新・ことば事情
5960「否定を伴わない『全く』」
小津安二郎監督の映画『秋刀魚の味』のDVDを借りて来て見ました。昭和37年(1962年)の作品です。カラーです。
その中で、横浜球場での「大洋×阪神」のナイターの様子が出て来ます。主人公の笠智衆の同級生が、野球観戦に行こうとしていたのを、笠智衆たちが、
「それより、飲みに行こうよ」
と、小料理屋に誘い、その店の中のテレビで、プロ野球が中継されていました。当時は、「映画」界にとって「テレビ」は新興の「ライバル」だったはずで、映画の中で「テレビを見るシーン」を入れるのは、もしかしたら「冒険的なこと」だったのかもしれません。ちなみに、テレビ放送が始まったのは、昭和28年(1953年)2月にNHK、8月に民放(日本テレビ)で、映画の観客動員が一番多かったのは、たしか昭和33年(1958年)のはず。ともに(そして、この映画も)まだ「東京五輪」(昭和39年=1964年)が開かれる前ですね。
その野球中継では、
「4番、サード・桑田」
と横浜球場の「ウグイス嬢」がアナウンスします。大洋ホエールズ(現・横浜DeNAベイスターズ)のスラッガーですね。現役時代を私は存じ上げませんが、名前だけは知っています。
そして、懐かしい感じのトーンの実況アナウンサーが、こう言いました。
「足の負傷も、全く治りまして」
この「全く治りまして」の「全く」は、
「否定形を伴わない『全く』」
ですね。また、笠智衆の海軍時代(駆逐艦の艦長だったらしい)の部下・加東大介と偶然会って、「トリスバー」のカウンターで飲むシーンでは、加東がこう言います。
「うれしいねー、全くうれしいねー」
これも「否定形を伴わない『全く』」です。
当時、つまり今から50年ほど前は、
「否定形を伴わない『全く』」は、全く普通に使われていた」
ことの、一つの証拠ではないかと思いました。