新・読書日記
2011_183
『岳・15巻』(石塚真一、小学館:2011、10、5第1刷)
誰のせいでもない。だって山だから...。
裏表紙の言葉から、僕らは自然との向き合い方を学ぶ。
山岳救助隊員の阿久津くんという不器用な、新米パパが落石事故に...。それを受けて、限られた命の時間を改めて感じた主人公・三歩(さんぽ)は、これまでは一旦お預けにしていた、自分のための5000メートル級の山登りを目指すことを決意する。それは自らへの挑戦であり、自然との闘いである。
巻末のあとがきで著者は、ヘリコプターの牧操縦士のモデルともいえる民間山岳へリ救助隊員の故・篠原秋彦氏を紹介している。
「篠原さんを想起させる表現となったにもかかわらず、ご遺族の方々へのご報告をしないまま今日に至ってしまいました。ご遺族の胸中を察し得なかったこと、申し訳なく思っています。この場を借りてお詫び申し上げます。」
うーん、なんらかの出来事があったのだな。誠に"表現"というのは難しいなあと改めて思う次第。
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(2011、10、24読了)
2011年10月25日 12:36
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新・読書日記
2011_182
『暴力団』(溝口敦、新潮新書:2011、9、5第1刷、2011、10、15、第5刷)
「シンプル・イズ・ベスト」なタイトル。
溝口敦氏といえば「暴力団」もので有名なのは知っていたが、ちゃんと一冊の本を読むのは初めて。紳助さんが"引退"したこのタイミングでの出版は大変タイムリー、ということで、1か月で5刷と売れています。かつて、「民事介入暴力=民暴」が問題になったのはバブルがはじけて、地上げが上手くいかなくなった時期。その時に暴力団に対する法律の締め付けが厳しくなったように、この10月から各自治体の条例での暴力団への締め付けが厳しくなった。著者があとがきで書いているように、「暴力団」は「最後の光芒」を放っている、やがては消えゆく存在なのだろうか。
民暴当時の警察庁長官は国松孝次氏。その後、狙撃された。当時はオウムの手によるのか?はたまた北朝鮮かなどと取りざたされたが、結局犯人は捕まらないまま"時効"を迎えたが、「民暴」で暴力団への締め付けを行った最高責任者ということを考えると、その筋の可能性も当然、洗っていたのだろう。しかしその暴対法も、「暴力団」という存在を認めてしまっている=存在そのものは違法ではないという判断は、世界の他の国とは対応が違う。それは「日本の歴史における博徒からの流れの暴力団」という存在があるのか、はたまた「必要悪」とされていたからか。この10月からの条例での対応は、安藤・警察庁長官の強い意志によるという。現在の山口組の主流・弘道会が、警察との対決姿勢を強めていることに対して「徹底的につぶす」という意志を強くしたとのこと。きっかけは、大阪府警の"暴力的な"取り調べでケガをした組員が、なんと「裁判」を起して、それで組員側が「勝訴」してしまったことだという。ここでも「面子」の戦いだ。
なかなか普段のニュースではそういった面まで出て来ないので、歴史の中における現在の「暴力団」と現代社会のありかた、警察の向き合い方などを学べる一冊であった。
なお著者の溝口氏は、かつて山口組五代目の本を書いた時に、「出さないでくれ」と依頼をされたが、「ジャーナリストとして断固拒否」したところ、その3か月後に、左肩を刺されたたという・・・。
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(2011、10、23読了)
2011年10月24日 18:17
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新・読書日記
2011_181
『政権交代の悪夢』(阿比留瑠比、新潮新書:2011、4、20)
産経新聞の「阿比留瑠比」記者といえば、その筋では有名な政治記者だ。なんと言っても名字が珍しいから覚えやすい。「瑠比」という名前も珍しいから「ペンネームか?」と思ってしまうくらい。上から読んでも「アビルルイ」、下から読んでも「アビルルイ」・・・ではないけど、そんな"回文的なお名前"の人だと感じていた。産経新聞でも署名記事をよく目にする。総理や官房長官などの会見の会場で「産経新聞のアビルと申します」と名乗っているのをテレビで耳にしたこともある。それにしても、私より5歳も年下とは思わなかった。
