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『道浦TIME』

新・ことば事情

4496「ソウルフード」

 

「ミヤネ屋」の放送が終わって、午後4時台の『秘密のケンミンSHOW』の再放送を見ていたら、

「なにわのソウルフード・たこ焼き」

ということばが出てきました。この中の、

「ソウルフード」

は、この前『ミヤネ屋』の中の「高田タクシー」のコーナーの原稿をチェックしていた時にも出てきました。その時は安芸の宮島(広島)を旅していたのですが、

「宮島のソウルフード」

という表現でしたが、違和感があったので原稿を直しました。

「宮島の郷土料理」

に直したと思います。

そもそも「ソウルフード」とはどんな料理なのでしょうか?

「高級料理ではない」が、「B級グルメ」よりは「高級な感じ」を出そうとしているのではないでしょうか?雑誌『Meets(ミーツ)』などの記事が起源でしょうか?

「ソウル=魂」

と言うからには、「昔からの伝統料理」かつ「庶民的料理」なのでしょう。

「ソウルフード」でネット検索すると、

「その地域の人たちのアイデンティティーや郷愁を感じさせる料理」

とありました。あ、「ソウルミュージック」とも関連するか。そうすると、

「おふくろの味」

のことかな?すんなり、そう言えばいいのに、という感じが・・・。

『現代用語の基礎知識2011』を引いてみたら、載っていました!

「ソウル・フード」=米国南部の伝統的な黒人料理。奴隷時代に、臓モツなど白人が口にしないような食材を使って作られた。食材も良く、調理法も工夫された最近のものは、ヌーベル・ソウル(nouvelle  soul)とも言われる。

なるほど、「アメリカの黒人起源」の言葉でしたか。

「臓モツ」などは「大阪」でも食べられていた(いる)ので、そのあたりが共通しているのかもしれませんね。

 

 

(追記)

10月31日の日本テレビ「スッキリ!!」で、大竹リポーターが、

「日本人のソウルフード・卵かけご飯」

と言っていました。「モツ」とは関係ありませんが、卵かけご飯は日本のソウルフードだったのか・・・卵かけご飯はす木だけど、ちょっと違和感が。

(2011、10、31)

 

 

 

(2011、10、27)

2011年10月27日 19:44 | コメント (0)

新・ことば事情

4495「くさか、あすか」

 

大阪の東大阪市に、

「日下」

という地名があります。これは、

「くさか」

と読みます。以前読んだ地名の本に、

「東大阪の『くさか』は草深い所で、生駒山の山頂から太陽が昇るところの山裾。それで漢字での表記は『日(の)下』と当てて、以前からの読み方の『くさか』と呼んだ」

と書かれていました。そうか、読み方(呼び名)が先で、漢字表記(意味)があとか!と思いました。また、奈良の「飛鳥」も、もともと「あすか」と呼ばれていたところで、鳥が飛んだので「飛鳥」という字を当てたそうです。

その話をしていて、「あ!」と思いました。

「あすか」「くさか」

は、ともに「か」が付きます。この「か」は、漢字で書くと、本来は

「処」

になって、

「場所を現す古語」

なのではないか?とひらめいたのです。そう考えると、

「どこか」「すみか」

なども「か」が付きます。「すみか(棲家)」は「家」だから違うかな?また、

「いずこ」

「こ」も、「か」と同じ「カ行」だから似ているのかも。

『精選版日本国語大辞典』「か()を引くと、

「《語素》名詞または動詞の連用形に付いて、場所を意味する。『山が』『ありか』『かくれが』『すみか』など。く。こ。」

とありました。ピンポーン!当たりです。やっぱりね。

「ゆくえ」「いにしえ」「とこしえ」

「え(方)」と似ているで気づきました。

「平成ことば事情4042 いにしえ、ゆくえ、とこしえ」もお読みください。

 

(2011、10、28)

2011年10月27日 12:42 | コメント (0)

新・ことば事情

4494「クロベイのアクセント」

 

1020日のNHK「ブラタモリ」は、新宿をぶらぶら歩いていました。新宿御苑に始まって、玉川上水の跡、新宿高校内に残る玉川上水の"上"を流れていた"下水"の遺構とか、江戸時代の「水番屋」の跡地には東京都水道局新宿支所の建物が建っていたり、西新宿の都庁界隈のオフィス街が、昔(といっても30年ぐらい前でしょうか?都庁が建つというのは、私が働き始めてからだし、ついこの間、都庁が建ったと思ったらもう20年も建っている、いや経っているんですねえ)は「淀橋浄水場」だったとか、なかなかおもしろいですね。東京都水道局のマスコットのゆるキャラには男女揃っていて、「水滴君」と「水玉ちゃん」というそうです。ふーん。1回見ただけでこれだけ覚えているんだから、インパクトの強い番組内容だったというべきか、たとえ『ちいさんぽ』の二番煎じの企画だとしても。二番も三番もないんです。同工異曲の番組は昔からたくさんありますからね。MBS『夜はくねくね』(おお、懐かしい!)の昼版とも言えますか。

さて、その後タモリさんたちが向かった先は、新宿・十二社。

「社」と書いてなぜだか「そう」と読む。そのナゾ解きはなかったな。藤子不二雄Aさんの事務所もこの辺にあって、何年か前にインタビューにうかがったことがありました。

その十二社に、昔「池」があったので 地名に「池の上」「池の下」と残っているが、肝心の池はもう埋め立てられてしまって残っていない。ただ、池があった頃に住んでいた人たちは、お年寄りの中でまだ生きているであろうと、聞き込みを始めたところ、ちょいと老舗のおそば屋さんのおかみさんが覚えていた。中学生ぐらいのときの写真(おそらく50年ぐらい前)を出してきたら、ちゃんと池が写っていた。そして当時はその辺りは、イキな感じのお店が並んでいたという話になった時に、おかみさんが(70歳代と思われます)、

「当時はずっーと『クロベイ』があって」

といったのです。このアクセントが、「ロ」が上がる「中高アクセント」で、

「ク/ロ\ベイ」

というものでした。え?それって「黒塀」でしょ。それならアクセントは「平板」で、

「ク/ロベイ」

ではないのか?と思った後に、

「そうか、昔のアクセントは『中高』が主流だったんだ!!」

と思い当たりました。『NHK日本語発音アクセント辞典』『新明解日本語アクセント辞典』とも、「平板」の後に「中高」を載せて、

「ク/ロベイ」「ク/ロ\ベイ」

2種類のアクセントを掲載していました。

きっと昔は中高の「ク/ロ\ベイ」だけで、その後に「平板」の「ク/ロベイ」が出てきて2番目に掲載されて、それの順番が今は逆になっている、というアクセントの変化(入れ代わり)の最終段階に来ているのではないかと思いました。

「黒塀」で思い出すのは、やはり『お富さん』ではないでしょうか。

「♪粋な黒塀 見越しの松に」

「見越し」は「神輿」だとばっかり思っていました。「黒塀」は「粋」なんですね。つまり、幸田文の『流れる』に出てくるような花柳界のお店のような家が「黒塀」で囲まれていたということか。『ジャングル黒べえ』は関係ありません。

十二社の「池」は埋め立てられても、もうしばらく、中高の「ク/ロ\ベイ」のアクセントは、「アクセント辞典」には残しておいてほしいな、と思いました。

 

(2011、10、21)

2011年10月26日 12:43 | コメント (0)

新・読書日記 2011_183

『岳・15巻』(石塚真一、小学館:2011、10、5第1刷)

 

誰のせいでもない。だって山だから...。

裏表紙の言葉から、僕らは自然との向き合い方を学ぶ。

山岳救助隊員の阿久津くんという不器用な、新米パパが落石事故に...。それを受けて、限られた命の時間を改めて感じた主人公・三歩(さんぽ)は、これまでは一旦お預けにしていた、自分のための5000メートル級の山登りを目指すことを決意する。それは自らへの挑戦であり、自然との闘いである。

巻末のあとがきで著者は、ヘリコプターの牧操縦士のモデルともいえる民間山岳へリ救助隊員の故・篠原秋彦氏を紹介している。

「篠原さんを想起させる表現となったにもかかわらず、ご遺族の方々へのご報告をしないまま今日に至ってしまいました。ご遺族の胸中を察し得なかったこと、申し訳なく思っています。この場を借りてお詫び申し上げます。」

うーん、なんらかの出来事があったのだな。誠に"表現"というのは難しいなあと改めて思う次第。

 

 


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(2011、10、24読了)

2011年10月25日 12:36 | コメント (0)

新・読書日記 2011_182

『暴力団』(溝口敦、新潮新書:2011、9、5第1刷、2011、10、15、第5刷)

 

「シンプル・イズ・ベスト」なタイトル。

溝口敦氏といえば「暴力団」もので有名なのは知っていたが、ちゃんと一冊の本を読むのは初めて。紳助さんが"引退"したこのタイミングでの出版は大変タイムリー、ということで、1か月で5刷と売れています。かつて、「民事介入暴力=民暴」が問題になったのはバブルがはじけて、地上げが上手くいかなくなった時期。その時に暴力団に対する法律の締め付けが厳しくなったように、この10月から各自治体の条例での暴力団への締め付けが厳しくなった。著者があとがきで書いているように、「暴力団」は「最後の光芒」を放っている、やがては消えゆく存在なのだろうか。

