新・読書日記 2015_055
『小林秀雄 学生との対話』(国民文化研究会・新潮社編、新潮社:2014、3、30第1刷・2014、4、10第2刷)
小林秀雄が講演の後、聴衆である学生との「質疑応答」だけを収めた本。この企画は秀逸。
実は小林秀雄は、講演内容を(もちろん質疑義応答も含めて)録音することや、それを本にすることを禁じていたという。しかしそうは言っても貴重なお話だから、主催者側はこっそりと録音していたんですねえ。そして小林秀雄の死後、遺族の許可を取って、こういった形にしたと。本人はイヤだったかもしれないが、のちの世の多くの人たちのためになっているので、「ゴメンネ」というところか。
いろいろ勉強になったところを抜き書きすると、
*「『大和魂』という言葉が一番先に出て来るのは『源氏物語』で。それ以前にはありません。」(16~17ページ)
*「『大和魂』は紫式部が言い出したのですが、『大和心』の方は赤染衛門です。」(18ページ)
*「歴史という学問は、自己を知るための一つの手段なのです」(26ページ)
*「神を信じ、神を祀(まつ)るというコンディションの中に人間が生活していた、『古事記』はその正直な記録であり、宣長は『古事記』そのままを信じたのです。」(27ページ)
*「現在使われている民主主義の思想と言うのは、まあ平等思想だ。政治的に平等だということですね。民主主義という思想で、人生の問題は全然片付かないよな。それはまた別の問題じゃないか。そういうふうに考えればいいので、民主主義を人生観と間違えるのが一番いけないね。」(84ページ)
*「ソクラテスの『無知の知』と孔子の『知らざるを知らずとせよ。これ知るなり』とは同じ意味だと考えてもいいでしょう。偉い人の言葉はみな同じようなことになるのは不思議です。そしてみな大変やさしいことをいっています。」(91~92ページ)
*「現代人は、すぐに行動しなくてはいけないと考えます。<あはれ>を知るということは、行動ではないのです。物を見ること、知ること、つまり認識です。物を本当に知るというのは一つの力なのだということを、現代人は忘れていますね。現代人はすぐに行動したがるのです。その行動の元になっているのが科学です。科学などというものは、物を知るためには、ちっとも役に立っていません。」(99ぺージ)
*「人が君を本当にわかってくれるのは、君が無私になる時です。君が無私になったら、人は君の言うことを聞いてくれます。その時に、君は現れるのです。君のことを人に聞かせようと思っても、君が現れるものではない。」(112ページ)
*「クローチェは『どんな歴史でも現代史なのだ』と言っている。現代の人がある史料を通じて過去に生きることができるなら、その人は歴史家と呼べるのです。」(127ページ)
*「昔は『増鏡』とか『今鏡』とか、歴史のことを鏡と言ったのです。鏡の中には、君自身が映るのです。歴史を読んで、自己を発見できないような歴史では駄目です。どんな歴史でもみんな現代史である、ということは現代のわれわれが歴史をもう一度生きてみるという、そんな経験を指しているのです。それができなければ、歴史は諸君の鏡にならない。(中略)一番忘れられているのは、この鏡としての歴史です。」(128ページ)
*「現代は、物質的な進歩は確かにたいへんなもので、それに僕らはつい目を奪われるから、人間はどんどん変わっているように思ってしまう。これは、人間の精神を蔑ろにしていることです。人間の変わらないところ、変わらない精神を発見するのには、昔のものを虚心坦懐に読めばいいのです。(143ページ)
などなど、含蓄に富んだ言葉の数々、大変味わい深い。また、当時の学生の『質問の質』が高いなあとも思いました。(もちろん、それほど高くない質問もありましたけど。)
ちょうど並行して、山田孝雄の『櫻史』も読んでいたので、本居宣長の「大和心」、オーバーラップして理解できました。
じっくり読んでいると、当時の講演会に出ているような気分になりました。ありがとうございました。