの倫理検証委員会委員の立場から、今のテレビ界について、プロダクションも含めた制作現場の人的問題や、番組制作上の体制の問題などについて触れ、「地域のコミュニティが失われていく中でテレビの持つ意味は大きくなっている。番組も、ものづくりの感覚でのぞむべきだ」と指摘した。
このあと、11月に読売テレビに寄せられた視聴者の意見・苦情について概要を報告した。
出席は、熊谷信昭、川島康生、馬淵かの子、秋山喜久、林 千代、阪口祐康、金剛育子、吉岡征四郎、佐古和枝、菊池卓雄の各委員と読売テレビからは、土井会長、髙田社長以下11名。
5.審議内容 別掲の通り
6.審議会の意見に対して取った措置
特記事項なし(議事録は関係部署に配布)
7.審議会の答申・意見の公表
●12月27日(木)付け読売新聞夕刊に議事の概要を掲載。
●1月12日(土)午前5時14分から放送の「声~あなたと読売テレビ~」の中で議事の内容を放送。
●本社コンプライアンス推進室に閲覧用として議事録を備え置く。
●インターネット読売テレビホームページ「テレビの門・話し合ったもん」で議事録を公表。(http://www.ytv.co.jp)
●社内LANにて全ユーザー(全社員および関連スタッフ)に議事録を配信。
8.配布資料 ●報告概要
●2007年11月に寄せられた視聴者からの意見・苦情
9.送付資料 ●民放連機関誌「月刊民放」
●民放連機関紙「民間放送」

【審議内容】


社側
 お疲れさまでございます。年末のお忙しい中、お集まりいただいて恐縮でございます。それでは12月度番組審議会を始めさせていただきたいと思います。
 まず、きょうの委員のご出席の状況ですけれども、全員ご出席をいただいております。本当にありがとうございます。それから、私ども読売テレビ側ですが、いつものメンバーが揃っておりますが、実は12月に人事異動がございまして、編成局長が交代をいたしました。新しい編成局長・丸山と申します。ご紹介いたしたいと思います。

社側
 丸山でございます。よろしくお願いいたします。12月1日に編成局長ということで、まだ仮免といいますか、新米でございます。その前は、日本テレビでスポーツ局長をやっておりまして、読売テレビさんとは、仕事の関係で何度も、こちらのほうへお伺いしていて知らないわけではないんですが、実は、関東生まれの関東育ちでして、生まれて初めて東京を離れまして、大阪へやってまいりました。そういうことで、一から、また勉強して、読売テレビで力いっぱい編成していきたいというふうに思っております。よろしくお願いいたします。

社側
 今後とも、よろしくお願いいたします。
 では、きょうの議題なんですけれども、毎年12月は番組の審議ではなくて、今年のテレビ界を振り返って話題になったことを取り上げております。
 きょう、ゲストスピーカーとしてお迎えしましたのは、ノンフィクション作家の吉岡 忍さんでいらっしゃいます。吉岡さんは、ご紹介するまでもない、非常に素晴らしい作品をたくさん執筆されている方ですが、きょうは、そのノンフィクション作家という顔ではなくて、別の顔でちょっとお話をいただきたいと思います。
 どういうことかといいますと、吉岡さんは、去年ですか、NHKが、いろいろな問題が起きたときに、いわば、その再生委員会というようなものの委員を務められて、報告書のとりまとめをされました。今年に入っては『あるある大辞典』の問題で、関西テレビの外部調査委員会の委員をされて、そのときも報告書のとりまとめの責任というか、中心的な活動をされました。  
それから、その後、この審議会でも、一度ご説明をしましたけれども、BPOの中に新しい放送倫理検証委員会というのができまして、その初代の委員に就任をされまして、そこの初仕事が、TBSの『朝ズバッ!』という番組の中で、不二家の捏造問題が出てきまして、それの検証をされたのも吉岡さんでいらっしゃいます。
 現在は、これまた因縁のごとくなんですが、例の講談社の『僕はパパを殺すことに決めた』という衝撃的な本が出ましたけれども、あの本をめぐる倫理上の問題があったのか、なかったのかということの講談社の調査委員会の委員もされていらっしゃいます。
 というようなことで、ここ最近は、どちらかというと我々のお目付け役のような仕事をずうっとされていらっしゃいまして、特に、きょうは、講談社のことは置きまして、関西テレビの『あるある』、それからTBSの『朝ズバッ!』の問題を通じて、今のテレビに、どういう問題があるのかということについて、少し、お話をいただいて、その後、ご議論をいただければと思います。それでは吉岡さん、よろしくお願いいたします。