民暴当時の警察庁長官は国松孝次氏。その後、狙撃された。当時はオウムの手によるのか?はたまた北朝鮮かなどと取りざたされたが、結局犯人は捕まらないまま"時効"を迎えたが、「民暴」で暴力団への締め付けを行った最高責任者ということを考えると、その筋の可能性も当然、洗っていたのだろう。しかしその暴対法も、「暴力団」という存在を認めてしまっている=存在そのものは違法ではないという判断は、世界の他の国とは対応が違う。それは「日本の歴史における博徒からの流れの暴力団」という存在があるのか、はたまた「必要悪」とされていたからか。この10月からの条例での対応は、安藤・警察庁長官の強い意志によるという。現在の山口組の主流・弘道会が、警察との対決姿勢を強めていることに対して「徹底的につぶす」という意志を強くしたとのこと。きっかけは、大阪府警の"暴力的な"取り調べでケガをした組員が、なんと「裁判」を起して、それで組員側が「勝訴」してしまったことだという。ここでも「面子」の戦いだ。

なかなか普段のニュースではそういった面まで出て来ないので、歴史の中における現在の「暴力団」と現代社会のありかた、警察の向き合い方などを学べる一冊であった。

なお著者の溝口氏は、かつて山口組五代目の本を書いた時に、「出さないでくれ」と依頼をされたが、「ジャーナリストとして断固拒否」したところ、その3か月後に、左肩を刺されたたという・・・。

 

 


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(2011、10、23読了)

2011年10月24日 18:17 | コメント (0)

新・読書日記 2011_181

『政権交代の悪夢』(阿比留瑠比、新潮新書:2011、4、20)

 

産経新聞の「阿比留瑠比」記者といえば、その筋では有名な政治記者だ。なんと言っても名字が珍しいから覚えやすい。「瑠比」という名前も珍しいから「ペンネームか?」と思ってしまうくらい。上から読んでも「アビルルイ」、下から読んでも「アビルルイ」・・・ではないけど、そんな"回文的なお名前"の人だと感じていた。産経新聞でも署名記事をよく目にする。総理や官房長官などの会見の会場で「産経新聞のアビルと申します」と名乗っているのをテレビで耳にしたこともある。それにしても、私より5歳も年下とは思わなかった。

政治の現場を取材してきた著者が「もう、我慢ならん!」と書いたのが「政権交代」によって誕生した「民主党政権」の、「希望」と反比例に膨らんできた「悪夢」という「現実」だった。「舞い上がり、甘え、驕り」「宇宙人の非常識外交」という章のタイトルを見ただけで、いかに民主党政権を腹立たしく思っているかがわかる。「小沢とカネ問題」について書かれた章では、2010年正月早々に辞任した藤井財務大臣の辞任の理由が、表だって言われている「体調不良」ではなくて、「小沢氏との不和」が原因だと。そして、かつて盟友だったはずの小沢氏との不和の原因は「小沢のカネの問題」で、それを追及されそうだったから辞任したと。例の政党助成金の問題だ。「究極の55年体制、完成す」の章では、「民主党の正体」は「自民党・田中派と、社会党」であると。その意味では「究極の55年体制」が完成したとしている。たしかに。そりゃあ、そうなんだよな。

日々の取材で集めた情報を整理して、歴史という観点から並べ直した一冊。

 

 


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(2011、9、26読了)

2011年10月23日 18:17 | コメント (0)

新・読書日記 2011_180

『宮沢賢治のことば』(本田有明、サンマーク出版:2011、9、30)

 

9月に、パナソニック合唱団(旧・松下中央混声合唱団)の演奏会に「朗読」で参加した。「朗読」は、曲の前か間もしくは後ろに読むものかと思っていたら、楽譜が送られて来て見てみると、なんと実は「曲の中で読む」、つまり「レティタティーボのソリスト」のような位置づけだったのでビビった。しかし、本番ではまずまず納得のいく「演奏」(=朗読)ができたのでホッとした。

その曲というのが「宮沢賢治最後の手紙」というのもの。東日本大震災を応援するための曲で、岩手県出身の宮沢賢治の「最後の手紙」(亡くなる一週間ほど前に書かれたもの)にメロディーをつけたものだった。それで改めて、「宮沢賢治」に興味を持っていたら、この本を見つけた。

賢治は、生まれる2か月前に「明治三陸大地震」(1896年=明治29年)で津波が三陸地方を襲っている。そして亡くなる半年前に、今度は「昭和三陸大地震」(1933年=昭和8年)が起こっている。つまり、わずか37年の生涯の初めと終わりに、故郷・岩手を含む東北地方に歴史に残るような大きな自然災害が起きていたのだ。また、彼の生涯の37年間は、様々な天変地異が起こり、東北地方は飢饉に襲われていた。その中で自然とともに生きることの意味(農業を通じて)、人のつながりの意味、純粋さを求めた賢治は、生涯独身であった・・・。

今年また三陸を大津波が襲った。「昭和三陸地震」から78年が経っているが、賢治の時代と現代はつながっているのだと思った。その気持ちを持って賢治の作品を読んでいくと、より一層、宮沢賢治が生き生きと、今の世の中で輝きを放つような気がする。過去の人ではなく、まさに今を生きる人として。

 

 


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(2011、10、5読了)

2011年10月23日 13:16 | コメント (0)

新・ことば事情

4493「メール送信先間違えてませんか?」

 

毎日たくさん「迷惑メール」、いわゆる「スパムメール」がきます。最近は「SPAM」という表示が出るので、それを全部削除するところから、毎日の仕事が始まります。

きょうも「スパムメール」を削除していたら「SPAM」表示のあるメールのタイトルがこういうものでした。

「メール送信先間違えてませんか?」

え?と思って開いてみると、

 

そちらから下記のメールが来ました。

送信先間違えてませんか?

私も競馬で負け続けだったので、

逆にこんなメールくれてラッキーだったのですが(笑

失礼だとは思ったのですが、利用させていただきました...すみません。

>ごめんなさい!かなり、儲かっちゃいました!!

>半年前のある日【投資競馬員募集】

 

やっぱり「スパムメール」でした。

しかし、このタイトル、久々に「もしや?」と思うぐらい、よくできています。

「スパムメール」は人の目を引くための「ことばのトラップ(わな)」を仕掛けるために、日々進化しているのだな、とちょっと感心してしまいました。で、ネタにさせていただきました。

なお、私は投資競馬には興味はありません。

皆さんも、この種の「ひっかけメール」には、お気を付けください。

また、「平成ことば事情2520『管理職の方へ<重要>』」もお読みください。

 

(2011、10、21)

2011年10月22日 19:15 | コメント (0)

新・ことば事情

4492「ととのえる」

 

「ミヤネ屋」の字幕スーパーを、いつものようにチェックしていたら

「家政を整える」

というものが出てきました。もしこれが、

「部屋を整える」

とか、サッカー日本代表の長谷部誠選手の本のタイトルならば、

『心を整える』

でいいんです。「整備体操」のようです。

「呼吸を整える」

も同じでしょう。

しかし、「家政」といった場合の「ととのえる」は、はたして「整える」でいいのだろうか?と疑問に思いました。

そこで、『新聞用語集2007年版』を引いてみると、

「整う・整える」(整理)=準備が整う、体調を整える、隊列を整える、

整った文章

「調う・調える」(調達、まとめる)=味を調える、家財道具が調う、

資金を調える、商談が調う、晴れ着を調える

とありました。

そうか、乱れているものを元に戻すのが「整える」(全速力で走った後、息を「整える」)、いろんなものを集めてきて、調和を作り上げるのは「調える」2種類の「ととのえる」があるのですね!ということでここは、

 

×「家政をえる」→○「家政を調える」

 

としました。

 

(2011、10、20)

2011年10月22日 12:46 | コメント (0)

新・ことば事情

4491「擬態語を五感別に分類したら」

 

急に思いつきました。

「擬態語・擬音語を五感別に分類したら、きっとおもしろいですね!」

早速ちょっとやってみよう!

ざらざら、「ツルツル」は触覚、「ピカピカ、キラキラ」は視覚、「ビンビン、ガンガン」は聴覚、「ヒリヒリ、ピリピリ」は味覚でありながら触覚、「クンクン」は嗅覚。

と、ここでなんとなく感じました。

「味覚・嗅覚の擬態語は、視覚・触覚・聴覚に比べると少ないのではないか?」

つまり「五感」の中でも、

「味覚・嗅覚は、一段ランクが下の『下位概念』なのではないか?」

どうなんでしょう?そんなこと言ったら、料理人の人とかから猛反発されそうですが、「下」と言うから怒られるので、「上」かもしれません。生きていくために最低限必要な感覚ではなく、「よりよく生きるための上等な概念だ」と言えばどうでしょうか?同じことなんですが。

そんなおり、読んでいた『錯覚する脳~「おいしい」も「痛い」も幻想だった』(前野隆司、ちくま文庫)という本の中に、こんな記述が。

「味覚や触覚により区別する能力と、視覚情報を構成する能力と、何が違うのかと考えてみると、前者は知覚結果の区別であり、後者は知覚結果を用いた能動的な構成能力だ。だから、何かを外から受け入れる能力は劣るが、受け取った少ない情報から何かを作り出す能力は長けている、ということなのかも知れない。」115ページ)

これこれ、こういったことを言いたかったのです、わたしは!ちょっと、微妙に違う気もしますが・・・。さらに、

「味覚や嗅覚の鋭さを偏差値化する必要性もないために、私達はその個人差をあまり意識せずに生活しているに過ぎないのではないだろうか。」116ページ)

比べようがないもんね、あんまり。

 

夜。お酒を飲みながら一人で考えていたら、こんな考えが浮かんできました。

「『映像』(=視覚)はイメージに過ぎず、インパクトは強いが持続性はない。つまり訴求力は高いが持続性にかける。インパクト(浸透の深さ)と持続性(時間)は反比例するのではないか?インパクトは自らの中には残るが、それをそのままの形で他者に伝えることはできない。『言語』(=音声)はそれができる。その意味で、『ワンフレーズ・ポリティクス』は『言語の映像化』(映像的言語)と言えるのではないか」。

そして、20111010日の読売新聞で、科学哲学者で東北大学の野家(のけ)啓一教授は、「時事×思想」の欄で「大震災を語り継ぐ×柳田國男」というタイトルで「生者と死者の絆を問う」として、こう述べています

「『語る』という営みは個人の記憶や経験を言葉によって共同化し、共同体の記憶や経験として蘇生させるための不可欠のメディアに他ならない。避けがたい忘却の力に抗(あらが)うのは、何よりも『物語る力』なのである。」

これって、「物語る力」=言語・音声の持つ持続性・永続性の可能性を示したものではないだろうか?

