大変資料的価値の高い本だと思う。(ただ、文章は時制がハッキリしないところがあって、やや読みにくいのだが。)著者は、東京女子大学を経て、劇団員として芝居にも出演し、文部省勤務を経て戦時中にNHKの放送員(アナウンサー)となった、1922年生まれの戦中派の女性。
昭和6年からお話は始まり、大学時代の同級生として、なんと瀬戸内晴美(寂聴)さんや、作家の阿刀田高の姉・阿刀田稔子さん、のちの福田恆存夫人となる西本敦江さん等の同級生や、また劇団の先輩として杉村春子さんなどが出て来て、もう、著者が生きて来た"生活"が、そのまま"演劇の舞台の上"のような感じ。"歴史"である。
NHKのアナウンサーになってからも、和田信賢、飯田次男、浅沼博と伝説のアナウンサーの名前が出て来る。また、同期の小原和アナウンサーは、本業がオペラ歌手で、戦後アナウンサーを辞めてオペラの世界に戻ったと。そして、作曲家・磯部俶夫人になったというのだ!なんと!早稲田グリーの大先輩・磯部俶先生の奥さんは、元アナウンサーだったのか!知りませんでした。
気になった言葉をピックアップしておきます。
「四大節」(19ページ)
「昭和八年七月二十五日・・・防空演習」(43~44ページ)=桐生悠々の「防災訓練を嗤う」を思い出した。
「デンマーク体操の第一人者で終戦後東京女子大学の学長になった井澤エイ先生。ラジオ体操の第二はこの方の作品である」(59ページ)
「その頃石坂洋二郎のベストセラー『若い人』に、主人公の勤めるミッションスクールで、『ゴッドとエンペラーとどちらが偉いか』という質問を生徒がする場面があった。発売後に当局からクレームがあって『仏陀とゴッドとどちらが偉いか』と直したように聞いている。」(65ページ)
「品川巻(=海苔を巻いた煎餅)を買って来てそれにバターをつけて食べることを寮で教わり」(67ページ)
「教室で私の後ろの席に座っていたのが東寮生の瀬戸内晴美(寂聴)さんでクラスでは異色の存在として人気があった。彼女は四国徳島の出身で、「シェンシェイ、シュツモンがあります」と授業中に独特のイントネーションで言うと、クラス中が笑いに包まれた。しかし彼女はおめず臆せず『訛りは郷里の誇りよ』と平気だった。」(68ページ)
「本科一年になると出席簿はアイウエオ順になった」(73ページ)
「昭和十六年の秋はまだ浅草界隈の食物は豊富だった」(75ページ)
「なおこの大戦中大本営発表となると勝報の時は『軍艦マーチ』がひびき、凶報の時は『海ゆかば』の曲が流れた。心憎い演出だと思っていたが、これは十二月八日の朝六時の開戦を告げる大本営発表の折に、前夜JOAKの宿直をしていた和田信賢(のぶかた)アナウンサーがとっさに思いついてやったことだとのちに聞いた。」(79~80ページ)
「叔母たちはうれしがって見事な搾りの手柄(てがら)や簪や丈長(たけなが=わしを細長く切って平らにたたみ、元結の上に装飾用として結んだもの。平元結)などをくれた。」(80ページ)→この「手柄」は、「手絡(てがら)」(=夫人の丸髷などの根もとに掛ける装飾用のきれ。縮緬を種々の色に染めて紋の柄にしたものが多い)が正しいのでは?
