2018年1月17日付『日刊スポーツ』1面に、
「綱の遺伝子」
という見出しがありました。「昭和の大横綱・大鵬」の孫である、
「納谷」(本名・納谷幸之助)
の初勝利の記事です。同日付『スポーツ報知』は、
「偉大なDNAそろい踏み」
また、『産経新聞』(2018年1月25日付夕刊大阪版)は、
「『昭和の大横綱』の遺伝子を受け継ぐ大器が、貫禄の船出を果たした」
という本文。ここに出て来る、
「DNA」「遺伝子」
というのは、
「血筋」「血統」
などの「言い換え語」です。「血筋」「血統」を強調するのは「日本国憲法」第14条「法の下に平等」の、
「門地(=家柄)により差別されない」
に当たるとして、放送などでは使われません。個人の努力ではどうしようもない、過去からの伝統である「良い家柄」を認めることは「悪い家柄」も認めることにもつながり、差別につながるという考え方なのです。でもそれを「DNA」「遺伝子」と言い換えたところで、内容(考え方)は変わっていないので、根本的な解決にはならないと思うのですが・・・。当面、批判されている「言葉(用語)」を使わないことで、批判の矛先をかわしているだけのように思います。「めくら」はダメだけど「ブラインド」はOKというようなのと似ていて、「内容」も根本的には問題なのだけど、
「これまで使われてきた言葉にこびりついた差別感」
を拭うめの「呼び方の変更」も有効なのかなという気もします。難しいですね。
「DNA」は「納谷」以外にも、『週刊文春』(2018年1月25日号)は、
「貴景勝 貴乃花部屋の最強DNA」
という見出しで使われています。納谷は「大鵬の孫」ですから血がつながっていて、「遺伝子」「DNA」は引き継がれているかもしれませんが、「貴景勝」は「貴乃花」と血はつながっていないので「比喩的な使い方」ですね。
相撲以外でも『読売新聞』(2018年6月6日付朝刊)が「特集・インサイド財務省」の見出しでは、
「『最強官庁のDNA』鼓舞」
と「DNA」を使っている。これも比喩的な使い方。
他にもありますよ。2018年7月17日の『読売新聞』には、ノンフィクションライターの稲泉連さんが、
「ノンフィクション作品を掲載していた講談社の『月刊現代』が休刊して10年を迎えるが、『その後』の『月刊現代』は、ノンフィクション総合誌『G2』に姿を変え、さらにウェブメディア『現代ビジネス』になった」
と書いていて、その流れに関して稲泉さんは、
「そのDNAがいま、社内でどう受け継がれているのかが気になった」
と書いています。そこから、このコラムのタイトルは、
『「月刊現代」のDNA』
と付けられています。これも比喩的な使い方ですね。
また、『全部やれ。日本テレビのえげつない勝ち方』(戸部田誠・てれびのスキマ、文藝春秋)を読んでいたら、「DNA」がいっぱい出て来ました。
・「空振りする勇気とえげつないほどの偏狭的な執念こそが日本テレビに脈々と受け継がれるDNAなのだ。」(177ページ)
・「女性タレントもジャンケンで負けると服を脱ぐ野球拳コーナーが『低俗』の批判を受けた番組を復活させてまで、フジテレビに勝利することにえげつなくこだわった。切り札は日テレのDNAの中にあったのだ。」(236ページ)
・「古舘は番組をつくる際、『視聴者がどう感じるか、何を喜ぶか』しか考えていないという。こうした意識は、日本テレビに脈々と流れるDNAと言えるだろう。」(239ページ)
「日本テレビ」には「DNA」がいっぱいあるんでしょうね。
一方で、生物学者の福岡伸一氏は『週刊文春』(2018年5月24日号)のコラム「福岡ハカセのパンタレイ パンタグロス」で、こう書いています。
「"〇〇(企業名)のDNA"とか"自分の中のDNAに深く刻まれている"なんていい方がよくあるけれど、聞くたびにひっかかるものがある。DNA概念のひどい誤用・乱用である。DNAには、企業の理念も個人の原体験も、そんなものは全く書かれていない」
ということで、生物学の立場からこの表現に抗議していました。
この他にも、以前「DNA」を見つけていたのを思い出しました。「2018読書日記050」に書いた、
『建物と日本人 移ろいゆく物語』(共同通信社取材版、東京書籍:2012、6、26)
の中に、「ワールドオートバイサーカス」について書かれた部分に、
「しかし、藤田を子どものころから知っている坂入は絶望していない。『見世物興行のDNAを引き継ぐ彼なら、いつかまた見世物の王国を築いてくれるはず』」
という記述がありました。いろんな「DNA」があるんですねえ。
(2018、7、19)