吉岡氏
 最初3~40分、私のほうから、お話をさせていただいて、その後、皆さんのほうのご質問などがございましたら、お受けしたいと思いますし、皆さん方のお考えも、お伺いできればと思っておりますので、よろしくお願いいたします。
 私は、テレビの仕事は全く専門ではありません。ですから私のような者が、今ご説明いただいたたような放送界の不祥事の検証にあたることがいいのかどうか、よく分からないところがあります。
 とはいえ、日本テレビ系列の場合ですと、確か30周年の記念番組のとき、それの制作に携わって、アメリカ取材をしたり、NHKの番組でも、企画から構成からやってみたりとかはやっております。
 テレビ朝日系の『ニュースステーション』では、久米宏さんと一緒に番組をつくったりもしましたから、多少は知っているつもりなんですけれども、ただ、ここ1、2年の放送界の不祥事の検証をしたりしてきますと、おもしろいことに、一切テレビ局から声がかからなくなりました。煙たい存在になってしまったのかもしれませんけれども。
 ただテレビがどうあるべきかということは、日本の社会全体に大きな影響を及ぼすことだと考えておりますので、私は私なりに、少し真剣に考えてみたいと思ってやってきました。
 きょうは、あまり時間がありませんので、こういった幾つかの問題、細かいところは、もう皆さん、ご存じだと思いますので、あまり詳細にわたるのではなく、検証の過程などで私が考えたことをお話しできればと思っております。
 幾つかの報告書でも、私、書きましたけれども、テレビ番組の、特に情報系バラエティー番組の持っている危うさというものがあると思います。まず一つあるのは、分かりやすく、面白くという番組のコンセプト、それ自体が抱えている問題だと思います。複雑な物事や出来事を分かりやすく伝えることは、とても大事なことですし、まして、そこに面白さを加えて番組をつくるということは、これは相当な技術と、それから相当な知識があって初めてできることだと思うんですけれども、本来非常に難しいことにチャレンジしながら、じつはものすごく安易なところに流れているということを私は感じます。
 初めから番組のコンセプトやテーマに合ったストーリーが、制作者の頭の中にあるんですね。そこから外れないように、どうやって番組をつくっていくのかということが、とても今、安易に考えられている現実があると思います。
 捏造が発覚した納豆ダイエットの場合がそうでした。納豆を食べると痩せるという、そういうストーリーをつくり上げると、そこから離れない。そのストーリーが、もう既にあるわけですから、何が起きるかというと、物事を調べるリサーチというものが非常におろそかになります。
 『あるある』の場合、リサーチャーは、これは再委託を受けた、つまり分かりやすく言えば、下請の下請けのプロダクションのことですが、専任のリサーチャーが1人もいませんでした。テーマごとに外部のリサーチャーを1人探してきて、やってもらう。決して無能な人ではなく、それどころか非常に有能な女性リサーチャーがいましたが、しかし、1人ができることは知れたものです。基本的には、インターネットで調べ、2、3回あちこちに電話をするぐらいで、もうリサーチが完了してしまう。ですからリサーチに全然コストもかけなければ、人手もかけないという問題があります。
 ちなみに、ほかでちょっと調べたんですが、例えば『世界ふしぎ発見!』というTBS系の番組がありますけれども、あれですと、あれはTBSが放送していますが、つくっているのは別のプロダクションがやっています。そこでは大体5人ぐらいの、これは正社員のリサーチャーがついて番組をつくっています。毎週1回1時間ぐらいの番組ですと、リサーチにかけるコストと、それから人手というのはそのぐらいは必要なんです。『あるある』の場合は、それを臨時雇用のリサーチャーが1人でやっていた。そういう手薄さがありました。
 これだけ手薄になって、しかも最初から、もうストーリーができていますから、次に起きることは何かというと、広報中心の取材です。地をはうような取材は、ほとんどないです。研究機関であったり、企業であったり、官庁であったり、とにかく、まず広報に電話をして、そして都合のいい人を探してもらうというふうな、広報中心の取材になります。
 これを何年もやってきますと、コマーシャリズムに弱い制作者が生まれます。例えば、この『あるある』の問題についていいますと、βコングリシンというのは、最初に彼らが考えた成分でした。この成分をとれば痩せますよと、それが納豆の中にありますよということだったんです。そういうストーリーをつくったんです。これは確かに幾つかの研究成果が発表されています。  ところが、このβコングリシンは、ある学者が研究していたんですが、そこへある会社が研究資金を投入して、これを使ってサプリメント、つまり飲めば効くという薬ですが、サプリメントを開発して発売するという計画の実行段階に入っていた。
 そうなると、納豆を食べたら痩せられるとすれば、そんなにサプリメントを一生懸命、研究開発して発売しても意味がなくなるわけですから、その取材に対して「やめてほしい」ということを申し入れるわけです。
 このまま続けて「いや、そんなことを言っても、私たちは、このテーマで番組をつくるつもりです」と言えば、この捏造問題は起きなかったんです。βコングリシニンを研究している人はほかにもいましたからね、そちらを取材すればいい。
 ところが、彼らは「あ、そうですか」といって、すぐ引いたんです。「分かりました。そんな商売の邪魔をするつもりはありません」と言って引いてしまって、じゃ次のテーマを探さなくちゃいけない。しかも、もう頭には、「納豆で痩せる」というストーリーができているわけですから、もう変えられないんですね。
 それで結局、リサーチャーがネットで、アメリカで研究されていたDHEAという別の成分を探し出してきました。しかし、それに対しては痩せるという効果があるという人もいれば、いや、こんなもの、たくさん大量に摂取したら人体に危ないよと、ホルモンのバランスが崩れるよ、という論文の二つがあって、結局、そちらのほうへ突っ走っていったことが捏造につながっていく、底流を成すわけです。
 つまり、広報取材が中心取材ということに慣れていたものですから、1回どこかで断られても、それを突き進むという、突き抜けていくという、そういう覚悟というか、度胸というものがなかった。
 このことは、もう一つ、TBSの『朝ズバッ!』で、これは、みのもんたさんがやっている番組ですけれども、不二家のチョコレート工場で売れ残った商品を、もう1回、つくり直して売っているという、そういう内部告発があって、それを放送したときにも同じことが起きたんですね。
 内部告発ですから、当然、当該の会社は不二家になりますね。もし皆さんが、そういう事実を知って、この内部告発が本当に真実かどうかを確認しようとする場面を考えてみてください。  
 まず最初に、正面から広報に連絡、確認することは当たり前です。これは一応誰でもやります。しかし、そのとき「そんなことはやってません」と言われるのが大半でしょう。けれども、その反応だけで番組をつくるのは非常に危ないですよね。その次には、その工場で働いている人、出入りの業者に当たる。同業他社に行って、販売店の売れ残った商品をどう処理しているかということを、当然調べます。こうした傍証を重ねた上で、本当に売れ残ったものをつくり直して売っていたのかという本筋を明らかにしていく。
 ところが、『朝ズバッ!』は、その作業をずいぶん怠っていました。やったことは広報に電話して、どうなのか、と聞いただけです。「いや、そんなことはないはずです。ありません」と言われた。しかし、もう一つ、その内部告発した人の同僚がいて、その人が電話してきたときに確かめたら、「そういうことをやっていましたよ」と言った。でも、これは電話のやりとりだけなんですね。そのメモも紛失していました。それで実際に放送し、結果的には、いろいろな問題を起こすことになるんですが、ここには、広報の窓口に取材を依存している、という問題があります。
 結局、最初から頭に描いたストーリーから外れられない。ですから、それに基づいた取材は、都合のいいコメントなり、言葉なりの調達になっていく。それ以外のことを思いつかない仕事の仕方になっている。
 マス・コミュニケーション、そのコミュニケーションの意味は、さまざまな話を聞くだけではなくて、自分の考えも言う、議論もする、そうやって人間関係でもそうですけれども、番組をつくっていく。そういうやりとりこそがコミュニケーションと言われるものですが、そういうものがない。せいぜい努力することといえば、相手が都合のいいことを言ってくれるまで粘る、という程度なんですね。
 ところが、今度はアカデミズムの問題になるんですけれども、今日のアカデミズムには、都合のいいことを言う大学の先生とか、専門家が少なからずいるわけです。大学はいま少子化を迎えて、学生を集めるのが大変だからでしょうが、テレビなどのマスメディアから取材の依頼があったら、なるだけ出演してください、というようなことを言われているのかどうか、先生たちはとにかく出たがる。
 そして「先生、ここで研究成果をおっしゃってください」と言われると、大学の先生も研究所の専門研究者も、それほどしゃべるのが上手ではないということがあるものですから、この業界の用語でいう、テイク1、テイク2、テイク3といって、何度も同じようなことをカメラの前でしゃべってくれる。我々の調査では、そういう取材をした素材テープをたくさん見ます。  
 先生の中には、最初は「いや、この色は黒だよ」と言っていた人が、「でも、先生、グレーの部分もあるでしょう」とディレクターがそそのかしたりすると、「うん、そうだね、ちょっと灰色にも見えるよね」とか言い始めるんですね。テイク5ぐらいに行きますと「いや、これは見方によっては、白かもしれないね」みたいなことになっていく。もう最初に言っていたことと、まるでちがうことをコメントしたりするんです。
 こういう都合のいいことを言ってくれる専門家が少なからずいて、テレビ局でこの種の番組をつくっている部門はそういう便利な教授のリストを持っているんですね。「これは、この人だったら言ってくれるよ」とか「この人は、ちょっと難しいよ」とかね。
 ところが、今回の場合は、アメリカの学者を相手にしなくちゃいけなかった。しかも、彼らが取材した学者は、「DHEAをとり過ぎると、ホルモンのバランスを崩すから危ないよ」という研究発表をしている人だったんです。いくら「納豆で痩せますか」と質問をしたって、「イエス」となかなか言ってくれない。ですから延々とカメラが回っているんです。3時間半回っています。しかし、結局、イエスと言ってくれない。ですから、その映像だけ使って、あとは日本語のボイスオーバーで捏造するというところに走っていくんですね。
 しかし、もう一つ、私が感じたことは、捏造をやったディレクターには、私、何度もヒアリングしたのですが、彼本人は決して悪い人ではない、むしろ好青年です。30代でしたけども、好青年という印象を私は会うたびに持ちました。非常に有能だと思います。確かに520回行われた番組の中では、最高の視聴率を取っています。そのくらい有能なディレクターです。
 けれども、何かを知る、何かを調べる、あるいは事実を突き止めるということについての恐れがない、そのことの持っている意味に対する恐れがない。僕らは、こういう仕事をしていますから、いろいろな、さまざまな、それこそ犯罪事件から始まって国際政治の話まで、さまざまことを調べたりします。
 そうやって、時には1年で、あるときには10年かけて、一つの作品をつくっていくわけですけれども、ものを知るということは、時には自分のものの考え方が変わったり、自分の生き方も時には変わったりする、そういう厳しいものです。ものを知るということは、本質的なところでは、人間を変えてしまう面白さと怖さがあります。
 ところが、この好青年たちは、その「ものを知るということに対して、怖いと思ったことがないかな」と聞くと、何を質問されているか分からない。そんなことを考えたこともないし、気がついてもいない。でも、『朝ズバッ!』のディレクターも、『あるある』のディレクターも、もう10年、この仕事をやっています。もう中堅の制作者です。  
 しかし、その彼らの取材テープを見ると、これが本当に10年間、取材という仕事をやってきた人かというくらい、質問が下手です。何を聞いているのか、よく分からない。「この場面で、あなたは何を質問しようとしたのか」と聞いても、もう覚えてないですよ。取材テープの最後になると、「何でもいいから言ってください」みたいなことを相手に平気で言っている。
 これは、10年間も取材経験を積んできた人とは、とても思えない。広報中心で取材し、都合のいい言葉だけを調達してきて、そこで番組をつくってくると、10年やろうが、20年やろうが、成熟ということはない。成熟がなければ、みんないい人になりますよね。これが一つ感じたことでありました。
 それから次に、制作システム上の問題があると思います。これまでお話ししたことが制作者の問題であるとすれば、制作システムの問題は、放送局の中堅管理職層の問題です。皆さん、大変にお忙しい仕事をしていることは、私も現場を多少知っていますから、よく分かります。
