新・読書日記 2018_173
『自由からの逃走』(エーリッヒ・フロム著・日高六郎訳、東京創元社:1951、12、30初版・1965、12、15第27版(新版)・1981、10、12第83版)
大学時代に買って読みかけたままになっていたが、大学を卒業して35年、当時はよくわからなかったこの本のタイトル「自由からの逃走」が、実は今の日本の現状・現象を読み解く「キーワード」なのではないか?と思って、何とか通して読み終えました。
『かれは「...からの自由」の重荷にたえていくことはできない。かれらは消極的な自由から積極的な自由へと進むことができないかぎり、けっきょく自由から逃れようとするほかないのであろう。現代における逃避の主要な社会的通路はファッシスト国家におこったような指導者への隷属であり、またわれわれ民主主義国家に広くいきわたっている強制的な画一化である。』(151ページ)
個人の内部でおこっていることがらを明らかにしよう。そして孤独と無力とから逃れようとするとき、われわれは、新しい型の権威に従属したり、あるいは既成の行動様式に強制的に順応したりすることによって、われわれの個人的自我からどのようにして脱出しようとしているかを示そうと思う。』(151ページ)
『自由からの逃避の最初のメカニズムは、人間が個人的自我の独立をすてて、その個人にはかけているような力を獲得するために、かれの外がわのなにものかと、あるいはなにごとかと、自分自身を融合さようとする傾向がある。』(159ページ)
『マゾヒズム的努力のさまざまな形は、けっきょく一つのことをねらっている。個人的自己からのがれること、自分自身を失うこと。いいかえれば、自由の重荷からのがれることである。このねらいは、個人が圧倒的に強いと感じる人物や力に服従しようとするマゾヒズム的努力のうちにはっきりあらわれる。』(170ページ)
『非合理的な合理化の例は、よく知られている笑い話のうちにみられる。隣人からガラス瓶をかりたひとが、それをこわしてしまう。そして、返してほしいと請求されたとき、かれはつぎのように答える。「第一に、それはもう返したはずだ。第二に、かりた覚えはない。第三に、かりたとき、すでにこわれていた」と。』(213ページ)
「逃走は闘争を避ける」ということか。
『デモクラシーは個人の完全な発展に資する経済的政治的諸条件を創りだす組織である。ファッシズムはどのような名のもとにしろ、個人を外的な目的に従属させ、純粋な個性の発展を弱める組織である。』(300ページ)
そして私が、「現・安倍政権が『サディズム的傾向』を持っているのでは?全くこれじゃないか!」と思ったのは次の一文です。
『サディズム的傾向には、たがいにからみあってはいるが、三つの種類がある。第一には、他人を自己に依存させ、かれらに絶対的無制限的なちからをふるい、「陶工の手の中の陶土」のように、かれらを完全に道具としてしまうものである。もう一つは、他人を絶対的に支配しようとするだけではなく、かれらを搾取し、利用し、ぬすみ、はらわたをぬきとり、いわばたべられるものはすべてたべようとする衝動からなりたっている。この欲望は、物質的なものにも非物質的なものにも、たとえばひとが提供する感情的知的な性質のものにもむけることができる。サディズム的傾向の第三のものは、他人を苦しめ、または苦しむのをみようとする願望である。』(162ページ)
「人間」じゃない、「悪魔」ですね、これはもう。
『ホッブスからヒットラーにいたるまで、支配の願望を、生物的に条件づけられた適者生存のための闘争の論理的結果と説明するものにとっては、権力への渇望は、なんの説明も必要としないほどあきらかな人間性の一部であると考えられている。』(165ページ)