『今日の独裁者による「ボス的支配」には、全く抑制の仕組みがない。そればかりか、彼等の封建的帝国とも言うべきものには、新たな型の部下が生れる。すなわち指導者の個人的腹心である。』(84ページ)<=2018年10月16日に抜粋・記述>
『第一次世界大戦後の革命運動の目的ならびに本質は、家族まで含めたあらゆる自治的グループを解体し、明瞭な社会的意志をもたぬ一つの群集に仕立てることにあった。そのような群集は、常に圧政的指導者を欲求し、感情的に動かされ満足を与えられることによってのみ結束を保つものである。(中略)これが現代の独裁的大衆国家の基盤である。』(116~117ページ)<=2019年8月20日に抜粋・記述>
<以下、2019年9月12日に抜粋・記述>
『大衆は、「女に似ている。彼らの心理は抽象的推論よりは、頼もしい力に対する漠然とした情緒的渇望によって影響され、弱者を征服するよりは強者に服従することを好む。かくて大衆は哀願者より支配者を愛し、内面的には、自由の保証よりも仮借ない教義によって遙かに大きな満足をうる。彼らは自由をもてあまし、往々途方にくれてしまうものである。このような陳述は、独裁とデモクラシーとの間における人間の相違を示すと言えよう。両者はそれぞれ異なった「人間観」を代表する。ゲッベルスによれば、「普通の人間は物事の二面性、これもあれも考慮せよと言われることを何よりも嫌う。」このような哲学は、不確定と不安定とに悩まされる大衆に強く訴える。(中略)独裁の下ではあらゆる批判が沈黙する。しかし、デモクラシーの下では、真理の探究と、善悪の識別における選択の自由とは、決して放棄されない。」(118ページ)
『単一政党正の下では党と国家とは同一化される。』(140ページ)
『独裁国家は巨大組織であり、組織体レヴァイアサンである。』(140ページ)
『独裁政党は時代の要請を満たし、独裁に対して徹底した反感をもつ人々をも、少くとも一時的には宥和する。「何と言っても、彼らはあれほど待望された統一をもたらした。」のである。ビスマルク統一の実現により、彼の体制の多くの自由主義的中産階級に認めさせたのは、この一例といえよう。』(141~141ページ)
『現代資本主義社会の真の問題は、国債から得られる国家資金をも含めて国家の資金源の総体が充分大きくさえあれば、これに見合うだけの国民所得の生産は可能だという点にある。このような考えは、個人の家計と国家財政との間に異なった水準を設定する、一種の経済的二重道徳をもたらしたと見える。かくて政府は産業を促進し、労働を創出する限り、債務を負うことは容易に許される。』(167ページ)
『よくある誤解は、世論とは「一定の時期の具体的問題に対する民衆の反応の総体」であるが、それは公開の討議を前提とするから、独裁に於ては存在しないとするものである。なるほど、独裁政の下では世論が自由、無拘束に表明され得ないが、それでもなお独裁者は民衆の反応に関心を払わざるを得ない。現代の専制は民衆を恐怖せしめるのみでもなく、また抑圧という否定的な政策に安んずることも出来ない。勝者の最大の事業は、敵の撃滅ではなく、敵に勝者たる自己の讃歌を歌わせることである。』(195ページ)
『「宣伝それ自体には何ら基本的方法はない。大衆の征服という目的があるのみだ。この目的に奉仕する手段はなんでも結構。」と、ゲッベルスが自伝的な『ベルリン奪取』の中でいっている。』(203ページ)
『特に世論の形成過程の統制に関する例証として、一九三三年十月四日の編集者法をあげ得よう。その規定によれば、「ドイツ国民、すなわち非ユダヤ人であって、現政治体制に友好的なもののみが全国新聞組合の構成員たる資格をもつ。すべてがラント新聞組合に登録しなければならず、地方官憲と国民啓発宣伝相とが拒否権を有する。全国組合の長がゲッベルス博士によって任命されるのは職業別審査機関の評定官と同様である。(中略)この報道の完全な統制と検閲とが「報道の自由」の終焉のみならず、新聞に対する一般的関心の減退に立ち至った要因であることは疑うべくもない。』(204ページ)
