新・読書日記 2014_103
『神の雫44』(作・亜樹直、画・オキモトシュウ、講談社:2014、7、23第1刷)
ついに終わっちゃったなあ・・・。「12番目の使徒」、意外なワイン、で大変有名なものが出て来ました。私はエンディング、それなりに納得したんだけど、同じように読んだ妻と高2の息子は「辻褄が合わない」と言って、全然納得できないらしい。そうかなあ、良い終わり方だと思うんだけどなあ。皆さんも、読んで、感想を聞かせてください。
『神の雫44』(作・亜樹直、画・オキモトシュウ、講談社:2014、7、23第1刷)
ついに終わっちゃったなあ・・・。「12番目の使徒」、意外なワイン、で大変有名なものが出て来ました。私はエンディング、それなりに納得したんだけど、同じように読んだ妻と高2の息子は「辻褄が合わない」と言って、全然納得できないらしい。そうかなあ、良い終わり方だと思うんだけどなあ。皆さんも、読んで、感想を聞かせてください。
『銀翼のイカロス』(池井戸潤。ダイヤモンド社:2014、7、28)
半沢直樹シリーズの最新作、第4弾。それほど期待しないで読み始めたら、これが止まらない。やっぱりうまいなあ。「山場は2度やって来ます」とだけ言っておこう。
タイトルの「銀翼」から想像がつくように、今回の舞台は「ナショナルフラッグシップ」の「航空会社」。その経営が傾き、立て直しに銀行からは半沢が担当となり出向く。これって当然「日本航空」をイメージしてしまいますよね。政権交代した政府の国土交通大臣が女性で元アナウンサーだとか、なんとなく「現実の出来事」なども重ね合わせ、また、当然「テレビドラマの半沢」をはじめとする登場人物にも重ね合わせて読んでしまうので、読んでいて映像が浮かんでくるような感じでした。社内から社外から、いろんなところから飛んでくる矢を避けながら奮闘する半沢の姿に、自らを重ね合あわせて読むんだろうなあ。
『深読みサッカー論』(山本昌邦・武智幸徳、日経フプレミアシリーズ:2014、4、8)
2002年日韓ワールドカップで、トルシエ監督の下で日本代表を引っ張り、その後も日本代表チームに関わって来た山本昌邦氏と、日本経済新聞きってのサッカー通スポーツ記者(日経は、ほかにも素晴らしいサッカー記者はいるが)・武智幸徳氏の2人が、今年1月~2月にかけて、ブラジルワールドカップを前に対談し、日本サッカーの行く末を占った本。実は私は、もうブラジルW杯で日本が敗退した後にこの本を読んだのだが、それでも示唆に富んだ対談であった。読んでいて面白かったし勉強にもなった。
1か所だけ、武智さんの発言で「あれ?間違いだな」と思ったのは、226ページ、
「アルゼンチンが82年スペイン大会でカメルーンに負けたのも開幕戦でした」
というのは、
「90年イタリア大会」
が正解ですね。私はミラノでその試合を見ていました。「初めて生で観たワールドカップ」の試合ですから、忘れようがありません。そこ、校閲チェック漏れかな。残念。
最近、本を読んでると、チョクチョクこういったのを見つけてしまうんですけど・・・。
『総理の覚悟~政治記者が見た短命政権の舞台裏』(橋本五郎、中公新書ラクレ:2014、6、10)
著者の橋本五郎さんは、「ミヤネ屋」にもご出演頂いている。その五郎さんのサイン入りでこの本、頂きました。
第一次安倍政権から福田・麻生、民主党政権になって鳩山・菅・野田内閣まで、いずれも約1年という「短命政権」であった。なぜ「短命」に終わったのかは、もちろん社会情勢もあるだろうが、国を引っ張るトップとして足りなかったものは何か?それを分析することで、今後の日本の行く末を占う、役に立てる一冊。(そして第二次安倍内閣についても触れている。)
一冊を通して"通奏低音"のように流れているのは「小沢一郎」という政治家が、いかに日本を引っ掻き回したか?ということだ。1993年の細川政権のときから始まって20年、表面上は数多くの総理大臣が日本のトップに立って行ったが、そのいずれも「小沢一郎」が陰となり日向となり影響を与えて来た。そして、その20年というのは"混迷の20年"であった。「小沢支配」の呪縛から逃れることが、混迷から脱出するために必要なのかもしれないなということが、読み終わった後に、もう一度パラパラと眺めて感じたことである。
『だから日本はズレている』(古市憲寿、新潮新書:2014、4,20第1刷・2014、6、20第7刷)
著者は20代(29歳)の若手論客。日本の閉塞感を打ち破るために「強いリーダー」を求める傾向に対して「強いリーダーなんていらない」と。「クール・ジャパン」なんてキャンペーンに意味があるのか?「ポエム」で国は変えられない・・・なるほど。「テクノロジー」だけでは明るい未来はやって来ない、、、そうだろうなあ、「ソーシャル」に期待をかけすぎるな、、、なんでだろう?「ノマド」なんて単なる「脱サラ」、、、そうなのか!やっぱり「学歴」は大切、、フム、若者には「社会」を変えられない・・・などなど、なんだか著者は20代の最後(「若者」を卒業する)に際して、「若者」の「敗北宣言」をしているかのようなイメージの目次が並ぶ。でもところどころ、ケンカを売っているような強い口調で、
『今まで「クールジャパン」と「・」をいれていたのに、なぜかいきなり「クールジャパン」と表記されている。政府も新潮社や講談社のようにきちんとした校閲をいれればいいと思う。』(44ページ)
と書いている。それなのに86ページに、
「専用洗済で洗浄しないと」
という「誤植」が。正しくはもちろん「専用洗剤」ですよね。これは"わざと"なのかもしれない。だってこの本、「1刷」から2か月もたっていて「7刷」なんですから。誰か気付いているに違いない!・・・でも、直した方がいいと思いますが。
結構、面白い本でしたよ。
『愚民文明の暴走』(呉智英+適菜収、講談社:2014、6、24)
呉智英と適菜収の対談集。
最近、こういった親子ほども年の離れた論客の対談が流行っているのか?
呉智英は1946年生まれで今年68歳、適菜収は1975年生まれで今年39歳。年の差は29歳。まさに「親子ほどの年の差」である。実は、その後に読んだ『日本劣化論』(ちくま新書)という対談集も、笠井潔(1948年生まれ・今年66歳)と白井聡(1977年生まれ・今年37歳)という組み合わせである。論壇の「世代交代」の儀式なのか?「知恵」の伝授なのだろうか?