 しかし、自分たちが扱っている情報、自分たちがつくっている番組は、ものすごく分かりやすくいえば、いわゆるモノづくりなんだと、従って、品質管理も大事だし、どうやってその素材を調べ、集めてくるかということも大事なんだし、そういうモノづくりとしての基本的な考え方は製造業だろうが、放送界だろうが、我々のような文学・文化関係だろうが同じなんですが、しかし、そういう感覚がほとんどないようなんですね。
 情報は、情報学の初歩で言いますと、不確定な事実のことですね。まだ不確定ですから、確定された事実ではないものです。その情報をつかみ、周辺を取材し、さまざまな形でテープに残した素材を編集し、ナレーションや音楽をつけたりして、番組にしていくわけですけれども、私はこれはモノづくりだと考えたほうがよい、と思っています。テレビは情報産業といわれますが、情報や番組はモノである、という認識をきちんと持つ必要がある。そうでなければ品質管理についてなかなか思いつかないし、その手法も確立できない。
 『あるある』は関西テレビが制作し、フジ系で流していましたが、番組自体は東京でつくっていました。関西テレビには、この番組の担当プロデューサーがいるにはいましたが、もともとこの番組企画が電通とフジテレビが持ち込んできたということもあって、自分たちの中から出てきたという意識が、あんまりなかったんですね。
 そういうこともあって、「自分たちの番組である」という意識が非常に薄かったようです。最初のころは、新番組ですから、それなりの意識はあったようですが、だんだんに当番のようにプロデューサーが代わっていって、当事者意識が薄くなってきたと思います。
 少し具体的に言いますと、この番組については批判の本が既に2冊ぐらい出ていました。ネットでも、いろんな批判が噴き出していました。普通であれば、自分たちの番組が批判されているわけですから、本を買って見ると思うんですが、しかし、この番組の関係者、もっとも中枢にいたプロデューサーでさえ目を通していませんでした。一人だけ、書店でちらっと立ち読みした人がいましたが、その程度です。
 結局、この中間管理職層が何をしていたのかというと、番組が面白くできているか、ちゃんと納期に間に合うかということだけでした。これは外側からの管理ですね。中に踏み込まない。つまり、テーマとした事実について、例えば、納豆に含まれるこの成分には痩せる効果があるのか、というような事実について議論をされた形跡がないんです。議事録を調べ、メモを見、それぞれの担当者のメールをチェックしても、そのような議論がなされた形跡がない。
 そういう人たちが何人集まっても、プロがいないという印象なんです。プロフェッショナル、プロの人たちがいない。結局、制作会社の管理くらいのことしかやっていない。私は、これは、この人たちの資質の問題なのかなと最初は思いました。
 しかし、揃いも揃って資質がない、などということはありえないですね。問題は、そうじゃないんです。この人たちに共通していたのは、現場の取材や制作の経験が少ないということです。せいぜい、さっきも言いましたように、10年もあればいいほうです。10年ないですね、7、8年。そのあとは、管理する側に回るんです。プロダクション管理だとか、そういう話ですね。これは社内の人事システムの問題、はっきり言えば欠陥だと思いました。
 私、この仕事をやってきて、まだ自分でも、いまだに慣れないんですけれども、10年ぐらい取材の経験がありますとか、番組をつくった経験がありますとか言っても、10年なんて、まだアマチュアです。やっとこれから仕事ができる、というスタート地点です。さっき言ったように、10年くらいでは、インタビューの仕方も、自分で何を聞いているのか分からないような質問しかできないような人たちが、いっぱいいます。放送にかぎらず、文化的表現全体についていえば、10年などはたいしたことはありません。そのくらい厳しいと思うんですね。
 にもかかわらず、それぞれのテレビ局の人たちは、10年もいれば、下請けの、あるいは孫請けのスタッフよりも、何倍かの高いお金をもらっています。ちなみに、さっき言った『あるある』のディレクターの月収は32、3万円です。ものすごく安いです。この人は37歳でした。32、3万円で、よく働くなと私は思いました。勤務実態を見ると、相当な激務でしたからね。その上にいる放送局本体の人たちだってアマチュアにちょっと毛が生えたくらいなのに、どうしてこんな格差ができてしまうんだ、と思います。
 制度的にも下請け構造というものが、ガッチリ決まっていて、一緒に番組をつくるというパートナー意識が育たないような仕組みになっているのではないかと、これは別に関テレだけの問題ではないと思いますが、今後の大きな課題だと感じました。結局のところ、現場の制作スタッフ、そして中堅層、双方から番組の制作力が落ちているということを言わざるを得ないんです。これは関テレだけではなくて、TBSの場合もそうでした。
 しかし、さきほどから私は厳しいことを言っていますが、取材とか、番組づくり、モノづくりの環境が、ものすごく激変していることも確かです。僕らのような年配者が若い記者やディレクターに向かって、「このぐらいの取材、簡単にできるだろう」などと説教しますが、私たちが知らないところで、ものすごい大きな変化が起きています。
 分かりやすくいうと、プライバシーや個人情報の扱い、それからセキュリティー意識が、昔とは大きく変わっています。行政も、企業も、個人も、なかなか自分に関する、あるいは人に関する情報を表に出しません。警察が記者クラブで公表するデータは、昔は氏名、住所、事件や事故の起きた場所などをすべて発表していましたが、今はほとんどされていません。今の若い記者たちは、膨大なエネルギーを費やして、その特定から始めなければならないんです。
 言い換えれば、かつては記者クラブがあるが故に、さまざまな情報がうまく入ってきたものが、今、記者クラブが、だんだん機能しなくなってきているんだと思います。あったとしても本当に、行政は行政で、あるいは企業は企業の側で、この記者クラブを一つの広報機関として使おうとする。かつてのような、情報を公開する場であったものが、大分変質してきています。そのことが、若い人たちが仕事をしにくい環境となっています。
 もう一つ、今度はテレビ局の側の人事制度の問題があります。これは一般にそうなんですが、専門家を育てないような人事の仕組みになっているのではないかと思うんです。
 これは新聞もそうです。かつてでしたら、例えば京都のテレビ局や新聞社の文化部には、何か、お寺のことを聞いたら、この人の右に出る者がいないみたいな、本当によく知っている人たちが、1社に1人ぐらいいました。でも今、そういう、何と言ったらいいんでしょう、企業の片隅の、そこらにある暗闇みたいな感じの、暗いけれども、ものを非常にわかっている人ですね、そういう人のいる場所はないでしょう。
 何でも広く浅く知っていて、スポーツ取材もできるし、事件取材もできるし、何でもできるみたいな、格好よくいえばジェネラリストということになるんでしょうけれども、とにかく広く浅く何でも知っているけど、何についても詳しくない、何についても自信がない、という人たちが、マスコミにいるようになったんです。その人たちが一番求められる社員になってきたのではないでしょうか。それが、今のマスコミ企業の人事ポリシーになった。言い換えれば、専門家のいない、アマチュア集団になった、ということです。
 そういう若い人たちが、だんだん年を食って中堅層になっても、その人のさらに若い人たちがやったごまかしやインチキを見抜けない。何か気がついたとしても、自分にそれを指摘する自信がない。若いうちに、少しぐらいインチキをやった経験がないと、絶対そういう自信って身につかないですから、みんな、そつなくこなして、何か、清潔だけれども薄っぺらな職場になりつつあるのではないか。私はそのことをとても危惧しています。
 結局、その人たちが中堅層になったときに、何を判断基準として選ぶかというと、さっき言った、面白いか、分かりやすいか、数字がとれるか、あるいは納期がきちんと守るか、という非常に表面的なところでしか番組を見なくなるんだと思います。
 しかし、これは、この人たちだけの責任じゃないと、私はやっぱり思うんです。この背景には、テレビというメディアが、かつての20年前、30年前に果たしていた役割と、今のテレビが果たしている役割が大きく変わってきているという現実があります。
 皆さんが若いとき、いろんな番組をご覧になって、「ああ、またテレビがバカなことをやっているよ」とか、「この芸人はアホやな」とか、そんなふうにテレビを見るときには、一定の距離感をもって眺めていたのではないでしょうか。それで、話半分に聞くということが、テレビに対しできたと思います。しかし、今の視聴者にはそのような余裕がありません。
 私は、こういう仕事をやりながら日本中をぐるぐる回っているわけですけれども、今どんな地方に行っても、地域社会もなければ、企業社会もなければ、コミュニティーもありませんね。田舎へ行けば、もう隣近所なんかもない、限界集落があちこちにある。何百という村がそうです。町でもそうです。
 また県庁所在地あたりに行っても、真ん中は空洞化ですよ。大阪とか、東京にいると、この現実が分からないんです。立ち止まって立ち話するようなことは、もう今の田舎の人、地方の町でもありません。どこも車社会ですから、車で行ったりしていますから、立ち話することもできなくなっています。
 ところが、今それがなくなってみると、テレビの声が一番大きいんです。テレビが何を話題にしているかということが、一人一人の話題の決め方になっている。田舎に行っても、みんな同じことを話している。テレビが、ある話題を、こう取り上げたら、この角度から取り上げたら、同じように、彼らも同じように、その見方をするんです。どうやって騒ぐか、この今のテーマについて、騒ぎ方までテレビは教えてくれているんです。それに対抗できるような実の世界がなくなったコミュニティーは、テレビと同じように反応している。かつてテレビは虚の世界でしたが、今や確実に実世界になっています。
 私は、このことを「テレビは視聴者をつくっている」と言っています。同じように反応する視聴者を膨大につくっている、ということです。これが、20年前、30年前のテレビと現在のテレビとの大きな相違です。昔の役割やその影響力をイメージしただけで、今のテレビを考えたらとんでもない間違いになると思います。
 実は今の20代、30代の若手の制作者たちは、まさにその中で育ってきた人たちなんです。つまり、そういうテレビの役割をよく知っているし、「そうか、ああいうふうにやれば、みんな喜ぶのか」ということも知っている。だからニュースであろうと、事件や犯罪であろうと、政治の問題であろうと、芸能人の話であろうと、かつて自分の中にあったようなテレビの見方の中でつくっている。それ以外の番組のつくり方を、なかなか思いつかない。
 今、テレビは、あまりこれは、いい意味ではないんですけれども、同じことの繰り返し、再生産の時代、時期に入ったというふうに私は思っています。いい意味での再生産であればいいんですけれども、再生産の時期に入ってから、さまざまな不祥事が頻発していることを考えると、必ずしも、いい意味での再生産になっていないようです。ここをどう考えるのか、ここをどう変えていくのかというのが、実は今、すべてのテレビ局が抱えている問題だと思います。
 私は、各局が職場や局や系列のちがいを超えて、制作者の力量が落ちている問題であるとか、中堅層の空洞化が始まっているといった問題を、率直に話し合う場が必要だろうと思います。一つのテレビ局の中でも必要ですし、系列の中でも必要ですし、あるいは放送界という中でも、その危機感を共有する必要があると思っています。
 ですから、「あれは関テレがやったことや」「TBSがやったこと」「あれはどこどこがやったこと」というのではなくて、このそれぞれの問題は、みんな共通している、共有しているんだと、そこをどう変えていくのかということを、放送界全体が考え、取り組んでいく必要があると思うんです。
 とりわけ今、番組づくりをしている20代、30代、40代の人たちが、そういう問題を率直に語り、あるいは、どうすればそこを克服できるのかを議論し、研鑽する場をつくっていくことが大切です。さらに言えば、アカデミズムを巻き込んで、それを学問対象にしていくことも課題ではないか、と思っています。
 いくつかの大学にはマスコミ受験のためのコースはありますが、すでに放送や新聞で働いている中堅層が学べるコースはありません。今必要なのは、むしろこちらなんです。この人たちが、ちょっと自分の職場を離れて、1か月なり、時には1年ぐらい研修する場ですね。情報番組に出たがりの、都合よくしゃべってくれる、自称学者の人たちじゃなくてですよ、メディア論をきちんと勉強し、研究している学者、あるいはジャーナリズムを研究している人、それから娯楽という問題を歴史的に考えている人、そういうアカデミズムの人たちの力を借りて、テレビ局が、今の中堅あるいは中堅になっていく人たちを鍛え、放送局の体質を筋肉質にしていく。そういう場が必要なのじゃないかなと思います。
 急ぎ足でちょっとしゃべりましたので、早口で分かりにくいところがあったと思いますけども、ご質問なりをしながら、もう少し続けたいと思います。

