• 『アニメ村のステキな住民たち』アニ民202人目
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  • 2013.09.26

 今週のアニ民は元読売テレビ東京編成部長・故 森本博政さんです。

 僕は1983年4月読売テレビに入社してすぐ配属されたのが制作局、これは自分の希望でもありTV番組の制作に一生を費やしても、の思いで「11PM」という番組で初めの2年を過ごしました。でも自分の才能の限界もあり、この2年のAD修行生活は異常に過酷なものだったという記憶しかありません。それでも1985年3月初めて番組全体のディレクションをさせてもらい、それからなんとか5本の火曜イレブンを作ることになります。

 突然の異動の辞令はその年の7月、東京に行ってアニメを担当しろというもの。確かに入社試験面接ではマンガが大好きなことを強く主張していたのですが、仕事と趣味は別物、制作ディレクターとして仕事のステージアップを図ろうとがんばっていた矢先のことだったので正直残念で悔しくて…。

 でも僕をアニメ担当に、と白羽の矢を立ててくれたのが森本部長でした。入社3年目のアニメ好きな元気な若いヤツがいるぞ、との情報に乗ってくれたんですね。マンガがアニメにすり替わっていましたが、もちろんアニメが嫌いなわけがありません。異動した時にすでに1986年1月放送開始する「ロボタン」は決まっていました。仕事としてはこの番組のYTV側の担当者というわけです。企画もスタッフも全部決まった所に入るのですから、まずは納品における品質管理?や放送にまつわる実作業をこなせば良いようでした。納品プロデューサーなんて言われましたっけ。

 その受け身的な作業に疑問が生じ、僕は森本さんと何度も会話をします。「そんなに言うなら諏訪くんがやりたいことをやったらいいじゃないの」そう言われ枠環境などを考えてYTV独自のアニメで、うって出よう、と行動を起こしたのが「シティーハンター」でした。「ロボタン」の次の「ボスコアドベンチャー」も企画などすべて決まっていたので、僕はその後に照準を定め、マーケ調査などふまえて企画開発に乗り出します。

 詳しくはまたにしますが、初めての作業に未熟な面があったのでしょう、いくつか大きなトラブルが起き、その解決に一緒にあたってくれたのが森本さんでした。上司として当然、なのかもしれませんが、当時の東京支社があった麹町から「シティー」の出版社・集英社がある神保町まで一体何度通い詰めたか。森本さんと二人で地下鉄のつり革につかまり「こりゃ定期券があった方がいいな」と笑って話したことが忘れられません。森本さんや当時日本サンライズ植田さん(アニ民11)やこだま兼嗣監督(アニ民3)らスタッフみんなの努力のおかげで、1987年4月番組はスタートしそれから12年に及ぶシティーハンターの快進撃が始まりました。すべてはあの時2人3脚でがんばれたあの日々があったればこそです。

 こんなこともありました。その頃まだ新幹線に食堂車が普通にあったんですね。で、新幹線は今もそうですがけっこう混んでて、東京から新大阪へ行くのに指定席を取れずに乗ると、まずオープン前の食堂車に並んだものです。そこで、森本さんがちゃんとご自分のグリーン車指定席をとってた新幹線に飛び乗って「僕は食堂車で座って行きます」と言ったら「じゃあせっかくだから」と食堂車でビールなどを付き合ってくれたのです。仕事のことを話してたら調子に乗って話は進み気が付いたら京都を過ぎちゃって。一体何のためのグリーン席だったのか、ホント申し訳ない…。そしてこんなことは都合3回ありましたか。それにしても今は無きあの食堂車の雰囲気は良かったなあ。

 とここまで書かせていただいた森本さん、実は1991年9月に鬼籍に入ってしまい、今月でもう22年もたってしまいました。享年55歳、僕ももうすぐ森本さんに年齢だけは追いついてしまいそうです。立食パーティーで焼酎の水割りを飲んでゆらゆら揺れていた森本さん。ウニやイクラがダメでイカタコばかり、なので全部僕に回ってくるので一緒に寿司屋に行くのが楽しみでした。

 森本さんの人となり、を今も一番尊敬しています。そして森本さんを襲った病魔を憎んでいます。作品としては1992年10月スタートした「コボちゃん」以降を知らない森本さんの最後の弟子を自称して、僕はまだまだ元気にアニメーションの世界でがんばっています。森本さんのおかげでこれからもがんばります。本当にありがとうございました!