『ヒトラーの『我が闘争』の中に若干の大胆な示唆がある。「演説の効果には、それが一日の中の何時行われるかが決定的に影響する。威圧的で使徒的な性格の人の雄弁は、夜に行えば一そう効果的であろう。その時刻までには聴衆の反撥力も、その知力と意欲とが充実している昼間よりも目立って弱まり、他人の弁舌に引入れられやすいからである。」』(207ページ)
『大衆集会の必要な所以は、一つの運動に参加しようとし、自己の孤独に耐えられぬ個人が大衆集会に出席して、はじめて大きな一体感を懐く点にある。個人はいわゆる大衆的暗示の魔力に屈服するのである。』(207ページ)
『ナチズムは西欧とヨーロッパ文化の基本理念とに対する大いなる叛逆であるが、それが攻撃の主目標を知識層においたのは決して単なる偶然ではない。知識層こそ、運命と伝統とによって、歴史的ヨーロッパの模範となっていたからである。』(248ページ)
『中欧の若い諸民族は、閉鎖的なナショナリズムの観念を発展させたが、これは自己の力に自信がないからであった。その排他性、不寛容性は内的脆弱性の徴であった。』(277ページ)
『デモクラシーの本質である公開の討議は、必然的に忠誠の分裂をもたらし、外国に対する統一戦線を弱化する。』(286ページ)
『独裁はデモクラシーより、虚勢を張る術に長けている。その神経が図太いからでなく、平和への欲求を無視できるからである。(中略)全体主義的独裁は好戦的な状況において勢を得るのである。しかし、一旦戦争となれば独裁下の弾圧による統一は試練にさらされる。それが敗北に堪え得ないことは歴史の明証するところであり、絶え間ない空襲にさへ、それ程の耐久力を持つまい。他方、デモクラシー諸国は、国内の党派的政争のため、自己の力を常に過小評価しているが、危機に当たっては、団結して統一行動に出る。』(287ページ)
『独裁が一時的に成功したのは、主として十九世紀的世界の破壊によって生じた真空にある』(288ページ)
→ということは「二十世紀的世界の破壊=東西冷戦体制の崩壊」が生じた後の「現代」は、同様の「独裁」が生じる素地は十分にあるということか?
『世界政治において、世界秩序の組織原理として試練に立っているのはナショナリズムであり、三百年前には宗教が同様の試練に会った。この第二の三十年戦争の終局に当り、ナショナリズムは、宗教が三十年戦争のときに遭遇した運命と同じく、消滅はしまいが、その国際社会における地位を明確にせねばならない。(中略)デモクラシーが適格なリーダーシップと社会的均衡を用意し得ない場合には常に、社会の病巣は、革命的状況を利する独裁者の好餌となることを経験したからである。(中略)再統合された社会における個人には、社会意識が不可欠である。(中略)個人の自由と社会による統制との間に新しい調整がなされなければならぬ。』(288ページ)
『デモクラシーは、その死活の闘争の間に、市民に対して、社会は権利を附与すると同時に奉仕と献身とを要求するという基本事実を教えなければならぬ。(中略)自由と平和とは代償をもって贖(あがな)うべきものである。』(289ページ)
『デモクラシーは、その本質上、少数意見を尊重するのみならず、多元的勢力の競合を糧として存立するが、その持久力は、終局的には、団体の統一保持のために必要な自己制限を絶えず行い得るか否かにかかっている。しかし、この道徳的無政府状態に対する闘いは、決して人間存在の基底である個人責任の原理を曖昧にしてはならぬ。これは譲るべからざる権利である。独裁者の、これに対する攻撃は峻拒しなければならぬ。この個人責任こそ生命の泉である。故に妥協はあり得ない。何人も、われわれから、これを取り去ることを許されない。この責任あればこそ、人間の矜持と尊厳とが維持されるのである。』(289ページ)
大学生時代に購入したものの読破できず、ついに40年越しに読み終えましたが、
「今読むべき本」
でした。
この最後の一文に「、」が多いのは(原文のまま)、一語一語、ゆっくりと、かみしめるように言って聞かせたい、力強い演説の言葉だからでしょう。
この一文は、本書の最後の連(一段落)をそのまま写しました。ここに、著者の思いが込められていると思います。
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