Top

『道浦TIME』

新・ことば事情

6286「慣熟飛行」

3月39日のNHKお昼のニュースを見ていたら、

「カンジュク飛行」

という言葉が飛び込んできました。2秒ぐらい考えて、この「カンジュク」が

「慣熟」

であることに気付きました。

何でも「慣熟飛行である」と届け出をしていたのに、実際はお客さんからお金を取る、

「チャーター飛行」

であったと。

しかし「カンジュク」と聞いて私たちがすぐ思い浮かべる言葉は、

「完熟トマト」

「完熟」ですよねえ。

グーグル検索では(3月29日)、

「完熟   」=1510万0000件

「完熟トマト」=  41万5000件

「完熟バナナ」=  35万2000件

「慣熟」   =  11万7000件

「慣熟飛行」 =   1万2300件

でした。「慣熟飛行」で一番に出て来た「コトバンク」の解説によると(知恵蔵miniより)、

*「慣熟飛行」=飛行機やヘリコプターなどにおいて、操縦者が技能を維持したり、未経験の航路に慣れたりするために行われる飛行。航空法で定められた用語ではなく、慣習的に用いられている。パイロット資格の取得を目指す者が操縦を見学するために同乗するケースもあり、景色などを見せる遊覧飛行との線引きはあいまいであるとされる。(2015-7-30)

とありました。

「デジタル大字泉」の「慣熟」の用例に「慣熟飛行」というのが載っていました。

また、「明鏡国語辞典」の「慣熟」の作例は、

「ジャンボ機の操縦に慣熟したパイロット」

というものでした。

(2017、3、29)

2017年3月30日 15:46 | コメント (0)

新・ことば事情

6285「闇の中?薮の中?」

3月28日の「ミヤネ屋」で、マレーシアの金正男(キム・ジョンナム)氏殺害事件を取り上げた中で、スタジオで、解説の野村明大デスクと宮根誠司さんが、

「このまま事件の真相は『闇の中』になってしまうのか?」

というようなコメントをしました。この、

「闇の中」

という言葉を聞いて私は、

「あれ?それって『薮の中』ではないかな?」

と思いました。もしくは、

「真相は闇に消える」

かな。国語辞典では「薮の中」は載っていても「闇の中」は載っていません。

「薮の中」は、おそらく芥川龍之介の作品『薮の中』から生まれた言葉でしょう。

一方の「闇」は、

「闇にまぎれて」「心の闇」「一寸先は闇」

等の表現はありますが、「闇の中」はありません。しかし、意味はよくわかります。

最近は「薮」というものがイメージされにくくなっていることと、野村デスクによると、

「『薮』だと小さい感じがします。『闇』のほうが、もっと訳のわからない深さを感じます」

とのことでした。

*「藪の中」=45万8000件(「藪」)

*「薮の中」= 9万1300件(「薮」)

*「闇の中」=44万7000件

おお、「藪の中」(旧字体の「藪」)と「闇の中」は拮抗、ほぼ同数ですね!

「闇の中」というタイトルの映画もあるようです。

次回の用語懇談会放送分科会(4月)で、「闇と薮」をテーマに、各社の意見を聞いてみたいと思います。

なお、今、書きかけの原稿を見ていたら、「2016年(去年)2月11日」に、こんな書きかけの文章が。

*********************************

「ミヤネ屋」のテロップチェックをしていたら、

「真相は闇の中」

という表現が出て来て、「ちょっと待てよ」と。「真相は・・・」と来たら、

「薮の中」

なのではないか?芥川龍之介の、『古今集』か何かから題材を取った作品も『薮の中』だったではないか

真相は「藪の中」でしょうか?それとも、真相は「闇の中」なのでしょうか?

*********************************去年から気になっていたのですね。ほったらかしだ。

(2017、3、29)

2017年3月30日 10:44 | コメント (0)

新・ことば事情

6284「『そう』と『うそぉ』」

小学6年の娘に何か聞かれて

「そう」

と答えたところ、

「え?ほんまやろ。ウソやないやろ」

と言われました。

「だから『そう』って言ってるやん」

と答えると、

「なーんや、『うそぉ』って言ったかと思った」

と笑っていました。

確かに、最初の「う」をしっかりと発音しなければ、

「そう」と「ぅそ

は似ています。「コテコテの大阪弁」だと、

「語尾の母音を1拍伸ばす傾向がある」

ので、「最近の大阪弁アクセント」での、

「ウ/ソ」

の語尾の母音が伸びて、

「ウ/ソ\オ」

となる。そして、その「ウ」が聞こえにくいと、

「ソ\オ」

となり、標準語の「Yes」の意味の、

「ソ\ウ」

と同じに聞こえます。

うちの娘(の耳)は「大阪人」なんやなと思いました。

(2017、3、28)

2017年3月29日 20:39 | コメント (0)

新・ことば事情 (2017、3、27)

6283「春場所か?大阪場所か?」

新横綱・稀勢の里が、ケガを押して見事、2場所連続となる逆転優勝を飾った三月場所。

その「三月場所」ですが、他にも呼び名として、

「春場所」「大阪場所」

があります。日本相撲協会のHPでは、

「一月場所」「三月場所」「五月場所」「七月場所」「九月場所」「十一月場所」

と、「開催月」の名前が先に出て表現しています。ただし、「三月場所」だけは、

「三月場所―大阪場所」

となっていて、左側にあるタグでは「開催地」を見出しにして、

「東京場所」「大阪場所」「名古屋場所」「福岡場所」

となっています。

「1・5・9月」は東京の両国国技館で開催されますが、3月は大阪、7月は名古屋、そして11月は福岡で開催されるので、一般的には、3・7・11月は、それぞれ「開催場所の地名」を前に付けて、

「大阪場所」「名古屋場所」「九州場所」

と言います。特に「名古屋場所」と「九州場所」は、その呼び名が定着しています。(相撲協会のHPは「福岡場所」としていますが、NHKの放送などでは「九州場所」です。)

ところが、「3月」に関しては、冒頭に書いたよう様に、

「大阪場所」「春場所」

両方の言い方が使われています。

3月27日のNHKお昼のニュースでは、アナウンサーは、

「春場所」

と言っていましたが、インタビューに答えた稀勢の里関は、

「大阪場所」

と言っていました。グーグル検索では(3月27日)、

「大阪場所」=27万0000件

「春場所」 =60万5000件

「三月場所」=39万7000件

「春場所」が一番多かったです。

どちらでも、もちろん良いと思うのですが、「ミヤネ屋」で放送する際には、1つの番組で両方出て来るとややこしいので、

「春場所」

に統一しました。

2017年3月29日 16:38 | コメント (0)

新・ことば事情

6282「日胆」

2月に北海道に行ってきました。洞爺湖です。約3年ぶり。

帰りの洞爺湖駅に張られたポスターに目が留まりました。

大きく赤い文字で「18」と書かれた下に、

nittan

というアルファベットと共に、

「日胆」

の文字が。一体何のポスターなのか?徒思って説明をよく読むと、

20170329.jpg

「胆振(いぶり)」「日高」

地区のことを、まとめて、

「日胆(にったん)」

と呼び、「18」の市町があるそうです。その「観光振興」のためのポスターで、もっと言うと、

「北海道新幹線を日胆地区まで延伸させてもらうためにタッグを組んだ」

ということのようなのですね。関西にいると全く情報が入って来ませんが、地元での北海道新幹線への期待は非常に大きいのだなと感じました。

このポスター、大胆な赤い「18」という数字が、

「野球のエースナンバーみたい」

でカッコ良かったです。

その後、JR北海道の「赤字路線廃止問題」に関してのドキュメンタリーを見て、北海道新幹線よりも、生活の足である在来線を保守し廃線にしないということが大事だと感じると同時に、実は鉄道を「生活の足」としている人が少なく、ほとんどは「車」での移動になっている現状、だからこそ「利用者減」で廃線を検討せざるを得なくなっているのだなと思い、この問題の難しさを感じました。

(2017、2、27)

2017年3月29日 15:07 | コメント (0)

新・ことば事情

6281「マック史上最高の」

先日、ハンバーガーのコマーシャルを見ていて、こんな言葉に耳が止まりました。

「マック史上最高の」

この、

「○○史上最高」

というのは、これまでも、

「自分史上最高」

のように「○○」に、何か「限定要因」が入ります。

何にも「○○」がなければ、

「史上最高」

なのですが、「史上最高」かどうかは、わからない。あるいは「史上最高」ではない。しかし「最高」だと言いたい。そういう場合に「○○」に「限定要因」を入れて、

「○○の歴史の上に限って言うと、最高」

という文脈にするのではないか。ちょっとスケールは小さくなるのですが、「間違い」ではない、「ウソ」ではないという状況が整います。つまり、「最高」を謳いたいのだが、「ウソ」は付けないので、「ウソではない」範囲での「最高」を求めると、この

「○○史上最高」

という表現になるのかなあと思いました。

(2017、3、15)

2017年3月23日 11:35 | コメント (0)

新・ことば事情

6280「『モーター』のアクセント」

3月14日の日本テレビ『ZIP!!』で、モーターの製造会社が開発した、スマホでペットボトルのフタを開けられるという機械を紹介していました。

その際に、司会の川島海荷さんが、「モーター」を、

「モ/ーター」

「平板アクセント」で話していました。

普通は、

「モ\ーター」

「頭高アクセント」でしょう。『NHK日本語発音アクセント新辞典』にも、「頭高アクセント」しか載っていませんでした。

しかしこういった外来語の場合は、その言葉をよく使う人たちの間では「平板化」する、いわゆる、

「専門家アクセント」

というものがあります。

「ドラム」「ギター」「バイク」「ディレクター」「ドラマ」

など、本来は「頭高アクセント」のものが「平板アクセント」になるものです。

もしかしたら、それかな?

