15歳で皇族から民間へ…旧皇族・伏見博明さん(90)が語る“皇室への思い”

  • 特集

放送日2022.06.11

旧皇族・伏見博明さんの激動人生

旧第24代伏見宮家 当主 伏見博明さん(90)
旧第24代伏見宮家 当主 伏見博明さん(90)

 6月8日、都内で出版記念パーティーが行われました。本のタイトルは「旧皇族の宗家・伏見宮家に生まれて」(中央公新論社 刊)。ことし90歳の旧伏見宮家当主・伏見博明(ふしみ・ひろあき)さんの口述をもとにした、回想録です。

「上皇后陛下(美智子さま)から直接お電話をいただきまして、『大変興味深く、ご本を読ませて頂きましたよ』と」(伏見博明さん)

 美智子さまをはじめ、皇族の方々との親しい交流を明かした伏見さん。1932年に皇族として生まれ、戦後15歳で皇籍離脱し一般国民になりました。その後アメリカに留学、外資系の石油会社で働くなど、激動の人生を送ってきました。90歳の今、改めて注目が集まっている自身の立場について聞くと―

「どうなるかわかりません。みなさんにお任せして。もし皇室に何かあれば、いつでも行きます」(伏見さん)

 政府の有識者会議による最終報告書を受け、衆・参両院議長は2022年1月、各党に、“皇族が減少すること”について議論するよう求めました。その対象は、「女性皇族が結婚後も皇室に残る案」や「皇族が旧宮家の男系男子を養子に迎えることを可能とする案」などについてです。伏見さんら旧宮家の存在が今、大きな関心の的になっているのです。

“天皇家を支える”旧皇族の使命

生まれた時から皇族として“厳しい躾”を受けたという伏見さん
生まれた時から皇族として“厳しい躾”を受けたという伏見さん

 6月初旬、イギリスでエリザベス女王の即位70年の祝賀行事「プラチナ・ジュビリー」が行われました。イギリス王室の王位継承は長子優先で女系継承を認めています。一方、日本の皇室は126代にわたり例外なく男系継承、つまり父方の血統によって継承されてきました。そもそも宮家の役割は、天皇家の男系継承を支えることです。例えば江戸後期、後桃園(ごももぞの)天皇の子は女子だけだったため、4親等さかのぼり閑院宮(かんいんのみや)家の男系男子が天皇になりました。天皇家を支える重要な役目を担っていた旧宮家。伏見さんは生まれた時から皇族として、厳しく躾けられたと言います。

「朝礼の時は『殿下は最前列に。みんなが見ているからしっかりやってくださいよ』と言われて、しょっちゅう辛い思いをしましたけれどもね。僕なんか男の子ですから、親と一緒に寝ることはできなくて、男の子は寂しさにも耐えないといけないという教育だったのですかね」(伏見さん)

海軍トップ・祖父の“忘れられない光景”

伏見宮創設の流れと離脱した旧宮家
伏見宮創設の流れと離脱した旧宮家

戦後、皇籍を離脱したのは11宮家51人。中でも古いのは伏見宮家です。現在の天皇陛下からさかのぼること約700年。崇光(すこう)天皇の第一皇子・栄仁(よしひと)親王が創設し、後に11宮家に分かれました。

伏見さんの祖父・伏見宮博恭王
伏見さんの祖父・伏見宮博恭王

 伏見博明さんの祖父・伏見宮博恭王(ふしみのみやひろやすおう)は、海軍元帥で軍令部総長を務めました。祖母は徳川慶喜公の九女、経子(つねこ)妃。父である博義王(ひろよしおう)は、伏見さんが6歳の時に病気で亡くなったことから、祖父が父親代わりだったと言います。

「おじいちゃんに連れられて観艦式に行ったり、霞が関にあった海軍省にも行きました。行くたびに海軍の偉い方々が敬礼して出迎えてくれた。それが気分良かったですけれどもね」(伏見さん)

 旧宮家は天皇を守るため、軍人になる役目も担っていました。

ホテル ニューオータニの日本庭園(東京・千代田区)
ホテル ニューオータニの日本庭園(東京・千代田区)

 かつて伏見さんの家があった、都心の場所に行ってみると―

「こちらはホテルニューオータニの日本庭園でございます。もともと伏見宮邸があったところで、敷地面積は2万坪ございます。400年前から続いていますので、今後も引き続き残していきたいと思っております」(ニューオータニ 岩崎州彦広報課長)

 現在、無料で散策できる広大な敷地に、伏見さんの祖父母や兄弟など家族のほか、使用人約70人が住んでいたということです。

子どもの頃の伏見さん
子どもの頃の伏見さん

「力士を呼んで庭に本格的な土俵を作って。ちょうど安芸ノ海が双葉山の69連勝を止めた時なんですけれども、私が土俵に上がって安芸ノ海と相撲をとって安芸ノ海が転んでくれた。『双葉山に勝った人に私が勝った』と自慢したことがあります」(伏見さん)

