新・ことば事情
6189「きられて」
9月に3週間余、網膜剥離で入院していた時、本も読めないしテレビも見られない(見てはダメな)ので、もっぱら「ラジオとCDの日々」でした。中でも「落語のCD」を50枚ぐらい聞きました。その中の落語で、
「百川(ももかわ)」
という話がありました。「百川」というのは、有名な料理店の名前。そこに雇われた、田舎出身のちょっと訛った男が引き起こすチグハグな騒動というお話です。
この男が「三味線のお師匠さん」を呼びに行かされた先で、間違えて「お医者さん」に対して、
「河岸のわけーかたが、けさがけに四~五人、きられまして・・・。」
と言います。この、
「けさがけに」
という言葉は、
「けさがた(今朝方)に」
の意味なんですが、お医者さんは、
「けさ(袈裟)がけに」
と取ってしまいます。「斜めに」という意味ですね。「袈裟がけ」を『広辞苑』を引くと、
「袈裟をかけたように、一方の肩から他方のわきの下へ斜めにかけること」
とありますが、もう一つの意味として、
「『袈裟斬り』に同じ」
とあったので、「袈裟斬り」を見ると、
「一方の肩から斜めに他方のわきの下へかけて斬り下げること」
とありました。これと間違ったのです。後ろに、
「きられまして」
とありますしね。その「きられまして」は、標準語で言うと、
「来(こ)られまして」
なのですが、訛っていて、そういう風に言うんですな。「どこの出身」という設定なんでしょうかねえ?当然、お医者さんは、
「袈裟がけに斬られまして」
と、当然そう考えます。大変です。4~5人もバッサリと斬られた!それで医者を呼びに来たんだ、と。この「意味の取り違え」が、この落語の面白さのミソですね。
また、別の落語、三代目・三遊亭金馬の『佃祭』の中のしゃべりで、
「行ってきようと思う」
というのがありました。今なら標準語でこれは、
「行ってこようと思う」
ですよね。これを聞いて思ったのは、
「もしかしたら昔の『江戸弁』では、『こられた』を『きられた』、『こよう』を『きよう』」と言っていたのではないか?」
ということです。そんなことを考えさせられる落語でした。