新・ことば事情
5249「『水のいのち』に思う」
ことしは、なぜか合唱曲「水のいのち」を歌ったり聴いたりする回数が多いです。
6月23日に東京・池袋の東京芸術劇場での「東西四大学OB合唱演奏会」で、小林研一郎先生の指揮で「稲門グリークラブ」の一員として男声版を歌い、8月4日に東京・文京シビックホールで「お江戸コラリアーズ」が男声版を、須賀敬一さんの指揮で歌うのを聴き、同じく8月11日、新装なった大阪フェスティバルホールで、またもや須賀さんの指揮で、今度は混声版を、何と1000人で歌うのを聴き、9月22日には東京・サントリーホールで、再び小林研一郎先生の指揮で「稲門グリークラブ」の一員として男声版を歌い、きたる10月20日には、大阪国際交流センターでの「おたまじゃくしコンサート」で「大阪稲門グリークラブ」(男声)の一員として「水のいのち」の1番と2番(雨・水たまり)を歌い、さらに11月3日には、兵庫・いたみホールでの「バッカスフェスタ」で「水のいのち」の5番「海よ」を歌います。もうすっかり「水のいのち」が染み付いてしまいました。
そこで、単に歌うのではなく、歌詞の内容、曲のイメージについて、自分なりにどう考えてみたかを記します。
まず1曲目の「雨」。「ふりしきれ、雨」で始まる。この曲に関しては、構成が非常に「映像的」だと思います。この曲に合わせて映像を撮影しているつもりで歌えます。まず冒頭は"俯瞰"で、上から下に降る雨。その雨粒の超アップからズームバックして、大地に振り様子を表します。そう、「シェルブールの雨傘」の冒頭のような感じ。ただ、「シェルブールの雨傘」は、色とりどりの傘が印象的でしたが、この雨の映像は「モノクロ」。干からびた地上のものどもに降りしきる雨は「慈雨」であり、乾き切った地上、瀕死の状態の地上の生物・無生物に「いのち」を与えます。雨水によって命を与えられた、井戸、踏まれた芝生、こと切れた梢、根、土、すべてのものが生き返る。立ち返る。その様子は、それまで「モノクロ」だった映像が、水がしみていくように徐々に「カラー」に変わっていくことで表します。(ありきたりだけど。)
天から降る雨は、すべての地上の物に「平等」に降る。分け隔てない。この「雨」という曲(詩)は、「いのち」「生き物」「生と死」「平等」「自然(の営み)」「慈悲」といったことを感じさせます。最後に「すべてを、そのものの手に」とある「そのもの」とは何か?井戸や芝生や梢や土?もちろん、そうとも考えられます。「全てをそのものの手に立ち返らせよ」という意味の倒置法。しかし、あえて私は「そのもの」というのは、
「自然=創造主たる神」
というイメージで捉えたいです。
この「雨」から始まる5曲をつかさどるのは、まぎれもなく「自然」という「神」であり、それと向き合う「人間」の、ある種の「あきらめ」(潔く心理を洞察する目、という意味での。元来の意味の「明らめる」)をうたっているように感じるからです。
というように、全体の意味を考えながら、「合唱曲」と言うよりも「ソリスト」になった気持ちで、表現力豊かに歌いたいなあと感じさせられる、そんな曲なんです「水のいのち」。
来週、またステージで歌います!