新・読書日記 2013_124
『アナウンサーの日本語論』(松平定知、毎日新聞社:2013、5、30)
あの「殿」こと「マ\ツダイラ」(×マ/ツダ\イラ)アナウンサーの著書。心して読むように。
アナウンサーとしての自分史を書こうと書き溜めていたメモを、「ぜひ!」と出版社の人に言われて「語りおろし」ふうに、編集者がまとめてくれたと。でも「語りおろし」の分、"松平さんらしさ"が良く出ている一冊だと思う。私もこういった本を書きたいと思うのだが、あれもこれもとなると、どうしても散漫になってしまう。とにかく幅が広いので、どれかに絞った方がいいなあという感じがする。「アナウンサーは、浅く広く知識を持っていなければならない。そのなかに一つ、専門の深い知識を持て」と入社したころよく言われたが、それをそのまま書くと、散漫になっちゃうんだよなあ。
44年のアナウンサー生活(今も現役!)の中で、この本を読む限りで、一番松平さんが力を入れたのは、以外にも実は「藤沢周平の朗読」であるような気がする。
目次を見ると、第1章「日本語で伝える技術」、第2章「私の朗読術」、第3章「テレビとともに生きて」、第4章「現代日本語論」、第5章「放送と日本語の歴史。に分けられている。本をオシリから逆に見ていくと4・5章はさらっと読んで、第3章は松平さんならではのエピソード、第2章が"キモ"の「朗読」、第1章は、アナウンサーはみんな読むべし、といった感じか。「歌うな、語れ」「意味の塊で読む」というのは、よーくわかる。共感。というより、普段から私も同じことを言っています。それと日航機墜落事故の時に、日航社長のおわび会見が生中継で入るという時に、それまで乗客名簿を読み上げていたアナウンサーが「いったん社長会見を・・・」と言った際、「いや、乗客名簿を続けてください。JALの社長の釈明会見より、いま、視聴者が求めているニュースは、乗客名簿でしょう」と言った木村太郎さんの咄嗟の仕切りに感銘を受けたと、松平さんは書いてあるのですが、私も28年前の当日、航機墜落のニュースを入社2年目で伝えていました。(たまたまその日が夜勤だったのですが、よく、やらせてくれたよなあ)その際に、先輩アナウンサーが伊丹空港から乗客名簿(520人分)を読み上げていて、100人ほど読み上げたところで「まだ続けますか?」と聞いてきたことがありました。何も絵変わりしない「テレビ的でない状況」に気付いたその先輩アナが、「テレビ的な不安」を感じて、そう聞いて来たのです。その際に私は「当たり前じゃないか!今必要なこと、知りたいことは"その飛行機に誰が乗っていたのか?身内は乗っていないかどうか"ということで、それがまさにニュースなのだから!」とかなり腹が立ったのですが、テレビですから怒りは抑えつつ、そのまま決然と「続けて下さい!」と言ったのを思い出しました。おお、俺って、木村太郎並みだったんだなあ。まあ、誰でもそう言ったでしょうけど。
この本を読んで気になった点は、
「千葉敦子さんという朝日新聞の記者の方が書いた『「死への準備」日記』という本に書かれてあった言葉」(71ページ)
とあったのですが、私もこの本は昔読んだことがあったけど、
「千葉さんって、朝日新聞の記者だったかな?読売新聞では?」
と思ったので調べてみると、なんと「東京新聞」の記者でした。4年間、東京新聞の記者をした後は、フリーのジャーナリストでした。松平さんは、この本が「朝日新聞社」から出ていたので勘違いしたのでしょう。でも、ちょっと調べればわかるのに。校閲は何をしていたのだ?と。
それと、言葉に関する本なのであえて言うのですが、
「歴史を紐解きながらご紹介して参ります」(156ページ)
の「紐解く」は、本来「繙く」で、しかも「本の紐を解く」つまり「本を開く」のが本義で、「歴史を紐解く」的な使い方は誤用であると言われていますが、それを断わりもなく、なぜあえて使ったのかな?と疑問に思いました。