新・読書日記
2013_216
『アナウンサーが教える愛される話し方』(吉川美代子、朝日新書:2013、12、30)
やさしそうなタイトルだが、内容は硬派。おそらく吉川さんは、こんなタイトルは付けたくなかったと思う「ジャーナリストとしてのアナウンサー」「職業としてのアナウンサー」とか、そういったタイトルにしたかったと思う。でも編集部が「これじゃあ、売れませんから・・・」と説得して、こういったちょっと生ぬるいタイトルにしたんだと思う。二谷友里恵さんの『愛される理由』を思い出しました。
ということで内容は、ごくごくまっとう。アナウンサーとして当然!と思われる内容である。某週刊誌で書かれたような評価は当たらないと。
ただ、1点、大きな間違いがある。116ページ、アクセントの置き方について。「平板型」「頭高型」「中高型」「尾高型」に4分類したのはいいのだが、その「平板型」の説明が、
「音の高さが同じ、つまりアクセントがない」
と書かれているのは正しくない。共通語(標準語)のアクセントは、必ず、第1音と第2音の高さが変わるのである。ですから、
「音の高さが"第2音から後が"同じ」
とすべきところである。すべて同じならば、関西弁のアクセントのようになってしまう。アナウンス学校の先生なのだから、この説明の仕方は、ちょっといただけない、と大先輩に対して思ってしまった。ご無礼を顧みず、あえて書き記す。
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(2013、12、16読了)
2013年12月31日 12:52
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新・読書日記
2013_215
『統合失調症がやってきた』(ハウス加賀谷・松本キック、イースト・プレス、2013、8、10第1刷・2013、9、10第3刷)
お笑いコンビ「松本ハウス」として、「ボキャブラ天国」等の番組で人気だった二人のうち、ハウス加賀谷が「統合失調症」になり、1999年にコンビを解散してから10年の闘病生活を記したもの。10年ほど前までは「精神分裂病」という呼称であったが、最近はよいクスリもできてきて病状をコントロールできるようになってきたなどから、「統合失調症」という名称に変わった。「統合失調症」は若いうちに発症すると聞く。加賀谷の記述によると、やはり小学校の時から自覚症状はあったらしい。それを、だましだましやってきて、ついに倒れた。しかし加賀谷は、症状が軽くなるとクスリを飲まなかったり、飲み過ぎたりしたことで、結局コントロール出来なくなり、精神科病院に7か月入院することになる。そこで、復活への体調コントロールができるようになり、解散から10年たった2009年、ついに復活へと踏み出した。まさに「闘い」と言える記録。
入院中に「聖書」を読んで、マタイの福音書・第8章第28節で、キリストが「ガダラ」の地で悪霊に憑依された人に「汚れた霊、この人から出て行け」と言うと、悪霊は豚の群に乗り移り、豚たちは崖から自ら落ちて死んでしまう、という所を読んで、加賀谷は、
「以前に読んだ中島らもの『ガダラの豚』はここから来ていたのか!」
と気付くシーンが印象に残った。私も『ガダラの豚』は、もちろん以前に読んでいたが、聖書の一節から来ていたとは知らなかった。もしくは、知っていても忘れていた。つまり知らなかった。勉強になりました。
だが、加賀谷の復活からもう「4年」の歳月が流れている。加賀谷の「現状」について触れられていないのが、気になる。「復活」、マーラーの2番か。
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(2013、12、13読了)
2013年12月16日 17:58
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新・読書日記
2013_214
『それでもテレビは死なない~映像制作の現場で生きる!』(奥村健太、技術評論社:2013、4、1)
たぶん日経新聞の日曜日の書評欄で「テレビ論」特集をやっていた(2~3週間ほど前)のを読んで購入。4月に出ていたのに気付かなかったなあ。
著者は制作会社のディレクター1973年生まれとあるので、私とちょうどひと回り違う。(もちろん著者の方が若い。)
「熱血ディレクター」と書いてある通り、「熱い」テレビ論が展開されている。非常に具体的で、内容もその通りだと思う。でもその具体的な内容を見ていると、その通りの部分があって胸が痛い・・・。