いや、それとも「複合語」のアクセントが、「単独語」に戻った場合に残っていることも考えられます。今回だと、

「モ/ータースポ\ーツ」

のようなアクセントの「複合語」から、後ろの部分の「スポーツ」を取っても、上がったままのアクセントが戻らずに、

「モ/ーター」

だというケース。もしかしたら、それなのかもしれません。

または、「外来語」はとりあえず全部「平板アクセント」で発音する傾向が、若い人の中にはあるのかも、しれませんね。あるいは、その全てかも。

(2017、3、15)

2017年3月16日 11:35 | コメント (0)

新・ことば事情

6279「決勝進出でも王手?」

WBCが盛り上がっています。3月15日の「ミヤネ屋」でも少しご紹介しました。きょうのイスラエル戦に勝てば、全勝で文句なく、

「決勝ラウンド進出」

という状況。そこでテロップには、

「決勝ラウンドに王手」

と出ていました。これをチェックしていて、「ちょっと待てよ」と。

以前(2015年10月)、関西地区の新聞用語懇談会で、同じような問題について話し合ったことがあったからです。その時は、こんな議論が行われました。

決勝進出でも『王手』?

野球U-18で、日本はカナダに快勝。「韓国戦に勝てば、決勝進出」で、「日本 決勝に王手 カナダ下す」、「日本、決勝へ王手 カナダ破る」の見出しがつきました。「王手」の辞書的な意味が、「もう一歩で物事が成就する段階のたとえ」であるとすると、この場合の使い方は? 翌日の紙面では、「日本バスケ 五輪に王手」を見出しに取ったところがありました。「勝てば3大会ぶりの五輪出場が決まる」試合ならば、「王手」でも許容でしょうか?

(朝日新聞)許容。

(共同通信)部内では賛否は「3:3」。スポーツ面は「勢い」があればいいのではないか?個人的には広げたくない。

(日刊スポーツ)個人的には「優勝にあと1勝」とする。「五輪に王手」という紙面は作ったことがある。

(ABC)部内では両方の意見があった。実況アナは「違和感がある」と。「王手」「逆王手」は、なるべく使わないようにしている。

(ytv)「決勝進出」が目標であるならば、「王手」も可。「勝てば3大会ぶりの五輪出場が決まる」試合ならば、「王手」でも許容。ところで、似たような「疑似表現」で、ラグビー日本代表が1次リーグで3勝を上げたものの決勝トーナメントに進出できずに帰国した様子を「凱旋(がいせん)」と表現したが、これは「許容」だろうか?

(産経新聞)スポーツ面では「凱旋」は使う。また音楽コンクールなどで、「優勝(1位)」でなく、2位、3位入賞でも使うことがある。本来の意味の「注意喚起」はするが。

(毎日新聞)勝ち負けに関係なく使っている。華やかでいいのでは?

(読売新聞)「見出し」ではOKでは?

(神戸新聞)「デイリースポーツ」に10年間出向していたこともあるが、スポーツ紙は基準が緩め。「見出し」は雰囲気が出るのであれば、それで誤解を生まないのであれば使う。本文には使わない。

(KTV)「凱旋公演」など、海外公演帰りのタレント・ミュージシャンに使うこともある。「王手」は安売りしたくない。

(MBS)「逆王手」を「日刊スポーツ」で最近見たが?

(毎日新聞)「逆王手」は、「王手」が解けなければダメ。「3勝すれば優勝」のケースで「1勝2敗」から「2勝2敗」に並んでも、相手の「王手」は解けていないので、「逆王手」は使わない。

(読売新聞)「巨人が逆王手」は使ったことがある。最近は、もし出て来たら「直す」(「逆王手」は使わない)方向にある。

(日刊スポーツ)「矢野で逆王手」「ハム逆王手」も、もうとがめられない。バンバン出て来る。議論になったことすらない。

(MBS)「逆王手」の誤用は、日本棋院からクレームがくるので、絶対使わない。

(中国新聞)広島カープが、あと1勝でCS(クライマックス・シリーズ)に行けるというときに「CSへ王手」と「王手」を使ったが、ファン心理としてはピッタリくる表現だった。

話が「逆王手」「や「凱旋」にまで広がりましたが、「使ってもOK」とする社が、結構多かったような気がしました。

今回、「ミヤネ屋」でも、そのまま通して、放送に出ました。

なお、このイスラエル戦を中継していたテレビ朝日の、画面右上のサイドスーパーは、

「侍ジャパン勝てば準決勝進出」

でした。(その下の1行のスーパーは「イスラエルと運命の大一番」。)


(2017、3、15)

2017年3月15日 22:53 | コメント (0)

新・ことば事情

6278「立ち居振る舞いのリズム」

私は、

「立ち居振る舞い」

という言葉の方が好きなのですが、「居」が抜けた、

「立ち振る舞い」

という言葉も結構古くからあると、『悩ましい国語辞典』(神永暁、時事通信社)の著者「神永暁さん」が書かれているということを、「平成ことば事情6000 立ち振る舞い」(2016年2月)に書きました。

しかし、それでもなぜ、私が「立ち振る舞い」は合わない感じがするのか?ある日突然、

「リズムに問題があるのではないか?」

と思いつきました。「思いつき」です。すなわち、

*「立ち居振る舞い」=タタタ・タタタタ

*「立ち振る舞い」 =タタ・タタタタ

なんですね。「立ち居振る舞い」は「タタタ」の前に「休符」があって、それを「ウ」で書くと、

「ウ・タタタ・タタタタ」

なんです。つまり、

「裏拍のリズム」

なのです。そしてそれは、

「4拍+4拍=8拍」

で、「七五調」に通じる、

「4拍子」

なのです。それに対して「立ち振る舞い」は、

「タタ」

で始まるので、

「頭拍」=「強拍」

ですね。ちょっとベタベタした感じがする。こちらは、

「2拍子」

なのです。

その感覚かな、もしかしたら?と感じたのでした。

そして「平成ことば事情6000」の最後に、

「うーん、こうなると、両方認めるしかないのかなあ。また、次の用語懇談会で聞いてみるかな。」

と書いたのですが、実際に、去年5月に仙台で開かれた「新聞用語懇談会総会」で聞いてみました。

(Q)『最近、原稿やテロップで「立ち振る舞い」という言葉をよく目にするので、そのたびに「立ち"居"振る舞い」と直していたのですが、どうやら「立ち振る舞い」という言葉も、昔からあるようなのです。各社では、両方認めていますか?それとも「立ち"居"振る舞い」だけを認めているのでしょうか?』

【毎日新聞】どちらも使っている社が多いのではないか?弊社は、規定はないがデータベースを調べたら「立ち居振る舞い:立ち振る舞い=10:1」で「立ち居振る舞い」のほうが圧倒的だった。書き手の意識としては「立ち」に対して「居」が「座る」なので、落ち着きが良いのかもしれない。しかし「立ち振る舞い」で原稿が書いて来たら、辞書にも載っている形なので、直しにくい。

【東京新聞】「立ち居」のほうが落ち着く。実際「立ち居」のほうが多い。「立ち振る舞い」が出て来たら「どちらのほうが普通か?」と問いかけて、できるだけ直してもらうようにしている。

【新聞協会・専門委員】「立ち振る舞い」は「立ち居振る舞い」の「略語」ではないのか?「立ち振る舞う」から「立ち振る舞い」に変化して来たのではないか?また「立ち振(ぶ)る舞い」との混同ではないか。

【読売新聞】「立ち居る」から来ているので、「立ち居振る舞い」が元々の形だろう。省略形の「立ち振る舞い」が、ある程度定着してきているのではないか。

という回答でした。

(2017、3、15)

2017年3月15日 20:52 | コメント (0)

新・読書日記 2017_035

『拍手のルール~秘伝 クラシック鑑賞術』(茂木大輔、中公文庫:2011、9、25)

N響のオーボエ奏者で、指揮者もするしエッセイストとしても名高い「もぎぎ」こと茂木大輔さんのエッセイ。あの「のだめカンタービレ」の音楽監修も務めたのだそうです。「のだめ」も面白かったけど、この本も面白いですねー、「ふざけてんのか!」と思うぐらい、自由奔放に書き書きまくっています!

