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『道浦TIME』

新・読書日記 2012_159

『ドストエフスキーとマルクス』(河原宏、彩流社:2012、5、30)

2012読書日記101で取り上げた『秋の思想~かかる男の児ありき』(幻戯書房)と同じく、今年2月、突如として83歳の生涯を終えた私の大学のゼミでの恩師の著。5月下旬に開かれた「お別れの会」で2冊同時に頒布されたもの。

「秋の思想」の「かかる男の児ありき」というサブタイトルは、「自分もかくありたい」という意思表明であり、その希望のように先生は人生を送られたように「秋の思想」は読めたと書いたが、そう生きるための参考にされた「生き方の一つ」として、ドストエフスキーとマルクスも存在したのであろう。しかしこのタイトル、一般の人は(私も含めて)ふつう、「難しそう」と敬遠してしまうようなあ・・・単純だけど、重すぎるから。

河原先生は、「人間はどう生きるべきか」ということを常に考えていらしたのだなあと思う。それは、世の中には「どう生きるべきか」がわからない、考えないまま「のほほん」と生きている人が多いから。「それではいけないのではないか」と、ご自分は考えていたからではないだろうか。「どう生きるべきか」を考えるのは、普通は「青春時代」のことだ。その意味では、河原先生は最期まで「青春」を生きたと言うべきか。

そういえば河原先生の本で新・読書日記 2009244」で読んで書いた『青年の条件~歴史のなかの父と子』(河原宏、人文書院:19981025)の中で河原先生は「はじめの問い」として、ゴーギャンの代表作の一つ「われらはいずこより来たり、何者であり、いずこに行くのか」を取り上げて、この「人間は、何処から来て何処へ行くのか」はすなわち「歴史と未来」であり、その形は「父と子」に収斂するが、それを求めて葛藤するのが「青年」だ、というように話がつながっていった。

「自らが、どこから来てどこへ行くのか」のひとつ前は、「『父』がどこから来たか」。そうやって「歴史」はつながって来たし、つながって行く。その果てに「未来」があるという歴史観である。


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(2012、7、20読了)

2012年9月10日 13:28 | コメント (0)