基本的には「テレビは死なない」というタイトル通り、テレビ自体は死なないと思う。しかし、「もうかるマスメディア」(つまり商売)としてのテレビは、これまでのような活動はできなくなりつつあるのも事実。広告費の推移を見ればインターネットが伸びているのがよくわかるし。
終章の「1年後の東北」は、本の企画段階(2010年)にはなかったのだろうけれど、だからちょっと取ってつけたような感じがするが、いい話だ。私も阪神大震災の取材の際に感じたが、「何しに来た!撮影しているヒマがあるなら、こっちの作業手伝え」とか「食糧を持って来てくれたのか?」という厳しい問いに対しては「いいえ」と。ただ「映像・音声で"記録"すること」「その記録が"歴史資料"となって"未来"に残すこと」も、メディアに課せられた仕事なのだと信じてやるしかない。
この本を読み始めた時に「誤植」が最初のほう(最初のページに1か所!)に2か所【×「一番街地」→○「一番外地」(3ペー=序章の最初のページ):×「間逆」→○「真逆」(24ページ)あって、「残念」と、ツイッターでつぶやいたところ、著者本人と思われる方から「申し訳ありません」という返事があった。
その後読み進めたら、もう1か所見つかった。【×「加熱するこの事態」→○「過熱するこの事態」(81ページ)】。ちょっと、多いよなあ。ぜひ、増刷の際は直していただきたいものです。活字媒体は、これがすぐに直せないのが悔しいなあ・・・。
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(2013、12、12読了)
2013年12月14日 11:48
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新・読書日記
2013_212
『目で見ることば2』(文=おかべたかし、写真=山出高士、東京書籍2013、12、3)
「目で見ることば」の続編が出ていた!というか、2冊同時に気付いたのですが。
今回も「40語」が紹介されている。
今回「そうだったのか!」と思ったのは「弘法も筆の誤り」。この言葉の現場は「平安京」の「應天門」。「應」の字の最初の「、」を書き忘れたのだそうだ。それを指摘された弘法大師は、なんと筆を投げて「、」を付けたと。すごい!
その「應天門」と「額」は明治28年、平安遷都1100年で復元された、現在の「平安神宮」にあるということ。知らなかった!
また「丼勘定」の「丼」は、「牛丼の、あの丼」ではなかったとか、知らないことが多いです。勉強になります!
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(2013、12、10読了)
2013年12月13日 18:07
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新・読書日記
2013_211
『目で見ることば』(文=おかべたかし、写真=山出高士、東京書籍2013、2、14第1刷・2013、10、10第3刷)
たまたま本屋さんで「第1集・第2集」2冊まとめて見かけた本。ああ、これはいいな。写真集なんだけど、要は「ことば」の語源探索をして、証拠写真を撮って来る、ということですね。いいなあ、これ。やってみようかなあと思わせます。
紹介されている言葉は、「あ」の「阿吽の呼吸」に始まって、「ら」の「埒が明かない」までの40語。私は特に「天王山」と「洞ヶ峠」に注目した。どちらも我が家から近いし、行ったことがある。「天王山」に至っては、毎日家から拝んでいる。言葉も意味も知っていても、その語源を知らないものはたくさんあるし、知ると楽しいよね。
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(2013、12、10読了)
2013年12月13日 11:06
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新・読書日記
2013_210
『迷惑行為はなぜなくならないのか?~「迷惑学」から見た日本社会』(北折充隆、光文社新書:2013、10、20)
このところ世を騒がせている、アルバイトの人や若い学生がツイッターなどに投稿した非常識な写真。「見られていない」と思って軽い気持ちでやっているのだろうが、どっこい、世界中に自分の「アホさ」を「拡散」している。それだけでなく「迷惑行為」にあふれている現代日本。なぜなくならないのか?と思っている人は多いだろう。その謎に果敢に挑戦した一冊!
