光は海を越えて
モネは、後半生をパリの北西65kmほどにあるジヴェルニーで過ごし、晩年は自らつくり上げた「水の庭」の睡蓮を描きつづけた。実際に描かれているのは池のほんの一画だが、水面の映り込みによって周囲の木々や空をも取り込み、果てしない広がりを感じさせる。1909年、モネはパリのデュラン=リュエル画廊で〈睡蓮〉連作を発表した。翌年、ウスター美術館が購入した本作もこの1点。本作の収蔵により同館は、〈睡蓮〉を購入した世界で初めての美術館となった。なお、本展では本作品購入に関わる同館と画商の間で交わされた書簡(複製)等もあわせて紹介する。
グリーンウッドが得意とした地元ニューイングランドの穏やかな風景。明るい色調に、光の揺らめきを感じさせる、かすれるような筆触によって牧歌的な晩春の美しさがよく表現されている。グリーンウッドは印象派の表現を採り入れたが、ハッサム同様、「印象派」と呼ばれることを拒み、そうした様式分類にとらわれないことを望んだ。
ハッサムはボストンで成功を収めたのち、1886年からパリに留学した。アカデミーの方針と合わず退学するが、パリでバルビゾン派や印象派の作品に出合い、その新しい表現を自らの制作に採り入れてゆく。本作に描かれるのは、ハッサムが滞仏中に夏を過ごした、パリ郊外の友人宅の庭園。木漏れ日の表現、明るい色調や瑞々しい草花を表わす大胆な筆触、非対称の構図などからは、ハッサムが印象派の技法を積極的に学んだことがよくわかる。
パリでレアリスムや印象派に親しんだソーンは、スウェーデンに戻ると、故郷ムーラの風景に裸婦を配し、新しく習得した技法を試みた。タイトルは、湖に反射した虹色のきらめきを表わしている。裸の背に斑に落ちる木漏れ日の描写、陽光を浴びてきらめく緑を捉える軽い筆触などに、フランス印象派の影響が認められる。
1901年に鉄道が敷設されて初めて、多くの人々がグランド・キャニオンを訪れるようになった。パーシャルは、1910年に初めてこの地に立ち、「この世のものとは思われない輝きに包まれて、半狂乱で縁のあたりを何時間もさまよい歩いた」という。すばやい筆触と、淡いピンク、黄色、青紫色の陰影を用いて、峡谷に反射する太陽光の印象が捉えられている。
シニャックが家を買い、ヨットを置いた南仏のリゾート地ゴルフ・ジュアンが遠景に見える。彼は光学や色彩理論にもとづく点描技法を採用したが、1890年代中頃からしだいに筆触は大きく、色彩は自由になってゆく。地中海の強い日差しと鮮やかな色彩だけでなく、平和で穏やかな日々を慈しむような画家の想いも伝わってくるようだ。