この本、本屋さんで見つけたのではなく、日頃、まず行かない大阪の「ミナミ」で、フラフラっと入った大きな楽器店で購入。楽器屋さんで音楽の本を3冊買いました。

タイトルが良いよね。クラッシックのコンサートへ行って、よく知らない曲とかだと、どこで拍手していいのか、ドキドキしますからね。「ルールがあるんなら、教えてよ!」と、たしかに思うけど、誰も教えてくれないから、周りの人に恐る恐る合わせるしかないし。

で、その「拍手」に関しては、実は「第3章」だけで、全体の5分の1ぐらいしか書かれていないんだけど、それでも勉強になる本でした。特に、ふだん全く意識しなかった「調性」について、ベートーベンの9つの交響曲の調性は、

1=ハ長調

2=ニ長調

3=変ホ長調(「変」はフラットの意味。「嬰」はシャープ)

4=変ロ長調

5=ハ短調

6=ヘ長調

7=イ長調

8=ヘ長調

9=ニ短調

なんですって。へぇー。勉強になりました!


star4

(2017、3、13読了)

2017年3月15日 18:25 | コメント (0)

新・読書日記 2017_034

『退職金バカ~50歳から資産を殖やす人、沈む人』(鈴木哲、講談社α新書:2016、9、20)

先日、「退職金の運用」に関する説明会があった。これまではそういうのは「他人任せ」にしていたのに、これからは「自分で」選択しなければならない。2時間にも亘る説明会で分かったのは、

「これから何十年も働くい若い人は、分散投資して少しでも稼げることを考えたほうがいいい(万が一失敗しても取り戻せる時間が残っているから)が、あと4年で一応の定年を迎える私たちは、冒険はしない方が良い」

ということでした。それなら選択肢は少なくて、あまり考えなくていいんだよね。

でも一応勉強しようと、きかっけとしてこの本を購入したのだ。

読んでみての感想は、勉強会の感想と同じでした。


star3

2017年3月14日 18:10 | コメント (0)

新・ことば事情

6277「『私学審議会』と『私学助成金』のアクセント」

後輩のYアナウンサーが質問して来ました。

「『私学審議会』はコンパウンドして『シ/ガクシンギ\カイ』でしょうか?それとも2語に区切って『シ\ガク・シ/ンギ\カイ』でしょうか?」

「うーん、よく使う人たちはコンパウンドするし、あまり使わない人は区切るよね。今はもう『固有名詞』のように1語でコンパウンドして『シ/ガクシンギ\カイ』でいいんじゃないかなあ」

と答えました。するとY君、

「では、『私学助成金』はどうでしょうか?」

「うーん、『語構成』はおんなじだけど、これは『助成金』を際立てるために『シ\ガク・ジョ/セーキン』かなあ」

と答えました。

それから1時間後。今度は「ミヤネ屋」ナレーターのFさんが質問して来ました。

「『私学審議会』のアクセントはコンパウンドして『シ/ガクシンギ\カイ』でしょうか?それとも2語に区切って『シ\ガク・シ/ンギ\カイ』でしょうか?」

「・・・さっきYアナウンサーが、全くおんなじ質問をしてきたので、『よく使う人たちはコンパウンドするし、あまり使わない人は区切る。今はもう『固有名詞』のように1語でコンパウンドして『シ/ガクシンギ\カイ』でいいんじゃないかなあ』と、答えたんです。」

と言うと、

「分かりました!」

ということで、コンパウンドして読んでいたようです。

これ、結構悩んでいるアナウンサー・ナレーターさん、多いのかもしれないなあ。

(2017、3、13)

2017年3月15日 11:46 | コメント (0)

新・ことば事情

6276「『那須』のアクセント」

3月13日、生後9か月の二女を床に落として殺害したとして大阪市内に住む母親

「那須ひろみ容疑者」

が逮捕されたというニュースがありました。この名字の「那須」のアクセントについて、Yアナアナウンサーが質問して来ました。

「『ナ\ス』でしょうか?それとも『ナ/ス』でしょうか?」

そりゃあ、普通は「平板アクセント」で、

「ナ/ス」

でしょうと答えたのですが、他局(朝日放送)では、

「ナ\ス」

「頭高アクセント」で読んでいたそうです。それって「関西アクセント」っぽい感じが。ステンレス流し台の

「ナ\ス」

「頭高アクセント」だったと思うし、

「野菜の茄子(なす)」

「頭高アクセント」の「ナ\ス」ですね。

しかしまあ、名字の「ナ\ス」とも言うような気がして、それ以外の「2文字」の、

「○す」

という「名字」と思われる言葉のアクセントについて、「五十音順」に「私の感覚で」で考えていきました。すると、

【頭高アクセント】【平板アクセント】 【両方可】

うす      あす のす   かす めす

くす      いす はす   たす もす

さす      おす ひす   なす やす

つす      きす へす   にす よす

ふす      すす ます   ぬす らす

ゆす      せす みす   ねす りす

            ちす れす   ほす るす

            てす わす   むす ろす

            とす       

こうやって見ると、「ウ段」の音(う・く・す・つ・ぬ・ふ・む・ゆ・る)は、次が同じ「ウ段」の「す」なので、「平板アクセント」だと区別がつきにくいからか「頭高アクセント」になりやすいのではないかなあという気がしました。「ウ段」全てがそうだというわけではありませんが。

また「やす」の場合、

「安めぐみ」

さんの場合は、

「ヤ\ス」

「頭高アクセント」ですが、これが、

「野洲」

さんの場合は、「平板アクセント」で、

「ヤ/ス」

になるので、「音の問題」だけではなく、その語の構成が「1文字」か「2文字」かでも、アクセントは変わって来るなあと感じました。いやあ、アクセントは本当に難しい!

(2017、3、13)

2017年3月14日 23:44 | コメント (0)

新・ことば事情

6275「洗口液」

マツコ・デラックスが出ている「ピュオーラ」のコマーシャルを見ていたら、

「洗口液(せんこうえき)」

という言葉が出て来ました。文字も出ていて、「読み」もマツコさんが、

「せんこうえき」

と言っていました。

初めて耳にする、目にする言葉ですが、定着しているのでしょうか?音だけ聞くと、

「線香液」

のようで、

「液体のお線香ができたのか?香りが、お線香みたいなのか?」

と、一瞬思いましたが。

グーグル検索では(3月13日)、

「洗口液」=94万件

も出て来ました!また、「液」ではなく「剤」だと、

「洗口剤」=14万6000件

でした。

新しい言葉をいち早く取り入れることで知られる『三省堂国語辞典・第7版』にも、まだ

「洗口(液・剤)」

は載っていませんでした。

『広辞苑』『精選版日本国語大辞典』『明鏡国語辞典』『新明解国語辞典』『現代国語例解辞典』にも載っていませんでした。

新しい言葉のようですが、ネット上では(というか業界では?)結構、使われている言葉のようですね。

(2017、3、13)

2017年3月14日 21:42 | コメント (0)

新・ことば事情

6274「最南端か最南か?」

「す・またん」で校閲を担当しているS君という人から、質問のメールが来ました。

「きょう(3月3日)のオンエアで、日本最南端のスキー場『五ヶ瀬スキー場』(宮崎県)が存続の危機にあるというトピックを取り上げたのですが、その中の、

『日本最南端』

という表現が引っかかりました。そのスキー場のHPを確認すると、

『日本でいちばん南にあるスキー場』

と書かれていました。日本で一番南にあるなら、

『日本最南のスキー場』

だろうと、チェックを入れました。『最南端』では、なんだか『岬の先端』にあるような気がしたからです。そのスキー場は宮崎県と熊本県の県境近く、九州の『ど真ん中』に位置しています。これで『最南端』は、何だかなあ・・・と感じたのです。

ところが、担当ディレクターがやってきて日経新聞の記事を示し『最南端』になっている旨説明され、結局オンエアは『最南端』でいきました。

ネットで調べてみると、今までもずいぶん『最南端』で紹介されていました。ただスキー場自体のHPには『最南端』の文字はありません。この場合、『最南端』で良かったのかどうか、道浦さんのご意見をお聞かせくだされば幸いです。」

おお、すごいなあ。こういう細かい所でも、ちゃんと気にしてこだわって、ニュースに取り組んでくれると、私としては、とてもうれしくなります。

そこですぐに、下記のような返事のメールを送りました。

「ミヤネ屋の道浦です。そのニュースはチラッと新聞かネットで見かけましたが、細かく読んでいませんでした。

『なるほど、言われればその通り。気になるな』

と思い、感心しました。ご質問の趣旨は、この九州・宮崎のスキー場に対しての表現で、

『最南端』ではなく『最南』ではないのか?

