新・ことば事情
5661「『差別』とは何か?」
ふと、考えてみました。
「『差別』とは何か?」
ここ数年の、
「ヘイトスピーチ」
にしてもそうですが、「差別」は「人間の心」の、一体「どこから」生まれて来るのか?「なぜ」生まれて来るのか?
「差別」とは、
「疎ましく思う感情」
ですね。それが、どういう「シチュエーション(状況)」で出てくるか?と考えたところ、
「イントレランス(不寛容さ)」
との関係があるように思います。
「まあ、ええんちゃう?」
という気持ちからは、「差別感情」は生まれません。
「きっちりしなければならない」「白か黒か、はっきりと区別しよう」
とする「真面目な気持ち」から「差別」は出てくるように思います。そう、「真面目」なんです、「差別」は。そして「白か黒か」ということは、すなわち、
「0か1か」
と同じ。つまりこれは、
「デジタル思考」
なんですね。
「『社会のデジタル化』に、『差別』が広がる一因がある」
のではないでしょうか?
実は、これを考えたすぐ後に、知り合いの札埜和男先生からメールをもらいました。私が『日本語学(2014年12月号)』に書いた「昭和のマスメディアのことば」の感想を送ってくださったのです。それによると、
「全体として、『人権の思想』と言ったら大袈裟ですが、人権の捉え方の進展とともにメディアの言葉はあるなあと思いました。これは恐らく後退することはないのでしょうが、後退するとすれば、メディア側の『過剰なことばの自主規制』が、今後気になります。」
「(アクセントの)平板化については、社会との連動を感じます。教育実習に来る学生の服装が、見事に統一化(黒)されています。リクルートスーツも全て『黒』ですよね。音声も服装も社会も『カラフルでない』ところに、社会の断面を見るようです。音声も抑揚がないと、ことばの顔がないというか、『顔なし言葉』が氾濫している状態でしょうか。そういう意味で専門家の責任も大きいと思いました。」
この中の、
「『アクセントの平板化』と『社会の平板化・均一化』の共通性」
については、全く思いもしませんでした。まさに「目からウロコ」です。「統一化」というのは、まさに、
「ファシズム」「全体主義」
ではないですか!昨今の「コンプライアンス」の厳しさは異常なほどだなあ、ということは感じていました。インターネットやSNSの普及によって、誰もが簡単に情報を発することができるという「便利さ」と"表裏一体"で、「情報の漏えい」や「簡単に相手を傷付けてしまう状況が出現する危険性」の認識が薄いというのが「現代」ですよね。
社会全体が「コンプライアンス」で「雁字(がんじ)搦(がら)め」でとっても、
「イントレランス(不寛容)」
な社会になって、窮屈この上ない。それが「放送」の世界にも表れているのでしょう。
また、「極端なヘイトスピーチ(=差別)」というのは、まさに「イントレランス」ですが、もしかしたら、
「世の中の極端な統一化(=規制)に対する『はけ口』」
として、こういった動きが、より過激になっているのではないでしょうか?
「差別をなくす」ためには、
「良い意味での『いいかげんさ』」
も必要ではないのかなと思ったのでした。