新・読書日記 2014_054
『悪の出世学~ヒトラー、スターリン、毛沢東』(中川右介、幻冬舎新書:2014、3、28)
クラシックジャーナル編集長・中川右介さんの著作。20世紀を代表する「悪の独裁者」3人がいかに「出世」したのかを描いている。タイトルだけ見ると、なんだか「ビジネス書」みたいだが、違います。
歴史学者でも政治学者でもない著者が、なぜこんな本を書いたのか?というと、二十世紀の芸術家の評伝を書いていると、必ずヒットラー・スターリンが登場するのだという。それほど、この2人の独裁者は二十世紀に生きた人に影響を与えたということで。毛沢東はクラッシック音楽にはほとんど関係していないが、スターリン・ヒットラーに並ぶものとして書いたのだそうです。
第1部「立身」、第2部「栄達」、第3部「野望の果て」の3部構成。それぞれの「部」の中で、スターリン・ヒットラー・毛沢東の順で書かれているのだが、読んでいてちょっと頭の切り替えが難しかったのが「第2部」の「ヒットラー」。続けて「第3部」を読みたくなった。そこで、「第2部」の「毛沢東」は飛ばして「第3部」の「ヒットラー」を先に読んだ。
一番「そうだったのか!」と驚いたのは、1932年1月30日、ヒンデンブルク大統領が「不本意ながら」ヒットラーを首相に任命してれからの「スピード感」である。
2月27日に国会議事堂放火事件が起き、その犯人がオランダの元共産党員。この事件を口実にして、ヒトラーはヒンデンブルク大統領に、憲法にある基本的人権を停止させ、共産党員を従来の法的手続きなしに逮捕できるようにした。ただし、共産党の活動は禁止しないのがミソ。戦術。共産党の活動を禁止すると、選挙でその票は社会民主党などに流れてしまうからだ。
共産党員が次々逮捕される中で、選挙当日の3月5日、ナチスの圧勝かと思ったらそうではなく、総議席数647のうち、ナチスは288、社会民主党が120、共産党が81、中央党が74、国家人民党が52、その他が32議席で、ナチスの得票率は43,9%と過半数に届かなかったのだ!国家人民党と合わせて340議席で過半数に達したが、単独過半数は取れなかった。意外!そこでヒットラーは何をやったか?
「分子が変わらないのなら、分母を小さくすればいいじゃない」(マリーアントワネット風)
3月9日、ヒットラーは「共産党の国会での議席を剥奪」した。既に共産党の議員はほとんど逮捕されており、国会には登院できなかったという。その議員資格まで剥奪した。当選させておいてから剥奪する、これで共産党の議席81がなくなり、総議席数は566に。過半数は284となり、288議席のナチスは「単独過半数」となったのだ。
ここからの「スピード」がまたスゴイ。3月13日に国民啓蒙・宣伝省を設立、ゲッペルスを大臣に。20日、ダッハウに強制収容所設立。23日、国会で「全権委任法」成立。首相であるヒットラーに憲法以外のすべての法令を、国会の承認も大統領の署名もなしに制定する権限が与えられた・・・(あれ?なんだか似たような話を最近耳にした気が・・・集団的自衛権の解釈?)これでは国会は「ないも同然」。
4月7日ユダヤ人を公職から追放するための「職業管理再建法」制定。26日、秘密国家警察(=ゲシュタポ)創設。「ゲシュタポ」の意味は「無慈悲」。6月、社会民主党も活動禁止に。国家人民党も解散に追い込まれる。7月にはナチス以外のすべての政党が解散させられ「ナチス」のみに。11月、また選挙が行われ、ナチスが3965万票・661議席を獲得したが、なんと無効票も335万票・7,8%あったという。12月、「党と国家の統一のための法律」が公布され、ナチスが国家に編入された。翌1934年1月1日、ヒトラーは年頭所感で「国家社会革命は勝利した」と宣言。この間、なんとたったの1年なのである・・・これには驚いた。2月には参議院も廃止。この間に取った「強引な手段」は「共産党の議員資格をはく奪した」だけ。たった一つの"強引な手段"をテコとして、議会で単独過半数になったことだけで、国家の統治機構改革をやってしまったのだ。
あれ?この「統治機構改革のスピードを求める人」、どこかにもいたような気がする・・・。
その後、恒例のヒンデンブルク大統領が危篤になると「大統領職と首相を統合する」ことが決められた。それが8月1日。翌2日、ヒンデンブルク大統領死去。86歳。前日に決めた法律が発効した・・・。
スターリンと毛沢東の記述も勉強になったが、一番印象に残ったのは、ヒットラ―のこのくだりであった。