社側
 ありがとうございました。きょうは、お話しいただく前、打ち合わせをしたときに「厳しいお話を」というふうには申し上げてはいたんですが、ここまで厳しいお話をいただくとは思っていませんでした。

吉岡氏
 短いからね。私は、本当は人はいいんですよ(笑)、ちゃんと。

社側
 委員長、では、この後、お預けいたしますのでよろしくお願いいたします。

委員長
 もう自由でよろしいです。どうぞ、ご自由に、ご質問、ご意見、どうぞ。

吉岡氏
 どんなことでも結構です。端折って、いろんな話をしましたので、ここはどうなっているのかということでも結構ですし、どんなことでも結構ですので、どうぞ。

委員
 一つ、よろしいでしょうか、今のお話で、冒頭、分かりやすく伝える、面白く伝えるということが危うさをはらんでいるというお話があったんですけど、実は先週の新聞で見ましたけれども、東京のあるテレビ局が、報道番組の中で、ちょっと行き過ぎた演出をしたというようなことで謝罪をしたという記事が載っておりまして、実は、そのときのテレビ局のコメントが非常に印象深かったんで覚えているんですけども、「視聴者に分かりやすく伝えたいと思ってやったんだ」と「だけども適切でなかった、不適切だった」と、そういうコメントを出していまして、まさに今のお話にぴったりだなというふうに思ったわけです。
 これはファーストフード店の何か製造年月日を何かごまかしたというようなことを、元従業員に制服を着させて出したというようなことらしいんですけども。

吉岡氏
 ありましたね。

委員
 そういうことらしいんです。それで何というんですか、視聴者も、その一通りの分別や理解力ぐらいは持っていると思いますんで、そんなに気を使っていただかなくてもいいとは思いますが、そんなに分かりやすく、面白くと気を使っていただかなくてもいいと思うんですけども、いずれにしても、何というんですか、面白く伝えるための演出とか、面白く、分かりやすくやるための演出が、どこまでがセーフで、どこまでがアウトかという境目というんですか、そのストライクゾーンが、だんだん知らず知らずのうちに、最近広くなっているんじゃないかなという印象を、何となく受けてしまうんですね。
 そのうち、だんだん世間が、普通の人が思っているストライクゾーンとは大分広くなっていて、それで、ああいった過剰演出というような問題が、時々出てくるんじゃないかなという気がしまして、やっぱり今の、そういったルールというんですか、基準というんですか、その辺の有り様ですね、というのは、やっぱり今後、見直していく必要があるのかなという、そういう印象を持ったということがございましたので、ちょっと。

吉岡氏
 面白くやることも、僕は大事だと思っているんですよ。テレビがつまらなくなったら本当に困ると私も思うんですよ。私だって、一視聴者として考えてみてもね。
 ストライクゾーンという言葉をおっしゃいましたけども、ストライクゾーンて、実はこういうもんですよというのは、ないんですよね。見えるような形で「ここまでだったらいいけど、ここだったらだめですよ」という基準が、放送基準として一応決められてはいますが、そんなに図式的にできるわけじゃありませんから、だから本当に、やっぱりつくり手の、いわば良識、最終的には、そこにいくと思うんです。
 ところが、例えば良識なんて、私うっかり言いましたけども、こういう言葉を使うと年が分かるんですよ(笑)。良識なんて、いや良識は大事だと僕は思っていますよ。思っているんですが、そういうふうに語っても、何か若い人に伝わらないところが、いっぱいあって、だから「面白くなければテレビじゃない」と、どこかのテレビ局がやりましたけれども、その面白さというものは、決しておろそかにしてはいけないんだけれども、じゃ面白さって、芸人さんが大騒ぎしてやるのを、あれだけを面白いというのか。
 しかし、例えば、自分では分からなかったことが分かっていく道筋って、やっぱり僕は面白いことだと思うんですよ。それから人間が分かっていくということは、やっぱり面白いことだと思うんです。そういう面白さというものを、どうしたら番組の中に生かせるのかとか。難しいことであればあるほど、分かりやすく伝えるのは本当に難しいことですよね。そこのところを何か箇条書きにして三つぐらいにまとめて、三択にとか、二択にすれば分かりやすくて、タレントや芸人が大騒ぎすれば面白いんだというふうな、最初から思い込みがあって、それは違うでしょうということなんです。
 どうぞ、どうぞ、遠慮しないで言ってください。どうぞ、どうぞ。

委員
 今は大変面白いお話を聞かせていただたもので、厳しいとおっしゃったけど、我々から見ると非常に生ぬるいなと思いますね。

吉岡氏
 そうですよね。

委員
 テレビというもののモノづくりとしてのリサーチが不足しているとか、あるいは制作者側の管理能力がどうだというのは、これは、モノづくりの原点であって、ぜひ先生がおっしゃったような形でやっていただかにゃいかんかなというふうに思いますけども、ただ例えば『あるある大事典』で、納豆があれだったという話は、それは嘘をついているというのは悪いことだけども、まあ国民的に大して大きな害はないわけですわな、それで、食べたければ食べても悪くはないわけですからね。
 そういった意味で、いわゆる今大きな問題にしている嘘をついているということについて、もちろん、それは、ただしていかないかんと我々思うけど、それよりテレビが持つ本質的な問題として、まず国民の側が考える力がなくなってきちゃっていると、テレビの映像というのは、文字よりも早く頭の中で処理しますから、その映像が、きちっと入っちゃうと、それが先入観念として出来上がってしまって、何を見ても、そっちのほうで物事を判断してしまうという、国民が考える力をなくしてきているということに対する大きな我々、危機感を持っている。それで、さっきおっしゃったように、短絡的にものを考えていくんじゃないかと。
 今度、それを逆にメディアのほうが、あるいは為政者が利用するとヒトラー的なことになってくる恐れがあるんじゃないかなと。例の湾岸戦争のときに、泥まみれの鳥をパッと映したら、「これはひどい戦争だ」と、こういうふうに思っちゃう。ひどい戦争だったかもしれないけども、何か、そういった映像の持つ力強さ、これが世の中の本当の意味での世論を、民主主義を壊していくんじゃないかなということが非常に恐ろしいと、こう思うんですね。
 そういった意味で、国民のほうが、本当は批判の精神を持てばいいし、それからメディアのほうも、そういった意味の良心を持つということだけど、メディアにしてみれば、やっぱり面白い映像をパッと出すと、そのほうがインパクトが効くし、面白い。これは嘘じゃないですからね。事実なんだけど、ある部分を取り出して、それが非常に世の中の大きな方向性であるかのごとく引っ張っていくと、非常にゆがんだ民主主義というか、自由主義というものができてしまうんじゃないかなということが非常に心配なんですけどね。
 その辺を『あるある』なんかは嘘をつかないというのは防止できると思うんですけども、国民全体に対するインパクトが非常に心配なんですけども、それは国民が自分で、ちゃんと考える力をつければいいんだということだと思うんですけど、やっぱり映像というのは、人間の脳処理能力は、一つのことをあれするのに1000分の1秒ぐらいですか、だから、あんまりたくさんの情報を処理できないという問題があるんで、入ってきたものの映像はパッと残っちゃうんだな、そして字のほうは、なかなか残っていかないと、なると、その映像で判断基準しちゃうということが非常に恐ろしいんで、映像文化の持つ恐ろしさというか、そういったものが、これからの国のあるべき姿として非常に問題になってくるんじゃないかと。
 その点で、アメリカあたりはどうしておられるのか、まず制作のほうで、リサーチをきちっとやっているのか、あるいはアメリカ人自身が、割合テレビはあんまり見ないで、その判断の基準として、宗教とかがあるかもしれませんけども、持っているのか、日本ほど、「日本では、テレビが100何%普及している」と「かわいそうな国だな」と言われましたけどね。それだけテレビしか見てないんで、本を読んでないということになりますので。