 

 

(2011、10、11)

2011年10月21日 18:47 | コメント (0)

新・ことば事情

4490「まきば」

 

「ミヤネ屋」の新聞記事紹介のコーナー「ヨミ斬りタイムズ」で、無敗の三冠馬「シンボリルドルフ」が死んだという記事をお伝えした際のこと。担当の後輩アナウンサーが、その「場所」について書かれた、

「千葉県成田市の牧場で」

という一文の「牧場」を、

「マキバ」

と読みました。成田市の「マキバ」はないだろう!「マキバ」は!とみんなで突っ込みを入れたのですが、たしかに「牧場」には、「マキバ」「ボクジョウ」両方の読み方があり、ともに意味は、

「馬や牛などの家畜を放して育てる場所」

ですが、その違いを言うならば、

「マキバ」=「名もない馬や牛が放牧されている草原」

で、一方、

「ボクジョウ」=「放牧のための施設を整え、より人間の支配化におかれたもの」

で、「ボクジョウ」の方が「商業」の香りがします。ということで、競走馬は、

「ボクジョウ」

で飼われています。

「音読み」と「訓読み」、「漢語」と「和語」の感覚は、いろんな文章を読んでボキャブラリーを増やしていくしかないのですが、少なくとも、ひとつの漢字・熟語に、

「ひとつの読み方しかない」

という考えは捨てて、

「(自分は読み方を知らないが)二つ以上の読み方があるであろう」

「類推」するクセをつけることが重要です。訓練あるのみ!また、事前の「下読み」を今後さらに徹底させることにしました。思わぬところに、落とし穴は口を開いているものです。

ここで、ひとこと。

「人間は、ミスをする動物である」

先日(927日)の朝日新聞の「訂正記事」は、

「一部地域で『101日の「日本酒の日」』とあるのは、『101日の「日本酒の日」』の誤りでした」

というもの。

どこが間違っているか、すぐにわかりましたか?

私は2度読んでようやく気づきました。そうです、最初の方は、

10日」

になっているのです。もちろん正しくは、

10月」

です。こんな間違いをしてしまうし、それを見逃してしまう、それが「人間」です。そういったミスを少しでも減らすように、努めようではありませんか!!

そして、失敗を極力防ぐ・減らすだけでなく、

「万が一失敗した場合のカバーリングをどうするかを、様々な失敗を想定して対策を事前に考えておく必要があるのではないか?」

と思いました。これって、「失敗学」なのかな?

「原発」は、それを怠っていました。

 

(2011、10、20)

2011年10月21日 12:24 | コメント (0)

新・読書日記 2011_179

『錯覚する脳~「おいしい」も「痛い」も幻想だった』(前野隆司、ちくま文庫:2007、5)

 

もう10年ほど前になるが、映画『マトリックス』を見たときには、SF・仮想の「仮想現実の世界」としか思えなかった。と言うより、

「もし、いまの現実の世界が、すべて"仮想現実"であったら・・・」

というのは、大変おもしろいが、考えても意味のないことである。しかし、やはり、

「このリアリティーは、本当にリアルなものなのか?」

という疑問を持つことは、哲学的には意味のあることだと思う。時々そういうことも考えてみるのは、いいことだ。(この本では「リアル」あるいは「リアリティー」を、たぶん「クオリア」という言葉で表現されていると思う。違ったかな。)そういった意味でこの本は「頭の体操」になった。

「味覚や触覚により区別する能力と、視覚情報を構成する能力と、何が違うのかと考えてみると、前者は知覚結果の区別であり、後者は知覚結果を用いた能動的な構成能力だ。だから、何かを外から受け入れる能力は劣るが、受け取った少ない情報から何かを作り出す能力は長けている、ということなのかも知れない。」(115ページ)

そうすると、ちょうど「味覚や触覚は、視覚よりも下位の概念ではないか?」という疑問を持っている時にこのくだりを読んだので、

「やはりそうか!」「ほぼ、当っていたんだ!」

という気分になった。そして、

「味覚や嗅覚の鋭さを偏差値化する必要性もないために、私達はその個人差をあまり意識せずに生活しているに過ぎないのではないだろうか。」(116ページ)

これもその通りだなと思った。

悲しいことがあると「これが仮想現実であれば・・・」と思うこともあるが・・・。

とにかく、知的刺激を受ける一冊だった。

 

 


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(2011、10、12読了)

2011年10月20日 19:18 | コメント (0)

新・ことば事情

4489「よくはし」

 

お風呂から上がっても、なかなかパジャマに着替えないで遊んでいる6歳の娘に、

「はよ、寝えや!あしたも学校あるやろ!?寝なあかんで!」

と言うと、急にこんなことを言います。

「はやく1231日になってほしい。『よくはし』できるから。」

「??『よくはし』?・・・ああ、それは『よふかし(夜更かし)』 やな」

と言うと、言いにくそうに、でも二ヤッと笑いながら、

「ほんとは『よ・ふ・か・し』、やろ?また、パソコンで打っといてな!」

言い間違いの音韻転換を比べてみると、

「よふかし」

 ↓↓↓↓

「よくはし」

つまり、「ふ→く」「か→は」になっているということなので、

「母音は同じで、子音を間違えた」

ということですね。そういうケースは音の響きは似ていますね。結局、言い間違いのひとつには、

「子音が置き換わる」

ということがあるのではないでしょうか。

それにしても、言い間違いをブログに(本に)書いたという話をしてから、娘は言い間違いをするたびに、

「また書いておいてな」

と言うようになりました・・・こうなると、もう、あんまり面白くありませんが、一応書いておきます。やっぱり小学校に入るまでが、一番「言い間違い」はおもしろいな。

 

(2011、10、12)

2011年10月18日 20:14 | コメント (0)

新・ことば事情

4488「トニー谷」

 

いつものように「ミヤネ屋」のスーパーをチェックしていたら、ほかの番組のスタッフが、テロップのオペレーターに口頭でスーパー(テロップ)の発注をしていました。聞くともなく耳に入ってきたのは、

「とたにさんです。トニー谷」

え?「トニー谷」?ニュースで突然?

あ、よく考えたら「とたにさん」という名字の漢字の説明で、

「戸に谷」

と言っていたのですが、それが、

「トニー谷」

に聞こえたのでした。

なーんだ。

 

(2011、10、13)

2011年10月18日 10:12 | コメント (0)

新・ことば事情

4487「端におってやる」

 

911日、和歌山県・那智勝浦町の寺本真一町長。台風12号によって亡くなった娘さんの遺体と対面して、こう話しました。

「端に、おってやるのが精いっぱい」

この「端」は「はた」と読みます。というか「はた」と言っているのを漢字で書くと「端」になるわけです。しかし、ふだん私たちが「端」と書かれたものを読むのは、

「はし」

あるいは、ちょっと関東風になまって、

「はじ」

と読むのではないでしょうか。あまり「はた」とは読みません。しかし、これを平仮名で、「はた」と書くとわかりにくい。「端」の常用訓に「はた」は含まれているのですが。

「はた」の意味は「そば」

「囲炉裏端」

のような言葉では使われますが、単独で「端(はた)」というのは、あまりないのかもしれません。ということはテレビのスーパー表記では、漢字で書いてルビを振る、

「端(はた)」

という表現が一番いいのかなとも思いました。

それにしても寺本町長の心中を察すると・・・・。なんとも言葉がありません。

 

(追記)

いま読んでいる『鉄の骨』(池井戸潤、講談社:20091071刷・2010、717刷)の中に、「端」にルビを振ったものが出てきました。最初が「はた」で、その後の2回は「はな」でした。

 

*「狭い通り沿いのモダンな八階建ては、端(はた)からみると随分と羽振りが良さそうに見えるから皮肉だ。」(23ページ)

*「そんな奴らに談合がどうのこうのという資格なんて、端(はな)からないっての。」(53ページ)

*「根っからの一松組の人間なら遠慮しちまって端(はな)からなやろうとしないようなことを、やろうとしたりな。」(150ページ)

まだ全部は読んでいないのですが、このあとも出てくるかもしれません。

(2011、10、31)

 

 

 

(2011、10、10)

2011年10月17日 18:10 | コメント (0)

新・ことば事情

4486「前のめり」

 

今年(2011年)のF1鈴鹿サーキット、予選7位だった小林可夢偉選手決勝ではちょっと失敗、13位という残念な(不本意な)結果になってしまいました。

しかし去年の、2010年の「F1鈴鹿サーキット」では、たしかにすごかった。その際のフジテレビの実況アナウンサー小林可夢偉選手の「走り」について、こうコメントしました。

「日本中が前のめり!」

そうかあ?

