【特集】美しい清流が命を奪った…熊本豪雨被災地で再燃するダム計画 新たな“民意”どこに?“反対”する人の思いは?
- 特集
放送日2020.10.24
熊本県だけで死者65名、行方不明者2名の犠牲者を出した7月の「熊本豪雨」。発生から3か月を迎えた現地を訪ねると、流域に甚大な被害をもたらした球磨川が元の姿を取り戻しつつある中、上流にダムを求める声が上がり始めていた。民主党政権時代の2009年に一旦中止となった「川辺川ダム」(同県相良村)。環境保全を求める市民の間には反対の声も根強い。ダム計画の“復活”はあるのか――。
12年前にダム計画反対の前市長「判断間違っていない」
「階段に座って、流されていく車とかを見ていた。この先どうなるんだろうと思いながら…」
熊本県人吉市の田中信孝前市長(73)は7月4日の水害で、経営する市内の葬祭会館が2・7メートル浸水。階段に座り込みながら、なす術もなく水が引くのを待ったという。田中氏は市長だった2008年9月、川辺川ダム計画の「白紙撤回」を求め、その後、熊本県の蒲島郁夫知事や周辺市町村長がダム計画に反対する契機を作った一人だ。同年4月の市長選でダム問題に「中立」の立場で初当選。反対派の運動に参加した経験はなく、半年近くかけて“民意の在り処”を探った。計画反対を表明した根拠は「“清流球磨川”を求める住民の声の多さ」の一点。「人吉の人は、球磨川の恩恵を受けつつ、川とともに生活してきたから」。かつて球磨川で遊んだ自らの幼少期の姿も重ね合わせた。しかし、この政治判断は正しかったのか。自問自答を繰り返した末に昨年、熊本大学大学院で公共政策学修士を取得。研究論文「水害並びに降雨による土砂災害から住民を守るための研究」では、事前避難の重要性を説いた。
「ゲリラ豪雨や線状降水帯などの大雨から住民の命を守るには、ダムなどのハード面の整備よりも事前避難などのソフト面の充実が先だ」。
未曽有の大水害を経験した現在でも当時の選択は「間違いなかった」と断言。「いまの“民意”がどこにあるかは分からないが、必要なのはダム建設より水害被害からの生活再建策だ」と語る。
「ひどい目に遭っても球磨川が好き」
「きれいさっぱり消えた」
球磨川下流の八代市坂本町。川沿いに走るJR肥薩線瀬戸石駅前にあった1軒の民家は、7月4日未明の濁流で流された。経営するラフティング会社の事務所としてこの民家を借りていた溝口隼平さん(39)。東京大学大学院でダム撤去に伴う環境変化を研究していた約10年前、近くにあった発電専用の県営荒瀬ダムが全国初の撤去事例となることを知り、移住した。しかし今回の豪雨で自宅も1階部分が浸水し居住不能に。現在は市内のみなし仮設住宅に家族とともに身を寄せる。人吉市内のラフティング会社で“武者修行”を経て独立。ダム撤去で流れが戻った全国唯一のコースが呼び物だったが、豪雨後の川の中には崩壊した鉄橋やさまざまな廃棄物が残っており、現在も再開の見通しは立たない。主に寄付金を糧にボランティアで地域の復旧活動を行う毎日だ。
荒瀬ダムの撤去で「川の水質は改善し、アユが獲れる場所も増えた」と話す溝口さん。そんな経験から、川辺川ダムの建設には反対の立場だ。被災者でありながら球磨川水系にダムを望まない理由…それは、球磨川水系が持つ魅力だという。
「川の美しさもあるが、川と共にある人々の営みが日本の中でもかなり色濃く残っている。その営みそのものが魅力」
そのうえで、反対する人たちの思いを、こう代弁した。
「みんな川が好きなんですよね。僕も(水害で球磨川に)だいぶひどい目に遭っているけど『いい川でしょ』って他の人に自慢したくなる。『アホだな』と思いながら」
川辺川ダム計画とは