具体的には「夜の幹線道路の制限速度を、なぜ誰も守らないか?」「電車内での携帯電話の電源を切るべきか?」「なぜツイッター騒動は繰り返されるか?」「どうすれば列の横入りをやめさせられるか?」「ベビーカー問題はどうしたら解決できるか?」という問題について考察している。「歩きスマホ」についても書かれているので、いいタイミングで出た本だと思います。
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(2013、11、21読了)
2013年12月12日 18:05
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新・読書日記
2013_208
『流星ひとつ』(沢木耕太郎、新潮社:2013、10、10)
なんと藤圭子のインタビュー集。藤圭子が引退を表明した1979年に沢木がインタビューしたものを、すべて「カギカッコ」の会話調で記した意欲的なもの。ところが、当時この本は出版されなかった。ことし8月、藤圭子が投身自殺をしたと聞いて出版を決意したという。緊急出版。
藤圭子の強烈なアイデンティティー、過剰な自我意識の感じた。
そして「しゃべり方」の特徴などは、娘の宇多田ヒカルにそっくりである。あ、宇多田が藤圭子に似てるのか。「血」だなと感じる。
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(2013、10、30読了)
2013年12月12日 12:30
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新・読書日記
2013_207
『ミニ書斎をつくろう』(杉浦伝宗、メディアファクトリー新書:2013、10、31)
「狭小住宅」建築を手掛けてきた建築家の著者が提案する「ミニ書斎」は、「せいぜい2畳」の広さでOK。「机」と「椅子」と「本棚」があればOKだという。また「部屋」でなくて「書斎コーナー」でも良いと。そこから導き出されることは、
「大事なことは、一人になって思索する時間と場所を、如何に確保するか?」
ということのようだ。
また、家の中で「書斎」が欲しいというのは30~40代ぐらいの男性、つまり「子育て期間中」なのである。子どもが大きくなって夫婦二人になれば、スペースはいくらでもある。子どもがいる「家族」である年代に「一人で思索する時間」が大事であると説いているように感じた。
それと、子どもたちが寝静まった深夜、リビングを「時間限定の書斎」にすることも方法の一つ。「時間」を選ぶ(ずらす)ことで「空間」は生まれることがあるという提案。これは実は、私がやっていることだ。真夜中の(お酒を飲みながらの)読書は、結構快適で、はかどりますよ。
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(2013、12、9読了)
2013年12月11日 21:29
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新・読書日記
2013_206
『教員採用のカラクリ~「高人気」職のドタバタ事情』(新井立夫+石渡嶺司、中公新書ラクレ:2013、11、10)
教員採用には「興味がある」とは言えないけれど、知り合いである石渡さんの新著なので購入、読んでみました。読んでいたら、大学時代に教職課程を勉強したことや、教育実習に行ったことを思い出して懐かしかった。充実してたよなあ、教育実習。毎日ヘトヘトになったけど。「実習」が「青春プレイバック」という感じで。でも、結局、教員免許は取れず(「地理Ⅱ」の単位を2単位落とした)、教員にもならず。一般企業との「併願」だと嫌がられるそうだけど、そもそも私は教師になる気がないのに「教育実習」だけは行きたかった。高校側も、よく受け入れてくれたなあと。でもそれが、大学で教えるのに役立っているんだからいいんじゃないのかな、結局は、そうやって回って来るんだもんね。もっと広い目で見ましょうや。
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(2013、12、7読了)
2013年12月10日 15:22
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新・読書日記
2013_205
『国家と音楽家』(中川右介、七つ森館:2013,10、26)
大変勉強になった一冊。そもそも中川右介さんの本は、これまでに何冊か読んでいるが、これも読み甲斐があった。資料も含めて370ページ。
特に印象に残ったのは、トスカニーニが行ったオペラ劇場の改革。
(1) オペラ上演中に、客席の照明を暗くした
(2) 客席で飾り帽子の着用禁止
(3) 上演中のオペラ・アリアのアンコール禁止
とくに1番目の「オペラ上演中に、客席の照明を暗くした」のが、トスカニーニだったとは知らなかった。今では当たり前だが、こういった照明による演出ということも、音楽を楽しむためには重要なことである。合唱の場合、団員が100人ぐらいいると、全員が登壇するのに時間がかかるが、その間、照明を明るくするかどうかの問題。客席から拍手が起こったら、照明を上げてもいいと思うのだが。あまりステージ上を暗くし過ぎると、こけるヤツが出てくるが・・・。
また2番目の「飾り帽子」は、当時はコンサート会場は「社交の場」だったので、音楽を聴く時も、背の高い飾り帽子をかぶったままでというご婦人が多かったとか。そんな帽子の後ろの席の人は、邪魔だよねえ。帽子、防止!
