6月30日に開かれた新聞用語懇談会で毎日放送のK委員から
「だそう」
という「伝聞表現」について、議題が出されました。
近年、放送番組のナレーションに、この「~だそう。」という伝聞表現が目立つと。
「~そう」には、「様態」を表すもの(例えば「笑いそう」「走りそう」「吐きそう」など)と、「伝聞」を表すものがありますが、「伝聞」を表現する場合は、
「~だそうです」「~だそうだ」
などあり、あるいは会話文であるなら、
「~だそうね」「~だそうよ」
という終助詞が付き、「古語風」に言うなら、
「~だそうな」
という表現もあります。
最近、NHKの一部の番組(ドキュメント『72時間』など)をはじめとして、民放の番組でも、「伝聞」の、
「~だそう。」
が目立つが、普段の会話にはありえない語法だし、「語尾を省略する伝聞表現」というものがあるのだろうか? 放送のナレーションにしかない表現ではないかと思う。
一体、どういう「意義」をもって使用しているのか?どういう「演出効果」を期待しているのか?各局の意見を聞きたいというのです。
これに対して各局の委員の意見は、
(NHK)この言葉に関しては、視聴者からも「違和感がある」という意見が来る。日常会話では、確かに使わない。ただ『三省堂国語辞典』には「ロールケーキも人気だそう」という用例(作例)が載っている。
(MBS)「容認派」はすぐに「辞書」を持ち出す。「助動詞」とか「形式名詞」とかいう文法的な話があるようだが、「一般の言葉の中での使用例」がないのではないか。ある調査によるとメディアの中でここ半年から1年の「だそうです:だそう」の使用割合は、「86:14」だそう(です)。
(MBS)使ってはいけないということではなく、あくまでバランスの問題だとは思うが。
(ytv)弊社でも、数年前に夕方のニュースの企画物のナレーション(女性ナレーター)で、この「だそう」が多用されて、ちょっと問題(話題)になったことがあった。その後、考えたのだが、女性向け雑誌のコラムなどに出て来る表現法ではないか?例えば「酒井順子さん」あたりのエッセイに。そう思って、最近の「酒井順子」のエッセイ集を読み返してみたのだが、見当たらなかった。しかし、少し昔だと「平野レミさん」あたりも、口にしていそうな感じがする。(「~のよう」「~なわけ」など。)
(日本テレビ)少し前まで販売ソフトの仕事をしていたのだが、そのソフトの中に「~だそう」という表現は多くあった。しかしうまく演出されていれば、気にならなかった。
(MBS)たしかに、うまく演出されていれば気にならないだろう。しかし、日常会話の中には出て来ない表現なので気になる。
(テレビ朝日)『あいつ今、何してる』という、芸能人の同級生を訪ねる番組で、「~だそう」がよく出て来る。番組のプロデューサーに聞いたところ、「『番組を通しての伝聞』『風の便り』のような雰囲気を出すために使っている。主人公(ナレーター?)が『12歳の女の子のタレント』なので『断定調』よりも、文末に余韻を残したほうが良いと考えた」ということだった。
(KTV)「~なんだとか」の多用も違和感がある。この表現を使っていたディレクターに聞くと「お店の人の話ではそうなのだが、自分は(その話の内容に)責任を取れないので」と話していた。責任を取り切れなくて、何となくごまかす口調なのではないか。
(NHK)NHKの番組では『72時間』『サラめし』や「街ブラ」もので、ナレーターがつぶやくような形式を取っている中で、よく出て来る表現。ハマると親しみが湧くのだが・・・。ハマらない「~だそう」についてチェックしたい。
(テレビ東京)表現がハマれば、何回も繰り返して使ってもOKだと思う。
(MBS)きょう、ご出席の委員の皆さん(約40人)は、この「~だそう」についてどういう風に思ってらっしゃるのか、全体の雰囲気を知りたいので、挙手をお願いします。
【違和感がある】16人
【使ったことがある】0人
【20年前に聞いたことがある】0人
【使いたい】0人
(日本テレビ)ここの委員はベテランが多いので、聞いてもあまり意味がないのでは?若い人、新人アナに聞いてみてはどうか。
(共同通信)「そうだ」について少し調べてきた。文法的に正しいとする根拠は、小学館の『現代国語例解辞典』の巻末にある「助詞・助動詞解説」によると、「様態の助動詞・そうだ」は、代表的な用例として夏目漱石の『坊っちゃん』から「山嵐は強そうだが知恵はあまりなさそうだ」などが載っていて、その中に「『もう泣き出しそう』『わりと難しそうね』『そろそろ出来そうよ』のように、語幹、またはそれに『ね』『よ』が付いた形で、主に女性の言葉として用いられる」とあった。また、「伝聞の助動詞・そうだ」では、代表的な用例で川端康成の『伊豆の踊子』から「全国から中風の療法を聞き、売薬を求めたのだそうだ」が載っており、また「『男の子がうまれたそうね』『ご主人にそっくりだそうよ』のように、語幹に助詞『ね」『よ』を付けて主に女性の言葉として用いられることもある」とあった。
