12月6日(火)
22年前、夜釣りに誘われたあの日、父は母を殺していた… “人殺しの息子”を襲う凄絶な現実「絶対に許せない。けど…」死刑囚となった父親への思い―
名古屋市に住む大山寛人さん(34)。父親の名は大山清隆死刑囚。1998年に養父を、2000年に妻を相次いで殺害した「広島連続保険金殺人事件」で、2011年6月に死刑判決が確定しました。妻を殺害した夜、大山死刑囚は寛人さんを夜釣りに誘い、釣りの合間に遺体を海に投げ捨てていました。
殺した父への憎しみと、殺された母への悲しみに襲われる中、“人殺しの息子”となった寛人さんには厳しい現実が待ち受けていました。世間からの誹謗中傷、母を救えなかった後悔からの自傷行為、自殺未遂…。その凄絶な人生と、いつ刑が執行されるか分からない父への思いに迫りました。
【特集】僕を釣りに誘ったあの日、父は母を殺していた… “死刑囚の子”となった青年の凄絶半生 自殺未遂、自戒の刺青「絶対に許せない。けど…」交錯する父への思い―
“人殺しの息子”となった大山寛人さん
愛知県名古屋市に住む大山寛人さん(35)。彼の父親は、大山清隆死刑囚(61)。1998年に自身の養父を、さらに2000年に妻の博美さん(当時38)を相次いで殺害した「広島連続保険金殺人事件」で、2011年6月に死刑が確定しました。
母を殺した父への憎しみと、殺された母への悲しみに襲われる中、“人殺しの息子”となった寛人さんには厳しい現実が待ち受けていました。世間からの誹謗中傷、最愛の母を救えなかった後悔からの自傷行為、自殺未遂…その凄絶な人生と、いつ刑が執行されるか分からない父に、今思うこととは―。
車に乗ると母が助手席に…「僕は眠っていると思っていました」
今は名古屋市で一人暮らし
大山寛人さんは、家族も友人もいない名古屋市に来て、14年になります。
Q.今はどんな仕事をされているのですか?
「風俗系の仕事、風俗店員です。一般職をやっていた時期もありますが、結局父親のことがばれてしまって。“人殺しの息子”という特殊な立場の人間を雇うことは難しいという形でクビになることが多くて…」(大山寛人さん)
全ては23年前、あの夜から始まりました。
寛人さんの父、大山清隆死刑囚(61)
2000年3月2日、大山清隆死刑囚は12歳の息子を夜釣りに誘いました。
「僕が急いで釣り具を準備して車に乗り込むと、お母さんは助手席のシートを倒して横になっていました。だから僕は、眠っていると思っていました」(寛人さん)
しばらくして港に着くと、母親を車内に残し、寛人さんと父親は、離れた場所で別々に釣りを始めました。
「お父さんから『今、海に何かが落ちたような音が、ボチャンという大きい音が聞こえなかったか?』と言われました。すると、ある異変に気付いて…。助手席で眠っていたはずの、母親の姿がなかったんです。その瞬間に僕は、一気に血の気がひいたというか、青ざめました」(寛人さん)
寛人さんの母、大山博美さん(当時38)
警察の捜索が始まり、ほどなくして海面に漂う母が見つかりました。
「お母さんは海からすぐに引き上げられたんですけど、本当に人形のようにぐったりしていて。お父さんは、『お母さんは大丈夫だから』ということを繰り返し僕に言っていましたね。だからもう、ただただ必死というふうにしか見えなかったです」(寛人さん)
2年後、父親が逮捕 「この手で殺してやりたいほど憎かった」
2002年、父親が逮捕
それから2年後の2002年、父親は博美さんを殺害し死体を海に遺棄した、殺人・死体遺棄容疑で逮捕されました。あの夜寛人さんが見た助手席の博美さんは、すでに死んでいたのです。夜釣りに出かける30分前、父親は博美さんを自宅の浴槽に沈め殺害。釣りの合間に、息子の目を盗んで遺体を岸壁から投げ捨てていました。