ということですね。あまり気にしていませんでした。結論から言うと、

『どちらでも良い』

かなあと思います。日本列島の地形から言うと『最も』が付く際に注目されるのは、

『北と南』

で、『西と東』は『どこが最も西(東)か?』は、あまり注目されません。気候との関連が影響しているのでしょう。『北』と『南』では気温が違いますが、『西』と『東』では、それほど気温は変わりませんからね。

ですから、『最北(端)』『最南(端)』は耳にも目にもしますが、『最西(端)』『最東(端)』は、あまり耳にも目にもしません。(あるのは知っています。それについては、以前調べて書いたこともあります)

さて、そこで、『最南端』か?『最南』か?ですが、まず『最南端』の語構成を見ると、

『最(も)・南(の)・端」

という3つの語から構成されています。

このうちの『2つ』がくっつくと、

『最南』と『南端』

の2つの語を作ることが可能です。そこで『最も南のスキー場』は、

『最南のスキー場』か?『南端のスキー場』か?

と言えば、もちろん『最南のスキー場』です。ニュース性は、

『最も=一番』

であることを求めるからです。

ここに『語呂の関係』か、あるいは『強調』の意味で『端』が付いて、

『最南端のスキー場』

となるのは『許容範囲』だと思います。『端』『地形における一番端』ではなく、

『スキーが可能なエリアの一番端』

だと考えられるからです。例えば九州ではなくて、四国や山口県、島根県あたりにあるスキー場も(あるかどうか知りませんが)、信州や東北・北海道に比べると『南のスキー場』ですが、その意味で『九州・宮崎』は『南端』と考えられるのではないでしょうか?

そういったところで言うと『最南端』もOKだと思います。」

なお、グーグル検索では(3月3日)、

「最南のスキー場」 =1万8700件

「最南端のスキー場」=3万9100件

「最南」 =47万0000件

「最南端」=46万1000件

でした。

納得してくれたようです。

(2017、3、3)

2017年3月14日 15:40 | コメント (0)

新・ことば事情

6273「『せわしい』と『せわしない』」

「せわしい」「せわしない」は共に、

「忙しい」

という同じ意味ですよね。「せわしない」の「ない」は「否定のない」では「ない」のですよね。『広辞苑』には「せわしない」の「ない」は、

「甚だしいの意」

とあります。「きたない」の「ない」が「否定のない」では「ない」という意味では同じですね。

とは言うものの、「異なる単語・言葉」ですから、「意味の違い・使われ方の違い」があるだろうなと思っていたのですが、先日ひらめきました。

*「せわしい」=当事者として忙しい

*「せわしない」=端(はた)から見て(客観的に)せわしい感じがする

ということではないでしょうか?

どうかな?

(2017、3、13)

2017年3月14日 12:39 | コメント (0)

新・ことば事情

6272「『とき』と『時』」

テロップ作成のオペレーターさんから質問を受けました。

「平仮名で書く『とき』と、漢字で書く『時』の使い分けの基準は何でしょうか?」

たしかに、これは難しいんです。

「~したとき」

というように、英語で言うと「when」に当たる場合は、平仮名で「とき」

「時は金なり」

の様に英語で言うと「time」に当たる場合は、漢字で「時」なんです。

*平仮名の「とき」=形式名詞。主として動作・状態を表す修飾語に続き『場合・時点』などを示す。

*漢字の「時」=名詞。主として時間・時刻・時期そのものを示す。

と『新聞用語集2017年版』の300ページに記されています。

一般的には、ここまで厳密に区別していませんから、自由に漢字の「時」を使っていると思いますが、新聞・放送のニュースでは「原則、そうしましょうね」ということです。

ちなみに、

「こと・事」

も同じような区別がされています。

ま、一般の方が自分の文章で書く場合は、この限りではないんですけどね。面倒です。

(2017、3、13)

2017年3月13日 16:49 | コメント (0)

新・ことば事情

6271「号泣」

「号泣」

というのは、本来、

「声を上げて泣くこと」

ですが、最近は、声を上げていないのに涙がボロボロ出ていたら「号泣」を使う傾向があります。

お笑いコンビ「NON STYLE」の井上裕介が、去年12月に「道交法違反」(ひき逃げ)と「過失致傷」の罪を犯して書類送検され、3月7日に謝罪会見を行いました。

50分間ずっと涙を流してはいましたが、

「声を上げて泣く」(元兵庫県議のように)

シーンはありませんでした。しかし、3月8日のスポーツ紙各紙の表現は、

<見出し>     <リード・本文>

(サンスポ)号泣謝罪      涙を流して謝罪した。

(報知)  号泣謝罪      涙があふれた:号泣

(スポニチ)泣きっぱなし50分 50分間泣きっぱなしだった:目を潤ませた

(デイリー)号泣謝罪      終始涙を流しながらの号泣謝罪になった

:大粒の涙を浮かべて:再び瞳をぬらした

(ニッカン)頭下げ1分涙50分 1分間頭を下げ涙を流した:涙を流した

というように各紙「号泣」を使っており、一番、事実に忠実な表現だったのは、「スポニチ」と「ニッカン」でした。

「ミヤネ屋」でも「号泣」で発注が出ていて、放送直前に気付いたのですが、既に焼き込んでしまったものでは直せずに、

「号泣」

で放送に出ました。しかしそれ以外は、

「大泣き会見」「涙の会見」

に直しました。

新聞用語懇談会の放送分科会では、過去に2度ほど「号泣」について話し合われたことがあります。

*【2008年12月】

「号泣」は「声を出して泣く」ことだが、少し涙を見せただけで「号泣」という表現を使っていることがある。

*【2009年2月】

「号泣する」→「大声を出して泣く」の意味だが、「声を立てずに泣いている場面」でも、間違って使っているケースがある。=「大げさな表現」

これを踏まえて『放送で気になる言葉2011』の11ページにも載せました。

*「号泣する」

最近では「声を立てずに多くの涙を流す」ことに使われる例も見受けられるが、もともと「号」には「大きな声で泣く・叫ぶ・呼ぶ」の意があり、そこから「怒号」「号令」等の語につながる。また語源によれば、「号」は「涙を流さずに大声を上げて泣くこと」。逆に「泣」は「声を上げずに涙を流して泣くこと」の解釈がある。(角川大字源)。ちなみに「大声をあげてなく」のは「哭」(漢字源)だが、日本語ではふつう「泣」と「哭」の区別をしない。いずれにせよ「号泣」は「大声を上げて泣く」ことであって、「声を立てずに」泣くことに用いるのは明らかな誤用であり、オーバーな表現だと言える。

とあります。

なお、新しい言葉や解釈をいち早く載せることで知られる、

『三省堂国語辞典・第七版』

では、どちらの意味も載っています。

*「号泣」

(1)大声で泣くこと。また、その声。(例)「号泣が響く」

(2)【俗】大いになみだを流すこと。(例)「静かに号泣する」

ただし新しいほうの意味(「声を出さずに泣く」)は、

「俗語扱い」

ですね。

(2017、3、8)

2017年3月13日 11:46 | コメント (0)

新・読書日記 2017_033

『BLUE GIANT 9』(石塚真一、小学館:2016、9、14第1刷・2016、12、20第2刷)

ウオー、青春だなあ・・・。

1年ぶりの再会、別れ。

もう東京に出て来て1年、経つんだ・・・。早いな。

そして、この年齢(時期)における「1年」の内容の濃さ、成長の早さ。突然チャンス到来。うわー 「青春」だあ!!