そもそも、川辺川ダムとはどんな計画なのか。前回の東京五輪前後の1963年から1965年。人吉の街は3年連続で球磨川の氾濫による水害に見舞われた。この水害を契機に持ち上がったのが、川辺川ダムの建設計画だ。当初は治水のほか利水(農業用水)と発電の機能を持つ多目的ダムとして計画されたが、計画から40年以上を経た2009年、「コンクリートから人へ」をキャッチフレーズに誕生した民主党政権により八ッ場ダム(群馬県・12年に建設再開)とともに中止が決められた。ただ、建設の法的根拠となる特定多目的ダム法に基づく廃止手続きは取られておらず、国土交通省が川辺川ダム建設を前提に07年に策定した球磨川水系の「河川整備基本方針」も存続している。「中止されたが法的には残る」状況が、川辺川ダム計画が“復活”できるカラクリだ。09年の中止後、利水と発電が撤退。現在は治水専用ダムとして計画が残っている。
国と熊本県、地元自治体はこの10年間、「ダムによらない治水」の在り方を協議。遊水池(河川法上の表記は「遊水地」)の確保や堤防のかさ上げ、川底の掘削などを組み合わせる代替策を検討してきた。
しかし、昨年算出した10の代替案は総工費が1兆円を超えるものもあり、川辺川ダムの2650億円(98年時点)より割高。今月6日には、いずれの案も「川辺川ダムより治水効果は限定的」との試算結果が公表され、「仮に川辺川ダムがあった場合、熊本豪雨による人吉市内の浸水域は6割程度少なかった」と結論づけられた。
ダム反対派は「算出が恣意的」などと反発するが、京都大学防災研究所の角哲也教授(河川工学)は、川辺川ダムは有効だと指摘する。
「球磨川水系は上流に行くと山岳地形になって、雨が降ると短時間で水が出てくる。そういう地形では上流で水を止め、貯める効果は高い。川辺川ダムを作るだけで終わるのではなくて、補完的対策はないのかを同時に考える必要がある。組み合わせていくことがこれから大事だ」
計画に翻弄され50年 五木村は
ダム計画の紆余曲折に翻弄され続けるのが、川辺川ダム建設予定地の上流にある五木村。建設されれば、村の一部が水没する。
「最初は県も下流域も全て賛成で、五木村だけが反対だった。それが五木が同意したとたんに下流で反対運動が起きて中止となった」
村職員時代から50年以上ダム計画と向き合ってきた和田拓也前村長(73)は憤りを隠せない。村が建設反対から容認に転じ、補償交渉を経て住民の高台移転が始まった2000年代初頭、田中康夫長野県知事(当時)の“脱ダム宣言“に象徴される脱ダムブームが起こり、川辺川ダムの反対運動も活発化。さらに移転がほぼ完了したタイミングで、民主党政権による中止が決まったのだ。中止後は「ダムに頼らない村づくり」を掲げ、水没予定地の旧村中心部にはグランピングができる宿泊施設やバンジージャンプ施設を整備し、観光に力を入れてきた。
旧中心部
今年で14年連続、国交省調査の「水質日本一」に輝いた川辺川。そのほとりに建つ宿泊施設は“密”が避けられるとして、コロナ禍の今年の夏も満室の日が続いた。“ダムなし観光”が緒に就きはじめた矢先の「下流の心変わり」。和田前村長はあきらめ顔で語る。
「これから、ダム推進派と反対派による侃々諤々の議論が始まる。互いに言いたいことは言い合うが、その議論は“五木抜き”。五木村はどう思っているかという話は、あまり聞いてくれない」
知事判断は年内?
2008年、「球磨川は宝」と述べて国に計画の白紙撤回を求めた熊本県の蒲島郁夫知事。今月21日の記者会見では「2008年と比べると、ダムを作ってくれという意見は多くなったという気がする。新たな体験をもとに形成される新たな民意をベースに治水を考えなければならない」と語った。住民や各種団体から意見聴取し、年内に結論を出すという。