たしかにすごい「走り」でしたが。「日本中」はオーバーだな。そちらに注目が行ってしまいましたが、実はここで使われている、

「前のめり」

という表現について、2011629日にNHKの原田邦博さんからメールが届きました。

『けさの朝日新聞での、NHKのディレクターの発言で、

「前のめり」

という言い方が使われています。これは「積極的」など、プラスのイメージでの使用だと思われますが、本来の「前のめり」は、マイナスのニュアンスが強いような気がします。「前向き」「前傾姿勢」のほうがいいように感じました。』

 

それまで私は、それほど気にしていなかった「前のめり」ですが、その後ちょっと注意してみると、

『週刊文春』(2011年9月29日号)「勝次官の肝いり主計を結集した『消費税シフト』」という記事の中に、

『「中核の主計局から直接送り込む人事に『前のめり』な姿勢が如実に現れている」と民主党関係者は指摘する』

という文脈で「前のめり」が使われていました。これは「積極的」「精力的」などの意味合いですね。ただそこに「プラス・イメージ」だけでなく「やや批判的な目線」も感じられる気がします。

新しい言葉をいち早く取り入れることで知られる『三省堂国語辞典』を引いてみたら、載っていました!

「前のめり」=(1)たおれそうにからだが前へかたむくこと。(2)先走ること。(例)「前のめりの議論は避けたい」

あれ?この2番目の意味かと思ったら、「週刊文春」の使われ方は、この(2)の意味かもしれないけど、F1の「日本中が前のめり」はどちらかというと(1)の方。体が自然と前のほうにいく、集中して引き込まれる、という感じでしょうか。そうすると、(1)でも(2)でもない微妙な使われ方ですね。この辺、今後も注目していきます。

 

(2011、10、10)

2011年10月17日 12:09 | コメント (0)

新・ことば事情

4485「『凱旋帰国』は重複表現か?」

 

「平成ことば事情679凱旋」「平成ことば事情3572凱旋帰国」で、「凱旋帰国」という言葉は「重複表現」ではないか?ということを書きました。というのも、「凱旋」に既に「帰る」という意味が含まれているからです。

しかしその後、「凱旋」には「国に」という「方向性」は含まれていないので、使えるのではないか?と考え出しました。

『三省堂国語辞典』を引いてみたところ、「凱旋」の用例のところにしっかりと、

「凱旋帰国」

と記されていたのです。そこで「なでしこジャパン」が女子ワールドカップで優勝した際「凱旋帰国」という表現のスーパーを、そのまま直さずに使ったところ、「ミヤネ屋」のスタッフからこんな意見をもらいました。

 

「以前、WBCやオリンピックの時に、「『凱旋(がいせん)帰国』という表現は使わないで!と、道浦さんから日々のメールで言われた」

 

たしかに以前、送ったような気がします・・・・。

「凱旋帰国」が「ダメ」とした理由は、2つ考えられまして、

(1)「凱旋」は「勝って帰る」ことなので、原則「優勝でない場合には使えない」

(2)「凱旋」は「勝って帰る」ことなのでこれに「帰国」と付けた「凱旋帰国」は「重複表現」にあたる

ということでした。

今回の「なでしこ」は「優勝」したので、「凱旋」は使えます。(1)はクリアです。

問題は(2)の「重複表現」なのですが、「凱旋」は「勝って帰る」ことですが、「どこに帰るのか?」の規定はありません「国」なのか?「地元」なのか?「所属チーム」なのか?そういう意味では、「国」と規定する意味での「帰国」をあわせて「凱旋帰国」とするのは、

「許容範囲ではないかなあ」と思います。

辞書では、『三省堂国語辞典』が「凱旋」の用例に「凱旋帰国」を載せています。

 

<結論>

「なでしこジャパン」に「凱旋(がいせん)帰国」を使ってもよい。(「凱旋」にはルビが必要)

 

また、「凱旋」の「凱」は明らかに「表外字」なのですが、本来表外字は使えないはずの、新聞の「テレビ欄」では「凱」は「使える」ようです。

 

(2011、9、5)

2011年10月16日 17:09 | コメント (0)

新・ことば事情

4484「勉強が嫌いな方にも・・・」

 

聞き流すだけで英語が上手になるというテープか何か(いまどきテープはないな。CDかDVDか、そんなものでしょうけど)のコマーシャルのコピーで、こんなセリフをテレビで耳にしました。

「勉強が嫌いな方にも大人気!」

思わず、噴き出してしまいました。

「ほんまかなあー」

勉強が嫌いな人は、やっぱりこういった学習教材は嫌いだと思いますが・・・そもそも本当に勉強が嫌いなら、こういった「教材」に興味を示さないのではないでしょうか?

おそらく本当は、こういう内容のことを言いたかったのだと思います。

「コツコツと地味な努力を重ねて勉強をするのが嫌いな方にも大人気」

大分と省略したら、「勉強が嫌いな方」になってしまったのではないでしょうかね?

どうでしょうか?

 

(2011、10、10)

2011年10月16日 12:18 | コメント (0)

新・ことば事情

4483「地デジ化以降のコールサイン」

 

「コールサイン」ってご存じですか?昔だと、放送が終わるときとか、朝、放送が始まるときなどによく出てきたものですが、その放送局の登録された名前(呼び名)です。

読売テレビは、

「JOIX-TV」

でした。NHKの東京が「JOAK」、大阪放送局が「JOBK」など、それぞれの放送局にコールサインがあります。「JOBK」なんかはよく、

「ジャパン(J)大阪(O)馬場町(B)角(K)の略」

というように、NHK大阪局のアナウンサーなどがふざけて(おもしろがって?)で言っていたので、よく覚えています。

しかしこれらは、「アナログ放送」の時代のものです。724日以降、デジタル化が完了した今は、コールサインはどうなったんだろうか?ちょっと疑問に思っていました。

そんな折、先日、早朝と言うか真夜中にNHKテレビをホテルで見ていたら、放送終了を告げるコールサインを言っていました。それは、

「JOBK-DTV」

というものでした。あ、そうか、これまでのコールサインの「TV」の前に、「デジタル」を現す「D」が付いたのか!だとすると、読売テレビは、

「JOIX-DTV」

かな?と思って、翌朝会社に出てから確認すると、はたして、その通りでした。

 

(2011、10、10)

2011年10月15日 18:17 | コメント (0)

新・ことば事情

4482「人工衛星が落下」

 

日本時間の924日の未明から午前中にかけて、アメリカの人工衛星(の破片)が地球に落下するというニュースが報じられました。その考えられる落下範囲は、北緯57度から難易57度というかなり広い範囲になるとニュースで伝えています。

そこでちょっと疑問が。それは、

「どこからが"落下"になるのか?」

ということです。

人工衛星の場合は、「軌道から外れて、落ちて」来る、つまり「地球に近づいて来る」のが「落下」

ですが、宇宙を飛んでいる隕石などは、宇宙を飛んでいるときは「落下」ではないですね。大気圏の中に入ったら「落下」なのでしょうか?

一般的に(?)「落下」というのは、

「自分(の所属する何か=例・地球、日本)に向かって、高いところからコントロールされずに、万有引力に従って近づいて来る状態」

を言うのですね。普段私たちは「大気圏内」に(主に「地上」に)いるので、

「高いところから落ちたら『落下』」

単純に考えていてOKなのですが、いざ、地球を離れた状態から考えると「落下とはどういう状態なのか?」ということを考える必要が出て来るんだなあと思いました。

ま、しかし、結局「地面(や海)に落ちた状態」なら、その途中は省いて「落下」と言えるのでしょうけれどね。

 

(2011、10、10)

2011年10月15日 11:41 | コメント (0)

新・ことば事情

4481「千菓子」

 

先日のこと。芸能人の結婚披露宴の引出物の中に「干菓子」があったので、それを「ミヤネ屋」の字幕スーパーで紹介しようと発注しました。でき上がってきたスーパーの小さい文字、よおく見てみると・・・・

「千菓子」

と書かれていました。字の形は似ていますが、全然違います。

×「菓子」→○「菓子」

です。もちろん。

気付いてよかった!これって、テロップを打った人が「干菓子」=「ひがし」を知らなかったんでしょうね、きっと。「せん」「かし」と打たないと「千菓子」にはならないと思いますので。

ところで、ネット上では「千菓子」ってあるんだろうか?google検索してみると(1010日)・・・ありゃあ、あるんだなこれが。

「千菓子」=1200

「千菓子各種詰め合わせ」とか「千菓子の画像」とか、「千」件以上あります。画像見たら明らかに「干菓子」なんだけど。しかも困ったことに、「京都の和菓子店のホームページ」に載っていたりするのですな、これが・・・。もちろん、正しい「干菓子」の方が多くて、

「干菓子」=474000

ですが。「千菓子」も、ちょっと食べて見たい気はします、話の種に。「♪千の菓子に~、千の菓子に魅せられ?」

 

(2011、10、10)

2011年10月14日 18:40 | コメント (0)

新・ことば事情

4480「『開かれる』と『行われる』の違い」

 

109日の深夜のニュースの担当のMアナウンサー。この日行われた、

「御堂筋Kappo(カッポ)」

のニュースです。昔は「御堂筋パレード」という名前のイベントでした。その原稿の下読みを聞いていたら、

「御堂筋Kappoが開かれました」

と読んでいるので「おや?」と思いました。展覧会や音楽会(コンサート)は「開かれました」でもいいけれど、こんなふうなイベントの場合は、

「行われました」

ではないのか?と思ったのです。すぐにMアナウンサーとデスクに話をして、「行われました」で本番は読んでもらったのですが、その後、デスクのOさんが、

「『開催』とも言うので、『開かれました』でいいのでは?」

と質問してきました。私の語感ではあくまでも「行われました」なんだけどなあと思いながら、「理屈」を考えました。その中で、「これかな?」と思ったのは、

「期間が長いものは『開かれました』、1日限りのものは「行われました」ではないか?」

ということ。たしかに「万博」は半年にわたって「開かれました」し、「大阪マラソン」は1日限りなので、「行われました」になるだろうなあということで、Oデスクも納得してくれました。言葉って本当に難しいです。

これって、前にも書いてなかったっけ?