政治の現場を取材してきた著者が「もう、我慢ならん!」と書いたのが「政権交代」によって誕生した「民主党政権」の、「希望」と反比例に膨らんできた「悪夢」という「現実」だった。「舞い上がり、甘え、驕り」「宇宙人の非常識外交」という章のタイトルを見ただけで、いかに民主党政権を腹立たしく思っているかがわかる。「小沢とカネ問題」について書かれた章では、2010年正月早々に辞任した藤井財務大臣の辞任の理由が、表だって言われている「体調不良」ではなくて、「小沢氏との不和」が原因だと。そして、かつて盟友だったはずの小沢氏との不和の原因は「小沢のカネの問題」で、それを追及されそうだったから辞任したと。例の政党助成金の問題だ。「究極の55年体制、完成す」の章では、「民主党の正体」は「自民党・田中派と、社会党」であると。その意味では「究極の55年体制」が完成したとしている。たしかに。そりゃあ、そうなんだよな。
日々の取材で集めた情報を整理して、歴史という観点から並べ直した一冊。
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(2011、9、26読了)
2011年10月23日 18:17
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新・読書日記
2011_180
『宮沢賢治のことば』(本田有明、サンマーク出版:2011、9、30)
9月に、パナソニック合唱団(旧・松下中央混声合唱団)の演奏会に「朗読」で参加した。「朗読」は、曲の前か間もしくは後ろに読むものかと思っていたら、楽譜が送られて来て見てみると、なんと実は「曲の中で読む」、つまり「レティタティーボのソリスト」のような位置づけだったのでビビった。しかし、本番ではまずまず納得のいく「演奏」(=朗読)ができたのでホッとした。
その曲というのが「宮沢賢治最後の手紙」というのもの。東日本大震災を応援するための曲で、岩手県出身の宮沢賢治の「最後の手紙」(亡くなる一週間ほど前に書かれたもの)にメロディーをつけたものだった。それで改めて、「宮沢賢治」に興味を持っていたら、この本を見つけた。
賢治は、生まれる2か月前に「明治三陸大地震」(1896年=明治29年)で津波が三陸地方を襲っている。そして亡くなる半年前に、今度は「昭和三陸大地震」(1933年=昭和8年)が起こっている。つまり、わずか37年の生涯の初めと終わりに、故郷・岩手を含む東北地方に歴史に残るような大きな自然災害が起きていたのだ。また、彼の生涯の37年間は、様々な天変地異が起こり、東北地方は飢饉に襲われていた。その中で自然とともに生きることの意味(農業を通じて)、人のつながりの意味、純粋さを求めた賢治は、生涯独身であった・・・。
今年また三陸を大津波が襲った。「昭和三陸地震」から78年が経っているが、賢治の時代と現代はつながっているのだと思った。その気持ちを持って賢治の作品を読んでいくと、より一層、宮沢賢治が生き生きと、今の世の中で輝きを放つような気がする。過去の人ではなく、まさに今を生きる人として。
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(2011、10、5読了)
2011年10月23日 13:16
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新・読書日記
2011_179
『錯覚する脳~「おいしい」も「痛い」も幻想だった』(前野隆司、ちくま文庫:2007、5)
もう10年ほど前になるが、映画『マトリックス』を見たときには、SF・仮想の「仮想現実の世界」としか思えなかった。と言うより、
「もし、いまの現実の世界が、すべて"仮想現実"であったら・・・」
というのは、大変おもしろいが、考えても意味のないことである。しかし、やはり、
「このリアリティーは、本当にリアルなものなのか?」
という疑問を持つことは、哲学的には意味のあることだと思う。時々そういうことも考えてみるのは、いいことだ。(この本では「リアル」あるいは「リアリティー」を、たぶん「クオリア」という言葉で表現されていると思う。違ったかな。)そういった意味でこの本は「頭の体操」になった。
「味覚や触覚により区別する能力と、視覚情報を構成する能力と、何が違うのかと考えてみると、前者は知覚結果の区別であり、後者は知覚結果を用いた能動的な構成能力だ。だから、何かを外から受け入れる能力は劣るが、受け取った少ない情報から何かを作り出す能力は長けている、ということなのかも知れない。」(115ページ)
そうすると、ちょうど「味覚や触覚は、視覚よりも下位の概念ではないか?」という疑問を持っている時にこのくだりを読んだので、
「やはりそうか!」「ほぼ、当っていたんだ!」
という気分になった。そして、
「味覚や嗅覚の鋭さを偏差値化する必要性もないために、私達はその個人差をあまり意識せずに生活しているに過ぎないのではないだろうか。」(116ページ)
これもその通りだなと思った。
悲しいことがあると「これが仮想現実であれば・・・」と思うこともあるが・・・。
とにかく、知的刺激を受ける一冊だった。
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(2011、10、12読了)
2011年10月20日 19:18