 太平洋戦争で、日本の敗戦が濃厚になってきた時、伏見さんは忘れられない光景を目の当たりにしたといいます。

「おじいちゃんの部屋に行くと日本の軍艦の絵がありまして、最初の頃は日本が勝っていたから良かったが、だんだん良くなくなっていった時に、おじいちゃんは撃沈された船を消していくわけですね。それを見ていて段々船がなくなってきたと思ったら、最後の時はおじいちゃんが『見た通りもう船がないよ』と。『もう海軍もおしまいだ』と辛いことを言っていましたね」(伏見さん)

なぜ?皇籍離脱の背景にGHQ

静岡福祉大学 小田部雄次名誉教授
静岡福祉大学 小田部雄次名誉教授

 終戦直後の1947年10月、11宮家51人が皇籍を離脱したことについて専門家は、GHQ(連合国総司令部)の意向が働いていたと指摘します。

「軍隊のトップにまで上り詰めた伏見さんや閑院さんなど、軍の中枢部分を多くの宮家の方が占めていた。日本の非軍事化をするにあたって皇族を残すと、軍隊復帰の大きな勢力になりがちなので、GHQとしてはその辺りもある程度考慮したうえで宮さまを減らそうということでした」(静岡福祉大学・小田部雄次名誉教授)

皇族から民間へ「切符を初めて買った」

 皇籍離脱した時、15歳だった伏見さん。生活は一変しましたが、すべてが新鮮だったと言います。

「僕は山手線に乗ったことがなくて、たまたま放課後、新宿に遊び行こうというときに山手線に乗るのにどうやって切符を買うのか分からなかったものですから、同級生の波多野くんが買ってくれて『なるほどな』と思って。前は学校が終わると友達同士で一緒に帰っていく、それを見てすごくうらやましかった。それが今度はみんなと一緒に帰れるようになったのは今でも『あー楽しかったな』と思います。これが自由の始まりかなと。今までほかの方は当たり前のこととしてやってきたことが僕にとっては初めてでしたから」(伏見さん)

伏見さんの幼稚園時代からの友人 波多野敬雄さん(90)
伏見さんの幼稚園時代からの友人 波多野敬雄さん(90)

 学習院幼稚園時代から伏見さんの友人で、元国連大使の波多野敬雄(はたの・よしお)さん。一般国民になった伏見さんに、それまで免除されていた税金が重くのしかかった時の話を聞いたといいます。

「伏見さんは『自分はとにかく家を売った財産をもって宮家を離れたから幸いだったよ。だけど国の家に住んでいた宮さまがいて、その人は家を売ったお金をもらえなかった。だから気の毒だった』と言っていました」(波多野敬雄さん)

「一般人の皇族入りはかなり難しい」安定的な皇位継承はどうあるべきか?

インタビューを受ける伏見さん
インタビューを受ける伏見さん

 伏見さんは民間人になった後も、皇室行事には欠かさずに参加してきたと言います。

「例えば何々天皇の1000年祭だとか800年祭だとかいう行事がありますよね。そういう時に宮内庁から案内が来ます。コロナ前は必ず、天皇家の方々と年に3、4回は食事をする機会がありました」(伏見さん)

 また、昭和天皇崩御の際には、こんな体験をしていました。

「僕も初めての経験でしたけれども、天皇陛下のお通夜は特別に昔から続いてきたんでしょうけれども、45分間電気を消して棺の前で座っていないとならないんです。ちょっとでも身動きするとガサガサと音がしますから、我々は小さいころから経験していますからいいですが、たまたま一般の方がお通夜に来られて45分間じっとして終わったら『ああ終わった』といったりして。確かに大変な体験でした」(伏見さん)

 そして、“一般人”が宮家に入るのは難しいとご経験から言えますか?という質問には…

「大変だと思います。一般の方はなかなか分刻みというか秒刻みみたいなスケジュールもあるし言葉遣いも多少違うし、かなり難しいと思いますけれどもね」(伏見さん)

 皇位継承について、専門家は歴史に照らして、“男系の女性天皇”も選択肢の1つとして検討すべきだと指摘します。

「“男系女子“というのは歴史的にいくらでもあるわけです。その間に悠仁さまに男系男子がお生まれになれば、愛子さまが継いで、そのあとで悠仁さまのお子様が継ぐ道があれば、さらに続くわけです」(静岡福祉大学・小田部雄次名誉教授)

 安定的な皇位継承はどうあるべきなのか、国民的な議論が求められています。