検索したら、平成ことば事情2833「入学式は開かれる?行われる?」20074月8日に書いていました。その際は、NHK放送文化研究所の塩田雄大さんに「ヘルプ」をお願いして、「追記」で解説してもらっています。が、これはホームページには反映されていないな、なぜか。じゃあ、ここに載せますね。

 

(追記)=(2007、4、19)

NHK放送文化研究所の塩田雄大さんからメールをいただき、7年前(2000年8月1日)に、「開く?行う?」と題して「Q&A」でこれに類似したことを書いたということを教えていただきました。ありがとうございます。そこでは、

(Q)「南北首脳会談が開かれました」と「行われました」とでは、どちらがふさわしいのでしょうか。

(A)「開(ひら)く」と「行う」とは、使い分けが非常に難しいものです。どちらとも使えるがニュアンスの差が出る場合と、どちらか片方しか使えない場合とがあります。「南北首脳会談」についてはどちらも使えるのですが、「開かれました」の場合、「(これまで実施されていなかった)南北首脳会談が(やっと、ついに)実施された」というニュアンスが出ます。

【解説】

動詞「開く」について見てみましょう。「本を開く」「傘を開く」などの文で共通している事の一つに、「それまでは閉じられていた」ということがあります。このように、「開く」は「閉じられていた状態を変化させる」ところに焦点が当てられている動詞です。そこから転じて、「それまで実施されていなかったものを実施するようにする」という意味をもつようになっています。「卒業式」のように毎年定例的に実施されるものに対しては、「開かれました」とは言いにくいのです。

いっぽう「行う」は、「卒業式・討議」など、ある一定のルール・順序にのっとって実施されるものによく使われます。「南北首脳会談」もお互いに暗黙のルールに従って実施したでしょうから、「行われました」も使えます。また「展覧会」などには特にルールがないので、「行われました」よりも「開かれました」の方がふさわしい言い方になります。

なるほど!納得しました!

 

 

(2011、10、9)

2011年10月14日 11:18 | コメント (0)

新・ことば事情

4479「『捜す』と『探す』の違い」

 

「捜す」と「探す」の意味の違いを、一発でわからせる熟語を見つけました!

それは、

「捜索」と「探索」

「捜査」と「探査」

この違いがすなわち「捜す」と「探す」の違いです。なぜならこの熟語はともに後ろに、

「索」「査」

が付いていて、違うのは「捜」か「探」かだからです。

「捜索」「捜査」は「既知の人(物)」をさがす、かたや「探索」「探査」は「未知のもの」をさがす。

例えば、「何があるか、わかっていない"火星"」での調査は、

「火星探査」

とは言っても、

「火星捜査」

とは言いませんね。火星に何か忘れ物をしてそれをさがしに行くのなら、話は別ですが。

これでどうでしょうか?

「平成ことば事情4312『探す』と『捜す』」もお読みください。

 

(2011,10、9)

2011年10月13日 18:46 | コメント (0)

新・ことば事情

4478「視覚を失うと・・・」

 

子どもの頃から目(視力)が悪かったので、

「もし、目が見えなくなったら・・・」

と考えることがありました。目が見えないと、「真っ暗」な世界なんだろうか?とか考えましたが、先日、夜中にふとこんなことを思いました。

「目が見えないと、『真っ暗』。これは光がない状態だが、例えば『白一色』とか、『赤一色』『青一色』でも、『一色』という意味では『黒一色』と同じだから、視覚を"失った"状態。つまり(逆に言うと)『視覚』とは『2種類以上の色のグラデーションを識別できる状態』を指すのではないか?」

と。実際は、視覚を失うと「光」を感じられないのですから、色が感じられるわけはない、その意味では「黒」なのだと思いますが、たしかに2種類以上の色を区別できない「一色」の状態の中では、視覚を失ったのと同じ状態になるのではないか?

それは例えば真冬のスキー場。山の中で猛吹雪に遭った状態を指して、

「ホワイトアウト」

と言いますよね。「白」という色はあるんだけれども、視覚を失うわけです。つまり、見えない。そういう状態はあるのだなと考えたのでした。

これって、「視覚」だけでなくて、「ある考え=常識」で塗りつぶされた時に、方向性を失うということでも同じではないか?

「民主主義の多数決に潜む恐さ」に通じるのではないか?てなことも考えました。

 

(2011、10、9)

2011年10月13日 12:44 | コメント (0)

新・ことば事情

4477「『津軽海峡冬景色』の3連音符」

 

最近よく目に耳にする、ユニクロのコマーシャル。アンジェラ・アキさんが、歌を歌っているだけのCM。歌っている曲は、石川さゆりさんの「津軽海峡冬景色」(三木たかし作曲)です。アンジェラ・アキさんの歌は新鮮ですが、それは石川さゆりさんの歌い方とは違うということ。

アンジェラさんの歌い方を聞いていると、石川さんの歌ではわからなかったものが見えてきました。それは、冒頭の「上野発の夜行列車・・・」の部分の「3連音符」です。石川さんが歌っていたら「3連音符」とは気づかなかったのですが、アンジェラさんの歌い方を聴いて、

「そうだったのか!」

と気付いてしまいました。そして、「津軽海峡冬景色」の出だしと同じような曲も思い当たりました。それは、内山田ひろしとクールファイブ

「長崎はきょうも雨だった」

のバックコーラスの、「ワワワ・ワー」の3連符です。

そしてもう1曲。サザン・オールスターズの、

「お熱いのが好き」

という曲も同じリズムです。これらは音楽の「くくり」でいうと、もしかしたら、

「ブルース」

なのではないでしょうか?詳しいことは分かりませんが。でも、似てるんです。

「タタタ・タタタ、タタタ・タタタ、タタタ・タタタ・ター」

です。でも、歌詞を細かく刻まなければ(「お熱いのが好き」)、

「タータ・タータ、タータ・タータ、ター・ター」

というリズムになってますが、中身は「タタタ・タタタ、タタタ・タタタ」です。つまり、8分音符が6つ「タタタ・タタタ」が1小節ですね。

なんだか急にそんなことが、気になりました。

あ、それと、「大阪発」のアクセントが「ハ/ツ」というように「初」になっている問題の原因は、「津軽海峡冬景色」にあるのではないか?とも思いました。スゴイ思いつき。というのは、

「上野発の」

の部分の音階が、

「ウエノ ハ/ツ\ノ」

というように「初」と同じようになっているのが原因ではないかな?と。それを聞いて育った人はそう覚えちゃったとか。そんなわけはない?とも限りませんよ。

(2011、10、9)

2011年10月12日 18:42 | コメント (0)

新・ことば事情

4476「やだ!おいしい」

 

ワインがテーマのマンガ『神の雫30を読んでいたら、主人公の同僚の女性が、イタリアワイン「ブルネッロ・ディ・モンタルティーノ」を飲んで、

「やだ!おいしい」

と、のたまいました。別になんでもない一言ですが、私は、

「そうだったのか!」

と気付きました。

「この『やだ!』は、最近の若者言葉における『やばい!』と同じだ!」

と。

「やだ」ってんですから「嫌」と拒否してるかと思いきや、全然拒否していないのはご存じのとおり。いままでの自分の常識・感覚を塗り替えるような「プラス面のいいこと」が起きた時に、自己否定せざるを得ない局面で「やだ」と言っている。それと同じように、いい意味での「やばい」も、プラスの面で自分の常識が塗り替えられる、だから「やばい」が「プラス評価」であると。

そういうことだったのですね!納得!!

 

(2011、10、9)

2011年10月12日 12:41 | コメント (0)

新・読書日記 2011_178

『放射能の真実!』(辛坊治郎・高橋千太郎、アスコム:2011、10、11)

 

辛坊さんの「真実」シリーズだが、出版社は幻冬舎ではなくアスコム。

京都大学農学部の高橋千太郎教授に、放射能と安全に関して辛坊さんが聞くという形の対談集。

辛坊さんも、いつもの「政治」や「経済」といった得意分野というわけではないので、(最近見られるような)「上から目線」ではなく、謙虚に「聞く」姿勢になっていて好感が持てる。真実、「我々とその子どもたち」が生きていくために必要な「正確な知識」を得ようとしている。そしてそれに対して高橋教授が真摯に答えてくれているという気がする一冊。

全体が「3部」に別れているが、基礎的な放射能の知識に関する「第1部」がやや長くて読み通すのにガマンが必要なので、ここを2つに分けて、全部で「4部」にした方が、読みやすかったのかな、という気がした。構成の問題ですが。

それと、162ページに誤植。

×「管直人首相」→○「菅直人首相」

196ページも、

「4半世紀」→○「四半世紀」

の方がよかったのでは?本筋とは関係ありませんが。

 

 


star4

(2011、10、9読了)

2011年10月11日 18:47 | コメント (0)

新・ことば事情

4475「生しょうゆ」

何気なく見ていたコマーシャルに、

「生(なま)しょうゆ」

という言葉が出てきてビックリしました!

