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【独自解説】小室眞子さん渡米へ準備 57年前にもいた!アメリカで暮らした“先輩プリンセス”の生き方とは?
2021年10月29日 UP
アメリカで暮らした“先輩プリンセス”
10月26日に小室圭さんと結婚した眞子さんが、皇族の身分を離れたことを「皇統譜」に登録する手続きが、10月27日に宮内庁長官らによって行われました。眞子さんは今後、アメリカへの渡航準備を行いますが、実はアメリカでの生活や民間企業への就職などを57年も前に実践した元皇族の方がいます。この“先輩プリンセス”とは、どんな方なのでしょうか。皇室ジャーナリストの久能靖(くのう・やすし)さんが独自解説します。
皇統譜に記載
10月27日、小室眞子さんが皇族の身分を離れたことを登録する手続きが行われました。天皇陛下や皇族の身分を記す帳簿である皇統譜に「皇族ノ身分ヲ離レル」、「小室圭と婚姻シタルニ因ル」と記述され、西村宮内庁長官らが署名しました。眞子さんは、しばらくは東京・渋谷区の赤坂御用地から車で10分以内のマンションで生活し、パスポート入手・ビザ申請など渡航の手続きをすることになります。
Q. これで一連の結婚の手続きは終わったのですか?
(皇室ジャーナリスト・久能靖さん)
「そうですね。実は皇統譜というのは正、副2つ作るんです。1つは宮内庁の書陵部に保管して、もう1つの副本は法務省で保管することになっていますけれども、この署名することによって正式に皇籍を離れる、ということがいえると思います。」
Q.久能さんは皇統譜の実物をご覧になったことはあるのですか?
「いや、ありません。これは書陵部の金庫の中に入っていますから、これは絶対に我々が見ることは出来ません。」
Q. 皇族を離れたとはいえ、秋篠宮さまのお近くにお住まいになるっていうのはやっぱり、ご両親を思われてということになるんでしょうか?
「そうですね。かつて秋篠宮さまは『結婚したら、正直なところ、できるだけ近くにいてほしい』ということをおっしゃったことがあるんです。アメリカに行ってしまうと本当に今度いつ会えるか分からないわけですから、せめて日本においでになる間にはできるだけ秋篠宮家の近いところっていうことで、そういうふうに決められたんじゃないかと思いますけどね。」
Q.ということはプライベートでは、アメリカに行かれるまでにお父様、お母様には何回かお会いになるということですか?
「そこのところはちょっと分かりませんけれども、ただけじめをきちんとつけようとされる殿下ですから、はたして何回お会いになるのか、また実際に行ってお会いになるのかまでは、私はわかりません。」
眞子さんの公務の引継ぎは?
眞子さんの公務の引継ぎはどうなるのでしょうか。日本テニス協会名誉総裁も10月26日付けで退任されて、佳子さまが27日付けで就任されました。日本工芸会総裁も26日付で退任。国際陶磁器フェスティバル美濃の名誉総裁も任期が終了しています。そのほか眞子さんはこれまでパラグアイやブラジルなどといった海外訪問を精力的に行われてきました。
Q.佳子さまのご負担が大きくなってきますよね?
(久能靖さん)
「今回の場合は、おそらく佳子さまが引き受けられることになると思いますが、例えば上皇様が退任なさった時ときに、上皇さまが務めてらっしゃった色々な総裁職というのは、ほかの皇族が分担しなければならなくなったわけですね。その数というのは大変なものがあったんで、お1人では無理だということで、今の天皇陛下、当時の皇太子殿下と秋篠宮さまが分担されるっていうことになりました。ですから、お一人こうやって皇籍を離れるっていうことになると、後に残った皇族の方々の負担はかなり増えるというふうに考えざるをえないと思うんです。その皇族の数っていうものをどうやって維持していくかっていうことが、今後の非常に大きな課題になってくると思います。」
Q.眞子さんにとっては、佳子さまが一番の理解者なんでしょうね?