大体、司会と言うか話を進めるのは若い方で、先輩の話を引き出しつつ、先輩の記憶力がやや衰えている部分は若者が補って、という感じであるが、ちょうど「その中間の世代」である私などは、どちらからも吸収するものがあって、大変、勉強になる。
以前から呉智英の本は面白いのでよく読んでいるが、適菜収のほうは、例の『B層の研究』など興味深いのだが、文章に品がないというか、ユーモアがないというか、「攻撃的」なので「ちょっとどうなのかな...」と思う部分があったのだが、さすがに適菜が尊敬する先輩・呉智英の前では(表現形としては)その過激さは、ややマイルドになっていて、品よく読める・・・と言っても、すぐに「バカ」とか、出て来るんですけどね。呉さんだって『バカにつける薬』とか書いているから、同じ穴のムジナか。大体、本書のタイトルが『愚民文明の暴走』ですからね。「上から目線」の手厳しいものになるのは仕方がないか。
しかし、大変勉強になる一冊であるのは間違いない。チャーチルの言葉として紹介された、
「民主主義は最悪の政治形態ということができる。これまでに試みられてきた民主主義以外のあらゆる政治形態を除けば」
という、シニカルな冷めた目線の中でも、次善の策を取らざるを得ない苦悩も感じられる。そういう意味で「選挙免許制度のすすめ」などということも話しているが、私もふだん、半分冗談で、
「3回連続して投票に行かなかった人は、次の投票権を剥奪するとよい」
とか言っているので、それもアイデアとしては面白いかもしれない。
「関ジャニ∞(エイト)」は、今年結成10年だそうで。ええ!もう10年・・・時がたつのは早いなあ・・。テレビで、
「ER2/エイトレンジャー」
という曲を歌っていましたが、その歌詞の中に、
「サブイボ立てる」
というのがありました。標準語で言うと、
「鳥肌」
のことですね。それを関西弁では、
「サムイボ」あるいは「サブイボ」
と言います。「関ジャニ∞」は、関西の人たちなんやなあと、親近感を覚えました。
「ミヤネ屋」に来ていただくパネリストの皆さんの「タクシーチケット」の伝票を、パソコンで打っていたときのこと。読売テレビから、
「伊丹」
と打つつもりが、なぜか、
「熱海」
と打ってしまいました。
「伊丹」と「熱海」
「いたみ」と「あたみ」
「ITAMI」と「ATAMI」
1字違いで、大違いです。「タクシー料金」も大違いになるところでした。
危ない、危ない。
「銀ブラ」
という言葉があります。
「銀座をブラブラすること」
の略語です。ところが最近、この語源は間違いで、本当は、
「銀座でブラジルコーヒーを飲むこと」
の略語であるという話を、よく耳にするようになりました。
そうだったのか、知らなかった・・・
と思っていたら、『三省堂国語辞典』の編纂者で、早稲田大学非常勤講師の飯間浩明さんが、
「それは、間違い!」
とツイッターなどで否定してらっしゃいます。この「銀ブラ」という言葉が出来た頃には、まだ「ブラジルコーヒー」の喫茶店はできていなかったというのです。
こういった俗語を調べるには、梅花女子大学の米川明彦先生の『明治・大正・昭和の新語・流行語辞典』(三省堂)ですね。ひもとくと・・ありました!102ページ。
1916年(大正5年)の流行語だそうです。引用します。
「銀ブラ」=東京の繁華街銀座をぶらぶら歩くこと、このころから使われ出した。
とあり、一番古い記述としては『新しい言葉の字引き』(1918年)に、
「銀ブラ 銀座の町をぶらつく事」
とあるそうです。さらに、安藤更生『銀座細見』(1931年)には、
「銀座をー特別な目的なしに、銀座といふ街の雰囲気を享楽するために散歩することを『銀ブラ』といふやうになつたのは、大正四五年ころからで、虎の門の『虎狩り』などと一緒に、都会生活に対して、特別警抜な才能を持つてゐる慶應義塾の学生たちから生まれて来た言葉だ」
とあるそうです。ただ、当の慶應出身の池田弥三郎は、この説に否定的で、『銀座十二章』(1969年)の中で、
「われわれ慶應の学生仲間たちも、銀座へでも行こうかとは誘い合ったが、銀ブラでもしようか、とは言わなかった。『銀ブラ』とは、おそらく、社会部記者用語ではあるまいか」
と話しているそうです。
ただ、「銀ブラ」から派生して、大阪では、「心斎橋をブラブラそぞろ歩きすること」を、
「心(しん)ブラ」
「道頓堀をブラブラすること」を、
「道(どう)ブラ」
と言ったそうですから、やはり「銀ブラ」の「ブラ」は、「ブラジル」ではなく、
「ブラブラすること」
と考えてよさそうです。
しかし、最近出て来たと思われる「ブラジル説」は結構広がっているようで、先日読んだ漫画雑誌でも出て来ました。『ビッグコミックオリジナル9月増刊号』(小学館)で連載されている「シャカイの窓」(いとう耐)という漫画で、「銀ブラ」の語源について、以下のような、会社の上司と部下の女性の会話が出て来ました。
「知っとるかね、杉本クン、『銀ブラ』ってものは『銀座をブラブラ歩く』って意味じゃないんだぞ。」
「えーっ、そうなんですかー。じゃあどーゆー意味なんですか?」
「ヒント。『ブラ』はブラジルのブラだ」
「銀にブラジル・・・!?わかったっ!『銀行に寄ってから出社すると言って、ブラジルW杯(ワールドカップ)を観る』!!」
「・・・(ざわざわ)」
「そんなコトやっとったのか?」
「あっ、いえ。日本戦だけですよ・・・・あとポルトガルとイタリア・・・」
そして最後に作者の説明として、
「『銀座でブラジルコーヒーを飲む』だそーです・・・・」
とありましたが、違いますよー!いとうさん!!
2014年8月29日の読売テレビのお昼のニュースの中で、兵庫県内でひったくりが8件相次いだというニュースがありました。その中に、こんな「時刻表示が出て来て、違和感を覚えました。
「きのう午後8時40分すぎ」
問題はこの「すぎ」です。これは「ごろ」とした方が良くないか?ということです。
「『すぎ』や『前』は『正時』にしか使えない」
と私は考えます。つまり、
「午後8時すぎ」「午後8時前」
というのは使えても、
「午後8時40分すぎ」「午後8時40分前」
というのは放送では使うべきではないと。
その理由ですが、「すぎ」に関して言うと、「午後8時40分すぎ」という場合には、
(1)「午後8時・40分すぎ」=「午後8時40分」
(2)「午後8時40分・すぎ」=「午後8時41分とか42分」
のように2種類の解釈ができることになり、正確性に欠けるからです。今回は明らかに(2)の意味で使っています。
そもそも「分単位の正確性が求められる」のでないのなら、「ごろ」としたほうが良いのではないか?と。
また「前」の場合は、より分かりやすく「午後8時10分」を用いますが、「午後8時10分前」という場合の解釈は、
(3)「午後8時・10分前」=「午後7時50分」
(4)「午後8時10分・前」=「午後8時8分とか9分」
の2通りできます。社会一般では(3)が正しい使われ方です。
最近、若い人の間で(4)の使い方をする人がいますが、放送では避けるべきです。
そもそも、「○時○分」というのは「時刻」です。その「時刻」を表す場合、「○時」というのが「本体」であり「○分」というのは「補助単位」でしょう。
それと共に「時刻」における「○分」は、
「正時からの経過"時間"」
を示しています。「時刻表示」の中に「時間」が紛れ込んでいることが、話をややこしくしているのだと思います。たとえば、
「午後8時10分すぎ」
という場合には、
「午後8時(=時刻)を10分(=時間)すぎた"時刻"」
を指しているのです。これを(2)と同じのように「午後8時10分・すぎ」と理解すると、
「午後8時10分(=時刻)を"何分(=時間)すぎたか"が、わからない」
ことになってしまいます。
「○時○分=時刻」は、「○時=時刻(=正時)」を「○分=時間」過ぎたかを表すことで「○時○分」という「時刻」になるのです。
さらに言うと、「○時」という「正時」とともに「すぎ」を使っても良いのは、
「午後8時半すぎ」
のような「半」という「準正時」です。(アナログ時計盤では、「12」の反対側にある「6」の位置ですね。)
しかし、同じ時刻を指す「午後8時30分」に、
「午後8時30分すぎ」
と「すぎ」を使っていいかというと悩みますが、「使わない」ほうが無難ですね。
うーん、ややこしいが、わかってくれましたか?
いつも言葉のネタを提供してくれるMアナウンサーから、新ネタが入りました!
Mアナも、アナウンス部のアルバイトのKさんから仕入れたネタらしいのですが(Mアナは、話のネタの『問屋』か!?)、
「三つ編みをほどいたあとにパーマのように髪にウェーブが残った状態のことを、
『貧乏パーマ』
と言うそうです。小学生の頃、『三つ編みをして寝ると翌朝パーマになる!』と嬉しがってやったことがありました。今の小学生もやるのでしょうか・・・?!ちなみに、Kさんたちは略して、
『ビ/ン\パ』
と呼んでいたそうです。アクセントは中高です。後輩のHアナウンサーも
『ビンパ、ビンパ!やってたー!』
と言っていました。私は『貧乏パーマ』という正式名称(?)すら知りませんでした。なので大阪弁なのでしょうか?」
「貧乏パーマ」!!
なんともダイレクトな...子どもが作りそうな表現なんでしょうか!まあ、女子の言葉でしょうからね、男である私には縁のない世界ですが。「3拍中高アクセント」は「関西風」ですねえ。
グーグル検索してみたところ(8月27日)、なんと、
「貧乏パーマ」=2万0300件
「三つ編み・ビンパ」=127件
でした。中には、たった2分で仕上がる、おしゃれな「貧乏パーマ」のやり方を書いたサイトもありました。そこには、
「貧乏パーマというネーミングにだまされないで!」
とありました。別に、だましてはないと思うけどねえ。
もしかして載ってるかも...と思って『三省堂国語辞典・第7版』を引いてみたら・・・
やっぱり載っていませんでした。「貧乏○○」で載っていたのは、
「貧乏ヒマなし」「貧乏くじ」「貧乏性」「貧乏ゆすり」「貧乏ゆるぎ」「貧乏揺るぎもしない」
だけでした。それにしても、色んな言葉があるものです。
8月27日の「ZIP!!」の中の人気コーナー「MOCO'S・キッチン」を見ていたら、速水もこみちさんが、
「丼物」
を何度も、
「どんもの」
と言っているのが気になりました。これは、
「どんぶりもの」
と普通は言うのではないでしょうか?
