なんだか養老センセイは、肩の力が抜けてもう言いたい放題、角のご隠居さんのようだ。
でも、怒っている。
「無思想の発見」は「ゼロの発見」に引っ掛けたのかもしれないけれども、「われ思うゆえにわれあり」にも通じる言葉なのではないか。
ホリエモンがこんなになる直前の去年12月に出版されているのだけれども、養老センセイは、こうなることを見通していたようだ。
「経済は根本的な解決にはならない。経済は概念で、人の約束事とである。経済には経済の論理がある。」
というのは、まさにそういうこと。自然の摂理を無視して人間が万能のように振舞えたとしても、長い目で見ればそんなことはないのだと。昆虫を追っかけている養老センセイだから見えるのだと思う。
その後読んだ『もう牛を食べても安心か』(福岡伸一、文春新書)の中に、養老センセイの意見と恐らく同じような「うんうん、そうそう」と思われる箇所があった。
「加速には余分なエネルギーが必要で、環境のどこかでそれ以上のエネルギーが失われている。一方、加速したことによって出現した効率は、環境のどこかでそれ以上のつけを払わなければならない、という単純な原則である。エネルギーとエントロピーの法則)」「私たちが現在、悩まされている病禍はまさに環境からの報復作用である。」
「BSEはスピード化によって生まれた。」
「進化すなわち変異と選択には時間がかかる。」
「経済的な加速は病原体の進化をも加速しているのだ」
うーん、「スロー・ライフ」というものを、ファッションではなく、人類の生き残り策として考えなくてはいけないのかもしれない。そうやって考えることは「無思想」なのかな?
それにしても、最近「ちくま新書」を立て続けに買って読んでしまった。結構、魅力的なラインナップ、ということか。 |
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