というような意見が交わされました。
その後、たまたま別の会合で会った『三省堂国語辞典』編纂者の飯間浩明さんに聞いてみたところ、
「その用法は『あり』です」
と断言されました。同じ会合で会った作家の中川右介さんも、
「時代小説(「捕り物帳」など)で、見かけたことがある気がする」
と話してらっしゃいました。
私も、いろいろ考えてみたのですが、たとえば、
「夢のよう。」
という言い方がありますが、これを「だ」を付けて、
「夢のようだ。」
と言い切り「断定」すると、ちょっときつい言い方で「男性的」。それに対して、
「夢のよう。」
は「女性的」で、「柔らかい表現」です。「体言止め」のほうが「柔かい」とは決まっていませんが、たとえば
「思ったのだ。」
という「断定」は「男性的」。これに対して、
「思ったわけ。」
とすると、「女性的」で「柔かい感じ」になりますね。
さらに、こんなことも思いつきました。
「『~だそう。』は『丸文字』の系譜なのではないか?」
と。「丸文字」は「書く」行為でしたが、「~だそう。」は「しゃべる形」での
「『カワイイ』の系譜」
なのではないか?と。
そして、きのう(7月19日)の読売テレビの夕方の関西ローカル番組『かんさい情報ネットten.』の「街角トレジャー」という人気名物コーナー(漫才師「ますだおかだ」の「ますだ」さんが"街ブラ"をするコーナー)で東大阪の布施を「街ブラ」した際のナレーションで、森若佐紀子アナウンサーが、
「急遽、お店を経営することになったんだそう」
というように「だそう。」を使った原稿を読んでいるのを耳にしました。
これこれ!これ、結構、耳にするんだ、「ten.」で!このコーナーだったかあ。
さらに、きょう(7月20日)発売の『週刊文春』7月27日号の、酒井順子さんのコラム『私の読書日記』に出て来る文末の表現を、
-
普通の「だ。」「である。」のような表現で締めくくっている
-
「体言止め」的用法
に分けて数えてみました。その結果は、
(1)=27か所(48、2%)
(2)=29か所(51、8%)
と、「ほぼ半々」で、しかも「体言止め的用法」の割合が非常に高いことがわかりました。やはり、このあたりの表現の流れの中に「~だそう。」もあるのではないかと感じました。
以下、酒井さんのコラムの「具体的な文末表現」を記しておきます。
(1)「目を細めたくなる。」「教えてくれた。」「読んでみる。」「記してあったのだろう。」「ゼロなのだった。」「軽いものではない。」「"出稼ぎ生活"に励むのだ。」「自らの世代の不安感、と記していた。」「くすぶっている。」「お年頃なのですねぇ。」「ビジネス書である。」「ロールモデルを求めるな。」「自分で決めよう。」「大黒柱である。」「重荷感は薄い。」「可能性を広げようとする。」「あり方の多様さだった。」「改めて気づかされる。」「お金を稼いでいる。」「摘んでいく。」「命は短い。」「息子の嫁・千萬子の登場で、崩れる。」「文豪のミューズとなっていく......。」「絡みついていく。」「女達の方なのか。」「谷崎の方なのか......。」「壮大な実験である。」
(2)「切羽詰まった顔で立ち読みを。」「ビジネス書なのかも。」「娘世代へのメッセージ。」「一人で立てるようにしておこう、というメッセージ。」「躊躇せずに『逃げろ』とも。」「一人ですっくと立っている絵。」「『るるらいらい 日豪往復 出稼ぎ日記』。」「という著書。」
「人生は思わぬ方向へ。」「ローリングストーンな人生。」「客観性と動体視力が感じられる一冊。」「著者は、四十代。」「中年女性の不安について。」「どうする四十女......。」「誰も進むべき道を教えてくれないのが中年。」「『どう生きてもいい』ということ。」「ちなみに私はこう決めてきた、と。」「その姿勢は革命的。」「『母親』から『母』の字を外してしまおうというのだから。」「町の本屋さんの書店員。」「『とにかく人が良く、おおらか』な人。」「と思う著者。」「必ずしもそれが『女性向けエッセイ』ではないことにも、また。」「従来型とは異なる家族形成も可能。」「『デンジャラス』。」「大黒柱とは、谷崎潤一郎。」「切り花のような女性。」「『細雪』のモデルと言われる姉妹。」「千萬子は現代娘。」
(2017、7、20)