吉岡氏
 そこは今回も気になって、いろいろ調べたんです。もちろんテレビの仕組みが、まず違います。テレビ局は基本的に放送するところであって、番組をつくるのはプロダクションであるという、この分業体制というのは、はるかにはっきりと、アメリカの場合はあります。
 ですから日本の場合は、テレビ局が基本的には番組をつくり、放送もするという、その分業体制がまずない、あるいはまだ未分化である、ということがあると思います。
 しかし、そのことにもまして、テレビの持っている影響力ということで、ちょっと迂遠な言い方をさせていただきたいんですけれども、生活様式の問題を考えないといけないと思います。テレビを見ている時間は、これはNHKの放送文化研究所がやっている調査がありますが、日本人の平均は今大体3時間ちょっとですね。ちょっとずつ減ってはいるんですが、結構日本は、いわゆる先進国中では長いほうです。ただ、それだけを見ても私は何も分からないと思うんです。
 私は、実はテレビの放送システムとか受像機製造をめぐって、もう十数年前に世界を一周回ったことがあります。どこで、どういうテレビがつくられ、売れているか、それはその社会の技術力や経済力、あるいはその背景をなす中間層それ自体の成熟とどうリンクしているかが関心でした。
 1960年代の後半でしたでしょうか、ソニーがブラウン管式の小さなテレビを発売したことがあります。画期的な製品でした。しかし、日本では全く売れませんでした。どこで売れたかというと、オーストラリアとアメリカでした。
 なぜ売れたのかと、私は追跡調査をしたんですが、彼らはその小型テレビをアウトドアに持ち出して、見ていたんですね。ところが、日本には夏時間制度もなければ、長期夏期休暇もありませんから、そもそもアウトドアの文化が育たない。これは文化の問題です。ですから、テレビを野外に持ち出すというチャンスがないんです。従って、日本では当然売れませんでした。
 それを見たときに、私、オーストラリアへ行ったり、アメリカへ行ったりしていた時に、考え込まざるを得ませんでした。いい悪いじゃなくて、日本にはアウトドアの文化がない。皆さん、僕もそうですけど、アフター5になったら「ちょっと酒でも飲みに行くか」という話になって、これまたインドアに入ってしまうでしょう。何か、内にこもる傾向って、すごく強いと思います。
 同じように、例えば日本人はテレビをよく見ますが、映画、芝居、音楽会、オペラ、それからスポーツ観戦とかもありますが、そういうものになかなか行かないですね。やっと最近、サッカーが出てきて、少しずつ増えてきましたけれども、圧倒的多数は、そういうところら見に行かない。みんなテレビで見るという、これは根強いですよね。この勢いというのは日本では圧倒的に強いと思います。
 もう一点、日本の放送技術は欧米と比較しても、職人技としか言いようがないほど優れています。アメリカの番組を見ても、ヨーロッパの番組を見ても、ずっと粗っぽくつくっています。後処理の問題、例えばノイズが入っていると、そのノイズを全部消すとか、そのフィニッシュの仕方、音楽の入れ方、ものすごくうまいです。これは、もうアメリカ人とか、ヨーロッパ人は絶対できないぐらいうまい。
 しかし、中身の問題は、これはまた別です。そういう外形的なつくり方はうまいですけれども、うま過ぎるということも言えるんですが、視聴者は食い入るように見ちゃうんです。チラッと何か仕事をしながら、片手間仕事をしながら見ちゃうというつもりのはずが、視聴者はその人の持っている感受性、さっき僕は「視聴者をつくっている」というふうに言いましたけども、その感受性を総動員して見てしまう。これは、日本以外ではなかなか見られないことです。
 例えば、日本テレビでプロ野球中継をやっていて、東京ドームにカメラ何台で中継します、巨人戦。30台くらい?

社側
 いえ、10台から11台、そんなものです。

吉岡氏
 それでも、球も、ホームランを打ったら追いかけていくじゃないですか、うまいじゃない、あれ。あんなのは、ほとんどアメリカにないですよね。だってアメリカのメジャーリーグの中継って、5台か6台、もうちょっとあるか。

社側
 今は結構、台数は増えていると思います。

吉岡氏
 それでも日本の中継技術ってすごいでしょう、日本のスポーツ中継、野球に関して。アメリカも野球大国ですが、日本はほとんど職人技ですよ。あんなにきめ細かいことやっていませんよ、メジャーリーグの中継を見ていてもね。僕が何を言いたかったかというと、そういう意味では、すごくうまいんですよ。だから逆に言うと影響力も強い。
 よく笑い話をするんですけど、僕、関テレの『あるある』のときに、これ関係者がいたもんですから、アメリカまで調査に行きました。もう、なかなか向こうも会いたがらないわけですよ。誰とは言いませんけれども、関係者が。これはヒアリングですから、別に私に権利があるわけじゃありませんけれども、向こうとしては嫌なものですよ、煙たいですから。
 それで電話をかけ、メールを送り、FAXを送り、いろんな方法を使って、毎日連絡しているんですが、1週間ずうっとニューヨークのホテルに缶詰になっていると、私もさすがにうんざりします。僕も腐ってきますから散歩に出たんです。それまで、ずうっと、ほとんど1週間、一歩も出ないでホテル暮らしでしたからね。
 それで僕は、ずっと9・11のテロ事件があった後、年に2回ぐらいですか、あそこへ行っているんですけども、そこまでぶらぶら歩いて行ったんです。結構あるんですけど。
 それで、はたと気がついたんです。「何でこんなことをしているんだろう」と。つまり、たかが納豆の話でニューヨークくんだりまで来て「何やっているんだろう」と思ったんです。9・11の現場では、2800人の人が死んだ。そのテロの現場を見ていてね。納豆事件は、僕のところに1通だけ、大阪の人から手紙が来ましたね。「私、納豆、大嫌いだったんだけど、あの番組を見て『痩せるために食べなくちゃ』と思って食べたら、下痢しました」とか、そういう話は来ましたけど、命に関係ないですよ。
 だけど、日本中のスーパーから納豆が消えたわけです。これは何なんだろうと。テレビというのは、日本のテレビは、とりわけそうですが、とってもよくできているがゆえに、人間の日常的な距離感を狂わせるメディアだというふうに思うんですね。
 普通、新聞を読み、ラジオを聞いているときでも、隣で何か騒いでいれば、そちらのほうに意識が行くんですけども、映像と音が一緒についているメディアというのは、もう目の前に納豆しか見えなくなるぐらいに、つくり方がうまいんです。
 そういう意味で、さっき言ったように相対化することが不可能なマスメディアが、テレビなんです。隣近所に誰が暮らしているか分からないような社会にあっては、テレビの声が一番大きくなって、その影響力が最も強くなったのが今だと思うんです。これから、ますますそうなると思いますけどね。
 そうなると人間の持っている距離感ですね。「たかが納豆の話じゃないか」と、なかなか思えないで、「納豆を買いに行かなくちゃ」「早く買いに行かなかったら売り切れちゃう」と思わせる、そういう距離感の狂いを起こさせる、それが今のテレビなんです。番組をつくっていらっしゃる方は、ぜひ知っておいていただきたいと思うんです。

委員
 番組審議会委員としたら、ちょっと不穏当な発言だけど、テレビが、もっと、うんと嘘をついてくれればいいと思うんです。テレビというのは、やっぱり娯楽のためにあるんであって、真実だけを言っているんじゃないという批判精神を視聴者が持ってくれれば、健全な社会ができてくると思うんですけど、もう「テレビが言っているから本当だ」と、みんな思っちゃいますわな。それが怖いと思うんで、ちょっと逆説的かもしれないんですが、そういった意味では、もっと嘘のテレビの放送を、どんどんやってもらったほうが、日本の国の長期的な観点からいいんじゃないかなと、これはちょっと番組審議会ではあれですけど。

吉岡氏
 とても大事な意見だと思いますよ。それは、とても大事だと思います。

委員
 批判精神がなくなってきている。TCか何かが調査しておられるのを見ると、テレビを長く見ている子どもとか、携帯をやっていたり、DSをやっている子どもというのは、判断力が、ものすごく落ちてくるというふうな調査が出ていますからね。出てきたものを、そのまま信じちゃう。あるいは、それをクリティカル・シンキングして「本当かな、本当かな」という気持ちが全然なくなってきちゃって、バーッと出てきたら「それは本当だ」と思っちゃう。これがなくなると、日本としての国力が落ちちゃうと思って、そういった意味で批判精神を出してもらうという意味では、むしろ今、逆説的に嘘の放送ばかりやって、「テレビだとか、新聞というのは、あんまり信じられないな」と、こう思ったほうがいいんじゃないかなと。

吉岡氏
 ショック療法ですね。

委員
 ショック療法です。ちょっと不穏当ですが以上です。

委員
 私は、大学で学生を相手に、本当に今、委員がおっしゃったように、学生たちって本当に何も考えない、「テレビが言っていた」「本に書いていた」、それでもう済んでしまうんですね。だって「おかしいと思わなかった」と「理屈が合わないでしょう」と、自分が調べてきたことも、でも「本に書いてある」、自分で何も考えてないで、その感覚で「テレビが言っていたから」「インターネットで調べたら出てきたから」、そこから先でしょうというのが本当、今の子どもたちは、なかなか自分でも気がついてないんですね、多分。それでいいんだと思っちゃっているような環境で、多分大きくなっちゃったと思うので、だから、きょうのお話をずっと聞いていて、おつくりになる側が調べるということに、こういう恐れがないというか、私たちだったら「もう一歩、踏み込まなきゃ」と思うところが、だんだんなくなってきているというのは、見ている側も確かにそうだと思うし、おつくりになっている側もそうだと思ったら本当に怖いなという気がしました。