「人間じゃないと思いました。自分の子どもまで利用するなんて。散々泣きわめいて、その後だんだんと、だんだんと湧き上がってきて。怒りだったり、悲しみだったり、言葉ではもううまく表現できないような憎悪、憎しみ…。この手で殺してやりたいと思うほど憎い。その衝動ですね」(寛人さん)
父親はこの2年前に、自身の養父も殺害していました。その保険金をめぐる嘘の発覚を恐れて博美さんも殺害し、あわせて7300万円の保険金を騙しとっていたのです。
公園で大量の薬を飲んだことも
父親が逮捕され、寛人さんの生活は一変します。"人殺しの息子"と呼ばれ、公園で寝泊まりし、盗みを繰り返す毎日…あの夜の母が頭から離れず、大量の薬を一気に喉に流し込んだこともありました。
「『お母さん、ごめんね。こんな僕でごめんね。今そっちに行くからね』という思いで、そういうことを頭の中でつぶやきながら、僕はベンチの上で眠りにつきました。それからどれくらい経ったか分かりませんが、今まで経験したことがないくらいの強烈な吐き気で目が覚めたんです。そのときに思いました。『死ねなかった』って」(寛人さん)
2005年4月27日、父親に一審で死刑判決が下り、それから6年後の2011年6月7日、最高裁で死刑判決が確定しました。
拘置所で見た父の姿 「絶対に許せない…だけど、生きてほしい」
家は「住民票を置くため」
事件は今なお、寛人さんの生活に影を落としています。
「僕の住民票を置くためだけに借りている家です。どういう経緯か分かりませんが、住所がばれてしまって来られたりだとか、いやがらせのようなことを受けたりだとか、玄関に“殺人者の息子”みたいなニュアンスのことが書かれた貼り紙をされたこともあります。もしこれ以上のことが何かあったら、怖いなと思います」(寛人さん)
手紙が届くことで知る、父親の生存
2013年の取材で、寛人さんは父からの手紙についてこう語っていました。
「これがお父さんから届いた手紙です。まずは手紙が届いてくれたことで、安心しますね。刑が執行されていないということがわかるし、父さんが生きているというのを初めて実感するので」(寛人さん)
父親からの手紙
一審で死刑判決が出た18年前から、拘置所の父とは手紙をやり取りするようになりました。「体調管理には気を付けて」「頑張れよ寛人!!」「誕生日おめでとう!!」父からの手紙には、息子の安否を気遣う言葉が並びます。きっかけは、拘置所の父を初めて訪ねたことでした。
「今までの憎しみをぶつけるつもりでした」(寛人さん)
そしてもうひとつ、聞きたいことがありました。
「今まで父さんと母さんの姿を、12年間見て育ちました。すごく仲がいい家族で、本当に愛し合っていたというのが、幼いながらに見てとれたんです。あれまで嘘だったとは思えなくて。お父さんの口から直接、殺した理由を聞きたかった」(寛人さん)
父を訪ね、拘置所へ
父との面会後、寛人さんは…
「あれほどまでに恨み、憎しみ続けた父親の姿が、あまりにも弱々しく変わり果てていたんです。体はやせ細り、プルプル震えながら、涙を流していました。お父さんは涙を流しながら、僕に謝ることしかできなかった。当然僕もその姿を見てからは、お父さんを責めるようなことは一つも言えなかったですね…」(寛人さん)
父は、「母を殺したことを後悔している」と語りました。周囲から養父の殺害を疑われ、母から離婚をほのめかされたことが動機だった、と話しました。
広島高裁は判決で、「妻を失いたくないという目的のために殺害する行為は、短絡的かつ身勝手であり、極めて自己中心的」と指摘。「母を奪うという、これ以上ない不幸を子どもに強いた上、犯行の隠ぺいに子どもを利用する心情は、人間として理解しがたい」として、「死刑はやむをえない」としました。
「絶対に許すことはできないけど…生きて罪を償ってほしいと、思いは変わりました」(寛人さん)
父に聞いた母の最期 「ひろくん、ひろくん、と僕の名を…」
父から届いた母の“形見”
2013年4月、父から小包が届きました。中には、母が生前使っていた手帳やカードが入っていました。初めて手にする母の形見です。殺害される1週間前の寛人さんの誕生日には、星のマークが記されていました。