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新・読書日記
2011_178
『放射能の真実!』(辛坊治郎・高橋千太郎、アスコム:2011、10、11)
辛坊さんの「真実」シリーズだが、出版社は幻冬舎ではなくアスコム。
京都大学農学部の高橋千太郎教授に、放射能と安全に関して辛坊さんが聞くという形の対談集。
辛坊さんも、いつもの「政治」や「経済」といった得意分野というわけではないので、(最近見られるような)「上から目線」ではなく、謙虚に「聞く」姿勢になっていて好感が持てる。真実、「我々とその子どもたち」が生きていくために必要な「正確な知識」を得ようとしている。そしてそれに対して高橋教授が真摯に答えてくれているという気がする一冊。
全体が「3部」に別れているが、基礎的な放射能の知識に関する「第1部」がやや長くて読み通すのにガマンが必要なので、ここを2つに分けて、全部で「4部」にした方が、読みやすかったのかな、という気がした。構成の問題ですが。
それと、162ページに誤植。
×「管直人首相」→○「菅直人首相」
196ページも、
「4半世紀」→○「四半世紀」
の方がよかったのでは?本筋とは関係ありませんが。
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(2011、10、9読了)
2011年10月11日 18:47
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新・読書日記
2011_177
『探偵はバーにいる』(東直己、ハヤカワ文庫:1995、8、15第1刷・2011、9、22第51刷!)
驚き!単行本は1992年に出ていて、文庫本は1995年。以来16年で51刷!大ロングセラーではないか!にもかかわらず、その存在をちっとも知らなかった私...映画化されてそのPRのために、先日、主演の大泉洋さんが「ミヤネ屋」に出てくれた。それをきっかけに、読んでみようかな、と思っていたら、帰りのコンビニで本書を発見!購入したが、映画の原作は、このシリーズの第2作らしい。これは第1作。タイトルが映画は「探偵はBARにいる」で、本書は「探偵はバーにいる」。で、さっきも書いたように、原作は本書ではなく、本シリーズの第2作。ややこしやー!
内容は、ハードボイルドですね。シリーズはすでに12作あるらしい。時間にゆとりのある方は、通して読むと、もっと楽しめるだろう。舞台は北海道。北海道弁もいっぱい出てくる。その意味でも、主演に北海道出身の大泉洋さんというのはふさわしいだろう。それにしても佐々木譲さんといい、探偵や警察モノの舞台はなぜ北海道?沖縄や鹿児島ではないのだろう?大阪府警モノがあってもいいよな?(もう、あるか。)
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(2011、10、6読了)
2011年10月 9日 17:36
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新・読書日記
2011_176
『放射能と生きる』(武田邦彦、2011、6、30第1刷・2011、7、10第2刷)
武田先生が、原発事故直後から書き続けたブログをまとめて本にしたもの。水素爆発直後から1週間、1か月、それ以降の、放射性物質から逃れる術。それがきっちりと書かれている。なぜ日本政府はこういったきっちりしたことを伝えることを怠ったのか。我々マスコミはきっちりと伝えられなかったのか。
一つには、騒ぎを起してパニックを避けるため。しかし、きちんとした情報を伝えていれば、パニックは避けられるはず。つまりは、伝えるべききっちりとした正しい情報がわからなかった。それを判断する知識・判断力が、政府にもマスコミにもなかったということが、現在の状況を招いているのではないか。この本を読んでいて強く感じたのは、そういったことだった。もちろん専門家の意見でさえ分かれていたことも、その原因のひとつなんだが。
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(2011、9、16読了)
2011年10月 9日 11:51
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新・読書日記
2011_175
『福島 原発と人びと』(広河隆一、岩波新書:2011、8、19)
広河さんといえば、フォトジャーナリスト。チェルノブイリも長く取材し続けてきた人だ。昔、日本テレビの「きょうの出来事」などにも、よく出演されていたように思う。
3月15日、福島県南相馬市の「原発20キロ圏」の入り口で、
「原発爆発この先立入禁止」
の看板の前で、防護マスクに線量計を持った著者。毎時4マイクロシーベルトを示していた地点の見開きのモノクロ写真。この本は「新書」だが、その写真は大きく、私の目に、心に迫ってくる。本質的にこれは「(新書判の)写真集」である。
