新・読書日記 2014_181
『民主主義はいかにして劣化するか』(斎藤貴男、ベスト新書:2014、11、20)
「民主主義」は最高の政治形態である、と多くの人は信じ込んでいるのではないか。
そりゃ、20年前に崩壊してしまったソ連・東欧の社会主義や共産主義と比べると、自由でいいと思うのは当然かもしれないが、それは「他と比較すると良い」ということであって、「最高」ではないという意識を忘れがちである。民主主義は万能ではない。あくまで「次善」の策だ。だからこそ「多数決」のみによるのではなく、「少数意見の尊重」ということで全体のバランスを取るのである。そして民主主義は、それを支える人たちの(つまり我々国民・一人一人の)努力なくしては維持できない。どんどん劣化していくものでもある。この意識も、ついつい忘れてしまい薄れていく。日本においては、いや世界においても、かなりこの意識が薄れている国が多いのではないか?逆に、そこに危機感を持ったり、そもそも民主主義のなかった国では、「アラブの春」とか「香港のデモ」、「アメリカでの黒人射殺への抗議デモ」が起きる。「フツーに自由がある」と思い込んでいると、そういった抗議デモは起きない。(日本でも、「反原発」の国会周辺デモはありましたが。)「しかし、その間にどんどん病巣は広がる、ということもあるだろう。
本書は、ジャーナリストの斎藤貴男が、「憲法・集団的自衛権、特定秘密保護法、原発再稼働問題、分断される労働市場、排外主義、国民的ナルシシズム、そして戦争」という問題について、戦後民主主義が70年近く経って辿り着いた"現在地"を示している。
最終章で、またもやジョージ・オーウェルの『1984年』が出て来る。『1984年』に登場した「ビッグ・ブラザー」は、現在の日本には存在していないと。その代わりに存在するのは「ビッグ・マザー」であると。強制的ではなく、やさしくそのような気持ち・方向に誘導する存在なのだという。もう10年以上前から「監視カメラ」の脅威を訴えていた著者であるが、多くの国民は「監視カメラ」によって侵される「プライバシーの問題」よりも、「防犯カメラ(=監視カメラ)」によって犯罪から身の安全を守ってもらうという効果に依存しているという事実。それは「やさしさ」という「全体主義」にくるまれているのだ。そして、人間が生きていくのに最も大切なものは「多様性」「選択肢」かもしれない。「戦争しか選べないような状況」はつくらせてはいけないと結んでいる。それはまさに、「選択死」の世界である。