(久能靖さん)
「婚約内定会見が行われた時には、佳子さまはまだ留学中だったんですね。私が注目したのは、帰国された佳子さまが眞子さんに対して、『お姉さん、考え直したほうがいいよ』っておっしゃるのか、あるいはご両親に向かって『認めてあげてよ』とおっしゃるのか、どちらの側に立たれるのかなっていう面で私が注目していたんです。帰国されたら、やはり本人の気持ち、つまり『姉の気持ちを尊重してあげてください』というお姉さん側に付かれた。それ以降全く変わってなかったわけです。ですから、最後に宮邸を出られる時に抱き合っておられましたが、あの時にも私は佳子さまの心の中には『お姉ちゃんよかったね』って、『希望がかなって』という、そういった思いが込められたような気がします。ただですね、そのお姿を非常にいろいろ苦しんでこられた両殿下が、どういう思いで見ておられたのかなっていう気はしますけどもね。」
”先輩プリンセス“とは?
過去、皇室を離れ民間人となった“先輩プリンセス”、島津貴子(しまづ・たかこ)さんは、上皇陛下の妹で、昭和天皇の第五皇女・清宮貴子(すがのみや・たかこ)さま。そのお名前から“おスタちゃん”の愛称で呼ばれ、明るい性格と飾らない物言いは、国民から親しまれました。
民間人と結婚 流行っていた言葉というのは『ドライ』
1959年3月、二十歳の誕生日の会見で成人になった感想を問われると「皆さんの二十歳の時と少しも変わりません。だから取り立てて感想もありません。」と答えるほど。
また、間近に迫っていた当時の皇太子殿下と美智子さまの“世紀の結婚”に関連し、「結婚相手は、どんな方が良いですか?」と聞かれると…
「わたくしが選んだ人を見ていただきます。」
この堂々とした発言は、当時、流行語にもなりました。そして、会見からわずか17日後、その“選んだ人”が発表されました。政府系の銀行に勤務するサラリーマンで貴子さんより5歳年上の島津久永(しまづ・ひさなが)さんでした。
Q.この当時、貴子さんの発言が流行語になったのですか?
(久能靖さん)
「ええ、流行語になったんですけどね。『私が選んだ人を見てください』とおっしゃったのは、誕生日の時だったんですけれども、実はその時には、もう久永さんとお見合いをして結婚は決まっていたんです。突然発表になったのは、新聞のスクープだったんですけども、貴子さん自身が『もう発表しちゃったの?』とびっくりするぐらいだったんですね。ですから、決まっていたのを『私の選んだ人を見てください』っていうことは、これはそういう意味では、『私はもうちゃんと選んでありますよ』と。『その人も決まっているんですよ』ってことを仰っているわけです。」
Q.日本中にサプライズが走ったでしょうね?
「と思いますね。ましてですね、当時の皇太子殿下と美智子さまのことで日本中が盛り上がっていたわけですから、そういった中に二重のご慶事ということで大変に盛り上がった時なんです。お答えがぶっきらぼうのように見えるでしょう。ところがね、あの当時、流行っていた言葉というのは『ドライ』という言葉なんですよ。そういう時代から考えるとまさにぴったりの回答をされたと気が私はしますね。特に一般の方々が非常に注目したのは、あの当時まだ結婚すると女性は家庭に入るものっていう考え方が強い時代です。そういった中に率先して働く。つまり、家の中にだけ閉じこもっていないっていうことが、若い人たちにとって、特に若い女性にとっては大変な魅力だったんですね。」
サラリーマンとプリンセスの結婚に世間は大いに沸きましたが、結婚会見でも貴子さんらしさがあふれました。
(島津貴子さんの結婚会見)
Q.けさ、皇居二重橋を渡りましたが、そのときの気持ちは?
「別に…(大笑い)。無神経なのかもしれませんけど。」
Q.サラリーマンの奥さんとして月給生活に自信はありますか?
「ございませんね、全然。」
Q.当時の宮内庁記者会の記者と皇族の方々とのやり取りが、今と比べて堅苦しくなくフランクに感じますが、島津貴子さんだからですか?
(久能靖さん)
「いやそれは、実は現在も例えば上皇ご夫妻にお会いするとしますよね。その時にこちらから声を掛けてはいけないことになっているんです。お声掛けがあった時にお答えするのはいいけれども、こちらからどんどん質問したりしてはいけないことになっているんですね。あの当時はそういうものはありませんから、今、ご指摘のように非常にフランクに見えたっていうのはそういう点もあろうかという気がしますよね。」
Q.今はお声掛けをしていただいて、お答えするとか質問するということになっているのですね?