「生(なま)しょうゆをいつでも新鮮ボトルで一滴づつ」

というキッコーマンのコマ-シャルのナレーションです。これは「間違い」ではないのか?「わざと」・・・なんでしょうね。

これまでの常識でいえば、「生しょうゆ」と書いて当然これは、

「生(き)じょうゆ」

と読むわけですね。それが「なま」・・・。なまなましいお話です。

なお、この「生」を「なま」と読むと、そのあとの「醤油」も、

「しょうゆ」

濁りません。「き」と読むと、

「じょうゆ」

濁ります。そういった違いも出てきます。「き」と読んでそのあとは濁らずに、

「きしょうゆ」

とは言わないですからね。

(追記)

最近、居酒屋などでよく目にするようになりました、

「キッコーマン『しぼりたて生(なま)しょうゆ』」。

「生(き)じょうゆ」ではなく。

(2016、8、26)


(2011、10、9)

2011年10月11日 12:33 | コメント (0)

新・ことば事情

4474「入り口と出口」

 

「入り口」を、

「入口」

と書いてある例はよく見かけます。

ただし、新聞やテレビで使われる書き方で言うと「入口」は間違いで、

「入り口」

送り仮名の「り」を使うことが正しい。それなのになぜ「入口」としてしまうのか?

その理由は、

「『出口』との対応」

ではないでしょうか?「出口」はもちろん、送り仮名がないので、「入り口」に送り仮名があると対応上ヘンな感じがするからなのかなあ、と思いました。

「出口」の場合、「出る」の語幹が「で」なので、送り仮名のない「出口」でいいのですが、「いりぐち」は、「はいる」「いる」「入る」と書き、語幹は「はい」「い」。

つまり、

「『入口』とかくと『はいぐち』か『いぐち』になってしまう」

という理屈です。ま、理屈はそうですが、そこが人間の臨機応変な対応・順応性。

「入口」と書いてあっても「入り口」と書いても、どちらも「いりぐち」(あるいは濁らずに「いりくち」)と、何の疑問もなく読める。すごいなあ。

そうそう、知り合いで、

「入口(いりぐち)さん」

という名字の人がいました。これは送り仮名がありません。どっちでも読めるんだよなあ。でも放送で書くときは「入り口」。だからややこしい。送り仮名の表記は一筋縄ではいきません・・・。

 

(2011、10、9)

2011年10月10日 18:31 | コメント (0)

新・ことば事情

4473「あいわす」

 

「ミヤネ屋」のテロップをチェックしていたら、結婚披露宴での祝辞をフォローしたスーパーにこんな文字が。

「夫婦愛わし、愛敬い」

あれ・・・なんかヘンだぞ・・「愛わし」って、

「いとわし」

と読むのかな・・・と。数秒後に気づきました。

「これは、夫婦『相和し』だ!ということは、次も『相敬い』だ!」

「あいわす」

という言葉を、若いディレクターが知らなかったのです。たしかに、

「相和す」

ためには「愛」が必要ですが・・・。「相合い傘」の「相(あい)」です。「お互いに」の意味。念のため、「敬う」は「うやまう」と読みます。「相~」という言葉には、

「相身互い」

という言葉もありましたね。これも知らないのだろうな。

×「愛わし、愛敬い」→○「相和し、相敬う」

というふうに「間違いですよ」と、番組終了後にスタッフ全員にメールして注意を喚起しました。番組スタッフは、相助け合い・・・あ、「あい」がダブってる・・・愛。

 

(2011、10、9)

2011年10月10日 15:31 | コメント (0)

新・ことば事情

4472「患児」

 

マンガ雑誌『ビッグコミックオリジナル』(20111020日号)の巻頭カラーのマンガ「真夜中のこじか」(原作・北原雅紀、漫画・あおきてつお)を読んでいたら、

「患児」

という言葉が出てきました。このマンガ、今回が「第1回」で、タイトルの「こじか」は、小さい頃、真夜中に弟が虫垂炎で苦しんでいた時に受け入れてくれた「小児科」の医院があって、それで「大きくなったらお医者さんになるんだ」と決意した女性主人公が、その子どものときに見た「小児科」の看板

「こじか」

と読むんだと思っていたところからついたもののようです。

で、問題の「患児」。意味はおそらく、

「患者の児童」「子どもの患者」

だと思いますが、あまり目に(耳に)しません。「小児科」の専門用語でしょうか?

『精選版日本国語大辞典』『デジタル大辞泉』『広辞苑』『明鏡国語辞典』『新明解国語辞典』『新潮現代国語辞典』『岩波国語辞典』『三省堂国語辞典』『新選国語辞典』には「患児」は載っていませんでした。

Google検索してみたところ(109日)

「患児」=189000

出てきました。やはり専門用語のようで、

「患児の英語・英訳」「入院患児の兄弟」(週刊医学会新聞)「こどもの1型糖尿病ガイドブック~患児とその家族のために」「患児へのインフォームド・アセントをどのように展開するか」「ほとんどすべての患児の鼓膜を診てます」(日経メディカルオンライン)「入院患児に笑顔を運ぶ術前プレパレーション・ツール」

といった具合で、見るからに専門的です。

ちなみに、「産婦人科」では、患者さんのことを「患婦」と呼ぶのかな?

Google検索してみたところ(109日)

「患婦」=2330

あまりありません。「患児」の方が、まだ一般的のようです。

 

(2011、10、9)

2011年10月10日 10:30 | コメント (0)

新・ことば事情

4471「傍観希望者」

 

2011年10月6日、小沢一郎被告の裁判。2000人を超える傍聴希望者が列を成しました。倍率は44倍。それを報じた「ミヤネ屋」で、並んだ人にインタビューをしていました。そのスーパーをチェックしていたら、

「傍観希望者」

と書かれているではありませんか!あわてて、

「傍聴希望者」

に直しました。「傍観」希望者って・・・なんでそんな間違いするねん!というものですが、(放送に出なければ)思わず笑ってしまうミスではあります。

ここで、同じ「傍」という言葉の後に「視聴覚」の言葉がついた言葉なのに、なぜこれほど意味合いが違うのかが気になりました。つまり

「傍聴」=一生懸命聴く

「傍観」=ボーっと見る

ということ。この違いはなぜでしょう?視覚と聴覚の違いからくるのでしょうか?

そんなことを考えていたら、107日・読売新聞朝刊にこんな記事が載っていました。。

「視覚は、聴覚の5000 倍の情報量を貯蔵できる」

というのです。記事を読んでみると、群馬パース大学の栗田昌裕教授の話として、

「聴覚を司る神経細胞(聴細胞)が2万~3万本に対して、視細胞は12000万本ある。言語に関する短期記憶の倉庫は小さい。記憶の貯蔵は、感覚貯蔵→短期記憶→長期記憶という3段階を経る。感覚貯蔵から短期記憶の過程で言語化の作業が入ると、覚える情報が少なくなってしまう。視覚を主とし、言語化しない道筋で情報を残せば、記憶力を飛躍的に伸ばせる可能性がある」

とのことでした。

そういえば、「来たはずがない場所」なのに「なんか、来たことがある気がする」という、

「デジャブ(既視感)」

は、当然「視覚」ですよね。つまり「画像」は残っているが、言語化された「キャプション」にあたる情報が欠けている。そうすると、「データ」として検索できない。(「イメージ検索」なら画像で検索できるのかもしれませんが)

「傍観」と「傍聴」の違いは、そういった「視覚」か「言語」の違いによるものではないでしょうか。「言語」の方が抽象化あるいはデータ化しなくてはならないので、高度な処理・手間がかかる。「視覚」の方が、取り込みやすい。しかしその一方で分析・分類ができにくい。その辺が「ただ傍にいるだけ」で「観る」と「聴く」の意味の違いになっているのかもしれません。

 

(2011、10、9)

2011年10月10日 05:28 | コメント (0)

新・ことば事情

4470「がぶる」

 

928日、4年ぶりの日本人大関が誕生しました。琴奨菊関です。

その取り口から、

「がぶり大関」「がぶり伝説」

なんて見出しもスポーツ紙には躍っていましたが、この「がぶり」は、動詞の、

「がぶる」

の連用形が名詞化したものですよね。さて、「がぶる」の意味は何なんでしょうか?もちろん、知ってはいますが、改めて辞書に載っているかどうか、相撲以外で使われるのか調べてみましょう。(比ゆ的な用法を別にして)

『精選版日本国語大辞典』に、載っていました。

「がぶる」=(1)舟が、がぶりと波にのみこまれそうなほど揺れる。(2)相撲でがっぷり四つに組み、土俵の外へ向かって寄るときに相手の体をはげしくゆさぶるようにする。

もちろん、ここでは(2)の意味ですが、(1)「舟ががぶりと・・・」というのは知りませんでした。擬態語由来の動詞なんですね。「舟」が「がぶる」様子を、相撲でも使うようになったのかな、順番から言うと。広辞苑』にもちゃんと載っていました。

「がぶる」=(1)船などが揺れる。揺り動かす。(2)相撲で、相手の体を起すように激しく揺すって寄り進む。(3)(長野県・石川県・福井県などで)雪や泥に足がはまる。がぼる。ごぼる。

『広辞苑』では、3つ目の意味として「方言」まで載っていました。「がぶる」は、ずいぶん広い意味のある言葉のようですよ、琴奨菊関!

