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『道浦TIME』

新・読書日記 2015_108

『古語と現代語のあいだ~ミッシングリンクを紐解く』(白石良夫、NHK出版新書:2013、6、10)

 

実は2013年6月24日に、以下のような文章を書いている。

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著者は、元・文部省の教科書検定官で、現在は佐賀大学教授。

タイトルは「冷静と情熱のあいだ」みたいです。

我々は「古語」は、現代の言葉とは全然"別物"だと考えているが、「歴史」がつながっているのと同じく、当然、「現代語」と「古語」はつながっている。しかしそれが「断絶」だと思われるのは、この二つを結ぶ"何か"が欠けているからではないか?それが「ミッシングリンク」。古語と現代語をつなぐ"カギ"となるのは何か?それを「短歌」「擬古文」「仮名遣い」をキーワードとして、古語と現代語を「地続き」にしようとする試みである。

そういえば、「死語」は、「古語」になる前の段階だから、もしかしたら「死語」は「ミッシングリンクの一つの解明手段」として「死語研究」をすることも有効かもしれないなと思った。まだ「まえがき」しか、読んでないんだけれど。

****************************************そのまま2年が経過して、ようやく読み終えました。ほったらかしになっていたわけです。

内容は、まず「古語のきりぎりす」は「現代のこおろぎ」なのか?という疑問の提起から始まる。この説が正しいとしても、それが定着したのは江戸時代の早い時期なので、「古語」というのは「それよりも前」。だから「芭蕉の句」に「きりぎりす」と出て来ても、それは「現代のきりぎりすと同じ」であって「現代のこおろぎ」ではない。でも、芥川の『羅生門』に「きりぎりす」と出て来たら、書かれたのは「大正時代」であっても、舞台が「平安末期」なので、これは「現在で言うこおろぎ」となる。

というように、「ことば」を吟味していく。一口で「古語」と言っても、幅が広いのである。

そうすると「擬古調」で書かれた文章をどう扱うか?という問題にぶち当たる。私達は普段ぶち当たらないが、研究者はぶち当たる。そこで、従来の学者は解釈を間違っているのではないか?というような問題提起をした一冊、ということだと、2年がかりで理解しました。


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(2015、8、6読了)

2015年8月13日 12:23 | コメント (0)