新・ことば事情
5226「母と彼女」
藤圭子さんが亡くなったことを受けて、8月26日に、娘の宇多田ヒカルさんが自身のサイトで初めてコメントを発表しました。その文章の中では、藤圭子さんのことを指して、「母」という表現と「彼女」という表現が出て来ます。
それはきっちりと状況に応じて使い分けられています。具体的には、
「8月22日の朝、私の母は自ら命を絶ちました。」
「彼女はとても長い間、精神の病に苦しめられていました。」
「何が彼女のために一番良いのか」
「幼い頃から、母の病気が進行していくのを見ていました。」
「彼女は自身の感情や行動のコントロールを失っていきました。」
「母が長年の苦しみから解放されたことを願う反面、彼女の最後の行為は、あまりに悲しく、後悔の念が募るばかりです。」
「誤解されることの多い彼女でしたが...」
「悲しい記憶が多いのに、母を思う時心に浮かぶのは、笑っている彼女です。」
「母の娘であることを誇りに思います。彼女に出会えたことに感謝の気持ちでいっぱいです。」
というように、
母=5回・彼女=7回
使われています。「主観的」に話す時は「母」、「客観的に」話す場合には「彼女」を使い分けています。しかも「彼女」と呼ぶときの宇多田さんの視点は、
「まるで、自らが藤圭子さんの母であるかのような・保護者としての視点」
のようにも感じます。
この「母」と「彼女」の使い分けで思い出したのは、やはり今年亡くなった、俳優の三國連太郎さんと、その息子・佐藤浩市さんの関係です。佐藤浩市さんも、父・三國さんへのコメントで、たしか、
「父」と「あの人」
を使い分けていました。
父や母が有名で偉大な人である場合で、その息子や娘もまた、才能を受け継いで活躍している時に、子が親を乗り越えることは、並大抵なことではないのだなということと、この二つのケースでは、「親」が「偉大」「天才」ではあるがゆえに「一般人・常識人」ではない生き方をしてきたことのツケが、子どもとの関係性に大きな影響を及ぼしているのだなというふうにも感じられて、「親子」という人間関係について、改めて考えさせられたのでした。