そもそも「丼」の読み方は、
「どんぶり」
しか、改定常用漢字でも認めていないはずです。(2010年の常用漢字改定で「丼」は常用漢字の仲間入りをしましたが、その検討当の際に「どん」という読み方を入れるかどうか検討されたが、結局入れなかったと聞いています。そもそも「丼」は「国字=日本で作られた漢字」で、「井戸」に石を投げ込んだ様子を表し、その際の音「ドンブリー」「ドブン」から読みを取ったのだと、どこかで読みました。「象形文字」ならぬ「象音文字」ですかね。)
しかし、一般的には、
「天丼」「カツ丼」「牛丼」
などでは「どんぶり」ではなく、
「どん」
と読まれています。(「どん」としか読まれていません。)ある牛丼店では、その証拠に、
「丼ぶり」
という表記も見られるほどです。(関西では元々「牛肉」が主流のため。「牛丼」ではなく「肉丼」でした。今でも、うどん店などの「丼物」メニューは、「牛丼」ではなく「肉丼」です。これは「豚肉」が主流の関東においては、豚肉を使ったまんじゅうが「肉まん」なのに対して、関西では「豚まん」という現象のちょうど逆ですが、同じ流れです。)
これは「天丼」「カツ丼」「牛丼」が、そもそも、
「複合語の略語」
であるからです。省略する前は、
「天ぷら丼(どんぶり)」「トンカツ丼(どんぶり)」「牛肉丼(どんぶり)」
だったのですが、複合語の前部要素が、
「天ぷら→天」「トンカツ→カツ」「牛肉→牛」
と略されたために後半の「どんぶり」も歩調を合わせて略し「どん」になったと考えられます。
「親子丼」
の場合は、前半の「親子」が略されていないので、
「親子どんぶり」
ですが、他の「丼物」の多くが「どん」と省略されていることにそろえて「どん」と読む傾向もあるため、
「『親子どんぶり』と読まれたり『親子どん』と読まれたり」
します。もしかしたらこの先、「親子」を略して「親」として、
「親丼」
という言い方も出て来るかもしれません。(もう、出ている?)
ふと、思いついて、若手アナウンサー(20代後半)のY君に、
「丼物」
という文字を見せて「どう読む?」と聞いたら、
「え?『どんもの』ですよね?」
と言っていましたし、やはり若手(20代前半)のディレクターと30代後半の編集マンに同じ質問をしたら、
「どんもの」
という答えが返って来ました。アナウンス部でも聞いてみたら、30代のアナウンサー2人がともに、
「どんもの」
と答えました。夕方のニュースを担当している30代のアナウンサーと20代の女性アナウンサーは、
「どんぶりもの」
と答えました。40代半ばのプロデューサー2人と、50代のアナウンサー2人に同じ質問をしたら、4人とも、
「どんぶりもの」
でした。さらに「ミヤネ屋」の20代の若手スタッフ数人に聞いたところ、全員、
「どんもの」
と答え、中でも一番若い女性スタッフ(21歳)は、
「どんぶつ」
と答えました・・・「天王寺どんぶつ園」か!・・・「どんびき」でした。
レンタルDVDで、ドラマ『のだめカンタービレ』を見ていたら、
「女性のコンサートマスター」
のことを、
「コンミス」
と言っていました。初めて知りました。普通は、「コンサートマスター」を略したら
「コンマス」
ですが。グーグル検索してみると(8月28日)、
「コンサートマスター」=28万4000件
「コンマス」 =17万9000件
「コンミス」 = 3万7300件
でした。「コンマス」より「コンミス」がかなり少ないのは、やはり女性のコンサートマスターが少ないことが影響しているのでしょうか?ちなみに「コンミス」を略さずに言うと、
「コンサートミストレス」
だそうです。
「関西シティーフィルハーモニー交響楽団」という大阪のアマチュアオーケストラのサイトを見ると、「コンミス」について詳しく書かれていました。それによると、
「『コンサートミストレス誕生のいきさつ』(前略)指揮者が専門職化していく過程の中で、オーケストラの代表のコンツェルト・マイスターは、次第に第1ヴァイオリンの首席奏者に固定されていきます。これを英語で『コンサートマスター』、そして、これが女性の場合は『コンサートミストレス(ミストレスはマスターの女性形です)』となるのです。
ちなみに、オーケストラの内輪では、コンサートマスターは『コンマス』、コンサートミストレスは『コンミス』と縮めて言われる場合が多いです。」
ということでした。
「平成ことば事情1983 そうなんですね」の続きです・・・って調べたら、これを書いたのはもう10年前なんですねえ・・・。
2004年11月に、「最近、女性スタイリストの方がよく使う言葉」で気になったと書いています。
普通は「そうなんですね」と軽く受けるのではなく、
「ああ、そうなんですか!」
と言ってほしいと。
その後、ごく普通に使われるようになっていますが、私は、やはり違和感があります。
そして、なぜこの言葉が使われるのかをずっと考えていました。ある日、ひらめきました。
「『そうなんですね』は『そうなんや!』の丁寧語。『そうなんですか』は、まだ疑問を含んでいる。『そうなんですね』は、疑問の部分は解決しているから、そう話した人としては『謙虚』なつもり。でも、話題の提供者は『知らないことを教えてやった』と思いたいから、『そうなんですね』と簡単に納得されるよりも、『そうなんですか!知りませんでした!』と驚いてほしい!」
という思いがあるのではないか?
その「齟齬=食い違い」が、違和感につながっているのではないでしょうか?
(2012年4月12日にこのタイトルを書きました。当時の番号は「平成ことば事情4685」。その後ほったらかしでした)
2014年6月の新聞用語懇談会放送分科会の会議で、関西テレビの委員から出た質問が、
「洗礼を受ける・浴びる」
という言葉に関してでした。
「スポーツ原稿で『プロの洗礼を浴びる』『受ける』という言い回しがありますが どちらもOKでしょうか?また宗教的な用語が含まれることから使用しないという社はありますか?」
という質問です。これに関して各社の意見ですが、まず、
「洗礼を"浴びる"」
としている社は「ありません」でした。その上で、
(NHK)比喩としては使わない。キリスト教関係者からクレームがあったこともある。しかし現場では、田中将大投手がホームランを打たれた場面で「大リーグの洗礼を受けました」とアナウンサーが使ってしまったことはある。
(テレビ朝日)ガイドラインはないが、基本的に宗教用語(の比喩)は避ける。しかし「田中将大投手」に関しては「メジャーの洗礼を受けました」と先日出たことがあったので、「注意するように!」と紙を回した。言い換えとしては「~の厳しさ(怖さ)を知らされた(知った・味わった・思い知らされた)」など。
(日本テレビ)禁止はしていない。昔のスポーツ実況などでは、よく出て来た。宗教関係の言葉の使用に関してスポーツアナウンサーに聞いたところ「~のメッカ」はもちろん使わないが、「~の聖地」も気を付けようと話しているという。
(朝日放送)夏の高校野球の中継では「甲子園」を「高校野球の聖地」と使っている。比喩の「洗礼を受ける」も許容。「洗礼を浴びる」は使わない。
(共同通信)実態は「洗礼を受ける」はかなり使われている。禁止していないが「宗教関係の用語は慎重に」と注意を喚起している。「他力本願」「三位一体」「メッカ」は比喩には使わない。「洗礼」は2文字で見出しに取りやすい。
とのことでした。
その話をちょっと忘れていたところ、きょう(2014年8月25日)の読売テレビの夕方のニュース「関西情報ネットten.」で、京都大学野球部のプロのスカウトも目を付けている有望な投手が、阪神タイガースの2軍とプロとアマの交流試合で登板したというニュースの中で、この投手が初回・2回で、6安打5失点を喫したことを受けて、
「プロの洗礼を浴びました」
と出て来ました。このピッチャーは、
「まだプロには入っていない」
ので、「明らかな誤用」ですね。
それと「洗礼」はあくまで「受ける」ですから、「浴びる」としたのは「二重に間違い」と言えるでしょう。
「洗礼を浴びる」という誤用が生まれた背景について考えてみると、おそらく「洗礼を受ける」という事例が「野球」の場合には、多くは、
「新人ピッチャーが、ホームランを打たれる(浴びる)など、ボコボコに打ち込まれたケース」
に使われます。そこで「洗礼を受ける」と「ホームランを浴びる」の「混交表現」から生まれたのではないでしょうか?あ、昔々(1958年=昭和33年)、
「デビューしたての長嶋茂雄選手が、国鉄スワローズの金田正一投手に『4打席4三振』させられたこと」
も、「プロの洗礼を受けた」出来事でしたね。
ちなみに「ホームラン」以外に「浴びる」ものとしては、
「水(などの液体)」「シャワー」、「放射線」「光(スポットライト、太陽光線、月のあかり、カクテル光線など)」「称賛」「罵声」
などを思い浮かべます。
それで「洗礼を受ける」場合の「行為そのもの」は、
「その世界に所属している人にとっては『ごく当たり前』で『どうということはないこと』だが、素人や部外者にとっては『とてつもなくレベルが高く難しいこと』」
ですね。
『てれびバカ~ツッパリオヤジvs小悪魔オヤジ』(藤村忠寿・西田二郎、角川マガジンズ:2013、8、13)
6月に会議で東京に行った時に、新聞協会の入っているプレスセンターの1階にある書店でブラブラしていて見つけたのがこの本。なんと読売テレビの後輩であり、『ダウンタウンDX』や『ガリゲル』などの名物ディレクター・西田二郎君が、対談本を出しているではないか!しかも、もう1年近くも前に!すぐに購入した。対談相手は、あの俳優・大泉洋を育てた北海道テレビの番組『水曜どうでしょう』のディレクターだというではないか!いつのまに。そんなつながりが!?