「一応、そういうことになっています。」
貴子さんは皇室を離れた後、様々なお仕事をされ、日本テレビの特番など多数のメディアにも出演。結婚前後の裏話や新婚エピソードを語りました。大阪万博の特別番組ではリポーターとして出演しました。
誘拐未遂事件も
そんな貴子さんの身に “元皇族”であることから危険が迫りました。結婚から3年が経過した1963年10月に貴子さん誘拐未遂事件が発生しました。貴子さんを誘拐し、身代金を奪おうとした男たちの車からは、日本刀やナイフ、針金などが見つかりました。主犯格の男は「元皇族だから警察も簡単に手出しができず、新聞も報道を控え表ざたにはならないと思った」と話しました。犯行直前、貴子さんの誘拐に恐れをなした犯人グループの一人が自首したことで、事件は未遂に終わったものの、元皇族が標的にされたことは、世間を震撼させました。
長期の海外生活も
皇室を離れてからさまざまな経験をしてきた貴子さん。今から57年前には眞子さんに先駆け、皇族出身者として初めて海外で長期の生活を経験しています。
1964年5月、夫の久永さんがワシントン駐在員として転勤するのに伴い一家で渡米。それから約2年間、一度も帰国することなくアメリカで過ごしたのです。帰国直前、現地で行われた記者会見では、プリンセスとしてではなく、一人の日本人として過ごした2年間を貴子さんは、こう振り返りました。
アメリカに住んで一番重要だったことは「人目にたたず、ひっそりと暮らせたこと」。日本の生活と比べて「日本にいる時よりも幸せ。市民として何の精神的な圧迫もない」。人間関係については、「ある程度までアメリカ人と仲良くなるのは易しいのですが、そこを越えると難しい」また、子育てについては「息子には家系を意識させずに、幼稚園では他の子供と一緒に遊ばせることができた」とインタビューに答えられています。
Q. アメリカでの生活という点において、眞子さんも島津貴子さんに、どうですかアメリカはと、ご相談されているかもしれないですよね?
(久能靖さん)
「そこは、ちょっと分かりませんけれども、いろんな方にご相談なさったってことは考えられると思うんですが、実際に島津貴子さんと眞子さんの間っていうのはそんなに親密であったと思えないんですよ。ですから、ご相談ってことはなさってないんじゃないのかなと。ただ、良いお手本だったことは間違いないと思います。」
Q. 島津貴子さんは、日本にいる時から非常に精力的で奔放な感じがするんですが、若くしてその貴子さんでさえ、「市民として何の精神的な圧迫もない」というのは、やっぱり何がしかの制約っていうのは感じてらっしゃったのでしょうね?
「と思うのですけど、ただこの当時のアメリカと今のアメリカが本当に同じで、本当に自由にできるのかっていうと私はちょっと疑問なんですよね。まして今回の場合は非常に注目されているよということで、マスコミも自粛といっても、やはり向こうでどんな生活をされているんだろうっていう、言ってみれば追っかけみたいなものは避けられないじゃないかって気がするんですよ。」
貴子さんはアメリカから帰国後、これも皇族出身の女性として初めてとなる民間企業に就職。高級服飾店で買い物客の相談役となる“サロン・アドバイザー”として勤務する姿は話題となりました。1989年には西武プリンスホテル顧問取締役に就任(2005年まで)。その後も相談役を続け、名誉取締役になりました。
その後、1975年からは再び夫の転勤に伴い、オーストラリアのシドニーに約3年間 滞在した貴子さん。こうした様々な経験談や民間に入る心構えを聞こうと、結婚前の黒田 清子(くろだ・さやこ)さんも貴子さんの元を訪ねています。
Q.ご自身のときを思い出して、一般の生活に入られて戸惑いとかは?
(島津貴子さん・2005年 黒田清子さん披露宴出席後)
「あまりないですね。もちろん初めて経験することはたくさんあるけれども、それは内親王だったからとかそういうことではなくて、誰でもそういうことに出会うわけで、特別困ったということはあまりなかったような気がします。」
長期の海外生活、さらにテレビ出演や民間企業への就職と皇族出身者としては“異例”ともいえる生活を送ってきた島津貴子さん。
今後、アメリカに生活拠点を移す眞子さんと小室圭さん。お二人はニューヨークでどんな生活を送るのでしょうか。
(情報ライブミヤネ屋 2021年10月28日放送)