吉岡氏
 怖いですよ。

委員
 もうだから、私はテレビは、あんまりないんですけど、新聞で時々コメントと言われて、やっぱり自分がしゃべってないような形で載ったりすることが、よくあるから「鵜呑みにしちゃだめよ」ということを言うと、それだけで目が点になっているんですよね。本当に、すごく怖いことだなというのは痛感しています。
 だから、やっぱりこの辺も、だからどうしたらいいんだろうというところまでは、あれなんですけれども、番組審議委員会の委員としては不穏当かもしれませんけど、「テレビ、新聞で言うていることを鵜呑みにしちゃだめよ」というのが、私の学生に対する仕事の一つだと思っています。

吉岡氏
 結局、よくメディアリテラシーという言葉で、それを語られるんですね。メディアリテラシーは大事なことだと思うんですが、しかし、言葉だけは皆さん、よく知っているんですが、今、学生たちに「君たち、メディアリテラシーを持たなくてはだめよ」と言うとき、具体的に何をすればいいのか、なかなかないと思うんですよ。
 結局、僕は、モノをつくる経験だと思うんです。単にネットであれ、テレビであれ、新聞であれ、あるいは百科事典でも何でもいいんですが、そういうものだけを見せて、「これは嘘か本当か」とにらんでいても分からないですよ。だって、そこに何のヒントもないわけですから。
 そうなると結局、自分で例えば、カメラならカメラというものが、今どこへ行っても、ごろごろしているじゃないですか、カメラというものが、ビデオだってね。そういうものを使って、あるいはマイクを使って人の話を聞くときというのは、一体何が必要なのか。その相手について、よく知らなくちゃいけないし、それからカメラを構えて、ビデオで相手の表情を撮るときには、だんだんこの人は核心に近いことを言ってきたな、というときにズームで寄ってみたりするじゃないですか。それは、やっぱりつくってみないと分からないんだと思うんですよ。やはりメディアリテラシーという問題は、受け取るということと、それから、つくってみるということが両方ないと、本当のところができないと思うんですね。
 だから僕は、学生たちに、あるいは今20代から30代の人たちに、もう1回、自分たちが受けてきたテレビの影響であるとか、それから、人の話を聞くために何を調べたらいいのかとか、そういうふうに具体的に振り返って考えてみなさい、と言う。さっきも言いましたが、若い制作者が1年か2年やってきた後で、もう1回、振り返るような場が必要なんだろうと思うんです。  そこは皆さん仕事が忙しいから、なかなか、そういう場をつくるということは、これまでできなかったと思うんですが、これだけ、いろいろな事件が、不祥事が頻発すると、やっぱりそこは意識的にやらないと、せっかくある、今のテレビが築いてきた信用がどんどん崩れていっちゃう。知らず知らずのうちにさっきおっしゃったように、たくさん嘘を言ってくださいというのもいいんだけど、そうもいかないじゃないですか、はっきり言って。

委員
 嘘を言ってくださいと言わなくても嘘をいっぱい言っていますけどね。私も医者の端くれですから、そういう食品とか、そういうものについては非常に関心がありますけれども、サプリメントの話なんというのは、もうほとんど全部嘘ですね。どうして、それを検証しようとしないのか、今お話を聞いてよく分かりました。これは、もうテレビ局の問題ではなしに、下請けの人たちの問題なんですね。
 吉岡さんのお話を聞いていたら、ここで読売テレビの内容について議論しても、あんまり意味がないかなという気がしてしまったんですけども。

吉岡氏
 やる気をなくさせるために話したわけじゃありませんからね(笑)。

委員
 きょうも実は私、読売テレビではない某テレビ局のインタビューを受けたんですけど、まさにおっしゃるとおりですね。「黒だ」と言っても「何とか、せめて灰色の話をさせてくださいませんか」と「あなた、一体何が聞きたいの」と言ったら「いやいや実は、こうこう、こういうことを言っていただいたら、こういうふうにして、このリポートは盛り上がるんです」という。まあ黒に白い点々の入ったぐらいの話でお茶を濁してきましたけれども、もう、そういうふうに粘りますね。自分たちのつくっているストーリーに、どうしても乗せてほしいと言いますね。
 ずっと昔に心臓移植が始まったころに、ある局のテレビ番組で、『脳死』という番組があったんです。大変偏った番組で、とんでもない番組だったんですけども、後になって、何年も経ってから、私は、その当時の記者なんかと、いろいろ話をして、データをもらって調べてみますと、そのときにいた、今おっしゃったリサーチャーというんですか、女性の人が1人、脳死というものに非常に疑問を持って、脳死になった人でも低体温にすれば脳機能は戻るというふうな、変な学者の説を真に受けた人が、その番組を担当していて、そっちへそっちへ話を持っていっているわけです。これシンポジウムですけどね。けども、そういうほうの人たちを集めて、やって、私は「どうして、こんな偏った番組をつくろうとしているのかな」と不思議に思ったんですけど、きょうのお話を聞いていて、なるほど、その舞台裏が分かったような気がいたしました。

吉岡氏
 リサーチャーって、とても大事なんですよ。1人だけでは、いけないんですね。やっぱり一つのテーマをめぐっても、何人か絶対に必要なんです。それで、こういう話、今みたいなネットの話なんかも含めてそうなんですが、「こういう手術の方法がありますよ」みたいなことが、ちょっと話題になったりしますよね。でも、それに対して違う意見も、もちろんあり得るじゃないですか、当然。幾らでも、調べようと思えばできるんですよね。
 ところが、リサーチャーが1人しかいないと、一つの目しかないと、こちらの情報が目に入らないんですよ。リサーチャーって、いつか、きっと大事な職業になってくるんじゃないかと思います。本当は、ディレクターがやらなくちゃいけないんですけど、ディレクターも、また忙しかったりするから、やっぱり「こういうテーマでやりたいんだ」と「これに対し、どういう意見があるか、360度、全部調べてよ」というぐらいに見られる人が要る。でも、一人では無理です。何人か、絶対複数が必要なんです。

委員
 読売テレビというのは、リサーチャーというのはおられるんですか。

社側
 大阪には、リサーチャーというシステムはないんです。ローカルにつきましては、ディレクターなり、番組にかかわっているスタッフ全員がリサーチャーということなるかなと。

吉岡氏
 いや、本来それは、本来はそうですよ。

社側
 東京に多いんですかね。

吉岡氏
 結局、基本的には番組制作をするプロダクションが持つんですよ。そこに何人かがいるわけですね。それは、もちろんプロダクションの社員であることが望ましい。その調査力がプロダクションの信用になる。だから、プロダクションを選ぶときに「おたくに何人、専任のリサーチャーがいるの、ちゃんと社員としての」というのを聞くと大体分かりますよね。

社側
 大阪のプロダクションには、そういうシステムはないんですよ。

吉岡氏
 いや東京だって、ほとんどないですよ。大きなところで、何か幾つかありますよね。

社側
 大阪は、何十人、何百人いるというプロダクションが、ものすごく少ないんですよ。4、5人でやっているプロダクションさんが、ものすごく多いんで、我々番組をつくるときは、必ず、かなりの数のプロダクションさんから、一つの番組に、かなり要るんですよ、2、3人ずつ、社員と合わせて合計何十人かのチームをつくって、一つ、つくり上げていくわけですけど、リサーチャーというシステムはないですね。みんなでやろうということになっていますから、そうすると、みんなで、いろんな話し合いができると、大阪のローカル番組の場合は。
 そうすると社員からプロダクションのADまで、その一つのテーマに対して、いろんな意見が、そこで戦わせるんで、今みたいな、少し『あるある』風のリサーチャーの話と違いますね、大阪の場合は。そういうほうまでいかないので、そういうふうにはならないというか。

委員
 外国では、テレビはどうか知らないけど、例えば指揮者が何か1曲を演奏すると、リサーチャーがいて、その人に関する、いろいろのデータを持ってきてくれるんですね。オーケストラの指揮者に。それを見て自分なりに構想を練ると、こういうことなんで、いろいろ、そういうリサーチャーというか、図書館の司書みたいな形のデータを集める人というのが、職業として成り立っているみたいな、そういうのがいて、その上でプロデューサーや何かがやっていけばいいんでしょうが、一から調べるというのは大変ですわな。

社側
 まだまだ大阪の場合は、社員を含めて手作り感がありますね。大阪の局、大阪の場合は。

委員
 テレビは手作りでいいんだけど、そのデータの一般的な、客観的なところは、誰かが本当は調べてきて……。

吉岡氏
 アメリカの例えば、ハリケーン・カトリーナが来ましたよね。あのとき、もうそれ自体が大変なニュースですけれども、カメラクルーが、もちろん入っていきますね。だけど、カメラクルーは、どんなに出しても三つか四つの班じゃないですか。あのときは、ハリケーンそれ自体がとんでもなく広域だったわけですね。そのときにどうしたかという話を聞いたら、リサーチャーを派遣したんです。何十人という人間をバーッと走らせたんです。その人たちは取材をするわけじゃないんです。取材はするんですけど、チョロチョロッと話は聞いてくるんですが、そうやってデータをバーッと上げてきて、そして、その中からカメラクルーはどこへ行こうか、どこを選んでと、またその上にコントロールタワーがあって、「じゃあA班はそっちへ行ってくれ」「B班は、ここにこういう人がいるから、こっちへ行ってくれ」と指示する、その元になるデータはリサーチャーが探してくる。もちろん取材陣も探すんですよ。探すんですが、カメラクルーは取材がありますから、動きが鈍くなる。だから、リサーチャーをワーッと投入したんです。それを見て「ああ、なるほど、こういう取材方法を使っているのか」と、よく分かりました。