フリージャーナリストの人たちは、事故発生からすぐに、線量計を持ち、現地へ駆けつけている。その様子もよくわかる。そして後半には、長く取材してきたチェルノブイリの様子が。
「100ミリシーベルト以下のところでは危険性が証明されていないから、安全なのだ」という山下教授たちの言葉は、やはりおかしい。
「100ミリシーベルト以下の場所だからと言って、安全が証明されていない限り、そこは危険とみなさなければならない」
同じ事象でも、それをどう見るかによって、全く正反対の(いわゆる「真逆」の)結論が導かれる。命を守るためには「楽観的」過ぎてはいけないのだ。だからといって「悲観的」になりすぎても意味はない。冷静に事象を見つめ、考え、行動することが必要だ。
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(2011、9、17読了)
2011年10月 8日 11:49
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新・読書日記
2011_174
『夜明けの街で』(東野圭吾、角川文庫:2010、7、25第1刷・2011、9、10第16刷)
先日、この小説が映画化され、主演の岸谷五朗さんが「ミヤネ屋」に出演してくれたので、それで原作を読んでみる気になった。映画はまだ見てないんだけど。
既にこの映画を見た宮根さんが、「コワイわー」と言っていたが、原作の小説も「コワイ」。いや、なんだか読んでいて最初の方は「いや~な感じ」が。読み進むのが怖い。映画でいうと(ちょっと古くて恐縮だが)「ミザリー」のような感じが。女の人は、怖い。
だんだん、恐怖より興味の方が勝って読み進んでいく。うーん、そうだったのか、というラストまで、まあ、おもしろく読めます。
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(2011、9、22読了)
2011年10月 7日 18:47
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新・読書日記
2011_173
『流される』(小林信彦、文藝春秋:2011、9、15)
小林信彦の自伝的小説の第3部。と言いつつ、実は第1部・第2部を読んでない。あとで読もう。これは明らかに幸田文の『流れる』を意識したタイトルだ。
著者(=「私」)思いがけず知ることができた「祖父の歴史」から、自らの人生を振り返っている。
戦後すぐは「狸穴町=ソ連兵」という連想があまりにも有名だったこと、新聞で「大きな男」「大男」というのは、どこかの国の占領軍(の兵士)ということだったなど、その時代を生きていた人ならみんな知っているが、その時代を生きていない人は全く知らない「知識」が記されている。
また著者の父は「喫茶店」を「きっちゃてん」と発音するとか、取るに足らない「時代のディテール」が記されている。でも「神は細部に宿る」のだと思う。ここをしっかりしなくて全体の構成はない。「砂上の楼閣」になる。
「アメリカの立体(3D)映画『恐怖の町』を新宿で観て、よけい疲れた」
というあたり、再三、最近の3D映画への批判(というか、取るに足りないものだという見方)を週刊誌(週刊文春)のコラムで書いている「起源」は、ここにあったのだなとわかった。
そのほかにも、
*「一冊はジョルジュ・シムノン、これは探偵小説です。このごろは推理小説と申しますが。どうも中学生にふさわしいとは思えませんので」(146ページ)
*「中学三年を終わろうとする私は、傲慢さで脹ら雀のようになっていた。」(142ページ)
*「昔の言葉でしょうが、レオポルドさんは使うんです。女の人のあそこを正面から見ると、こうもりが白壁に張りついているようでしょう」(131ページ)
*(マイペッカー)「〈ペッカー〉は男の大事なところだ」「くりかえすとすれば、〈畜生〉とかそういう意味だろうな」(131ページ)
*(「薄らとんかち」ではなく)「薄らとんちき」(128ページ)
*「酔いかけた混血児たちは滝本ね頭を叩き、はげ、はげ、とからかっている。」(125ページ)
*「白人、混血児たちは帰ってしまった」
といった表現・言葉が出てくる。舞台は昭和22年(1947年)。小林信彦、14歳。太宰治を「人生のコメディアン」と表現していた。
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(2011、9、26読了)
2011年10月 7日 12:55
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新・読書日記
2011_171
『原発社会からの離脱~自然エネルギーと共同自治に向けて』(宮台真司×飯田哲也、講談社現代新書:2011、6、20)
対談集。
いま注目の飯田哲也さん。その中でも注目したい発言は、118から119ページあたりに出てくる、毎年5000億円もの「再処理等積立金」。これっていわゆる埋蔵金なのでは?
