8854「フィリピンの国名の由来」

2023 . 2 . 1

8854

 

日本国内で起きた連続強盗事件の指令役が、実はフィリピンの収容所にいるという、何とも驚くべきグローバルな展開になってきています。

その「フィリピン」の国名について、1月28日の「日本経済新聞」に連載されている佐藤賢一さんのコラム、

「王の綽名(あだな)」

に書かれていました。それによると、絶対王政の絶頂期を作ったスペインの、

「フェリペ2世(155698)」

の名前「フェリペ」の由来は、古代マケドニアのアレキサンドロス大王の父親が、

「フィリッポス2世」

といったことにちなんだ、元々はギリシャ文化圏の名前だったそうです。それが11世紀にギリシャ文化圏のキーウから大公女アンナがフランスに嫁入りしたことで伝わり、その息子は東方風の名前、

「フィリップ1世」

になり、13世紀には、

「フランス王・フィリップ2世」

が名君だったので、人気の名前となったと。

それを15世紀に「美男公」と呼ばれ「フワナ1世」の夫だった「ブールゴーニュ公フィリップ」が、スペインに持ち込んだといいます。つまり彼が、

「スペイン王(カスティーリャ王)フェリペ1世」

とすると、名前を譲られた「孫」は、

「フェリペ2世」

になるとのことです。

1543年にアジアに到達したスペインの探検家ビリャロボスが、レイテ島とサマール島を、まだ皇太子(王太子)だった「フェリペ」に因んで、

「フィリピナス諸島」

と呼んだことが、現在の国名である、

「フィリピン」

の由来になったというのです。

そうだったのか。

ちなみにこの「フェリペ2世」の「綽名」は、スペイン語で「エル・プリュデンテ」、日本語では、

「慎重王」

だそうですが、本当は、ただ慎重なのではなく、

「熟慮王」

と呼ばれるべき名君だったのだそうです。

このコラムでは、トルコに勝った、

「レパントの海戦」(1571年)

や、イギリスにスペインの「無敵艦隊」が敗れた、

「アルマダの海戦」(1588年)

も出てきて、むかーし、高校時代に習った「世界史」の記憶が、少しよみがえりました。

 

(2023、1、31)