今回の配達先はハワイ・オアフ島。ここでプロサーファーとして奮闘する堀内希珠さん(35)と、東京に住む母・泰子さん(70)をつなぐ。23歳でサーフィンを始めた希珠さんは、数々の大会で優勝し、わずか5年でプロになる夢を叶えた。現在、ハワイに来て10年目。母は「プロサーファーになることは反対だった。危険だし、度胸のある子だからよけいに恐いんです」と、遠く離れた娘を心配する。
毎朝、海岸に据付けられたリアルタイムカメラの映像をパソコンでチェックし、いい波が見つかればすぐに海へと車を走らせる希珠さん。日本では台風レベルの大波の中へ漕ぎ出し、屈強な男性サーファーに混じってビッグウエーブを捉え、乗りこなすその姿は、華麗で逞しい。常に危険と隣り合わせで、希珠さんもこれまで何度も怪我をし、顔を20針以上も縫っているという。そこまでしてサーフィンに惹かれるのは「波に乗っていると全てが洗い流される感じ…一瞬無になれるから」と語る。
実は希珠さん、ハワイに来るまで日本でOLをしていたが、「自分の可能性を広げたい」と、25歳のときにハワイの大学へ。外国人で初めて首席で卒業し、現在は大学院でMBA、経営学修士取得を目指している。彼女はプロサーファーとしてボードに乗るだけでなく、デザインやショップのマーケティングなど、サーフィンビジネスにも関わり、ほかにもプロ級の腕前のアクセサリー作りなど、精力的に活動している。一度始めたことは徹底的に努力し、極めるのが彼女の性分であり、ライフスタイルなのだ。「スポンサーからも“大会に勝つことより、そのままでいてほしい。サーフィンをする女性の見本になってほしい”といわれている」と話す。
いつも笑顔で前向きな希珠さんだが、その胸の奥にはどうしても消せない大きな傷があった。それは20歳の時に亡くなった父親のとの関係。希珠さんが8歳のときに病に倒れ、以降13年間、働くことが出来ずに入退院を繰り返してきた父との確執だった。常に頭ごなしに叱られ、自分に冷たく厳しかったという父。「当時は子供で、病気のつらさも分からなかったけど、父がすごく嫌いだった。彼の良さなんか当時はちっとも理解できなかった」と希珠さんは振り返る。だが母は「彼女は誤解しているところがある。彼女が今のようになれたのも、父親の厳しさがあったから」と語るが…。
「恋愛や人間関係がうまくいかないのも、父のことが大きく関係していると思う。でも“努力”は絶対に裏切らない、必ず成果が出る」と、さまざまなことに取り組み、常に全力で走り続ける希珠さん。そんな彼女に母から届けられたのは絵葉書。病に倒れる前、セールスマンとして世界中を飛び回っていた父が、行く先々から日本の家族に宛てて送ったものだ。そこには希珠さんが見たことのない父の姿が溢れていた。母の手紙には「お父さんの夢でもあった海外での活躍を、お父さんは娘に託したのだと思う。亡くなる間際もお父さんはあなたの写真を持っていたのよ」と綴られ、父が肌身離さずつけていたペンダントが添えられていた。父の葬式でも泣かなかったという希珠さんだが、「今まで前向きにやってこられたのも、父が導いてくれたおかげかもしれない。感謝している」と、大粒の涙をこぼす。