「たかが手帳だし、たかがノートかもしれないけど…やっぱり嬉しいですね。ただ…送ってくれたのが父さんなので…。形見を送ってくれたのは父さんだけど…殺害したのも父さんなので…」(寛人さん)
受け入れると決めた父の罪。しかし、それは母への罪悪感を背負うことにもなりました。脳裏に浮かぶのは、面会で父から聞かされた母の最期の言葉です。
「体を無理やり浴槽に沈められて、その死ぬ直前に『ひろくん』って僕の名前を…『ひろくん』と僕の名前を叫んだみたいで…。でも僕そのときまだ小学校6年生で、2階の自分の部屋で寝ていて、助けてあげられなくて…。なんであの叫びに気付いてあげられなかったんだろうって、今でもすごい、叫びに気付けなかったこと、今でもすごい後悔していて…」(寛人さん)
やり場のない感情を自らに向け、両腕を包丁で切り刻んでいました。
「今日かもしれない」 毎朝決める覚悟の日々
自らを戒めるために入れた刺青
趣味の釣りは今も続けています。
「海釣りはしないですね、僕は。港や岸壁に近づくと、あの日の出来事を鮮明に思い出すので」(寛人さん)
Q.刺青が見えますが、体に刺青を入れているのですか?
「そうですね。少し入っていますね」(寛人さん)
体にはもうひとつ、事件の痕が刻まれています。
「刺青はマイナスの部分しかないと思うので、少しでも結婚しづらい環境に自分を追いやることが目的。そうすることで自分の中で踏ん切りがつく、諦めがつくというか」(寛人さん)
刻んだ両親の名前
「清隆の『清』なんですけど、僕の父親の名前ですね。己の命をもってしても罪は償いきれない、死刑は受け入れるといった父親の気持ち。なので、罪人が首をはねられて朽ちた姿を彫っています。逆に右腕は、僕の母親の名前・博美の『美』が入っていて、父に殺されてしまった無念とかそういったものを、自分の中で表現しているつもりです」(寛人さん)
刺青は、『家族は持たない』と誓った証。父とも、手紙のやり取りや面会は、1年以上途絶えています。
「判決が下ってからもうだいぶ経つので、そろそろ執行されてもおかしくない。ここで面会をすることによって、お互いについてしまう傷が深くなるというか…手紙を書けば会いたくなりますし、会ってしまえば、やっぱりこちらも死に目に会いたくなるし、父親も死刑が執行される前に『もう一度寛人に会いたい』という思いが芽生えてしまうという思いもありますし。お互いに何を言うわけでもなく、手紙を書かなくなり、何も言うわけでもなく、面会をしなくなりました」(寛人さん)
刑の執行が死刑囚に告げられるのは、当日の朝。家族が知るすべはありません。いつか来るその日に向けて、準備を始めています。父からの手紙には、自ら火をつけました。
父からの手紙に火を…
「執行された後にこれを読み返しても、自分の心が苦しくなるだけなので。いい思い出として読み返すことはやっぱりできないので、今の自分にはもう必要ないという感じです」(寛人さん)
毎朝決めなおす“覚悟”
「周りには当たり前にあるもの、親だったり家族だったり家だったり、当たり前にあるものが、なんで自分にだけないのだろうと、辛く悲しい気持ちになることしかなかったんですけど…今は純粋に、お父さんと息子さんがキャッチボールをする姿を見たりすると、自然と、こんな頃もあったよなと思い出しますね」(寛人さん)
2022年11月末時点で、判決が確定している死刑囚は106人。そして2022年の警察白書によると、殺人事件のうち親族間で起こった事件の割合は、46%に上ります。
「毎朝起きると、一番最初に考えることは、『今日かもしれない』。毎朝、毎朝、覚悟を決めなおすというか…」(寛人さん)
(「かんさい情報ネットten.」2022年12月6日放送)
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