そして3番目は、アリアが終わるとオペラの劇の途中でもアンコールを求めて、劇の進行が妨げられることが往々にしてあったと。うーん、元々はオペラも歌舞伎(演劇)も似たような、そういった面もあったのだろうね。それを「純粋芸術」としての音楽を求める姿勢が、トスカニーニにはあったということでしょうか。
そのほか、冒頭のフルトベングラーとヒットラーの関係。ナチスを完全に拒絶するのではないが、ヒットラーの誕生日の4月20日に国内にいてコンサートをやると「誕生日祝賀演奏会」の名目を付けられて指揮させられる。それを避けるために、国外での演奏会をスケジュールに入れるとか、ヒットラーと握手しないために「右手に指揮棒を持ったまま」だったとか、そういった細かいエピソードの丁々発止が、実に興味深かったです。
独裁者は音楽や芸術を好み、それらをも(それらをこそ)支配下に治めようとする傾向があるのかなあと。そうでなく「芸術を理解しない独裁者」もいるとは思いますが。どっちも困ったものです。
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(2013、12、5読了)
2013年12月10日 09:20
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新・読書日記
2013_204
『別れの何が悲しいのですかと、三國連太郎は言った』(宇都宮直子、中央公論新社:2013、10、25)
ひとことで言えば、三國連太郎への長い弔辞。
長いタイトルだ。AKBの新曲のように略して「何悲(なにかな)」でどうでしょうか?
「三國連太郎」という俳優は、「個人の人生そのもの」も演じていたような気がしないでもない。でも、そんな人の近くに、懐に入り込んで行って、つぶさにその"生きよう"を見ることができたというのは、かけがえのない経験になったと思う。著者の生き方も変えてしまったのではないか。演じているようでも、その「演じ方」に「個性」がにじみ出ていたように思えた。
「三國さんは亡くなられた。だけど、その足跡は生き続ける。歴史になる。稀代の名優として長く語り継がれる。そのことを喜んでいようと思う。」
「そんな三國さんに、どこにいらしても聞こえるように、大きな声で、さようならと言う。」
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(2013、11、28読了)
2013年12月 9日 18:56
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新・読書日記
2013_203
『昭和レトロ家電~増田健一コレクションの世界』(増田健一、山川出版社:2013、10、15)
12月6日の「ミヤネ屋」でも放送した「昭和レトロ家電」特集。放送は、実は出張中だったので見られなかったのだが、事前に原稿とテロップをチェック。この本も買って読んだ。おもしろい、というか、著者の増田さんも同世代なので、「ああ、見たことがある!」という家電がいっぱい!うちの冷蔵庫と炊飯器は、アレでした!冷蔵庫、カギがかかったんだよね。「冷蔵」に使わないときは、カギをかけて金庫代わりに・・・。廃棄されたこの冷蔵庫に入って遊んでいた子供が、カギがかかって閉じ込められて・・・なんて事件も(事故)もあったなと。なんでも増田さん、私の弟と同じ高校で同学年なんだそうです。
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(2013、12、1読了)
2013年12月 9日 13:54
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新・読書日記
2013_202
『女子漂流』(中村うさぎ・三浦しをん、毎日新聞社;2013、11、10)
新聞の書評で見かけて興味を持って購入、読んでみた対談集なのだが・・・。うーん、共に「普通の女子」ではない人たちだからなあ・・・一般的ではない会話が続いて・・・どうも一般的ではない。だからおもしろいか?という・・・ちょっと組み合わせに失敗したのではないかなあ・・・。うーむ。どうでしょ?
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(2013、11、25読了)
2013年12月 9日 06:01
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新・読書日記
2013_201
『福島に生きる』(玄侑宗久、双葉新書:2011、12、4)
文字通りタイトル通りの「福島に生きる」作家で僧侶の玄侑宗久さん。帯には、
「故郷に何を祈るのか。放射能とどう向き合うのか。覚悟を決めた作家の3・11とその後」
とある。この本は「おととしの12月」に出されたものだ。私が読むのをサボっている間に「2年」もの歳月がたってしまった・・・。
第1章は、あの「福島第一原発」で爆発が起きたときのこと、それから1か月ほどの様子が。そして第3章、著者が「復興構想会議」のメンバーに選ばれ会議に参加する中で感じたことが。それは主に、議長の五百旗真氏に感じられた「官僚のカゲ」だった。つまり「東京から見た『フクシマ』の姿を書いている。著者をはじめとした委員たちは、必死にそれに対抗したが、報告書があがって来ると、「全然違う形」に仕上がっていて抗議したことなども。審議会や諮問会議が「一応、話し合いをやりました」という「格好付け」に使われるケースも多いと聞く。そんな事では、フクシマも日本も救えないのに・・・。
第4章では「それでも私は福島に生きる」という覚悟と、そのために具体的にどうすればいいかの玄侑さんのアイデアの提案がある。中でも私が「そうか!」と思ったのは「放射線は教育にいかすべき」という提案だ。確かにそうだ。今、勉強しないで、いつする!2年経ってしまったが、改めてその思いを強くした。
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(2013、11、15読了)
2013年12月 8日 23:59
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