実はこの対談は、雑誌『関西ウォーカー』誌上で行われていたものを単行本にまとめたのだとか。そうだったのか。全然、知らなかった!
読んでいくとこの二人は、いつの間にか「テレビ埼玉」で番組(出演する方)までやっているというではないか!うーん、油断ならん。
本当に"テレビが好きで好きでたまらない"二人の、交わる所があるようで、実は正反対かもしれない個性で作っている番組のキモを知るためには、必読の一冊ではないだろうか。
実は、この本を見つけて購入した日に、その後一緒に飲みに行った人の一人は、この本の企画を出した『関西ウォーカー』編集長(当時)の玉置泰紀さんであった。びっくりした。だって、その時が、私は玉置さんとは(実質)初対面だったし。それなのに、たまたま買って持って行った本が、その人が関わった本だったなんて。縁は異なもの・・・ですなあ。
それにしても、タイトルに「バカ」という言葉が入った本を連続して読むなんて・・・。
『バカが多いのには理由がある』(橘玲、集英社:2014、6、30)
刺激的なタイトルだが、内容はタイトルのイメージとは違い、冷静で落ち着いた中に鋭い指摘を持ち、シニカルではあるが、その分析は役に立ちそうな感じがした。
2012年11月から2014年5月にかけて『週刊プレイボ-イ』誌上で連載されたものをまとめたものらしい。最近『週プレ』、読んでないからなあ。
60ページぐらいまでは、今の世の中の違和感に関して、「ファスト&スロー」「正義と進化論」「狂信はどのように生まれるのか」「『光と徳の物語』としてのゼロ」と区分けして説明している。その後は「政治」「経済」「社会」「心理」の4つの分野での「ニッポン」の問題点を指摘している。知的な刺激を受けられるとともに「現代ニッポン」の問題点が見えてくる一冊。
読み出したら止まらない!結局、明け方5時まで読んでしまった!
単行本は2012年に出ている。『代官山コールドケース』の続編。「コールドケース」とは、たしか「未解決事件」のこと。この『地層捜査』もまさに「コールドケース」を溶かす捜査の話。
殺人事件の時効が15年から25年に延び、そして遂に時効がなくなった。これによって犯人は逃げ続けなければならなくなった、命ある限り。そして捜査する側の警察も、人員は増えない中で、捜査を続けなくてはならなくなった。
17年前にはオクラ入りとなった事件。時間が経ったことによって、まるであぶり出しのように浮き上がってくる当時は隠されていた事実の数々。引退した警察官と、謹慎処分が解けたばかりの警察官が「相棒」を組んで事件解決に向かう様子は、ついつい徹夜してしまうぐらい、おもしろい。
『サッカーと人種差別』(陣野俊史、文春新書:2014、7、20)
浦和レッズで「JAPANESE ONLY」と書かれた横断幕が「人種差別」に当たるとして、社会問題になった。その少し前にも、試合中の黒人選手に対して「バナナ」が投げ入れられるという"事件"が相次いでいる。「バナナ=サル」という侮蔑表現である。その投げ入れられたバナナについて「差別に屈しない、気にしてない」という表現として、拾ってパクリと食べる選手も現れ、その行為を称賛して「差別反対の意思表示」として「バナナを食べるパフォーマンス」も話題になった。とはいえ、サッカーファン以外は、気にもしていなかった(知らなかった)ことかもしれない。
近年、「ヘイトスピーチ」など「差別行為」が公然と行われる傾向にある。米・ミズーリ州での黒人少年を白人警察官が発砲して殺してしまった"事件"もしかり。閉塞感あふれる世界の中で、"不満のはけ口"を弱い者へ向ける傾向が強くなっているように思える。
本書では「サッカー界」における「人種差別」が、どのように行われて来たか、また差別の対象となった選手たちはどう闘ってきたかを記す。帯には、
「テュラム、アンリ、エトー、ダニエウ、アウベス、バロテッリ、ボアテング、バーンズ、アネルカ、カランブー、オシム・・・凄まじい憎悪と彼らはいかに闘って来たのか?」
とある。その大部分の選手の名前は記憶にあるが、どのような「差別」を受けて闘って来たかはよく知らなかった。また、女子サッカーにおける「ヒジャブ」問題などにも言及している。勉強になった。
『紙つなげ!彼らが本の紙を造っている~再生・日本製紙石巻工場』(佐々淳子、早川書房:2014、6、25)
ことしの夏休み中に読んだ6冊の内の1冊。
著者は第10回開高健ノンフィクション賞受賞作『エンジェルフライト』の著者。
6月ぐらいに、ツイッターでとてもほめている文章を見て、読んでみたいなと思っていたのだが、なかなか書店では見かけなかった。その後、新聞や週刊誌の書評欄でもかなり取り上げられてきたころ、ようやく書店で発見、即購入して読んだ。
日本製紙の石巻工場は、日本の雑誌や漫画本の「紙」のかなりの割合を作っている工場。ここでしか出来ない「紙」というものもあるそうだ。この本を読んで初めて「そうか、あの本の紙も、石巻で作られていたんだ!」と驚きと感銘を持って受け止めた。
その工場が、東日本大震災の津波で大きな被害を受けた。東日本大震災直後、「紙」が不足しているということは、小耳にはさんでいた。実際、週に1回通っていた甲南大学でも、レジュメをコピーする場所に「震災で紙が不足していますので、大切に使ってください!」という張り紙がされていたのを覚えている。あれは、ここ(石巻)のことだったのか!
津波被害を受けた機械・工場を、いかに使命感を持って復興し、また「紙」を生産することができるようになったかまでを描くドキュメント。
「これはもしかしたら、映像化して『ドキュメンタリー番組』にできるのではないか?」と思いながら読んだのだが、読んでいるうちに、
「これは、もし映像化するとしたら、『ドキュメンタリー』ではなく『ドラマ』だな」
と思うようになりました。
『詐欺の帝王』(溝口敦、文春新書:2014、6、20第1刷・2014、7、5第2刷)
「半グレ」などの言葉も生み出した、闇の組織のルポを手掛けているノンフィクションライター・フリージャーナリストの溝口敦さんの新著。
「オレオレ詐欺」「未公開株勧誘」「ヤミ金」などの業界の頂点を極め。「オレオレ詐欺の帝王」と呼ばれた男へのインタビューに成功したと言う。30代後半、身長178センチ。弁舌は爽やかで、暴力臭はまるでなく、知的に諄々と説得していくタイプ。頭は非常に切れ、カタギのどんな仕事をしてもきちんとこなしていくだろうと、著者はみた。事実、なんと大学卒業後に大手広告会社に5年在籍したと言うのだ!