社側
 アメリカらしい発想ですね。

吉岡氏
 そうそう、だけど阪神大震災みたいなときには、みんな、とにかくクルーをたくさん投入したんだけど、リサーチャーを投入したという話は聞かないですものね。

社側
 全体像を、なかなかつかみきれないままで、ピンポイントばっかりで。

吉岡氏
 大きな災害などがあったとき、リサーチャーは、はっきり言ってみればスパイみたいなものです。それをワーッと派遣して。それが取材の広がりや深さをつくりだす。だからリサーチャーって、とても重要なんです。

委員長
 私は、専門分野が情報と通信工学なんです。工学ですけれども、要するに情報と放送・通信、こういうものを中心にした世界に生きているんですけど、きょうは先生から伺ったような、そういう見方で、情報とか、放送とかを考えた機会はないんで、非常にお話が面白かったんですが、情報とは何かという問題も、たびたび議論していますけれども、これは非常に面白いというか、いろいろなあれがありまして、情報というのは、物質でも、エネルギーでもない、それ以外の何かですよね。
 ですから人によって、あるいは見方、とらえ方によって、いろんな定義が出てくるわけですね。インフォメーションという英語に相当するドイツ語を「情報」と訳した人は、明治の文豪・森鴎外とされていますが、彼の定義は「情報とは、敵と敵国に関する我が知識全体をいう」と、これ、そういう定義なんですが、それ以外に、いろんな定義があるわけです。
 さっき吉岡先生は「情報というのは不確定なこと」とおっしゃいました。現在の情報理論の基礎をつくったシャノンという人は、どういうふうに情報を定義したかといいますと、「曖昧さを減らすもの」と、これを情報と定義したんです。それを定量的、科学的に情報を扱おうとしますと、まずは情報の量を測る尺度を決めないといけない。シャノンは、「AかBの二つのうちのどちらかである」という曖昧さがあるときに、「それはAである」、あるいは「Bである」ということを教えられたときに得る情報の量が、情報量の基本的な単位であるとして、これを1ビットと呼ぶことにしたんです。
 ですから、赤ちゃんが生まれたときに、誰でも「男の子ですか、女の子ですか」と聞いて「坊ちゃんですよ」とか「お嬢ちゃんでしたよ」と教えてもらったときに得る情報の量が1ビットの情報量ですね。
 しかし、いろいろ情報と人間という考えで見ていますと、そう簡単なものじゃないんですね。自分のうちに子どもや孫が生まれたときの話と、全く見も知らん赤の他人のところで赤ちゃんが生まれたというときでは、その情報の価値というものが全然違うでしょう。受け取る、いわゆる実質的な情報の量も、だから違うわけです。そういうようなことを、いろいろ議論したりなんかしますと、きょうは吉岡先生なんかとは、あしたの朝まで飲みながら、いろいろお話ししたいと思うんですけどもね。
 コミュニティーがなくなっているとおっしゃいましたね。情報化社会というのは、もう溢れるような情報が、いっぱい情報の量が増えて、人々は、その情報の洪水の中に埋まってしまうだろう、溺れてしまうだろうという説があるんですけれども、そういう解説は間違いに近いんです。情報化社会で、情報がいっぱい溢れるようになっても、1人の人間が、例えばテレビにしたって、新聞にしたって、何十チャンネル、テレビのチャンネルがあったって、1人の人間が一時に見られるチャンネルというのは、せいぜい一つか二つです。新聞だってそうです。
 そうすると情報化社会で増えるものは何かというと、選択の自由度なんです。ですから、自分の好きな番組だけを見られるようになる。そうしますと、それに応えるように、放送局は、例えばCNNなんていうのは24時間ニュースだけやると、宗教の関係だけをやると、音楽だけやると、経済問題だけやるというふうに、だんだん幅の狭い分野の放送になってくるわけです。だからブロードキャスティングじゃなくて、ナローキャスティングになるでしょう。マスメディアでなくて、パーソナルメディアになっていく。
 そうしますと人間は、もう自分が、やっぱり見たいと思うものを自動的に選ぶようになりますね。そうすると、もう野球かサッカーばっかりを見ている男の子とか、歌番組ばっかり見る女の子とか、メロドラマばっかり見る奥さんとか、演歌ばっかり聞く旦那とか、そういうようになってくるわけです。
 そうしますと、さらにインターネットみたいなのもできてきますと、いわゆる今までの意味でのコミュニティーというのがなくなってくるわけです。それで、わずかに残っているコミュニティー、そういう意味での先生がおっしゃったようなコミュニティーでいえば、山に登ったり、森の中を散歩しているときに、すれ違った人には、初めての人でも「こんにちは」とか「おはよう」とか言いますね。あれは、そういう仲間のコミュニティーですよ。
 そうなると自分たちの好みの世界だけでのコミュニティーができてくるんです。だからコミュニティーがなくなるというのも、ある意味でそうですけれども、もっと正確に言えば、特定のいろんなコミュニティーが、むしろできてくるわけです。ナローキャスティング、パーソナルメディアによって、特定の仲間だけのコミュニティーが、むしろできてくるわけです。
 これが非常に難しい問題を出して、NHKが、どんなに工夫しても、紅白歌合戦の人気は、もう戻らないと思うんです。昔は家中が、おじいちゃんから子どもまで、同じ1チャンネルのNHKだけ見て、ほかになかったんで、それでみんなが楽しめるんですけれども、要するにコミュニティーができてきますと、おじいちゃんから、お父さん、お母さんから、子ども、孫まで、みんなが面白いと思うような番組は、もうつくれないんですね。だからNHKは、どんなにもがいても、今後、二度と、みんなが楽しむ紅白歌合戦というような番組はつくれないと思います。  だから、それと人間社会に及ぼす影響、そういうものを考えると、やはりテレビとか、ラジオなんというのは、どういうふうに考えて番組をつくるべきかという、非常に基本的な問題が出てくると思うんです。トラックの運転手さんだったら、八代亜紀の歌ばかり喜んで聞くとかね。だから、紅白でも北島三郎なんて喜んで「あ、これなら聞こう」というような人はいるにしても、若い子やなんかやったら、もう「見るのも嫌だ」と言いますよね。
 だからコミュニティーとか、パーソナルメディアみたいなものになっていくんで、放送会社は、どういうふうに考えたらいいかと。

吉岡氏
 本当にね。つまりコミュニティーというものを形成するモメントは何かということだと思うんですけれども、それは例えば情報であったり、あるいは人間の経験であるともいえる。また、それは歴史であると、その土着の地域に固有の歴史であるともいえる。多分どれだというふうに、一つに断言することはできないだろうと思うんですね。
 ですから、そういう意味では、これまでコミュニティーを形成してきた要因が何だったのか、もう1回、きちんと見なくちゃいけない。その上で何がなくなったから、コミュニティーの崩壊や地域社会の崩壊が生じたのかということを調べないといけない。そこを話し始めると、おそらくは、あしたの朝までですね(笑)。
 ただ、こういうことがあるんです。放送とか、ネットで流れている情報に関してなんですけれども、例えば、皆さんは、この近隣に住んでいらっしゃる、私は東京にいます。それで東京には、ここにあるようなアメリカ村と似たようなところに竹下通りというのが原宿にあるんです。それで若い子たちが、いっぱいぞろぞろしています。私は、新宿に暮らして、近いものですから、ちょくちょく通るんです。
 それで、この若い子たちが、行ったり来たりするのを、ずっと見ているんですね。大体田舎から来ている子が、地方から来ている子が多いんですけども、地方といったって近県ですよ、関東近県ですよ。
 この子たちと、例えば、秋田で、あるいは青森や九州のどこかで、この同じ竹下通りの話を聞いている子たちと何が違うか。情報という意味では、そこにはコミュニティーはできている。竹下通りなら、あるいはアメリカ村ならアメリカ村についての情報は共有されていると思うんですよ。
 しかし、関東近県、あるいは東京に暮らしている子供たちは、竹下通りについて「竹下通りに、何とかという店がオープンしたよね」といったら、「じゃあ今度の日曜日行こう」といって行けるわけですよ。つまり情報と自分の体験との距離が非常に近いんですね。
 ところが、秋田や大分なんかの子たちは、ネットで、あるいはテレビでもって、こんな店がオープンしたよという話を知っても、すぐに「来週、今度の日曜日行ってみよう」とはならない。それほど簡単ではない。そうすると情報と経験との間、いわば主体との関係、何といったらいいのかな、そこに行って直接に体験するかどうか、が相違となりますね。
 さて、それで、どちらが過激に竹下通りをイメージするか。間違いなく大分と秋田のほうですね。

委員長
 だけど吉岡先生、経験と情報を分けて考えたり、歴史と情報を分けて考えると無理が出てくるんです。歴史も、経験も、結局は情報なんですよ。

吉岡氏
 情報化されて入ってくるわけですから、そういう意味では、おっしゃることはよく分かります。けれども、ある情報を知ったあとで、どう経験するかという問題は、情報問題ではなく、主体や主体形成の問題になります。
 つまり、ある種の情報が、その人間の意識だとか、イマジネーションに何をどうもたらすかということを話しているのですが、その竹下通りでも、あるいはアメリカ村でも、とにかく「あそこに、ああいうことがあるよね」といって、自分の体を運んでいって、そこで経験できる子供たちよりは、地方にいて「竹下通りとか、アメリカ村というのがあるみたいよ」みたいな話をしている子供たちのほうが、イリュージョンははるかに強く、はるかにどぎつくなるということは間違いないと思うんです。