「温かそうなアストラカン(=西アジア地方に産する、羊の胎児や、生まれたばかりの子羊の毛皮。帽子や夫人のオーバー地として珍重。また、それに似せて織った織物。もとロシアのアストラハン地方で産した)のスーツの人」(95ページ)
「涙をかくすために掻巻(=「かいまき」(「かい」は「かき」の変化した語)綿を薄く入れた小さい夜着(よぎ))を引っぱった」(98ページ)
「アッツ島の玉砕が発表されたのが五月の末で、全滅とは言わず玉砕という新語を大本営はまたも使って美化した。けれども三カ月前にガダルカナル島の退却を転進と表現したのはもっと罪が深かったと思う。」(108ぺージ)
「毎日のように寄っていた西荻駅のまわりの喫茶店も、開いているところが少ないのは、砂糖の切符制の影響だろう。米のとぎ汁にズルチンをまぜてカルピスと偽って出すところがあり、おかげで仲間はみんなスマートであった。」(109ページ)
「釘本さん(釘本・文部省図書監修官)が友情に厚い人であることは、平成二十一年に出版された島内景二著『中島敦「山月記伝説」の真実』を読んで痛いほど了解した。『山月記』は中島敦の名作で高校の教科書にも採られ、多くの読者を得ているが、作中の虎になった李徴(りちょう)は作者自身、その友人の袁惨(えんさん)が釘本久春だと島内氏は考証されている」(115ページ)
「その頃文部省の近くに、毛抜鮨(=握った鮨を一つずつ熊笹で巻いて押したもの。笹鮨。笹巻鮨)があった」(122ページ)
「赤坂の溜池の方に、みつまめを食べさせてくれる店があった。(中略)週に二、三回は行った。みつまめといってもえんどう豆もぎゅうひも果物も入っていない。むろんあんやクリームなどの夢のまた夢である。ただ寒天に甘みがかかっているだけのもので、一杯十九銭だったろうか。四杯まで食べてよくて」(122-123ページ)
「執務中でも、コンサイスの頁を破って煙草を巻いている先輩を見かけた。釘本さんもその一人だった。この頃にはじまり終戦後も煙草を手巻きすることがはやった。」(123ページ)
「私は祖母の防寒ゴートをもらって」(123ページ)
「その頃出版物は紙が悪かった。仙花紙といい、色は茶っぽく藁半紙に似ていた。」(124ページ)
「かねてわたしが思っているような文学への想いを絶って動いているのではないか」(127ページ)
「それまでの辛棒だと思っている」(129ページ)
「日本放送協会で女子放送員の募集があるとスポットで知った時は、飛び上がりたい程うれしかった。」(133ページ)
「私はおしゃれをしてグリーンと黒のストライプのデシン(=「クレープ・デ・シン」の略。女性用の洋服生地。錦紗(きんしゃ)に似た平織の薄地縮緬。元来中国産の縮緬に模してフランスで織りだしたもの。フランス縮緬)の半袖ブラウスにスカートという姿だった」(134ページ)
「食堂は黒パンと魚のハンバーグ、折れうどん入りのチャプスイ(【雑砕】(広東音)中国料理。鶏・家鴨・豚・鮑(あわび)などと筍・白菜など野菜類の千切りとを炒め、鶏のスープを加えて調理したもの。)雑炊などで、料金は十銭と覚えている。」(138ページ)
「ニュース原稿は報道部へとりに行く。ザラ紙に鉛筆で書き流した乱暴な字で、下読みをしてわからない字をチェックしないといけない。」(143ページ)
「絹というふれこみだったけれどスフ(レーヨン)混入らしい光り方をしていて縫うのをやめた」(143ページ)
「『敵一機、マリアナ方面より我が本土に近づきつつあり』といったアナウンスがされる。この場合<いっき>とは言わず<ひとき>と言う。」(146ページ)
「甲斐絹(かいき)の敷布団に、真綿の入った薄い絹の掻巻(かいまき)だった」(177ページ)
「私はこんな深刻なことをいつまでも考えるタイプではなくて、アナウンサーとして割り切って通り過ぎていくのが例であった。言い訳をするつもりではないが、仲間十三人も皆同じだったろう。大本営発表を疑うよりも失敗なく読むことの方が大事だった。夜中の時間だった頃、南仏蘭西をなんふつらんせいと読んでしまったことがある。こんな初歩的な間違いを二度とやってはいけないという気持ちがあった。そのためかニュースの内容まで批判する習慣が私から消えていた。一言でいうなら、"軽い人間"に私は属していた。」(181ページ)