うーん、意外と身近にいる人物かもしれない。それがなぜ、こんな仕事に手を染めたのか。どういうカラクリだったのか・・・それは本書を読んでほしい。
結局、詐欺のターゲットとなってしまう人たちは、
「儲けたい」「勝ちたい」「隠したい」
という強い欲求を持っていて、そこに闇人間は、巧みに付け込んで来るということだ・・・。
『話し言葉の日本語』(平田オリザ+井上ひさし、新潮文庫:2014、1、1)
夏休に読んだ本6冊の内の1冊。
単行本は2003年1月に出ている。1996年に発刊された戯曲専門雑誌(!?)『せりふの時代』で、創刊号から2001年まで連載された対談を一冊にまとめたもの。既に井上ひさしが世を去って3年以上がたつが、こうやって対談を読んでいると、まだ生きているかの気持ちになる。日本語のプロ中のプロの対談だ、面白くないわけがない。そもそも日本語・言葉とは、そして台詞とは方言とは敬語とは、これからの日本語はどうなっていくのか?といったところまで。前半は、大体、井上さんが口火を切って引っ張って行って、平田さんがそれをうまくリードする感じ。後半になって、ようやく平田さんから切り出すこともできるようになって来たかなという感じだった。
広島市の大規模な土砂災害の被害は、8月22日午前の段階で、死者39人、行方不明者は少なくとも51人となっています・・・。
8月21日の「ミヤネ屋」で、被害に遭われた方のご自宅を取材させてもらった映像で、その40歳の男性の方が、こう話していました。
「窓ガラスが"ひばって"いて、危ないからこっちに来いと」
この中の、
「ひばっていて」
の意味が分かりませんでした。そのままコメントフォロー・スーパーとして出すわけには行きません。広島弁が分かる人に聞いてみよう!ということで、社内の広島出身の人に聞いてみたところ、
「私も、もう広島を離れて30年ほどになるので、正しいかどうかはわかりませんが・・・」と言いながら、
「『ひばる』というよりは『ひわる』と言いますが、『たわむ』とか『まがる』『ゆがむ』のような感じですかねえ。」
と言います。ニュアンスはわかりました。念のため『精選版日本国語大辞典』を引くと、なんと「ひわる」が載っていました!
「ひわる」=ひびや割れ目がはいる。割れる。
そうか!「ひび割れる」か!それだと文脈がつながる!用例は、
*『新撰字鏡』(898-901頃)「比波留」
*『源氏物語』(1001-14頃)真木柱「柱のひはれたるはざまに」
と古いものがあり、さらに「補注」として、こう書かれていました。
「(1)後世、『干割る』と混同された面があるが、『新撰字鏡』の表記などから判断して、本来は『ひはる』であり、その語源は定かではないが、あるいは『ひ』は『ひび』『ひま』などの『ひ』と同じで割れ目の意、『はる』は田畠を切り開く『はる(墾)』に対する自動詞で切り裂けるの意であったかっとも思われる。
(2)『観智院本名義抄』に『圮 ヒバル』、『色葉字類抄』に『拆 ヒバル』という濁音表記も見られるところから、本来『ひばる』であったものが、清濁の表示不十分であったため『ひはる→ひわる』とよまれ、意味の近似も手伝って、しだいに『干割る』のように意識されていったとも考えられる。」
ふーむ、そんなに歴史のある「古語」が、広島方言では「現代語」として生きているんですね!これも柳田国男の「方言周圏論」の一例なのかもしれませんね。
結局「ミヤネ屋」のコメントフォロー・スーパーでは、「ひばって」を、
「ひび割れて」
に置き換えて出しました。
報道局の新人記者クンに質問を受けました。
「大阪駅は、『駅ビル』って言わないんでしょうか?」
「え?うーん、まあ言わないかな。大阪駅前ビルはあるけどね」
「京都は『京都駅ビル』って言うじゃないですか。『駅ビル』ってどういうものを言うんでしょうか?」
「あんまり考えたことなかったなあ。『京都駅ビル』は固有名詞なんじゃないの? よく知らないけれど。大阪の駅のビルは"巨大な複合体"でしょ。『一つのビル』と言うよりも、南側のもともとあった駅のビルと、北側の『グランフロント大阪』とは、ビルの所有者も違うんじゃないか?そうすると、一体として『駅ビル』とは呼べないんじゃないかな。そもそも『駅ビル』って、もう少し小さめのビルのような気がするなあ」
「そうですか」
という会話が、男子トイレで用を足しながら交わされました。
グーグルに「駅ビル」という単語を入れて出てきた候補には、
「新横浜駅ビル」「錦糸町駅ビル」「武蔵小杉駅ビル」「吉祥寺駅ビル」「八王子駅ビル」「京都駅ビル」「品川駅ビル」「蒲田駅ビル」「相模大野駅ビル」「五反田駅ビル」
がありました。
国語辞典も引いてみました。
「一部を駅舎施設、他の部分をデパート・ホテルなどとして使用するビルディング」(広辞苑)
「駅舎をふくむ、多くの商店が入ったビル」(三省堂国語辞典)
「一部を駅舎として江用い、他の部分をデパート・食堂・商店・ホテルなどとして用いるビル・ステーションビル」(新明解国語辞典)
「鉄道の駅のあるビル。特に、その一部を商店街などに利用しているときにいう」(精選版日本国語大辞典)
などと載っていました。グーグル検索では(8月21日)、
「駅ビル」 =116万0000件
「ステーションビル」= 54万9000件
「ターミナルビル」= 31万5000件
でした。「ウィキペディア」で見ると、こうありました。(=コピペ)
『駅ビル(えきビル)あるいはターミナルビルは、鉄道駅の駅舎を大規模化し、商業施設など駅機能以外の機能を持たせた建物のことである。特に日本において発達している。プラットホーム等に比べ駅の「顔」として紹介されることが多い。多くの場合、テナントとして百貨店をはじめとする各種の店舗、企業のオフィス、ホテルなどを入れている。駅ビルに入居するテナントは駅の利用者層に応じて様々であり、観光客の利用が多い駅では、駅ビル内に地元商品、土産物を取りそろえた店もある。都心にある特に大規模な駅ビルでは下層階に商業施設、上層階にホテルやオフィスを入居させる例も見られる。
建物全体の規模の中で駅舎としての性格が小さくなる場合もあり、「駅ビル」と「駅に隣接し、駅と結ばれているビル」を厳密に区分して定義することは難しい。』
「駅ビル」というネーミングは「京都駅ビル」の時代、たしか1997年ぐらいかな、15年ぐらい前で終わっていたのかもしれません。(もちろん、いまも各地に「駅ビル」はあるのですが。)
ちなみに大阪は
「大阪ステーションシティ」
で、「駅ビル」という「ビル」から「シティ」に規模が大きくなった感じですね。
7月24日、お昼のニュースの前に、報道のWデスクが、
「つかぬことを伺いますが・・・」
と、私のデスクの所にやって来ました。
「お昼のニュースでユリ園のニュースをするのですが、ユリの花を数える時は『本』でしょうか?それとも『輪』でしょうか?」
「えー?『本』でいいんじゃないの?」
「そうですよね。でも現地の記者が、『250万輪』でいきたいって言って来てるんですけど・・・」
「『輪』は『一輪挿し』とか、『2輪、3輪』とか一桁なら分かるけど『250万輪』って聞いたことがないなあ。一応調べてみるね。」
飯田朝子さんの『数え方の辞典』(小学館)を引くと、
「ゆり【百合】=本、株、輪=植物としては『本』『株』で数えます。花は『輪』で数えます」
とありました!そうだったのか!
