新・読書日記 2012_240
『日本語の宿命~なぜ日本人は社会科学を理解てきないのか』(薬師院仁志、光文社新書:2012、12、20)
「日本語の宿命」というより、「社会学用語の基礎知識」みたいな感じ。
全体に大変勉強になったが、一番勉強になったのは、第8章「民主主義と共和制」。一応、大学では政治学科だったので、この手のことは勉強したはずなのだが、もう卒業して30年も経つと、記憶があいまいになっている。それを「ああ、そうだった」と確認しながら読み進めた感じ。最初に「君主制」と「貴族制」と「民主制」の違いについて書かれていた。それは、統治者の「身分」によって異なるのではなく、統治者の「人数」の違いだという。統治者の数は「君主制」は1人、「貴族制」は一部(少数)、そして「民主制」は全員(多数)なのだ。ああ、そうだった、思い出した。そして、日本における民主主義の理解の混乱は、「民主制(デモクラシー)」と「共和制(リパブリック)」が混同されたことが、原因であると。「デモクラシー」の語源が「ギリシャ語」であるのに対し、「リパブリック」の起源は「古代ローマのラテン語」。「リパブリック」は「みんなのもの」という意味である。「みんな」とは「市民」に他ならない。「君主制」か「貴族制」か「民主制」かという区別と、「共和制」は、別次元の問題。その意味で「君主制の共和国」も存在しうる。漢語の「共和」のイメージが「合議」に結びついているが、そうではない。
また、"全員"による統治という定義を顧みない<民主制>は、"普通選挙"や"多数決"と言った「形式手続き」だけに堕してしまう危険性が非常に高く、"普通選挙"で代表者を選び、その代表者による議会において"多数決"を行えば、それで事足りるとなってしまうが、それは「民主主義」ではない。トクヴィルの言う「多数の暴政」である。「民主主義=手続き」ではないのだ。
「多数派であれ少数派であれ、誰もが『全員』の中の一人という点では同じだという大前提を無視してしまえば、民主的な手続きと称されるものは、国内対立と多数派工作しか生まない。その場合、選挙や多数決は、国民を勝者と敗者に分断する手続きでしかないのである。国民投票や住民投票といった直接的な多数決になると、その局面はさらに大きくなる」(159ページ)
そうそう、こういうことを私は言いたかったのです。さすが、すっきりと整理してくれるなあ。わかりやすかったです。