「ある日、『水島君』と呼ばれた。(和田)信賢さんが誰もいないと思っていた放送員室の自席から声を出していた。『ハイ』近づいて彼の机の傍に立った。『昨日の放送を聞いたよ。巧くなった。うん、あれでいい』『ありがとうございます』これが私と信賢さんとのたった一回のやりとりとなった。尊敬している人にともあれ認められた。(大した認められ方ではないが)。私は大切に胸に蔵(しま)い、生涯の誇りにしている。」(182ページ)
「(八月)十五日には正午に放送局へ全員集合のお達しがあった。」(187ページ)
「反乱部隊の放送局を指揮していた畑中少佐は、第十二スタジオで館野守男放送員に拳銃を向けて『五時の報道の時自分に放送させろ』と迫った。館野さんは『目下警戒警報発令中で東部軍の許可がないと放送出来ません』とつっ放ねる。ここで殺されても放送はさせまいと思ったという。なおも強請する少佐とにらみ合いになった。畑中が部下に命じ、東部軍に電話を入れる。無論放送許可が降りる(ママ)わけはなく、彼らは泣きながら退散した。」(188-189ページ)
「八月十五日前夜 その日放送員室に飛びこむと、いつもは閑散としているのにいっぱいの人で、汗の臭いがこもっていた。AKのアナウンサーが全員集合したので四、五十人はいただろう。座る椅子もなかった。部屋の隅のモニターラジオから、『つつしんでお伝えします。かしこきあたりにおかせられましては、このたび、詔書を渙発あらせられます。...国民は一人残らずつつしんで玉音を拝しますように』とスポットが出ている。声は館野守男さんである。響きのあるきれいな声で、ケレンのない端正なアナウンスをする。最近南方から帰還し、私はまだ話をしたことがない。そして玉音放送の担当は和田信賢さんであった。」(191ページ)
「正午の時報が鳴る。続いて、『只今より重大な放送があります。全国聴取者の皆様ご起立願います』和田さんの第一声だ。(中略)いよいよ和田さんの版二なった。敗戦は日本国民未曾有の出来ごと、その痛恨、悲哀、嘆きを一語、一語にこめながら、ていねいに、誠意をこめて、まるでたがねをうちこむかのように、たしかめたしかめ語るアナウンスの思いの正しさ、厳しさ、言葉の美しさに私は心の中で感歎の声を挙げた。(中略)そして室長席に腰をおろした。私は思わずコップに水をついで人ごみを分けて彼の席に運ぶ。『ありがとう』和田さんは喜んで白いのどをそらせて一気にそれを飲み干している。」(192-193ページ)
「近頃放送は時間厳守になったよ。それも秒単位だよ。万事あちらさんの指導でね」(211ページ)
「『ただいま何時何分でございます』と、ときどきアナウンスした。私はそそっかしくて一時間も違った時間を言ったことがあった。」(211ページ)
「それにしても、八月十五日の降伏に終戦という言葉を政府は使っている。なぜ潔く敗戦と言わないのだろう。ごまかすにもごまかせない事態だと思うのに、いまさら誰のために言葉を曲げるのか」(213ページ)
「広島中央放送局には四人の十六期生が赴任していた。十六期は全員女性だったと書きたいところだが、実は黒二点が養成所のメンバーに加わっていた。そのお二人さんの仁平武男さんと安田一雄さん」(213ページ)
「アメリカが進駐してくると、懸念されていた事件が頻発した。新聞には遠慮して黒い大男なんて書いてある。黒い大男が突然蒲田の民家に闖入(ちんにゅう)したみたいな書きぶりだが、レイプが目的なことは想像がつく。」(219ページ)
「神田駅の周辺には壮大な闇市が出来ていた。(中略)売り手は人相のあまりよくない男達で、復員くずれが多い。今は死語となっているが、戦地から帰還した兵士たちを復員兵と呼んでいた。特攻くずれと呼ばれるのは、飛行服に白いマフラー、飛行帽といった服装の男達で、もっとも本物はいず、出没しているのは偽者らしかった。」(220ページ)
「四等国になった底辺にいる人間は、いっそ気楽である。」(228ページ)
「モク拾いや、靴磨き、新聞売りなどをして食べていた。才覚のある子は闇煙草を売る。チャリンコ(すり)、かっぱらい、置き引きなどをする悪餓鬼もありだった。」(229ページ)
すっごく勉強になりました。知らない言葉も多かったし。女性だからか、「服装」(ファッション)関係と「食べ物」関係の当時の言葉をいくつも拾うことが出来ました。また当時のアナウンサーの様子も分かって、とっても勉強になりました。
star4
(2014、5、9読了)