委員長
 結局、放送会社、テレビ会社なんかは、ブロードキャスティングと思っていると間違いが起こると思うんですね。1、2、MANYという意味では、ブロードキャスティングでしょうけど、その相手の、聞いてくれる相手は、もう極めて限られた特別のコミュニティーと見ないと、結局、ミスマッチングといいますか、マッチングが取れないんで。

吉岡氏
 それは、視聴率をどうとらえるかということにも、かかわってくる問題ですね。

委員長
 だから視聴率というのは、これまた議論し出すと長いんですがね。
 だけど本当に、いろいろ面白いお話でした。

吉岡氏
 つたない話で、どうも申しわけございませんでした。どうもありがとうございました。(拍 手)

社側
 年末に何かちょっと重たい話になってしまいまして、申しわけございませんでした。また機会がありましたら、お話しをいただきたいと思います。
 きょうは、ちょっと後、予定も押してはいるんですが、どうしてもご報告しないといけないことが幾つかありますので、ちょっと駆け足でいきたいと思います。
 まず、はじめにBRCという組織があります。BPOの中にある組織ですが、そこに一つ懸案がかかっていたのが解決をしましたので、その件について、コンプライアンス推進室長から簡単にご報告させていただきます。

社側
 お手元に資料をお配りしてございます。ご覧になっていただければと思うんですが、BPOの中にございます「放送と人権等権利に関する委員会」というのがございます。そこで議論になったのが『ウェークアップ!ぷらす』という当社の報道番組でございますが、この番組が、旧年金福祉事業団が設置いたしました大規模年金保養施設、これは「グリーンピア南紀」というやつなんですけれども、これなんと総工費が122億円投入されました。
 これが結局、経営がうまくいかなくなって、払い下げを和歌山県の那智勝浦町と太地町というところ、2町にまたがっておりましたんですが、そちらのほうに払い下げられました。この払い下げの金額が、実は2億7,000万円です。
 そういうふうに大変な無駄なことをやったわけですけども、実は、和歌山県の那智勝浦町と、その跡地を再開発事業を中国系の企業が受けまして、この企業との間に交わされた契約が非常に不透明だということで、この不透明さを指摘した報道を何回かにわたって行いました。
 これに対して、この中国系の企業、ボアオと申すんですが、そのオーナーが、5月26日、6月2日の放送について、自宅の全景及び部屋の中の人の姿などの映像が放映されてプライバシーを侵害された。もう一つ、断定的な発言やコメントによって、後で高値で転売しようとしている印象を与えて、視聴者に誤認させたということで訴えておりました。
 これに対して、何回か答弁書等々のやりとりをやりまして、今月、12月4日に、このBRCの決定がなされました。その決定は、そこに書いてございます「公共・公益に資する目的でなされた報道であって、取材・報道の方法についても相当性を持つもので、プライバシーの侵害はなかった」と「番組の発言についても問題はない」ということで、名誉毀損には当たらないと、ある意味、当社の完全勝訴でございました。
 あと、これに対してBRCの記者会発表がなされた会見場において、当社のコメント等を配布して、これをニュースとしても放送したということでございます。
 BRCの決定についての報告は以上でございます。

社側
 簡単に言いますと、文句をつけられたんだけど、何も悪いことはなかったという決定が出たということでございます。
 もう1件ございまして、これは私どもも、ちょっと忸怩たるところがあるんですが、「奈良・放火殺人事件を巡る調書漏洩事件」の報道ついてということで、これは報道局長のほうからご報告させていただきます。

社側
 今のBRCの問題も報道局が扱ったものですが、こちらについては、正確で公正な報道ということで、胸を張って済ませたんですが、これからご報告しますのは、全くみっともない結果になりました。
 この調書漏洩事件なんですけれども、これは先ほどご講演いただきました吉岡先生が、講談社の社外委員会で、いろいろ調査をされている物件そのものでありまして、『僕はパパを殺すことに決めた』という本をめぐるものです。
 この奈良県田原本町の放火殺人に絡む、これは容疑者が少年であったものですから、家裁に送致されて、その際の取り調べから「精神鑑定の必要があり」ということで、精神鑑定が行われたと。その調書が本を通じて世の中に出たということに関して、奈良地方検察庁が刑事事件として立件したというものです。
 これに絡む報道で、9月28日なんですが、お昼のニュースと夕方のニュース、この報道内容について11月6日付の文書で、京都大学の教授から謝罪と訂正を要求されました。
 このニュースは、奈良地検が、この京都大学教授の自宅や研究室を家宅捜索した際に、我々のお昼のニュース等で、「関係者によると調書から教授の指紋が検出されたということです」というような表現で、教授が事件に関連していたことを示唆する内容で、しかも実名で報道いたしました。
 私どもの実名報道の基準というのは、事実の確実性、事案の重大性、社会的な関心、当該人物の社会的な立場などを総合的に判断して、実名・匿名を決めております。この際は、ここで実名報道で行こうという判断がありました。
 ところが、この後の事件捜査で11月2日に奈良地検は、事件処分を発表した際に、ジャーナリスト、これは不起訴でしたけれども、この逮捕していた鑑定医、こちらは起訴をするということをいたしまして、また、この当該教授に関しては立件を見送りました。つまり事件に関連性はなかったという捜査当局の判断があったわけです。
 ここで教授側は、指紋は検出されていない。読売テレビは虚偽報道で名誉を毀損したというふうに主張されまして、私どもに謝罪と訂正を要求してこられました。
 読売テレビとしては、指紋の有無について、もう一度、検証した結果、教授の指紋が調書についていたという情報は確認できませんでした。従って、読売テレビとしては、教授の自宅等が家宅捜索を受けたのは事実であったので、これは虚偽放送ではないけれども、指紋があったという報道をして、教授が、いかにも一連の事件に深くかかわっているかの印象を世間に与えたことについては、教授の名誉を深く傷つけたということで、これについては謝罪するということを決めました。
 具体的な読売テレビの措置ですけれども、12月10日付で、私、取締役報道局長の減俸など、この事件、この報道にかかわった5人を社内処分いたしました。翌11日に、この京都大学の教授に対し、私の名前でのおわび文書を提出するとともに、社内の処分を通知いたしました。
 これを受けて、その日の夕刻に、教授側の弁護士が記者会見をして、この事実を公表いたしましたので、これを受けて、放送・新聞各社が報道し、読売テレビも夕方のニュースで、このことを報道いたしました。
 この報道をご覧になった方もいらっしゃると思うんですが、とにかく教授に対しては、私どもの報道が非常に名誉を傷つけたことになっておりますので、いち早く名誉回復をしたいという意向を伝えております。以上でございます。

社側
 それでは、先月、私どもに寄せられました声について、ごく簡単にご紹介をいたします。
 11月に私どもに寄せられました視聴者からの意見総数は5900件、6000件弱でございます。
 先月の番組審議会でご審議いただきました『秘密のケンミンSHOW』について、毎週々々やはり懸念どおり、「取り上げた話題は県の一部のものであって、全体のものではない」というような指摘が、パラパラ、パラパラと毎週まいります。これについては、演出等で、今後こういう意見が出ないように「一部の地域のことです」というふうなことを、もう少し丁寧に紹介していくつもりでございます。
 それから、一つ『今夜はシャンパリーノ』という番組で、20件のおほめの声をいただきましたので、特記をしておきました。苦情なんかで50、100というのはあるんですが、一つの番組に対するおほめで20件まとまってきたのは本当に珍しいことですので、あえてご紹介をしておきました。
 それから最後に1枚の紙をお付けしておりますが、きょうで今年は最後でございますので、来年の開催予定を1枚ものでお付けしております。ちなみに来月1月は休会をさせていただきまして、来年の1回目は2月8日の金曜日に、いつもどおり、私どもの本社で開催をさせていただく予定でございます。
 今年、本当に1年、ありがとうございました。きょうの最後になりまして、私どもの社長・高田のほうから年末のごあいさつを一言、申し上げさせていただきたいと思います。

高田社長
 ちょっと食事の時間が迫っておりますので、一言だけ、ごあいさつさせていただきます。本当に、この1年間ありがとうございました。吉岡先生、ありがとうございました。きょうのお話を伺っていると、ナローキャスティングになり、パーソナルメディアになるという、そういうことを伺っていると、私ども経営を預かる者として、どういうふうにしたらいいか、ちょっと頭が混乱しているところでございますけれども、とにかく当面は、まず視聴者から信頼をされるということが第一と考えて、やっていきたいというふうに思います。
 来年も引き続き、ご意見あるいはご提案を賜りますようお願いをして、私のあいさつに代えさせていただきます。きょうはありがとうございました。

以上

  • 平成19年度読売テレビ番組審議会委員
  • 委員長    熊谷信昭   兵庫県立大学名誉学長、大阪大学名誉教授
  • 副委員長    馬淵かの子   兵庫県水泳連盟   顧問   元オリンピック日本代表
  • 副委員長    川島康生   国立循環器病研究センター   名誉総長
  • 委員    秋山喜久   関西電力株式会社  顧問
  • 委員    金剛育子   能楽「金剛流」宗家夫人
  • 委員    林  千代   脚本家
  • 委員    阪口祐康   弁護士
  • 委員    佐古和枝   関西外国語大学教授
  • 委員    北前雅人   大阪ガス株式会社   代表取締役副社長執行役員
  • 委員    谷  高志   読売新聞大阪本社   専務取締役編集担当