 

(2011、10、9)

2011年10月 9日 22:27 | コメント (0)

新・読書日記 2011_177

『探偵はバーにいる』(東直己、ハヤカワ文庫:1995、8、15第1刷・2011、9、22第51刷!)

 

驚き!単行本は1992年に出ていて、文庫本は1995年。以来16年で51刷!大ロングセラーではないか!にもかかわらず、その存在をちっとも知らなかった私...映画化されてそのPRのために、先日、主演の大泉洋さんが「ミヤネ屋」に出てくれた。それをきっかけに、読んでみようかな、と思っていたら、帰りのコンビニで本書を発見!購入したが、映画の原作は、このシリーズの第2作らしい。これは第1作。タイトルが映画は「探偵はBARにいる」で、本書は「探偵はバーにいる」。で、さっきも書いたように、原作は本書ではなく、本シリーズの第2作。ややこしやー!

内容は、ハードボイルドですね。シリーズはすでに12作あるらしい。時間にゆとりのある方は、通して読むと、もっと楽しめるだろう。舞台は北海道。北海道弁もいっぱい出てくる。その意味でも、主演に北海道出身の大泉洋さんというのはふさわしいだろう。それにしても佐々木譲さんといい、探偵や警察モノの舞台はなぜ北海道?沖縄や鹿児島ではないのだろう?大阪府警モノがあってもいいよな?(もう、あるか。)

 

 


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(2011、10、6読了)

2011年10月 9日 17:36 | コメント (0)

新・読書日記 2011_176

『放射能と生きる』(武田邦彦、2011、6、30第1刷・2011、7、10第2刷)

 

武田先生が、原発事故直後から書き続けたブログをまとめて本にしたもの。水素爆発直後から1週間、1か月、それ以降の、放射性物質から逃れる術。それがきっちりと書かれている。なぜ日本政府はこういったきっちりしたことを伝えることを怠ったのか。我々マスコミはきっちりと伝えられなかったのか。

一つには、騒ぎを起してパニックを避けるため。しかし、きちんとした情報を伝えていれば、パニックは避けられるはず。つまりは、伝えるべききっちりとした正しい情報がわからなかった。それを判断する知識・判断力が、政府にもマスコミにもなかったということが、現在の状況を招いているのではないか。この本を読んでいて強く感じたのは、そういったことだった。もちろん専門家の意見でさえ分かれていたことも、その原因のひとつなんだが。

 


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(2011、9、16読了)

2011年10月 9日 11:51 | コメント (0)

新・読書日記 2011_175

『福島 原発と人びと』(広河隆一、岩波新書:2011、8、19)

 

 

広河さんといえば、フォトジャーナリスト。チェルノブイリも長く取材し続けてきた人だ。昔、日本テレビの「きょうの出来事」などにも、よく出演されていたように思う。

3月15日、福島県南相馬市の「原発20キロ圏」の入り口で、

「原発爆発この先立入禁止」

の看板の前で、防護マスクに線量計を持った著者。毎時4マイクロシーベルトを示していた地点の見開きのモノクロ写真。この本は「新書」だが、その写真は大きく、私の目に、心に迫ってくる。本質的にこれは「(新書判の)写真集」である。

フリージャーナリストの人たちは、事故発生からすぐに、線量計を持ち、現地へ駆けつけている。その様子もよくわかる。そして後半には、長く取材してきたチェルノブイリの様子が。

「100ミリシーベルト以下のところでは危険性が証明されていないから、安全なのだ」という山下教授たちの言葉は、やはりおかしい。

「100ミリシーベルト以下の場所だからと言って、安全が証明されていない限り、そこは危険とみなさなければならない」

同じ事象でも、それをどう見るかによって、全く正反対の(いわゆる「真逆」の)結論が導かれる。命を守るためには「楽観的」過ぎてはいけないのだ。だからといって「悲観的」になりすぎても意味はない。冷静に事象を見つめ、考え、行動することが必要だ。

 


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(2011、9、17読了)

2011年10月 8日 11:49 | コメント (0)

新・ことば事情

4469「フリーズった」

 

いつものように「ミヤネ屋」のスーパーをチェックしていたら、隣りで同じようにスーパーのチェックをしていたアラサーの女性ディレクターが、こう、つぶやきました。

「あ、フリーズった!」

なんですと!

「フリーズる」

なんて言葉ができているのですか、いまどきは!

これを聞いて私は、メガネがズリ落ちるようなオドロキを感じたのでした。

念のため、Google検索(9月27日)。

「フリーズる」 =  1520

「フリーズった」=276000

いわゆる「原型」の「フリーズる」はほとんどないのですが、活用した形の「フリーズったた」はかなり使われているようです。書き言葉の世界ではなく、「話し言葉の世界」で使われていると言えるでしょう。

これに似た「外来語の名詞」に「る」をつけて「動詞」にした言葉で、有名なところ(よく使うところ)では、

「トラブる」

がありますが、これは「トラブル」という名詞の語尾が、たまたま日本語の動詞の「る」と同じなので、語尾が活用語尾化していますね。また、「タクシーに乗る」意味の、

「タクる」

は、「タクシー」の語尾の「シー」が脱落して、活用語尾として「る」がくっついています。

ある意味、外国語の外来語化の形として「フリーズる」「フリーズった」は「正統な継承者」と言えるのではないでしょうか?

 

(2001、9、27)

2011年10月 8日 10:36 | コメント (0)

新・ことば事情

4468「緊急入院」

 

10月6日深夜、初公判を終えた民主党の小沢一郎元代表が急に体調を崩し、病院に救急搬送され入院するという出来事が起こりました。「尿管結石」による痛みであることが分かりましたが、翌10月7日の「ミヤネ屋」での、このニュースの字幕・原稿で、

「緊急入院」

という言葉を使うかどうか、悩みました。たしかに「救急搬送」ではありましたが、「命にかかわる」というような「緊急性」があったとは思えません。「緊急入院」とすると、

「命にかかわるような重病・急病のイメージ」

があるような気がします。しかし、

「救急搬送で入院」

を縮めて、

「救急入院」

という言葉はあまり耳に(目に)したことがありません。結局、

「救急搬送で深夜に入院」

という表現にしました。10月7日夕刊各紙は、

(朝日)小沢氏 緊急入院

(産経)小沢氏 深夜救急搬送、入院

(毎日)小沢氏入院「尿管結石」

(読売)小沢元代表 尿管結石 (本文は「緊急入院した」)

(日経)小沢元代表は尿管結石 (本文は「救急搬送され入院した」)

で、朝日の見出しと、読売の本文で「緊急入院」が使われていました。

 

(2011、10、7)

2011年10月 7日 19:33 | コメント (0)

新・読書日記 2011_174

『夜明けの街で』(東野圭吾、角川文庫:2010、7、25第1刷・2011、9、10第16刷)

 

先日、この小説が映画化され、主演の岸谷五朗さんが「ミヤネ屋」に出演してくれたので、それで原作を読んでみる気になった。映画はまだ見てないんだけど。

既にこの映画を見た宮根さんが、「コワイわー」と言っていたが、原作の小説も「コワイ」。いや、なんだか読んでいて最初の方は「いや~な感じ」が。読み進むのが怖い。映画でいうと(ちょっと古くて恐縮だが)「ミザリー」のような感じが。女の人は、怖い。

だんだん、恐怖より興味の方が勝って読み進んでいく。うーん、そうだったのか、というラストまで、まあ、おもしろく読めます。

 

 


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(2011、9、22読了)

2011年10月 7日 18:47 | コメント (0)

新・読書日記 2011_173

『流される』(小林信彦、文藝春秋:2011、9、15)

 

小林信彦の自伝的小説の第3部。と言いつつ、実は第1部・第2部を読んでない。あとで読もう。これは明らかに幸田文の『流れる』を意識したタイトルだ。

著者(=「私」)思いがけず知ることができた「祖父の歴史」から、自らの人生を振り返っている。

戦後すぐは「狸穴町=ソ連兵」という連想があまりにも有名だったこと、新聞で「大きな男」「大男」というのは、どこかの国の占領軍(の兵士)ということだったなど、その時代を生きていた人ならみんな知っているが、その時代を生きていない人は全く知らない「知識」が記されている。

また著者の父は「喫茶店」を「きっちゃてん」と発音するとか、取るに足らない「時代のディテール」が記されている。でも「神は細部に宿る」のだと思う。ここをしっかりしなくて全体の構成はない。「砂上の楼閣」になる。

「アメリカの立体(3D)映画『恐怖の町』を新宿で観て、よけい疲れた」

というあたり、再三、最近の3D映画への批判(というか、取るに足りないものだという見方)を週刊誌(週刊文春)のコラムで書いている「起源」は、ここにあったのだなとわかった。

 

 

そのほかにも、

*「一冊はジョルジュ・シムノン、これは探偵小説です。このごろは推理小説と申しますが。どうも中学生にふさわしいとは思えませんので」(146ページ)

*「中学三年を終わろうとする私は、傲慢さで脹ら雀のようになっていた。」(142ページ)