ちなみにこの青春篇の『BLUE GIANT』は10巻までなので、いよいよ次はクライマックス。ちょっと悲しんだけど(連載で読んでて、結果は知ってる)、単行本で読むのは楽しみ。


star4_half

(2017、3,4読了)

2017年3月11日 18:31 | コメント (0)

新・読書日記 2017_032

『図書館の主(あるじ)9』(篠原ウミハル、芳文社:2014、11、30)

図書館の司書が主人公、いや、というか「児童図書館」が主人公という大変珍しい(?)(まあ、言ったらなんだけど地味な)漫画。でも面白い。なかなか小さな書店では見つけにくくて、単行本も飛び飛びにしか持ってない(読んでない)。たまたま見つけたので購入。続きも読みたい。

図書館の働き手としての司書の悩みが描かれている。また絵本や児童書の「本当の深い意味」が解説されていて、それが登場人物の人生に影響を与えて行くところが、興味深い。

「本当は怖い童話」のような雰囲気もあるのだけれど。

また、登場人物の主だったところの他人の「名字」が「御子柴」とか「八重樫」とか「小手川」とか「3文字」なのは、何かこだわりがあるのかなあ。気になる。

そうそう、「芳文社」と言えば、10年前に私が「監修」を担当した「日本語」に関する「いのうえさきこ」さんの漫画『かなりあやしい!?~おかんとつっこむ微妙な日本語』の出版社じゃないか!懐かしいなあ。



star4

(2017、3、5読了)

2017年3月10日 18:30 | コメント (0)

新・読書日記 2017_030

『ネットメディア覇権戦争~偽ニュースはなぜ生まれたか』(藤代裕之、光文社新書:2017、1、20)

サブタイトルの「偽ニュースはなぜ生まれたか」に惹かれた。今年に入ってからすでに「流行語」というよりもう定着してきている「フェイク(偽)ニュース」が「なぜ生まれたか」について書かれている。そもそも「ネットメディア」の台頭はこの10年ほどであるが、その中で「ヤフートピックス」の存在、またそこから生まれるニュースと、「コンテンツ提供者としての既存メディア」の関係などについて最新事情が記されているので、ネット事情にうとい私にとっては大変勉強になった。

トランプ新大統領の顧問で「影の大統領」とも呼ばれ悪評の高いスティーブ・バノン氏が会長を務めた保守系ニュースサイト「ブライトバート」。そこに出資していた食品大手・ケロッグや、医薬品大手のノボテルディスク(デンマーク)、大手運用会社のバンガード・グループなどが、トランプ支持者からのボイコット運動を受けていることなどを理由に、撤退を表明しているそうだ。

日本でも、テレビ朝日がサイバーエージェントと共同出資したインターネットテレビ局AbemaTVで、ヘイトスピーチで問題になった在特会の元会長・桜井誠氏の個人チャンネルに、家庭用品メーカーのユニリーバの広告が流れたことで、ユニリーバ・ジャパンが謝罪する事態となったという。動画への広告は機械的に配信されてしまうので、これまでは「仕方がない」で済まされていたものが、今後は「そういうわけにはいかなくなった」という実例だ。

なんだか世の中、生きづらく、不寛容に、悪くなってきているのではないかなあ・・・と読んでいて、気持ちが暗くなってしまいました・・・。


star4

(2017、2、20読了)

2017年3月 9日 11:41 | コメント (0)

新・読書日記 2017_031

『ルポ 出所者の現実』(斎藤充功、平凡社新書:2010、11、15)

知り合いにはいない「出所者」=「刑務所から出て来た人」。そういった「出所者」の現実を取材したもの。

最近「ルポ」(ルポルタージュ)という言葉に接することもあんまりない。どちらかというと、接することが多いのは映像だと「ドキュメント」(ドキュメンタリー)ですね。その「文字版」だと「ルポ」かな。

刑務所から出て「真っ当な人生」を歩もうと思っても、仕事が無い・お金が無い・住む所が無い。そして仕方なく、また犯罪に手を染めてしまい、刑務所に舞い戻る。そういった人たちも後を絶たない。一度失った「自らの生きる道」を取り戻すのは、大変険しい道なのである。

それを防ぐためには、「個人」に任せっきりにするのではなく、「社会」が手助けをしていかなくてはならないのではないか?"我々の社会"を守るためには、そういった人々たちの「更生」をしっかりとさせるセーフティ・ネットがないといけないのではないか。もちろん、根源的には犯罪をする人が悪いのだが、こと「出所者」に限ると、「次の犯罪への道」が、他の人たちよりも容易というか、そこへ向かう"近道"が敷かせているのではないか?と思わざるを得ない部分もある。よほど、助けてくれる近親者がいないと、更生が難しい。

本書を読めば、そういった問題点が浮き彫りになる。

なお、おそらく「目次」は著者が「更生」・・・ではなく「校正」していないのではないか?本文では一度もない誤植が2か所あった。「目次」の「第四章 出所者のセーフティ・ネットワーク」で、

×「1 福島自立更正促進センター」→○「1 福島自立更生促進センター」

×「2 北九州自立更正促進センター」→○「2 北九州自立更生促進センター」

「更生」ももちろん大事だが「校正」も大事だ。最初から間違っていると、その後の本文の内容への信用性が落ちる。


star3_half

(2017、2、20読了)

2017年3月 9日 12:04 | コメント (0)

新・読書日記 2017_029

『書く力~私たちはこうして文章を磨いた』(池上彰・竹内政明、朝日新書:2017、1、30)

テレビ界の「そうだったのか!」キャスター・池上彰と、新聞界の「そうだったのか!」コラムニスト・竹内政明の"夢のコラボ"!と思って購入。

池上さんの紹介は要らないと思うが、竹内政明さんは、「読売新聞」朝刊1面の左下にあるコラム「編集手帳」の執筆者。

「編集手帳」のように、その新聞社を代表するコラムには、朝日新聞=「天声人語」、毎日新聞=「余録」、日経新聞=「春秋」、産経新聞=「産経抄」があるが、今は読売の「編集手帳」が一番おもしろい。

その「手の内」をお互いに明かす対談ですから、勉強にならない訳がありません。皆さんぜひ読むべし!!


star4_half

(2017、2、17読了)

2017年3月 8日 12:01 | コメント (0)

新・読書日記 2017_028

『汝の名はスパイ、裏切り者、あるいは詐欺師~インテリジェンス畸人伝』(手嶋龍一、マガジンハウス:2016、11、17)

「ミヤネ屋」にご出演頂いている「手嶋龍一さん」の最新作。

手嶋さんの趣味の一つは「変わった人間=畸人」を観察することなのだそうだ。

そんな趣味の人こそ「畸人」では?とも思うのだが、少し気持ちは分かる。

中でも「畸人中の畸人」が就く職業が「スパイ」。「インテリジェンス」と呼ばれることもありますが、最近、注目されてますよね。「ウィキリークス」のアサンジや、スノーデンも、ある意味「インテリジェンス」の中に含まれる。彼らの話も出て来るし、歴史的に有名なスパイの話も出て来る。ちょっと外国人のカタカナの名前が多いので、なじみにくいが、どんどん引き込まれていく感じだ。

これを読みながら私が注目していたのは、「情報」と「諜報」の違い。手嶋さんは、どのように使い分けをしているのだろうか?というところに注目して読んでいった。

読み進むうちに、その違いがだんだん分かってきたような気がしました。

最初の方のページ(21ページ)に「誤植?」と思われる箇所が1か所。

×「周ファミリー」→○「習ファミリー」

ではないか?時代的にも「周恩来」ではなく「習近平」のことだと思うし。


star4

(2017、2、24読了)

2017年3月 7日 11:34 | コメント (0)

新・読書日記 2017_027

『知の仕事術』(池澤夏樹、インターナショナル新書:2017、1、17第1刷・2017、2、6第2刷)

死ぬまで、自分の勉強術や書斎の公開などは、する気がなかった著者が、年齢のせいか、「ちょっと公開してもいいかな」と思ったそうだ。このチャンスを逃すまじ!私も教えを乞うことにして読んでみた。

書かれていることは、至って真っ当。私たちの世代にとっては・・・だが。

新聞や本といった「紙」の媒体の活用。プロならではの活用術は、地道である。地道だから身に付く。簡単にできて便利なものは、結局その場しのぎにはなるが、なかなか身に付かないだろう。そんなに「一挙両得の手法」などないのだ!きょう、お会いしたNHKの時代考証担当のプロ・大森洋平さんも「紙」というメディアの重要性を語っておられた!

なんかこういう本を読むのは、好きなんですよね、それも「紙」の本で。

「反知性」の時代だからこそ求められる「知性」の存在、といった感じですね。


star3_half

(2017、2、18読了)

2017年3月 6日 11:32 | コメント (0)

新・読書日記 2017_026

『マリアージュ~神の雫・最終章6』(亜樹直・作、オキモトシュウ・画、講談社:2017、1、23)

連載されている『コミック・モーニング』も読んでいるのだが、たまに購入し忘れて読めない時もあるので、読んだか読んでないか、記憶がとびとびになっているので、こうやって単行本で読めるとうれしい。この巻は、後半は読んだ覚えがあるが、前半は読んだ覚えがありませんでした。

戦いの時を控えて束の間の休息・・・というか既に戦いは始まっているのだが、問題解決への模索の巻というところか。タイトルの「マリアージュ(結婚・食べ合わせ)」という言葉通り、「ワイン」だけではなく「料理」に関しての記述が多くなっている気がします。


star3_half

(2017、2、28読了)

2017年3月 5日 20:37 | コメント (0)

新・読書日記 2017_025

『アカデミー賞』(川本三郎、中公新書:1990、3、25第1刷・1992、3、10第7刷)

アカデミー賞の季節になると引っ張り出してくる本。古典ですね。アカデミー賞の歴史、いろんなエピソードがよく分かる。

ただ、もう25年以上前の古い本ですから、最近の映画のことが分からない。1990年のアカデミー賞受賞作までしか載ってないんだから。それからもう27年。この「27年分の続編」を、川本さん書いてくれないかな。あ、今だったらあれか、町山さんかな。町山さん、是非お願いします!

