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『道浦TIME』

新・ことば事情

4491「擬態語を五感別に分類したら」

 

急に思いつきました。

「擬態語・擬音語を五感別に分類したら、きっとおもしろいですね!」

早速ちょっとやってみよう!

ざらざら、「ツルツル」は触覚、「ピカピカ、キラキラ」は視覚、「ビンビン、ガンガン」は聴覚、「ヒリヒリ、ピリピリ」は味覚でありながら触覚、「クンクン」は嗅覚。

と、ここでなんとなく感じました。

「味覚・嗅覚の擬態語は、視覚・触覚・聴覚に比べると少ないのではないか?」

つまり「五感」の中でも、

「味覚・嗅覚は、一段ランクが下の『下位概念』なのではないか?」

どうなんでしょう?そんなこと言ったら、料理人の人とかから猛反発されそうですが、「下」と言うから怒られるので、「上」かもしれません。生きていくために最低限必要な感覚ではなく、「よりよく生きるための上等な概念だ」と言えばどうでしょうか?同じことなんですが。

そんなおり、読んでいた『錯覚する脳~「おいしい」も「痛い」も幻想だった』(前野隆司、ちくま文庫)という本の中に、こんな記述が。

「味覚や触覚により区別する能力と、視覚情報を構成する能力と、何が違うのかと考えてみると、前者は知覚結果の区別であり、後者は知覚結果を用いた能動的な構成能力だ。だから、何かを外から受け入れる能力は劣るが、受け取った少ない情報から何かを作り出す能力は長けている、ということなのかも知れない。」115ページ)

これこれ、こういったことを言いたかったのです、わたしは!ちょっと、微妙に違う気もしますが・・・。さらに、

「味覚や嗅覚の鋭さを偏差値化する必要性もないために、私達はその個人差をあまり意識せずに生活しているに過ぎないのではないだろうか。」116ページ)

比べようがないもんね、あんまり。

 

夜。お酒を飲みながら一人で考えていたら、こんな考えが浮かんできました。

「『映像』(=視覚)はイメージに過ぎず、インパクトは強いが持続性はない。つまり訴求力は高いが持続性にかける。インパクト(浸透の深さ)と持続性(時間)は反比例するのではないか?インパクトは自らの中には残るが、それをそのままの形で他者に伝えることはできない。『言語』(=音声)はそれができる。その意味で、『ワンフレーズ・ポリティクス』は『言語の映像化』(映像的言語)と言えるのではないか」。

そして、20111010日の読売新聞で、科学哲学者で東北大学の野家(のけ)啓一教授は、「時事×思想」の欄で「大震災を語り継ぐ×柳田國男」というタイトルで「生者と死者の絆を問う」として、こう述べています

「『語る』という営みは個人の記憶や経験を言葉によって共同化し、共同体の記憶や経験として蘇生させるための不可欠のメディアに他ならない。避けがたい忘却の力に抗(あらが)うのは、何よりも『物語る力』なのである。」

これって、「物語る力」=言語・音声の持つ持続性・永続性の可能性を示したものではないだろうか?

 

 

(2011、10、11)

2011年10月21日 18:47 | コメント (0)