ちょっと検索してみたら、原子力環境整備促進・資金管理センターは電力各社が積み立てた最終処分積立金と再処理積立金の運用を2000年から行っていて、2011年度の事業計画によると「再処理積立金」は2兆7357億円、「最終処分積立金」は8374億円積み上がっているという。これは、原発事故に関しての補償に役立てるべきではないでしょうか?増税の前にやることはあるようだ。
これもネットからの「また聞き」(!?)ではあるが、元財務官僚で嘉悦大教授の高橋洋一氏は、
「財務省の国債整理基金特別会計に貯まった12兆円を取り崩せ」
と提案、会計検査院官房審議官である飯塚正史氏は朝日新聞で、
「翌々年度にしか使えない10年度の決算剰余金30兆円を使えばよい」
と書いている・・・のだそうだ。確認してみたい。
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(2011、9、19読了)
2011年10月 5日 18:31
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新・読書日記
2011_170
『働く君に送る25の言葉』(佐々木常夫、WAVE出版:2010、11、13第1版1刷・2011、6、30第8刷)
ベストセラーというのは知っていたが、いまさら私の年齢の者が読む本でもなかろうと思って手を出さないでいた。しかし、知人に聞いたところによると、著者は現在、東レ経営研究所の特別顧問だが、"現役"のときは奥さんの看病をし、引きこもりの息子の面倒をみながら、残業を全くせずにしっかりと仕事をこなして出世したと。それを聞いて、ちょっと興味が湧いて買って読んでみた。すると、
「あ、これは30年ほど前、私が新入社員の頃に流行った、城山三郎の『ビジネスマンの父より息子への30通の手紙』だ!」
とすぐに思い当たりました。(30通でよかったっけ?ウロ覚えですが)「息子」が「甥(おい)の遼くん」になったのだけど。「遼くん」というのが「今ふう」です。佐々木さん、やはりゴルフをするのでしょうかね?(そんな時間はないか?)
それにしても30年ぐらい周期で、同じものが流行るんだなあ。
全部読み終わって読書日記もか空き終わったら、若い後輩にあげようと思います。
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(2011、9、30読了)
2011年10月 5日 12:29
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新・読書日記
2011_169
『神の雫30』(作・亜樹直、画・オキモトシュウ、講談社:2011、9、30)
ワインのマンガです。忘れた頃に3か月に1冊ぐらい出ます。読書日記125で紹介した『神の雫29』の続き。中2の息子(ワイン、まだ飲めないのに)が買ってきて、代金を請求されました。ワインよりは安い値段です。「第9の使徒」はイタリア「ブルネッロ・モンテプルチアーノ」でした。もうなんかそんな話、忘れかけていましたが。
イタリアワイン、いいよねえ。ようやく最近良さがわかってきた感じが・・・。
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(2011、10、2読了)
2011年10月 4日 18:18
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新・読書日記
2011_168
『美しく怒れ』(岡本太郎、角川oneテーマ21:2011、9、10)
いま、岡本太郎の著書である。
うーん、目の付けどころがいいんじゃないの、角川は。
最初は読んでいる途中で「この文章は、いつ書かれたのかな?」と気になったのだが、よく考えるとそんなことは気にする必要はなかったのである。(一応巻末に、いつ書かれたものかは、まとめて記してあるが。)
あとがきにもあるように、岡本太郎の言葉は時代を超えて「在る」ので、時代を気にする必要はなかったのだ。例えばこんな一節、
「それにしても"専門家"は、歴史のなかで、どんなに、権威的にウソをつきつづけてきたことだろう。こんなことは、ナンセンスな過去の一挿話として、笑い捨ててしまってもいい。だが現に、そういう権威主義は生きていて、我々をキリキリ舞いさせているではないか。『経済のことはおまかせください。』などと大見得を切った専門家総理の、所得倍増論のむくいを、今頃コッテリ噛みしめさせられているのは一般庶民だ」(149~150ページ)
ありゃ。これは池田勇人総理だが、同じようなことはその後も繰り返されているのではないだろうか。「コッテリ」は「コッテリしぼられる(叱られる)」の「コッテリ」の使い方ですね。
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(2011、9、29読了)
2011年10月 4日 12:16
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新・読書日記
2011_167
『ちはやふる 1~4巻』(末次由紀、講談社:2008、5、13~ )
なんと百人一首、カルタの日本一を目指す若者のマンガ!なんでもあるなあ・・・。『ヒカルの碁』のかるた版と言えばわかるでしょうか。結構おもしろいのだね、これが。で、なんでも、日本テレビで10月4日からアニメ化されるというではないですか!知らなかった!中2の息子が買ってきて「おもしろいで」と言っていたので読んでみました。落語の「ちはやぶる」の話をしてやったのに、それには全く関心を示さなかった・・・。
あ、調べたら、いま14巻まで出ているそうです。
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(2011、10、2読了)
2011年10月 4日 02:43
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