「ラ・ラ・ランド」が「作品賞」を取ると思って、事前に観ておこうと、この前の日曜日(2月26日)に見に行ったんだけど、まさかの「作品賞」落選!それも一旦は「受賞発表」があって、「ラ・ラ・ランド」の人たちがステージに上がってから、

「違いました!作品賞は『ムーンライト』でした」

って、あまりにも可哀想な天下の大ハプニング!

思い出したのは、シドニーと北京が開催地争いをしていた「2000年オリンピック会場決定」。その際に、当時のサマランチIOC会長が、

「ベイジン(北京)」

と言ったので、もう中国の人たち抱き上がって喜んで、シドニーの人たちがガックリと肩を落とす様子が映ったのだけど、その後にひと呼吸おいたサマランチ会長が、

「15票」(だったかどうか、忘れた)

と、「票数」を言ったので、抱き合っていた人たちが「え?」という顔になり、さらに続けてサマランチ、

「シドニー・・・・27票」(だったかどうか忘れた)

と言ったもんだから、まさに「天国と地獄」だったことを思い出しました。

あれはしかし、サマランチ会長は、間違っていなかったんだけど、

「絶対、『開催地の名前』を、まず言うものだ」

と思い込んでいた全世界の人々がダマされたというか、勘違いした出来事でしたね。それを思い出しました。

こんなふうなことを書いた「アカデミー賞の本」が読みたいです!


star4

(2017、2、27)

2017年3月 5日 11:36 | コメント (0)

新・読書日記 2017_024

『僕たちが何者でもなかった頃の話をしよう』(山中伸弥・羽生善治・是枝裕和・山際壽一・永田和宏、文春新書:2017、2、20)

山中伸弥(ノーベル賞受賞者)・羽生善治(将棋棋士・三冠)・是枝裕和(映画監督)・山際壽一(ゴリラ学者・京都大学総長)という当代随一の方々に講演をしていただいて、その後、この講座の主催者・永田和宏教授が、それぞれの方と対談をするという形で一冊に収められている。永田教授によると「すごい人たちも、みんなと同じように失敗をしたり、悩んだりしてきた」というお話を聞くことで身近に感じて、学生に"夢"を持ってもらおうという企画。その意味では多くの若者、高校生・大学生に読んでほしい一冊。

若者ではない"おじさん"が読んでも、勉強になった、やる気が出て来た一冊です。


star4_half

(2017、2、27読了)

2017年3月 4日 20:35 | コメント (0)

新・読書日記 2017_023

『一握の砂・悲しき玩具』(石川啄木、新潮文庫:1952、5、15第1刷・1973、4、30第36刷)

ご存じ、石川啄木の詩集。

今月の20日に、所属する合唱団のコンサートで「啄木短歌集」を歌うので、「たしか、本棚にあったはず」と、ゴゾゴゾ取り出して来た一冊。中学生の時に買ったんだなあ。奥付には中学1年の時に作った「蔵書印」の朱肉が赤々と。

そして「ちゃんと読んだ証拠」に、短歌の上に鉛筆で薄く「○」が書いてあったのだ!

俺、中学生の時、こんなの読んでたのか。わかってたのかな?ちょっと疑問だが、その時に「○」を付けた歌と、今「いいな」と思った歌は、やはり違った。当然ですね。

20代で病を得てもがく気持ち、当然、大人になった今の方が分かる気がしました。


star4_half

(2017、2、22読了)

2017年3月 4日 12:33 | コメント (0)

新・読書日記 2017_022

『下り坂をそろそろ下る』(平田オリザ、講談社現代新書:2016、4、20第1刷・2016、6、13第5刷)

平田オリザさんって、なんとなく好きになれないんだけど(根拠もなく。しゃべり方かな?)、これはタイトルに惹かれてかな、なんか買ってしまいました。薦める人もいたので。読みかけて、またしばらく読まなかったんだけど、この前、北海道に3泊4日で行った時に「この際!」と思って持って行き、飛行機の中で読みました。

この間、「みんな平等に貧乏に」と言って叩かれた女性の学者さんがいたが、この本のタイトルの「下り坂」というのも「人口が縮小していく日本」のことを指しています。そんな中で、「貧乏に」というのではなく「貧しくても心豊かに」というか「貧しくならない工夫」というか、地方からやっていくからこそ、できることの提案を、平田さんが関わって具体的に既に行っているプロジェクトなどを紹介しているのだ。

中でも「ホホウこれは」と思ったのは、第二章に書かれていた「コウノトリの郷~但馬・豊岡」。ここで「アーティストのいる街」「小さな世界都市」を目指す試みを実践している話が出ていて、これなんか面白そうだなと。行ってみたいな、と。近畿地方の話なのに、全然知らなかった。

伝統文化を守るだけでなく、新しい文化・芸術を"呼び込んで"作っていくことで、街を活性化させる試みは面白そうだ。

「終章」のタイトルは「寛容と包摂の社会へ」。

トランプ大統領の登場で、世界的規模で定着したかに見える「不寛容(イントレランス)の世界」への抗議の姿勢を、このような形で行っていくこともあるのだなと思った。


star4

(2017、2、19読了)

2017年3月 3日 10:32 | コメント (0)

新・ことば事情

6270「ウキルかウギルか?」

金正男(キムジョンナム)氏殺害事件で名前が挙がっている北朝鮮の「高麗(コリョ)航空」職員の名前の表記が、メディアによって違います。

2月23日の時点で、日本テレビ・読売テレビでは、

「キム・ウギル」

と「ギ」が濁るのですが、「読売新聞」は、

「キム・ウキル」

と「キ」が濁らないのです。他の新聞も調べてみたところ、「ウキル」「ウギル」以外に、

「ウクイル」

という表記も見つかりました。まとめると、

*「キム・ウギル」=日本テレビ、読売テレビ、テレビ朝日

*「キム・ウキル」=読売新聞、日経新聞

*「キム・ウクイル」=朝日新聞、毎日新聞、産経新聞

でした。たぶん、「表記」を見て、一字一字の読みを書き起こすと、

「ウクイル」

となり、「リエゾン」のようになると、

「ウキル」

なんだけど、実際の発音は「キ」と「ギ」の中間のような音なので、濁った「ギ」聞こえることもあるのではないかな?と想像しています。

やはり、音韻体系の違う外国語の音を「カタカナ」で表記することの限界というものがあるなあと感じました。

(追記)

フジテレビは、

「ウクイル」

でした。

(2017、3、13)


(2017、3、2)

2017年3月 2日 20:30 | コメント (0)

新・ことば事情

6269「戦闘か?武力衝突か?」

2月8日の国会論戦で、南スーダンに派遣されている自衛隊の日誌が、防衛省が「ない」と言っていたのに出て来た問題で、稲田防衛大臣の答弁が問題になっています。

「戦闘があった」

と日誌に書かれているのに、稲田大臣は、

「それは『戦闘』ではなく、法的には『武力衝突』。一般的な用語での『戦闘』ではない。もしこれを『戦闘』と言ってしまうと、憲法9条の絡みで問題になってしまう。」

これは詭弁でしょう。

もう15年ほど前の小泉元首相の答弁を思い出します。

「自衛隊は戦闘地域には派遣しない。だから自衛隊が言ったところは戦闘地域ではない」

という「トートロジー」(堂々巡り)でしたが、似たような話を「平成ことば事情442後方支援」にも書いていました。もう16年経っていたので、再掲します。

****************************************平成ことば事情442「後方支援」

国会では、テロ対策新法をめぐる動きが続いています。一連の動きを見ていると、いかに言葉が大切かということを改めて感じさせられます。

例えば、「戦闘地域には武器弾薬を運ばない」と言った場合の、

「戦闘地域とは一体どこまでを指すのか?」

であるとか、NATO言う「集団的自衛権」と、憲法が禁じる「集団的自衛権」とはどう違うのか?とか、同じ言葉であっても解釈一つで全く違う意味になってしまうケースが、いかに多いか。

今朝(1016日)の朝日新聞(だけ)に載っていた記事なのですが、巡行ミサイル「トマホーク」を発射している「アメリカの艦船」は「戦闘地域か?否か?」というのです。

共産党の山口富男氏の質問に対して、中谷力・防衛庁長官は、

「戦闘行為の定義は、人を殺傷し、物を破壊する行為であるから、その場ではそういう行為は行われていないから、ミサイル発射は戦闘行為ではない」

と答弁したというのです。また津野修・内閣法制長官は、

「発射していない時間帯も十分にあるから、いろんなことはできる」

と答え、アメリカ艦船への自衛隊の給油や整備活動は可能との見解を示したそうです。

しかし!この報道が本当ならば、

「いくらなんでも、"ミサイル発射が戦闘行為ではない"なんて、一体どの口が言うねん!!」

と言わざるをえません。

サッカーにたとえると、日本の自衛隊の立場は、ホペイロと呼ばれる用具係ではないでしょうか。つまり、試合に必要なボールやシューズ、ユニホームといった用具を、試合が行われるグラウンドまで届けるお仕事。この場合、戦闘地域はもちろん「グラウンドの中」です。そして攻めているフォワードの選手だけが「戦闘」しているわけではなく、ディフェンスの選手もグラウンドの中で「戦っている」わけです。自陣の深いところ、つまり「後方」から「前線」のフォワードの選手に、ロングパスを送ることもありますしね。