しかし1本の茎から、いくつか花が咲いていることもあるし、「本」と「輪」の数は、必ずしも一致しないですよね。
「本」<「輪」or「本」=「輪」
ということですね。「たくさんユリがある」ことをPRしたい「ユリ園」としては、「輪」を使いたがる気持ちもわかります。また、「植物の数」としての「本」よりも、「ユリ園」としてのメインは「花」でからね。
実際の「ユリ園」のホームページでの紹介文をいくつか調べてみました。すると、
*「可睡(かすい)ゆりの里」(静岡・袋井市)
=3万坪に広がる、世界150品種のゆりの競演
*「ところざわのゆり園」(埼玉・所沢市、西武鉄道)
=約3万㎡の自然林に咲き誇る50種類・約45万株のゆり
*「大阪舞洲ゆり園」(大阪・大阪市)
=シーサイドに200万輪のゆりが咲き誇る
*「ダイナランドゆり園」(岐阜・郡上市高鷲町)=毎日新聞のサイトより
=約5万7000㎡に、約50種360万輪が咲き誇る
ということで、
「品種」「株」「輪」
が使われていましたね。
結局、本番のニュースでは、テロップ・ナレーションとも、
「250万輪」
で放送しました。意外と違和感はありませんでした。
でも「ゆり園」のPR文章では、
「咲き誇る」
が決まり文句のようですねえ。
8月20日の広島の土砂災害のニュースで
「まさ土」
という言葉が出て来ました。漢字では、
「真砂土」
とも書くようです。この読み方ですが、どうやら、
「まさつち」
「まさど」
の2種類があるようなのです。ただ、国語辞典を引いてみると、
「まさつち」
しか載っていません。しかし、その意味を見ると、
「『まさつち』は『園芸関係の用語」
のようです。
「関西情報ネットten!」に電話で出演していた京都大学防災研究所の釜井俊孝教授は、
「マ\サド」(2回目は「マ/サド」と平板アクセント)
というアクセントで「ド」と言っていました。「頭高アクセント」だと、「イスラエルの情報機関」のよう感じです・・・あれは、
「モ\サド」
か。NHKの原田邦博さんに伺ったところ、
「『趣味の園芸』という番組では、『まさつち』を使っているが、今回の土砂災害のニュースでは、東京農工大学・石川芳治教授の発言の引用で、『まさど』とした」
というメールを頂きました。
「土」の読み方が2種類あるもので言うと、
「盛り土」
に似ていますね。これも、
「もりつち」「もりど」
の2種類ありますが、「土木関係の用語」としては、
「もりど」
ですね。
「ミヤネ屋」のOディレクターからの質問です。
「結石は『排せつ』でしょうか?それとも『排出』でしょうか?」
答えから言うと、
「排出」
で。私のイメージ(と『広辞苑』の記述)によると、
*「排せつ」=生物の体内から、代謝による不要または有害物質を体外に出すこと。
*「排出」=単に、内部から外部に出すこと。
という区別ですから、「尿」や「便」は「排せつ」ですが、「結石」は代謝によってできたのではないので、
「排出」
だと思います。
2013年10月、読売新聞校閲OBのNさんから、
「『家が建っている所』の『たっている』は『立っている』ではないか?」
とご指摘を受けました。確かに『新聞用語集2007年版』などにはそう書いてあるようです。しかし、私は、
「立つ」=stand
「建つ」=build
というイメージから言うと、「家」は、
「建つ」
のほうがイメージとして合う気がしました。つまり、
「たつ」=「建てられて、今ある」。単に「立っている」のではない
という感じです。そこで、そのまま、
「建っている所」
にしました。
『果つる底なき』(池井戸潤、2001、6、15第1刷・2011、10、3第17刷)
ことしの夏休中に読んだ6冊の内の1冊。唯一の小説。
第44回江戸川乱歩賞受賞作。1998年9月の単行本は出ているから、もう16年前の本。しかし、文庫本が2001年に出てからの10年で、なんと17刷というロングセラーだ。「倍返しだ!」の「半沢直樹」の著者だが、同じように銀行が関係しているけれども、もっとハードボイルドな感じがした。「逢坂剛」的な感じ。とにかく次々と人が死ぬ。
「16年前」という「時代感」は、こんなところで感じられた。
「留守電の点滅を見ながら」(99ページ)
「まるで茶店(サテン)だな」(122ページ)
「公衆電話ボックス脇で車を停め難波からもらったメモの番号に掛けてみた」(333ページ)
つまりこれは、「携帯電話がない時代」の小説である。
『還暦からの電脳事始』(高橋源一郎、毎日新聞社:2014、7、25)
実は、高橋源一郎さんの文章はあまり好きではないのだが、今回は、脱力感溢れる「しりあがり寿」さんの表紙のイラストに惹かれて買ってしまった。(いつもはしりあがりさんのイラストとか漫画も、あまり好きではないのだが・・・)
タイトルもいいですね。「還暦から」と言いつつ、実は著者は、もう30年以上前からワープロやパソコンで原稿を書いて、ゲームもやりつくし(?)、「iPad」も使っているし、実はこのお年にしては相当の「電脳ライフ」を過ごしているように思う。私よりずっと電脳ライフだ。戸惑いながらも勧められるままにその世界に一歩一歩入って行く様子が、とても好ましいと思った
『街場の憂国会議~日本はこれからどうなるのか』(内田樹・編、晶文社:2014、5、10)
「街場の~」という内田樹さんの一連のタイトルは決して好きではないのだが、ついつい呼び込まれてしまう魅力がある。今回は内田さんだけでなく、小田嶋隆・想田和弘・高橋源一郎・中島岳史・中野晃一・平川克美・孫崎亨・鷲田清一という、まあ、大体顔ぶれを見れば「右か?左か?」で言うと「左寄り」の人たちの意見を集めたものという感じですねえ。「憂国」というタイトルは「右」っぽいですが。私は、想田さんの文章を読みたいと思って購入。
「まえがき」に続いて書かれた「株式会社化する国民国家」(内田樹)というのは、まさに堤未果さんの『(株)貧困国家アメリカ』と同じ考え方でないか!「新自由主義」の行きつく先は同じなんですね。想田和弘さんは「安倍政権による『民主義の解体』が意味するもの」とう論文で、自民党の憲法試案を分析して読み解いている。それによると、今の自民党が目指す理想の国家像は、「国民の基本的人権が制限され、国家権力がやりたい放題できる、戦争のできる全体主義の国」だと。そして安倍・自民党の目指す究極の目標は「ネオ・開発独裁」とも言うべき「企業主権のための独裁政治体制の構築」であると。おお、やはり「株式会社化」といい「企業主義」といい、なんだか「個人」よりも「法人」が優遇されるような、そんな感じがするな・・・。9月の内閣改造で、どういう一歩を踏み出すのか、注目である。
2014年8月20日未明、広島市に局地的な豪雨が降り、安佐南区と安佐北区で、多くの被害が出ました。20日午後2時現在で、警察庁の発表によると、
「死者27人 安否不明10人」
となっています。(その後、午後5時20分には、死者は32人に増えました。安否不明は9人です。)
この「安否不明(者)」は「行方不明(者)」とは、どう違うのでしょうか?
実は3年前の東日本大震災のすぐ後に、「行方不明者」と「安否不明者」の違いについて疑問を持ち、調べました。その際のメモによると、
「警察に家族などから届出のあった」=「行方不明者」
「およそ8000人の所在がわからない」=「安否不明者」
「岩手県内で行方がわからなくなっている人は3814人」=「行方不明者」
「NHKは『所在不明の方』と(=「安否不明者」のこと)
「NHKのニュースを見て(聞いて)いたら、『家族などから行方がわからないと届けのあった「行方不明者」の数は』という説明つきの原稿でした」
その際の私の考えでは、
*「行方不明者」=「行方がわからなくなっていることが確定している人」
「『行方が分からない』という届け出がある人で、縁者がいると思われる人。
*「安否不明者」「安否確認が取れない人」=「行方不明であるかどうかもわからない人」(もしかしたら、全く連絡が取れない場所で、無事でいるかもしれない人)で、縁者などからの問い合わせもないが、役場などで連絡を取ろうと試みるも連絡が取れない人。
ではないかと考えていました。
「東日本大震災のような大きな災害なので『安否不明者』という表現が出てくるが、普通なら『行方不明者』だけで済む」
ともメモしていました。また、
「先日、宮城で『安否不明者 約2000人』の生存が確認されたというニュースがありました。たぶんですが、『行方がわからなくなっている人』は『3202人』とヒトケタまで、具体的数字なのに対して『安否がわからない人』は『2万人を超えている』という『概数』なのも、それを表わしているのではないでしょうか?」
と書いています。
ただ当時の「日テレ24」のニュースでは、
「東日本大地震による死者・行方不明者数は、警察や自治体などが把握しているだけで計7000人以上となっている。また、安否がわからない人は2万人を超えている。警察庁などによると、(3月)15日午前0時現在での地震による死者は全国で1897人に上っている。最も多いのは宮城県の785人、次いで岩手県の627人、福島県の431人などとなっている。」
「 宮城県の災害対策本部の席上で『南三陸町内だけで、すでに遺体は1000体以上ある』との報告があった他、宮城県警が『牡鹿半島で1000体を超える遺体を発見した』と発表した。また、仙台市若林区でも、津波で死亡したとみられる200~300人の遺体が発見され、20体が収容されている。岩手県などによると、今回の地震で安否がわからない人は2万人を超えている。また、行方がわからなくなっているのは全国で3002人で、岩手県で315人、宮城県で1106人、福島県で1573人などとなっている。」
