新・読書日記 2014_161
『日本人も悩む日本語~ことばの誤用はなぜ生まれるのか?』(加藤重広、朝日新書:2014、10、30)
サブタイトルの「ことばの誤用はなぜうまれるのか?」は大変興味深い。正に興味津々で読み始めた。
著者は1964年生まれ、現在北海道大学の言語文学専攻の教授。富山大学の助教授をされていたこともあるらしい。著書の中の一つ『その言い方が人を怒らせる』(ちくま新書)を読んだことがあるような気がする。
「学者」のスタンスから言うと、ことばは時代と共に変化するものだから、「揺れ」はあってもそれは変化であって「間違い」ではないということになるが、一般の人はそうは考えないで「正しい日本語」を求める。そのすれ違い。これは仕方がないよね、バランスを取りながら行くしかないな。
具体的に「こんなことばの"間違い"があります」とたくさん挙げてあり、勉強になる。また、江戸時代には「だうな」という言葉があって、意味は「無駄遣い、空費して無益な様」。それに「目」が付いた「目だうな」が「目で見ても無駄で、何の得る所もない」という意味で、さらにそれが訛って「面倒な」になったという、まさに「目からウロコ」の話も!知らんかったー!勉強になるー!
ただ、何か所か気になった点があった。
まず、77ページ。「看護婦」が「看護師」に変わったのは「保健婦助産婦看護婦法」が2001年末に改正されたというくだりで、
「施行は2002年4月」
とあるが、これは間違い。確認のため調べたが、
「施行は2002年3月1日」
である。私も以前「平成ことば事情」で「看護婦・看護師」について書いた時に、
「法律の施行は『年度初め』の4月からだろう」
と思い込んでいて「4月」と書いたことがあり、その後「3月1日から」だと知ったことがあった。
それと88ページ~90ページあたりの「送り仮名は論理よりも『感覚』で決まる」のところで書かれている「送り仮名」のルールは、当然、現在の「常用漢字表」のものであるが、私たち世代は「当用漢字表」で漢字を学んだので、「送り仮名」も「当用漢字」のものだった。「当用漢字」では、例えば「おこなう」は「行なう」と送るのが正しかった。小学校のときに、そう習った。しかし、既に大学生になっていた「1981年」から、「当用漢字」が「常用漢字」に変わり、送り仮名が「行う」となった。しばらくは、この送り仮名の表記に慣れなかった思い出がある。そのあたりの事情も書いてほしかったと思いました。
さらに、245~246ページの「だらしない」の語源が、「しだら」の「音位転換(メタテシス)」と書いてあるあたり。もう一歩、踏み込んで、「しだら」の語源についても書いてほしかったなあ。私も「平成ことば事情935 ふしだらとだらしない」に書きましたが、荒川惣兵衛の『外来語辞典』には「シダラは梵語sutra(修多羅)から」とあり、また中村元編『仏教語散策』(東京書籍)によると、「スートラ」というのは「経(きょう)」のこと。つまり「縦糸」のことなんだそうです。さらに、堀井令以知『ことばの由来』(岩波新書)では、『「ダラシ」は、手拍子のことをいうシダラが転じたとする説がある』『サンスクリット語の「スートラ(sutra 修多羅)」からとの説もある。また「自堕落」が転じてシダラとなったと見る説もある。しかし、シダラとその倒語であるダラシは、「締まり」のことであると見るのがよい。節度がない、また体力がなくて弱々しいのがダラシナイなのである。』
という記述もあります。そのあたりにも触れてほしかったな、と思いました。