もちろん実際の戦場は、サッカーのグラウンドのように、「白線」で囲まれている訳ではありませんから、こんなにはっきり色分けは出来ないし、どこが「戦闘地域」か?と言う定義は非常に難しいのはよく分かります。

しかし、だからと言って「常識で判断できる範囲」というのはおかしい。そこをきっちり定義しなくては、いくらでもその場その場で範囲が変ってしまい、場合によっては全く反対のことを指す同じ言葉が登場してくる危険性は十二分にあるからです。ある人にとっての常識は、別の人の非常識にあたることは往々にしてあります。

「正義」が誰にとっても「常識」であればあるほど、その「正義」の意味を吟味する必要があるのではないでしょうか。(2001、10、16)

さらに、こういった「言葉の粉飾」が、かなり行われていた時期があって、それについて書いたことがあるなあと思って検索すると、やはり「2001年」なんですね。そうです、「9.11」

のテロがあった年です。

その時に、ジョージ・オーウェルの『1984年』に出て来る「ニュースピーク」と呼ばれる語法について書いています。

これも長いですが、再掲します。

****************************************

◆平成ことば事情457「ニュースピーク」

1984年」という小説をご存知でしょうか?イギリスの作家、ジョージ・オーウェルが書いたものです。内容は、新潮文庫の裏表紙によると・・・、

「1984年、世界は三つの超大国に分割されていた。その一つ、オセアニア国では<偉大な兄弟>に指導される政府が全体主義体制を確立し、思想や言語からセックスにいたるすべての人間性を完全な管理の下に置いていた。この非人間的な体制に反発した真理省の役人ウィンストンは、思想警察の厳重な監視をかいくぐり、禁止されていた日記を密かにつけ始めるが・・・・」

とあります。

この小説は1947年に書かれたもので、新庄哲夫氏の翻訳によるこの新潮文庫版は1972年に初版が出ています。以来2000年9月15日までに42刷を数えるロングセラーです。(それより前の1950年に、翻訳本は出ているようですが。)

私は、1984年を翌年に控えた、1983年、大学生の時に初めて読みました。

この小説に出て来る主人公のウインストン・スミス(39)は、オセアニア国の

「真理省(ミニストリー・オブ・トルー=新語法ではミニトルーと呼ばれる。)」

に勤め、住む家の名前は、

「勝利マンションズ」。

そのマンションの各階の踊り場には、

"偉大な兄弟(ビッグ・ブラザー)があなたを見守っている"と書かれた大きな顔のポスター」

が張ってあります。(なんか、どっかの政党のようですね。「真理省」という役所の名前も、この小説を読んだ頃は現実味がありませんでしたが、2001年の省庁改革で、"文部科学省"だの"国土交通省""環境省""厚生労働省"だの、新しい名前の役所が出てきてからは、そんな名前のお役所があってもおかしくないな、と感じてしまいます。)

家の中には、常にスイッチを切ることの出来ない双方向壁面テレビ

「テレスクリーン」

があり、

「思想警察」に常に監視されています。常に・・・ブロードバンドの常時接続ってこと?常時・・・じょうじ・・・ジョージ・オーウェル。

1947年に書かれた、悪夢の近未来(37年後)の世界「1984年」は、(今となっては「近過去」になってしまった)1984年には実現しなかったかもしれませんが、それからさらに17年経って、21世紀に入った現在(つまりジョージ・オーウェルが「1984年」を書いてから54年後)なにやら、現実味を帯びた社会世相のように感じられてなりません。

この小説では「言語」まで、全体主義体制の完全な管理の下に置かれていたとありますが、その言語の呼び名は「新語法(ニュースピーク)」。

「イングソック(INGSOC)」と呼ばれる社会体制(これは「英語」の「イングリッシュ(English)」と、「社会主義」の「ソシアリズム(Socialism)」を足して2で割った、オセアニア国を支配する中心思想)を体現するための言語が、「ニュースピーク」です。

オーウェルは、この「ニュースピーク」に関して、ずいぶんと思い入れがあったようで、小説のおしりのところに、「付録」として「ニュースピークの諸原理」というものを17ページにわたって書いています。付録にしては、力、入りすぎ。

それによると、「ニュースピーク」の目的は、「イングソック」の熱狂的な支持者に固有な世界観や精神的慣習に対して一定の表現手段を与えるばかりではなく、「イングソック」以外のあらゆる思考方法を不可能にするということでした。つまり言葉による「洗脳」ですね。二次的な意味をなるべく剥奪することによって、好ましくない言葉の意味をなくし、語彙を削減することによって、思考の範囲を縮小するために考案されたものなのです。

「ニュースピーク」の語は大きくA、B、Cの3群に分けられています。

A群=日常生活のビジネスに必要な用語。「打つ」「走る」「犬」「木」「砂糖」「家」「畑」など。

B群=政治用語。すべて合成語で成り立つ。「正当性(goodthink)」「思想犯罪(crimethink)」など。

C群=科学、技術用語。

そして、この「ニュースピーク」を唯一の言語として育ったものは、平等という一語に「政治的平等」という二次的な意味もあったこと、あるいは「free」がかつて"知的に自由"という意味したということも知らなくなる筈、とあります。

ここまでオーウェルが言葉にこだわったのは、なぜか?それはやはり言葉の持つ支配性に彼が敏感だったからではないでしょうか。彼は第二次世界大戦が始まってから、BBC海外放送のインド部に勤務しますが、この時の経験が「ニュースピーク」を創造する時に役立った、と訳者の新城哲夫氏は、解説で書いています。

言葉が国家によって支配の手段として使用されることについて書かれた、こんな本を見つけました。ルイ=ジャン・カルヴェ著、西山教行訳「言語政策とは何か」(白水社)。この本は、次のような一節で始まります。

言語や言語状況に対する人間の介入は最近のことではない。さまざまな人間が言語の正しい語法を定め、規範化し、言語形態に介入するようになったのは、今に始まったことではない。はるか昔から政治権力は特定の言語を優遇し、一言語のもとに国家を管理し、多数者に少数言語を押し付ける選択を行ってきた。(7ページ)

そういうことらしいです。つまり、政治(=統治)の重要な手段の一つとして、言語は政策によって定められてきた一面があるということです。そしてそれは、政府の政策を間違いなく伝えるため、つまりコミュニケーション機能を高めるために行われました。しかし、次の一節にあるように、「コミュニケーション機能」は「言語の表現機能」とは相反する到達点を目指しているのです。

「言語のコミュニケーション機能」はコードの画一化を、「言語の表現機能」は逆に(コードの)多様性を物語る。(18ページ、( )内は道浦が補いました。)

ここにおける「コード」とは、その言語を共通に使う個人や集団において(話者についても集団についても)何かを物語るものとして記されているようです。つまり、コミュニケーションをすんなりはかるためには、言語表現は多様でない方が通じやすいが、そうすると、表現の多様性は奪われてしまう、というようなことでしょうか。

ところで、アルフォンソ・ドーデの「最後の授業」という短いお話をご存知でしょうか。

昔は小学校の国語の教科書などにも載っていたのでご存知のお方もござりましょうが。(あれ?「外郎売り」になっている?)

