新・ことば事情
4712「音校」
『音楽少年誕生物語~繰り返せない旅だから』(畑中良輔、音楽之友社:2002、2、12第1刷・2002、3、31第2刷)を読んでいたら、
「音校」
という言葉が出てきました。おそらく、
「音楽学校」
のことでしょう。それも「東京音楽学校」、今の「東京藝術大学」のことでしょう。
著者の畑中良輔先生、通称・ブル先生(1922年・大正11年生まれ)には、直接教わったことはありませんが、合唱の指揮をしてもらったことはあります。
この本を買ったのは、もう10年も前かあ。読んでなかった...ブル先生、「傘寿」を記念して、ということだったのかな。それから10年、今年は「卒寿」か。まだ現役とはすごいがそろそろ、学生コーラスの指揮はやめられるとも聞きましたが。
きょう(2012年1月26日)、小澤征爾さんが予定されていた演奏会をキャンセルするという記事を見ました。76歳。大病をされて無理のきかない体なのでしょう。そういえば、息子さんの出た映画を見ました。なかなか存在感のある演技をされていました。時代の流れは止められない。「方丈記」、です。
(追記)
2012年5月24日、畑中良輔先生がお亡くなりになりました。
ご冥福をお祈りします。
以下、読売新聞の訃報記事より引用。
「日本声楽界の重鎮で、戦後のオペラ普及に尽力したバリトン歌手で文化功労者の畑中良輔(はたなかりょうすけ)さんが24日午後0時2分、死去した。90歳だった。
間質性肺炎で闘病していたが、同日朝に容体が急変して病院に搬送された。
福岡県生まれ。東京音楽学校(現東京芸大)を1943年に卒業し、歌手活動へ。戦後、モーツァルトの歌劇「フィガロの結婚」のフィガロや同「魔笛」のパパゲーノを日本初演で歌うなど、名バリトンとして活躍。二期会や東京室内歌劇場の結成に参加し、新国立劇場オペラ部門の初代芸術監督(93~99年)を務めるなど、国内のオペラ振興に力を注いだ。東京芸大で長く後進を指導し、同大名誉教授。音楽評論も手掛けた。
(2012、6、5)