新・ことば事情
4749「詠み人知らず」
大学のゼミの恩師で今年2月に亡くなった、早稲田大学名誉教授・河原宏先生の著書、
『秋の思想~かかる男の児ありき』(河原宏、幻戯書房:2012、6、3)
を読みました。読書感想は「読書日記」に書きましたが、その最初に取り上げられた人物は、鎌倉幕府三代将軍、
「源実朝」
でした。歴史の教科書で名前だけ知っているぐらいの知識がなかったのですが、いかに実朝が、武人としても文人(歌人)としても、つまり「人」として優れていたかを、この本で初めて知りました。
また、平清盛の弟・平忠盛も、武勇にも和歌にも秀でていたそうです。朝廷から逆賊とされた忠盛は、追っ手から逃れる途中に、自作の歌集を藤原俊成に託したといいます。俊成は当時、勅撰の『千載和歌集』を編纂中だったので、そこに一首でも採用されることを、忠盛が望んだからだそうです。
和歌を託された俊成は、朝敵となった忠盛の歌、
「さざなみや 志賀の都はあれにしを 昔ながらの山桜かな」
を、「忠盛の名前を伏せて」、『千載和歌集』に載せたのだそうです。
「和歌への執念は命懸けだったのである」
と河原先生は書いています。
これを読んで「あっ!」と思いました。私はこれまで、
「詠み人知らず」
というのは、本当に「誰が詠んだのか分からない」のだと思っていましたが、万葉集ならいざ知らず、それよりも現代に近い時点での和歌集での「詠み人知らず」は、
「詠んだ人の名前がわからないのではなく、あえて隠している」
ということがあるのですね!つまり「匿名」での投稿。インターネットでいうと、
「アノニマス」
ですね。当時の「和歌集」は「メディア」として機能していたと。そこで「名前」を出して和歌の形式で歌を詠むということが、単に文学的な意味合いだけでなく、政治的な意味合いがあるということも、当然あったのですね!
今「和歌集」というと「趣味」「文学」としてしか認識していなかったのですが、その時代、時代でのあり方・使われ方に対しても、意識を持つ必要があるのだなと思いました。