*「昔の言葉でしょうが、レオポルドさんは使うんです。女の人のあそこを正面から見ると、こうもりが白壁に張りついているようでしょう」(131ページ)

*(マイペッカー)「〈ペッカー〉は男の大事なところだ」「くりかえすとすれば、〈畜生〉とかそういう意味だろうな」(131ページ)

*(「薄らとんかち」ではなく)「薄らとんちき」(128ページ)

*「酔いかけた混血児たちは滝本ね頭を叩き、はげ、はげ、とからかっている。」(125ページ)

*「白人、混血児たちは帰ってしまった」

といった表現・言葉が出てくる。舞台は昭和22年(1947年)。小林信彦、14歳。太宰治を「人生のコメディアン」と表現していた。

 


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(2011、9、26読了)

2011年10月 7日 12:55 | コメント (0)

新・読書日記 2011_172

『リーダーシップは「第九」に学べ』(小松長生、日経プレミアシリーズ:2011、9、8)

 

タイトルは魅力的だし、小松さんが指揮者になった経緯とか、指揮者にとって「本番」も大事だが「リハーサル」が一番大切、そのための「マネジメント」が必要という話もよくわかるのだが、肝心の「リーダーシップはベートーベンの第九に学べ」というあたりの関連性は、よくわからなかった・・・残念。

 

 


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(2011、10、1読了)

2011年10月 6日 12:53 | コメント (0)

新・読書日記 2011_171

『原発社会からの離脱~自然エネルギーと共同自治に向けて』(宮台真司×飯田哲也、講談社現代新書:2011、6、20)

 

対談集。

いま注目の飯田哲也さん。その中でも注目したい発言は、118から119ページあたりに出てくる、毎年5000億円もの「再処理等積立金」。これっていわゆる埋蔵金なのでは?

ちょっと検索してみたら、原子力環境整備促進・資金管理センターは電力各社が積み立てた最終処分積立金と再処理積立金の運用を2000年から行っていて、2011年度の事業計画によると「再処理積立金」は27357億円、「最終処分積立金」は8374億円積み上がっているという。これは、原発事故に関しての補償に役立てるべきではないでしょうか?増税の前にやることはあるようだ。

これもネットからの「また聞き」(!?)ではあるが、元財務官僚で嘉悦大教授の高橋洋一氏は、

「財務省の国債整理基金特別会計に貯まった12兆円を取り崩せ」

と提案、会計検査院官房審議官である飯塚正史氏は朝日新聞で、

「翌々年度にしか使えない10年度の決算剰余金30兆円を使えばよい」

と書いている・・・のだそうだ。確認してみたい。

 

 


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(2011、9、19読了)

2011年10月 5日 18:31 | コメント (0)

新・読書日記 2011_170

『働く君に送る25の言葉』(佐々木常夫、WAVE出版:2010、11、13第1版1刷・2011、6、30第8刷)

 

ベストセラーというのは知っていたが、いまさら私の年齢の者が読む本でもなかろうと思って手を出さないでいた。しかし、知人に聞いたところによると、著者は現在、東レ経営研究所の特別顧問だが、"現役"のときは奥さんの看病をし、引きこもりの息子の面倒をみながら、残業を全くせずにしっかりと仕事をこなして出世したと。それを聞いて、ちょっと興味が湧いて買って読んでみた。すると、

「あ、これは30年ほど前、私が新入社員の頃に流行った、城山三郎の『ビジネスマンの父より息子への30通の手紙』だ!」

とすぐに思い当たりました。(30通でよかったっけ?ウロ覚えですが)「息子」が「甥(おい)の遼くん」になったのだけど。「遼くん」というのが「今ふう」です。佐々木さん、やはりゴルフをするのでしょうかね?(そんな時間はないか?)

それにしても30年ぐらい周期で、同じものが流行るんだなあ。

全部読み終わって読書日記もか空き終わったら、若い後輩にあげようと思います。

 

 


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(2011、9、30読了)

2011年10月 5日 12:29 | コメント (0)

新・ことば事情

4467「リモートの平板アクセント」

 

 

「リモート」

という言葉をを単独で言うと、普通は、

「リ/モ\ート」(中高アクセント)

です。それをあるスタッフが「平板アクセント」で、

「リ/モートが」

と言うのを耳にしました。これまでも「平板」は聞いていたかもしれないけど、耳新しかったです。それを聞いたほかのスタッフが、

「妹が?」

と聞き間違いました。つまり、

「リ/モート」

「イ/モート」

アクセントパターンが同じで、最初が「リ」か「イ」か、母音まで同じ、最初の子音の「r」をちゃんと聞き取れるかどうか、ですね。

「よく使う言葉は平板化する=専門家アクセント」

つまり、

いう傾向ガあると、明海大学の井上史雄先生はおっしゃっています。

でも、そもそも「玄人」は、平板化して、

「ク/ロート」

になるかというと、それはならないなあ。「クロートスジ」「クロートハダシ」は、複合語なのでコンパウンドして平板アクセントになりますけどね。

 

(2011、10、4)

2011年10月 5日 10:07 | コメント (0)

新・読書日記 2011_169

『神の雫30』(作・亜樹直、画・オキモトシュウ、講談社:2011、9、30)

 

ワインのマンガです。忘れた頃に3か月に1冊ぐらい出ます。読書日記125で紹介した『神の雫29』の続き。中2の息子(ワイン、まだ飲めないのに)が買ってきて、代金を請求されました。ワインよりは安い値段です。「第9の使徒」はイタリア「ブルネッロ・モンテプルチアーノ」でした。もうなんかそんな話、忘れかけていましたが。

イタリアワイン、いいよねえ。ようやく最近良さがわかってきた感じが・・・。

 

 


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(2011、10、2読了)

2011年10月 4日 18:18 | コメント (0)

新・読書日記 2011_168

『美しく怒れ』(岡本太郎、角川oneテーマ21:2011、9、10)

いま、岡本太郎の著書である。

うーん、目の付けどころがいいんじゃないの、角川は。

最初は読んでいる途中で「この文章は、いつ書かれたのかな?」と気になったのだが、よく考えるとそんなことは気にする必要はなかったのである。(一応巻末に、いつ書かれたものかは、まとめて記してあるが。)

あとがきにもあるように、岡本太郎の言葉は時代を超えて「在る」ので、時代を気にする必要はなかったのだ。例えばこんな一節、

「それにしても"専門家"は、歴史のなかで、どんなに、権威的にウソをつきつづけてきたことだろう。こんなことは、ナンセンスな過去の一挿話として、笑い捨ててしまってもいい。だが現に、そういう権威主義は生きていて、我々をキリキリ舞いさせているではないか。『経済のことはおまかせください。』などと大見得を切った専門家総理の、所得倍増論のむくいを、今頃コッテリ噛みしめさせられているのは一般庶民だ」(149150ページ)

ありゃ。これは池田勇人総理だが、同じようなことはその後も繰り返されているのではないだろうか。「コッテリ」は「コッテリしぼられる(叱られる)」の「コッテリ」の使い方ですね。

 

 


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(2011、9、29読了)

2011年10月 4日 12:16 | コメント (0)

新・ことば事情

4466「ベルゼブブ」

 

読売テレビ系で放送しているアニメ『べるぜバブ』は、拾った赤ん坊が、魔王の子どもだった、ということしか知らないのですが、原作の漫画は大人気だそうです。

さて。その「べるぜバブ」って言葉、ヘンな言葉だなあ、「やるぜ!」って感じかな、造語かなあと思っていたら、なんと映画に出てきました。

ブラッド・ピッと主演の『ベンジャミン・バトン』という映画。生まれたときから老いていて、年を取るに従って若返っていくという数奇な人生。その主人公が7歳のとき、車椅子に乗って(老人の姿で)教会へ行って、牧師の言葉に背中を押されるように、立てるようになった場面で、その牧師が言った言葉(の日本語字幕)が、

「悪魔め ベルゼブブよ 去れ!」

となっていたのです。「べるぜバブ」は「ベルゼブブ」から来ていて、もとは英語にある言葉だったのか!

ネット検索してみたら、ウィキペディアに、

 

「ベルゼバブ、ベールゼブブとも表記される。新約聖書にもその名がみえる。この名はヘブライ語で『ハエ(一説には「糞山」)の王』を意味する。」

 

え!「ハエの王」・・・『蝿の王』といえば、ウィリアム・ゴールディングの1983年ノーベル賞受賞作の名前では!?

また旧約聖書には「バアル・ゼブブ」(「気高き主」あるいは「高き館の主」という意味の名)と呼ばれていて、これは恐らく嵐と慈雨の神バアルの尊称の一つだったと思われる、とも書かれています。

そう、つながってくるかあ・・・。

 

(2011、9、26)

2011年10月 4日 10:06 | コメント (0)

新・読書日記 2011_167

『ちはやふる 1~4巻』(末次由紀、講談社:2008、5、13~ )

 

なんと百人一首、カルタの日本一を目指す若者のマンガ!なんでもあるなあ・・・。『ヒカルの碁』のかるた版と言えばわかるでしょうか。結構おもしろいのだね、これが。で、なんでも、日本テレビで10月4日からアニメ化されるというではないですか!知らなかった!中2の息子が買ってきて「おもしろいで」と言っていたので読んでみました。落語の「ちはやぶる」の話をしてやったのに、それには全く関心を示さなかった・・・。

あ、調べたら、いま14巻まで出ているそうです。

 

 


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(2011、10、2読了)

2011年10月 4日 02:43 | コメント (0)