新・読書日記 2013_040
『国の死に方』(片山杜秀、新潮新書:2012、12、20第1刷・2012、12、21第2刷)
奥付を見てビックリしたのだが、「12月20日に第1刷」が出て、「翌21日に第2刷」って、ものすごくないか?そんなの、見たことありません。
「緊急地震速報」の不気味な2つの音の「作曲者」が、あの「ゴジラ」の曲を作った「伊福部昭」の「甥」であるというのは、意表を突かれた。その「ゴジラ」とは、水爆、第五福竜丸、放射能災害、自然災害の象徴であると。なんだ、「今の日本」と引き写しではないか・・・。
歴史を遡り、あきらかに「過去の歴史」に学びながら、「現在」の姿が「そっくり」に進んでいる様を、丁寧にオーバーラップさせる。大東亜戦争に突っ込んでいったときの「政党政治」の終焉、「独裁者」なき「独裁」、1918年、第一次世界大戦が終わった後の「米騒動」に始まる「食糧問題」・・・TPPとどう違うのか?しかもその犠牲になったのが「東北地方」とは・・・。
最後の方の章で「国体」とは何かについて論じている。(まさか間違わないと思いますが、
「国民体育大会」の略称ではありません、一応。)「国体」とは・・・そうだ、「この国のかたち」と司馬遼太郎が書いたのは、まさに「国体」のことではないか?そして、数年前から政府が有識者を集めて行っている「新しい公共」についての会議というのも「国体」の事を話し合っているんじゃないか?そして「国体」とは・・・
「命を懸けてでも守るべき理想」
と言いますか・・・具体的には、戦前は「天皇(制)」(→国体護持)であったが、「現代の国体」というのは、
「日本国憲法」
なのではないか?そうすると、 いわゆる「護憲」というのは、現代の「国体護持」なのか?そんなことを、通勤電車の中で考えさせられました。