新・読書日記 2014_016
『邪悪なものの鎮め方』(内田樹、文春文庫:2014、1、10)
「内田樹氏の文章は、なんとなく好きではない」とさんざん書いておいて、それでも読んでしまうのは、やはり内容が興味深いからだとしか言いようがない。今回はタイトルにも惹かれた。気の短い私は、「どうやったら、我慢することなく怒りを鎮めることが出来るのか?」に常に興味を持っていて、「怒らない」とかいうタイトルがあるとついつい読んでは、「また騙された!」と怒ることが多いのだが、今回は「怒らない」のではなく「邪悪なものの鎮め方」。「邪悪なもの」とは「自らの内にあるもの」なのか?はたまた「周囲の人にあるもの」なのか?その辺りも興味があった。なんか「宗教的」な臭いもするしね。
「まえがき」によると、
「『邪悪なもの』をめぐる物語は古来無数に存在します。そのどれもが『どうしていいかわからないときに、正しい選択をした』主人公が生き延びた話です。主人公はどうして生き延びることができたのでしょう。私自身がみつけた答えは『ディーセンシー(礼儀正しさ)』と、『身体感度の高さ』と『オープンマインド』ということでした」
とありました。なるほど。「世の中の大衆の流れに流されずに、高貴な精神を持つことが大切」ということかな?
また「被害者意識」について書かれた「被害者の呪い」には、
『「本来私に帰属するはずのものが不当に奪われている。それを返せ」とうのが権利請求の標準的なありようである。それで正しい。困ったことに、私はこの『正しさ』にうんざりし始めているのである』(91ページ)
とあった。たしかに「被害者意識の蔓延」は、ちょっと困った風潮である。正当ではあるが、詩人の吉野弘が『祝婚歌』の中で言うように、
「正しいことを言うときは 少しひかえめにするほうがいい
正しいことを言うときは 相手を傷つけやすいものだと 気づいているほうがいい」
なのであろうなあ。また、こんな一節も。
『以前、精神科医の春日武彦先生から統合失調症の前駆症状は『こだわり・プライド・被害者意識』と教えていただいたことがある。『オレ的に、これだけはっていうコダワリがあるわけよ』というようなことを口走り、『なめんじゃねーぞ、コノヤロ』とすぐに青筋を立て、『こんな日本に誰がした』というような他責的な文型でしかものごとを論じられない人は、ご本人はそれを『個性』だと思っているのであろうが、実は『よくある病気』なのである。』(93ページ)
『健全な想念は適度に揺らいで、あちこちにふらふらするが、病的な想念は一点に固着して動かない。その可動域の狭さが妄想の特徴なのである。病とはある状態に『居着く』ことである。私が言っているわけではない。柳生宗矩がそう言っているのである。(澤庵禅師も言っている。)』(93ページ)
ふーんなるほどとも思いつつ、過激だなあと。それに「個性」=「病気」でもあるなら、問題ないのではないか?それも「平凡な個性」なんだから。「病気で」片づけられるのか?とも思うし、「病とはある状態に『居着く』ことである」という「着地の言葉」が「本人の言葉」でなく「借り物」であるというのは、ちょっとキツイことを言ったので「私じゃないもんねー、言ったのは昔の偉い人だもんねー」と逃げているようにも見えるのだが、いかがなものか。たとえ柳生宗矩や沢庵和尚が言ったとしても、それをわざわざここに引っ張り出してきて持論の補強に使ったのは内田さん案なのだから、
「私が言いたいことと同じ」
なのであるからして、なんだか最後で逃げた感じがあるのは嫌だなあ・・・そう!ここなんです、私が「なんとなく好きではない」という部分は。言ってる内容はすごく「へえ、なるほど!」なのに、そこで逃げちゃってるところが「残念!」と言うしかないのです。わかったわ、今回。