のように「死者・行方不明者が7000人以上」とリードで言いながら、本文では
「死者1897人」「行方がわからなくなっている人3002人」とあり「あわせても4899人」
で、「7000人」とは開きがあるというケースもあったようです。
「行方不明者」は、家族や知人、親戚、同僚等から「この人いませんか?」というように、「どこどこの誰かさんがいない」ことがわかっていること。
「安否不明者」は、この街や市に何人かいたことはわかっているはずなのに、届け出がないから、把握出来ない人達です。「行方が不明」と言うよりは、「誰だかわからないけど、生きているか死んでいるかわかっていない人」で、家族・親戚もろとも被災している場合が多く、でも被災の人数としてカウントしている人達のようです。
福島出身の詩人・和合亮一さんの詩集『詩の礫』(96 ページ)には、「安否不明」「行方不明」という言葉が両方出て来ます。
「安否不明16630人以上。2011年3月22日22;42。」
「行方不明のご親戚と、発見されたご親戚のお話も伺った。2011年3月23日22;57」
この「安否不明」は、2013年10月15日~16日の伊豆大島の台風26号に伴う被害でも出て来ました。10月28日に「ミヤネ屋」スタッフから届いたメールには、
「死者数で変更がありました。死者:33人 安否不明:9人」
とありました。
きょう、広島の土砂災害を受けて、改めて考えてみましたが、
「大きなくくり」としては、
「『行方不明者』のカテゴリーの中に『安否不明者』が入る」
と思います。
そして、事故などが起きてから"直近"の時間帯は、
「生きているかどうかに関して言う場合」は「安否不明」。
事故などからだいぶ時間が経って(1週間とか1か月とか)、
「もう生きてはいないだろうな、でも行方が分からない場合」は「行方不明者」。
という区別を考えました。そして今回の広島は、
「まだ豪雨被害・土砂崩れから時間もたっていない」
ですし、
「おそらく家の中にいて家ごと流されたのだろう。ある程度場所は分かっているが、生きているかどうかわからないという状態」
なので、
「安否不明」
が妥当だと判断しました。(日本テレビはより広いカテゴリーの「行方不明」を使っていたようですが。)
ただし、ナレーション原稿に出て来た、
「行方不明者の安否が気遣われる」
というのは「安否不明者の安否が気遣われる」ではおかしいので、そのまま「行方不明者」使いました。
『(株)貧困大国アメリカ』(堤未果、岩波新書:2013、6、27)
ことしの夏休みに読んだ6冊の内の1冊。去年の今頃に出てすぐに買って、読みさしのままほうっておいたもの。『ルポ貧困社会アメリカ』『同 Ⅱ』に続くシリーズ完結編。
第1作『ルポ 貧困社会アメリカ』は、「日本エッセイストクラブ賞」と「新書大賞2009」を受賞した。これまでの「貧困大国アメリカ」に「(株)」が付いたのは、アメリカの巨大な「株式会社=民間企業」が、「世界企業」として、全世界を支配しようとしている様を描いているから。と、こう書くと「悪の組織」「陰謀」という言葉がイメージさせるが、実は「グローバル化=アメリカ化=新自由主義」を究めようとしているだけともいえる。しかしそれが招く世界の実態は、思わぬ弊害も出て来る。おそらくそれは「世界企業側」も想像しなかった事態に・・・というような警鐘を鳴らす一冊。
『マレーシア航空機はなぜ消えた』(杉江弘、講談社:2014、7、10)
タイトル通りの謎を残したまま、以前消息不明のマレーシア航空機。
2014年3月8日に飛び立ってから、もう5か月以上が経つ。事件なのか?事故なのか?そうこうしているうちに、同じマレーシア航空機がウクライナ上空で撃墜された。「またマレーシア航空機か!」。誰もがそう思っただろう。そして忘れかけていた3月の行方不明事件(事故)が、また取りざたされる。
一応当時は、機長が何らかの政治的な活動をしていたので、「機長によるハイジャックなのではないか?」という意見も出ていた。少なくとも「事故」ではないと。また、「実はどこかの島に着陸しているのではないか」というような「陰謀説」なども出て来た。謎である。その謎に、元日本航空機長で、「ボーイング7474」での飛行時間1万4000時間という世界記録を持つ著者が、「プロ」の機長の目線で挑む。と同時に、飛行機の機能や、機長とはどういうものであるかも説明していく一冊になっている。
「ミヤネ屋」スタッフのH君から質問です。
「例の東京・中野の『まんだらけ』から鉄人28号のおもちゃを盗んで捕まった男に関してですが、盗んだものを売る行為は『転売』と言っていいのでしょうか?」
「うん?語感から言うと、『転売』は『買った物を、さらによそに売ること』だねえ。一応辞書を引いてみよう」
ということで引いてみると、
「転売」=買った物を、さらにほかに売り渡すこと、またうり。」(『精選版日本国語大辞典』)
とありました。ということは、「盗んだ物」は「買った物」ではないので、「転売」とは言えませんね。
「転売」自体は「商行為」であり、「窃盗」は正当な「商行為」ではもちろんないので、
「商行為の用語としての『転売』には当たらない」
ということになりますね。
「平成ことば事情5468 南沙諸島か?スプラトリー諸島か?」の続きです。
このときは2014年5月末に開かれた「新聞用語懇談会春季合同総会」での主に新聞各社の対応について書きましたが、今回は6月に開かれた「新聞用語懇談会放送分科会」での放送か聞く社の対応です(書いたつもりで、忘れていました)。
会議での私の質問は、
『南シナ海での「南沙諸島」「西沙諸島」などの「諸島」の読み方・表記の仕方ですが、「英語名」の「スプラトリー諸島」「パラセル諸島」などを使われていますか?原稿とテロップでは、どう対処されていますか? 』
というもので、各社の回答は、以下の通りです。
****************************************
(NHK)5月12日に報道局通達で、1回目は「南沙諸島・英語名スプラトリー諸島」と読み、スーパーも併記することに。2回目以降は「南沙諸島」。
(日本テレビ)統一はしていないが、基本「南沙諸島」で。スーパーは「南沙(スプラトリー)諸島」という併記も増えている。
(TBS)混在している。読みは「南沙」「西沙」。スーパーは両方ある。統一していない。
(テレビ朝日)今、考査では一番悩んでいる。番組ごとにバラバラ。スーパーで併記も増えている。英語名を読むことはないが、方向性はNHKと同じか、スーパーのみ併記か・・・。
(テレビ東京)現状では「南沙」「西沙」のみ。スーパーも併記していない。英語名併記をするかどうか、検討を始めたところ。
(フジテレビ)統一はしていないが、外信部は「迷う」と。当初は「スプラトリー・南沙諸島」としていたが、現状は国際敵な傾向を採用し「スプラトリー諸島」「パラセル諸島」としている。「南沙諸島」「西沙諸島」は使っていない。
(朝日放送)基本的にテレビ朝日に同じで、外報に準じている。先日、テレ朝の外報から回ってきた連絡では、読みは「南沙諸島」「西沙諸島」、スーパーは「南沙(英語名スプラトリー)諸島」と1回だけ出すというものだった。
(テレビ大阪)読みもスーパーも最初だけ「南沙(スプラトリー)諸島」、2回目からは「南沙諸島」。
(関西テレビ)FNNで統一はないが、「スプラトリー(南沙)諸島」とスーパーは併記。読みは「スプラトリー諸島」。
(共同通信)「南沙(英語名スプラトリー)諸島」。
とのことでした。
そして、きょう(8月19日)、「テレビ朝日」のお昼のニュースを見ていたら、現地の取材で、梶川記者が報告をしている場面の「スーパー」が、
「スプラトリー(南沙)諸島」
という併記で、スタジオの男性アナウンサーの「ナレーション(原稿)」は、
「スプラトリー諸島」
でした。
『絶望のテレビ報道』(安倍宏行、PHP新書:2014、7、29)
ことしの夏休み中に読んだ6冊の内の一冊。
著者は、日産自動車に入社後、1992年にフジテレビに入社(転職)。ニューヨーク支局長や「ニュースJAPAN」のキャスターを務めた。(その時は、あの「滝川クリステル」とのコンビ)顔写真を見れば「ああ、見たことある!」となるだろう。しかし、テレビの地上波での報道に限界を感じ(たのだと思う)、活躍の場を「BS」に移して、より長時間のインタビュー番組などで「自分が興味のある時代を代表する人」を呼んで「解説キャスター」として話を聞いて来たが、視聴率の呪縛を受けるテレビよりも、ネットに可能性を感じたのだろう、2013年に退職。現在は『Japan In Depth』の編集長。
タイトルを見たときは「そんなに絶望しているのなら、本なんて書かなくてもいいのに・・・」と思ったが、おそらくタイトルは著者がつけたのではないのだろう。編集者が「キャッチ―」なタイトルにしたのではないかと思う。
そんな本の中に、わが『情報ライブ ミヤネ屋』が、2か所も出てくるのでびっくりした。
「『情報ライブ ミヤネ屋』は、大量のディレクターを抱え、独自に取材を進め、中身を充実させている。」(36ページ)
ほめてくれるのはうれしいけど、「大量のディレクター」なんかいませんよ!
