新・ことば事情
4471「傍観希望者」
2011年10月6日、小沢一郎被告の裁判。2000人を超える傍聴希望者が列を成しました。倍率は44倍。それを報じた「ミヤネ屋」で、並んだ人にインタビューをしていました。そのスーパーをチェックしていたら、
「傍観希望者」
と書かれているではありませんか!あわてて、
「傍聴希望者」
に直しました。「傍観」希望者って・・・なんでそんな間違いするねん!というものですが、(放送に出なければ)思わず笑ってしまうミスではあります。
ここで、同じ「傍」という言葉の後に「視聴覚」の言葉がついた言葉なのに、なぜこれほど意味合いが違うのかが気になりました。つまり
「傍聴」=一生懸命聴く
「傍観」=ボーっと見る
ということ。この違いはなぜでしょう?視覚と聴覚の違いからくるのでしょうか?
そんなことを考えていたら、10月7日・読売新聞朝刊にこんな記事が載っていました。。
「視覚は、聴覚の5000 倍の情報量を貯蔵できる」
というのです。記事を読んでみると、群馬パース大学の栗田昌裕教授の話として、
「聴覚を司る神経細胞(聴細胞)が2万~3万本に対して、視細胞は1億2000万本ある。言語に関する短期記憶の倉庫は小さい。記憶の貯蔵は、感覚貯蔵→短期記憶→長期記憶という3段階を経る。感覚貯蔵から短期記憶の過程で言語化の作業が入ると、覚える情報が少なくなってしまう。視覚を主とし、言語化しない道筋で情報を残せば、記憶力を飛躍的に伸ばせる可能性がある」
とのことでした。
そういえば、「来たはずがない場所」なのに「なんか、来たことがある気がする」という、
「デジャブ(既視感)」
は、当然「視覚」ですよね。つまり「画像」は残っているが、言語化された「キャプション」にあたる情報が欠けている。そうすると、「データ」として検索できない。(「イメージ検索」なら画像で検索できるのかもしれませんが)
「傍観」と「傍聴」の違いは、そういった「視覚」か「言語」の違いによるものではないでしょうか。「言語」の方が抽象化あるいはデータ化しなくてはならないので、高度な処理・手間がかかる。「視覚」の方が、取り込みやすい。しかしその一方で分析・分類ができにくい。その辺が「ただ傍にいるだけ」で「観る」と「聴く」の意味の違いになっているのかもしれません。