お話は、フランス・アルザス地方のある学校で、いつものように行われる「国語」の授業。その授業の最後に、アメル先生が黒板に「フランス万歳!」と書くのです。それを見た「僕」は、「ああ、そうなのだ、ドイツに占領されたために、フランス語は今日までしか使えない。明日からはドイツ語を使わないといけないのだ。先生の"国語=フランス語"の授業はこれで最後なのだ。」そう思うと、何か熱いものが「僕」の中に込み上げてくる・・・というふうな内容だったと思います。

これを子供向けの本か、教科書で読んだ時には、幼い私も感動して、「ぼくも今日から"三色旗(トリ・コロール)"を持って、"ラ・マルセイエイズ"を歌おう!と思いました。

(こんなませたことを考えたということはそんなに幼くもなかったのかもしれません。)しかしつい先日、目からウロコが落ちる事実を知りました。

まず、この物語の舞台となったアルザス地方は、昔からフランスとドイツの領土争いで、あっちになったりこっちになったりしていたということ、そしてそこで使われていたことばはどちらかというとドイツ語に近いものであったということ。つまり、フランス語は、フランスが支配していた時期だけ、学校で押し付けられた公用語だったということ。

ということは、フランス語で行った「最後の授業」に、深い思い入れがあったのは先生だけであって、子供たちにそういった思い入れがあったかについては、極めて"疑わしい"こと。先生でさえ深い思い入れがあったかどうか疑わしいということです。ここに、作者ドーデのフランス愛国主義者としての「創作」があったのでしょうが、そういった背景を知らずに読むと、「ドイツに占領されたために、これまで使っていたフランス語が使えなくなる悲しみ」を胸一杯に感じてしまうではないですか。(私は感じました。)

言葉が民衆支配の重要な道具になることは、この一例からも感じられるのではないでしょうか。

これについて田中克彦さんは「ことばと国家」(岩波新書1981、11、20初版)の中でこのように記しています。少し長くなりますが、引用しましょう。

ドーデはアルザスを舞台にした小話を、フランスがプロイセンに敗北した1871年から73年まで、毎月曜日、パリの新聞に連載した。・・・(中略)・・・この短編の正確を知るためにはまず舞台となったアルザスがどんなところなのか、その言語史的な背景を知っておく必要がある。・・・(中略)・・・その時以来、アルザスの北部では今日でもドイツ語のフランク方言、南部はスイス・ドイツ語に近いアレマン方言が話されている。・・・(中略)・・・アルザスの土着の人のことば、すなわちアルザス・ドジン語(ママ)はまぎれもないドイツ語の方言である。それをドーデは、「ドイツ人たちにこう言われたらどうづるんだ。君たちはフランス人だと言いはっていた。だのに君たちのことばを話すことも書くこともできないではないかと」というふうにアメル先生に言わせているのである。いったい自分の母語であれば、書くことはともかく、話すことができないなどとはあり得ないはずだ。だからこの一節は、この子たちの母語がフランス語でないことをあきらかにしている。

20年前に、もうこのようなことが書かれていたんですね。私はこの本を1983年に買ってそのままにしていたようです。そろそろ読む時期になったのかな、私にとって。

話が横道にそれました。全体主義国家ではない当時のフランスにおいてさえ、言語(母語)に対する思慕の念は愛国心をあおり、その国民を、言語に関する唯一の規格を求める「言語全体主義」の方向に導きます。これは多様性を容認する多言語国家とは全く逆の方向です。

全体主義国家においては、多様な価値観など必要ありません。否、持ってはいけないのです。「1984年」の舞台「オセアニア国」がコードの画一化を図ったのは当然のことでしょう。そして、オーウェルは、そういった事を実際に行ってきた国の実態を、イギリス植民地下のインドやビルマ(今のミャンマー)で、またスペイン市民戦争の中で、つぶさに見てきたのではないでしょうか。それが、「ニュースピーク」という架空の言語についてのここまで詳しい記述となっており、小説「1984年」の中においても重要な役回りを与えられている原因なのではないでしょうか。

これは「逆もまた真」なのかどうか。それはわかりませんが、単語が一つの意味しか持たない言葉に収斂されていくようになった時、また語彙が少なくなる方向に急速に進む時、河の激流になすすべもなく流されるのではなく、その行く手に「全体主義」が待っていないかどうか、慎重に見極めることが必要ではないでしょうか。見極めることが出来なかった時に到着する場所は・・・21世紀の「1984年」です。(2001、11、19)

****************************************この『1984年』に出て来る「党の3大スローガン」は、

「戦争は平和なり」

「自由は隷従なり」

「無知は力である」

これを改めて見て、

「なんと2017年の現代に当てはまってしまっているのだろう」

と、うすら寒くなりました・・・・。

(2017、2、9)

2017年3月 2日 18:28 | コメント (0)

新・ことば事情

6268「スタニスラフ・スクロバチェフスキ」

2月22日、93歳の世界的な指揮者、スタニスラフ・スクロバチェフスキさんが、2月21日に亡くなったというニュースが流れました。あのスタニスラフ・スクロバチェフスキさん、です。

「おい、スタニスラフ・スクロバチェフスキが亡くなったぞ!」「

「え!あのスタニスラフ・スクロバチェフスキが?スタニスラフ・スクロバチェフスキが死んだのか?」

「そうだ。あのスタニスラフ・スクロバチェフスキだ。」

「そうか・・・あのスタニスラフ・スクロバチェフスキが亡くなったか・・・」

と、落語の「寿限無」を思いださせる名前で、それで93歳まで長命だったのかな。

この長い名前に覚えがあるのは、私がクラシック・ファンだ、という訳ではなく、スタニスラフ・スクロバチェフスキさんが「読売日本交響楽団」の指揮をされていたからです。

大阪でもコンサートをされたことがあって、その際に「15秒スポットコマーシャル」のナレーションをやりました。その「15秒」の原稿に、ディレクターは何と、

「3回も」

フルネームでこの名前を入れて来たのです。表記も「バ」ではなく「ヴァ」で、

「スタニスラフ・スクロヴァチェフスキ」

でした。さすがに、

「3回は多いのではないか?」

と抗議したのですが、

「それでお願いします!」

ということで、頑張って読んだ記憶があります。

「ウィキペディア」を見て見たら、こんな記述が。

「ファースト・ネームは日本では『スタニスラフ』と表記されることが多い。名前が長く読みにくい為、欧米では略して『ミスターS』とも呼ばれる。」

・・・やっぱり。

会社の、クラシック通の人に食堂で会ったので、

「スタニスラフ・スクロバチェフスキが死んだね」

と声を掛けると、

「長い名前ですからね。まあ普通は『ミスターS』って言いますけどね」

と、さすが!知っている人は、知ってる!

読売日響の指揮での来日履歴を見ると、

1978年5月、2002年2月、9月、2005年4月、12月、そして2007年4月(~2010年3月まで)に読売日本交響楽団の第8代常任指揮者に就任。同年9月に

3プログラム計5公演を振り、この際に「大阪公演」がありました。たぶん私がスポットCMを読んだのはこの時だな。

さらに2008年4月、9月、2009年3月、9月(この時には兵庫・西宮でも公演しています。たぶん芸文ですね)、そして2010年3月26日の「第491回定期演奏会」をもって常任指揮者を任期満了で退任し、翌月から「桂冠名誉指揮者」となり、同年10月に「桂冠名誉指揮者」就任後初の共演。2012年3月、9月、2013年10月まで「ウィキペディア」に載っていて、

「2014年年10月読売日本交響楽団に客演し、1プログラム計3公演を指揮する予定」

とあります。

2010年の時点で「すでに90歳」ですから、これはすごいことですね!!

読売日響の前にも「ミネアポリス交響楽団(現ミネソタ管弦楽団)」音楽監督。現在桂冠指揮者(1960年―1979年)、「ザールブリュッケン放送交響楽団(現ザールブリュッケン・カイザースラウテルン・ドイツ放送フィルハーモニー管弦楽団)」首席客演指揮者(1994年から)で活躍されていました。ブルックナーが得意だったそうです。

いずれにせよ、その魂が安らかなることをお祈りします。合掌。

(2017、2、22)

2017年3月 2日 18:05 | コメント (0)

新・ことば事情

6267「ガエル・ガルシア・ベルナル」

「ミヤネ屋」の午後3時前のコーナーで、日本テレビからのニュースを伝えてくれている女性キャスターが、これまでの下川美奈子さんと岸田雪子さんに代わって、1月から新メンバーになっています。日本テレビ記者の、

「鈴木美穂さん」と「岸倫子さん」

です。先輩の下川さんと岸田さんが上手すぎたので、それと比べると、まだちょっと慣れていない感じのところもありますが、毎日とっても一生懸命、真面目に伝えようと頑張ってくれていると思います。(プロだから当たり前ですが。)しばらくすると、きっと先輩たちのようにドッシリと大きく構えられるようになると思います。

さて、その鈴木さんが2月27日、アメリカの「アカデミー賞」のニュースを伝えていたときのこと。何でもないところで「噛んで」しましました。

「メキシコ人俳優」

というところです。私が見るところ原因は、

「その後に出て来る、そのメキシコ人俳優の名前」

にありました。というのも、その名前は、

「ガエル・ガルシア・ベルナル」

というのです。これは難しそう。カタカナで書く外国人の名前でも、

「ブラッド・ピット」

とか、

「ジョージ・クルーニー」

とか、「名前・名字」という「2つ」のくくりであれば良いのですが、

「3つ以上」

になると、ちょっと、

「読みにくいな・・・」

という気がしますね。しかも、

「同じような音が続く場合」

も緊張します。その「苦手意識」があったために、何でもない「メキシコ人俳優」という、

「難しい名前の"前"のところ」

でトチってしまったのだと思います。

あまり苦手意識は持たずに淡々と。そして「苦手意識を持たない」ためには、その言葉だけを、事前に100回言うと慣れます。もし、万が一慣れなかったら、もう100回言う。お試しください。

(2017、2、27)

2017年3月 2日 17:41 | コメント (0)