「読売テレビ系列の『情報ライブ ミヤネ屋』などは、豊富な制作費とスタッフで、ニュースを分かりやすく解説」(112ページ)
あのー・・・どう考えたってキー局のフジテレビさんの方が、制作費が豊富に決まってるじゃありませんか!・・・あ、これってもしかして 「ほめ殺し」?と感じましたとさ。
でも、テレビ局がネットの活用をなかなかうまく出来ないでいる現状は、確かにそうだと思った。
『毎日の言葉』(柳田国男、角川ソフィア文庫:1964、9、20初版・2013、1,25新版初版・2013、4、5新版再版)
この本は、最初昭和21年(1946年)、そして31年(1956年)に出たものが、昭和39年(1964年)に文庫化されたもの。それが仮名遣いなどを直してだと思うが、なんと、ちょうど半世紀たった去年(2013年)に新版として出て、すぐに3か月で再販されている。今読んでも内容はフムフムと思える事が多い。去年出たときには、本屋さんでも気付かなかったが、たまたま5月末に立ち寄った甲南大学の生協の本屋さんで、カウンター横に1冊、置いてあるのを見つけて購入したもの。内容も価値があるが、こうやって名著を発掘・復活させるのは価値のあることだと思う。
いつも「言葉のネタ(話題)」を提供してくれる「ママさんアナ」のMさん。お昼のニュースの担当の前に、「何か新しい話題ない?」と聞くと、一つ教えてくれました。
「うちの子どもの言葉なんですけど、『蚊』のことを『カガ』って言うんですよ。『カガがいた』というふうに。これってきっと『イヌがいた』『ネコがいた』みたいに言っているので、『蚊』も二文字で『蚊=カガ』だと思っているんですかね?」
なるほど。それに対して私は、
「ふーん。たしかに一文字の言葉って珍しいからね。だから『イヌ』とか『ネコ』のように二文字だと思って『蚊がいた!』と言っているのを聞いて、『蚊』のことは助詞もくっつけた『カガ』だと思っているんだろうね。大体、関西弁では『手』『目』『歯』『毛』などの一文字の言葉も、長音で伸ばして『テ/エ』(平板アクセント)、『メ/エ』(平板アクセント)、『ハ\ア』(頭高アクセント)、『ケ\エ』(頭高アクセント)のように『2音』にするから、子どもさんは既にそういった『関西弁の感覚』を持っていて、『蚊(カ)』という一文字に『ガ』を付けた『2音』にしているのかもしれないね」
と答えました。
子どもの言葉は面白いですよね!
ツイッターでは、盛んに感想文がリツイートされている。1時間で読めたとか2時間で読めたとか、これまでの東浩紀の本よりも読みやすいと。たしかに、1時間半ぐらいで読めた。本はハードカバーなのだが、字が少なくて、詩集のような装丁である。一言で言うと、「旅へのいざない」のような感じ。ネットの中のバーチャルな世界だけで、リアルな世界もわかった気になるな、と。「若者よ、"ネットを捨て"旅に出よう!」・・・とまでは言ってないが、たまにはネットから離れることも大事だよと説いている気がします。
「世界は急速に均質化しています」(126ページ)
などは、確かにそうだなと、よく感じる。昔から「都市化」というのは「均質化」につながると思っていたが。
このところこの「弱いつながり」という言葉をよく目にする気がする。あとで読んだ佐々木俊尚さんの本でも「弱いつながり」が出て来た。そもそも「田舎」は「強いつながり」で、都市(都会)は「弱いつながり」を求めた人たちが集まった場所だ。「都市文化論」にも通じるのかもしれない。
「ミヤネ屋」の番組の中で、
「啓蒙」
という言葉を使ったところ、視聴者の方から、
「最近は『啓蒙』とは言わない、『啓発』と言うのだ!」
というご指摘を受けました。そういえば最近は「啓発」のほうがよく目にし、耳にする気がします。なんでも「啓蒙」の「蒙」は、
「無知蒙昧」
の「蒙」で、
「くらい」(=物を知らない)
という意味なので、啓発する相手に失礼にあたるからということらしいです。
そもそも「蒙」は「常用漢字ではない」ので、使うときは熟語全体にルビを振って、
「啓蒙(けいもう)」
としなくてはなりませんね、もし使うとしても。「啓発」なら、ルビは要らないな。
ご指摘ありがとうございました、大いに「啓発」されました!
タイトルにもある通り、あの150万部の大ベストセラー(と帯に書いてあるが、つい先日、本屋さんで見たら、いつのまにか『160万部』になっていた。この『叱られる力』が出たことで、前著もまた一気に売れているのであろう)『菊地から』・・・いやいや『聞く力』の第2弾と銘打ってますです。聞くだけでなく今度は「叱られる」のか・・・いや、この謙虚さが大事なんだよね、きっと。そう思って読み始めた。帯には、
「親に上司に怒鳴られ続けて60年。『叱られて、叱ってわかることはたくさんある』
前回の『聞く力』は比較的、インタビューなどの「テクニック」や「心構え」中心の話だったように記憶するが、今回は、阿川先輩の経験談・エピソードが中心かな。ま、お説教を聞くつもりで読んでください。
ひとつ気になったのは、120ページと166ページに出て来る、
「野方図」
という言葉。これは当然「のほうず」と読むのでしょうね。これって、普通は、
「野放図」
と書くのではないか?それとも阿川家では、志賀直哉先生は「野方図」と書く伝統があるのか?そう思って『新聞用語集2007年版』を引くと、
「のほうず(野放途・野放図)」→野放図
とありました。やはり新聞・放送ではそうなんだな。でも、『広辞苑』『精選版日本国語大辞典』を引くと、なんと
「野方図・野放途」
の順で載っているが、なんと「野放図」は載ってない!『明鏡国語辞典』は、
「野放図(野方図)」
と、「野放図」も「野方図」もありました。『デジタル大辞泉』は、
「野放図・野方図」
の順で「の」は接頭語、「野」は当て字、とあります。阿川さんが帯で「推薦」している『三省堂国語辞典・第7版』は、
「野放図」
しか載せていません。推薦しておきながら、その辞典の表記は使っていないんだ・・・。道理で、帯の文字に「三国」とは書いていない、「国語辞典」としか・・・。
『新明解国語辞典』も、
「野放図」
しかなく、「表記」の欄に、
「『野放』は借字」
とありました。総合すると、
「『野放途』『野方図』の方が古い表記で、最近は『野放図』と書く」
様ですね。つまり、
「漢字の表記で、年がバレる」
ということのようでした。
阿川佐和子さんの『叱られる力~聞く力2』を読んでいたら、120ページと166ページの2か所に、
「野方図」
という表記が出て来て、気になりました。これは当然、
「のほうず」
と読むのでしょうね。これって、普通は、
「野放図」
と書くのではないでしょうか?もしかしたら阿川家では(阿川弘之先生は)、また、その師匠である志賀直哉先生は、
「野方図」
と書く伝統があるのでしょうか?
そう思って『新聞用語集2007年版』を引くと、
「のほうず(野放途・野放図)」→野放図
とありました。やはり新聞・放送ではそうなんだな。
でも、『広辞苑』『精選版日本国語大辞典』を引くと、なんと
「野方図・野放途」
の順で載っていて、なんと「野放図」は載ってない!『明鏡国語辞典』は、
「野放図(野方図)」
と、「野放図」も「野方図」もありました。『デジタル大辞泉』は、
「野放図・野方図」
の順で載っていて、
「『の』は接頭語、『野』は当て字」
とあります。阿川佐和子さんが帯で「推薦」している『三省堂国語辞典・第7版』は、
「野放図」
しか載せていませんでした。阿川さんったら「推薦」しておきながら、その辞典の表記は使っていないんだ・・・。道理で、帯の文字に「三国」とは書いていなく、「国語辞典」としか書いてないと思ったら・・・。
『新明解国語辞典』も、
「野放図」
しかなく、「表記」の欄に、
「『野放』は借字」
とありました。総合すると、
「『野放途』『野方図』の方が古い表記で、最近は『野放図』と書く」
ようですね。つまり、
「漢字の表記で、年がバレる」
ということのようでした。