新・読書日記 2011_173
『流される』(小林信彦、文藝春秋:2011、9、15)
小林信彦の自伝的小説の第3部。と言いつつ、実は第1部・第2部を読んでない。あとで読もう。これは明らかに幸田文の『流れる』を意識したタイトルだ。
著者(=「私」)思いがけず知ることができた「祖父の歴史」から、自らの人生を振り返っている。
戦後すぐは「狸穴町=ソ連兵」という連想があまりにも有名だったこと、新聞で「大きな男」「大男」というのは、どこかの国の占領軍(の兵士)ということだったなど、その時代を生きていた人ならみんな知っているが、その時代を生きていない人は全く知らない「知識」が記されている。
また著者の父は「喫茶店」を「きっちゃてん」と発音するとか、取るに足らない「時代のディテール」が記されている。でも「神は細部に宿る」のだと思う。ここをしっかりしなくて全体の構成はない。「砂上の楼閣」になる。
「アメリカの立体(3D)映画『恐怖の町』を新宿で観て、よけい疲れた」
というあたり、再三、最近の3D映画への批判(というか、取るに足りないものだという見方)を週刊誌(週刊文春)のコラムで書いている「起源」は、ここにあったのだなとわかった。
そのほかにも、
*「一冊はジョルジュ・シムノン、これは探偵小説です。このごろは推理小説と申しますが。どうも中学生にふさわしいとは思えませんので」(146ページ)
*「中学三年を終わろうとする私は、傲慢さで脹ら雀のようになっていた。」(142ページ)
*「昔の言葉でしょうが、レオポルドさんは使うんです。女の人のあそこを正面から見ると、こうもりが白壁に張りついているようでしょう」(131ページ)
*(マイペッカー)「〈ペッカー〉は男の大事なところだ」「くりかえすとすれば、〈畜生〉とかそういう意味だろうな」(131ページ)
*(「薄らとんかち」ではなく)「薄らとんちき」(128ページ)
*「酔いかけた混血児たちは滝本ね頭を叩き、はげ、はげ、とからかっている。」(125ページ)
*「白人、混血児たちは帰ってしまった」
といった表現・言葉が出てくる。舞台は昭和22年(1947年)。小林信彦、14歳。太宰治を「人生のコメディアン」と表現していた。