新・読書日記 2011_154
『池上彰の宗教がわかれば世界がわかる』(池上彰、文春新書:2011、7、20)
入門書としては幅広いが、それでいてわかりやすい。
その道(宗教)の専門家に直接聞いているというのが良い。インタビュアーの力量も問われるが、そこは十分クリアしているでしょう。
タイトルに偽りはないように感じた。
「宗教」の本だし、「お盆」に読みました。
『池上彰の宗教がわかれば世界がわかる』(池上彰、文春新書:2011、7、20)
入門書としては幅広いが、それでいてわかりやすい。
その道(宗教)の専門家に直接聞いているというのが良い。インタビュアーの力量も問われるが、そこは十分クリアしているでしょう。
タイトルに偽りはないように感じた。
「宗教」の本だし、「お盆」に読みました。
大阪市営地下鉄・御堂筋線で、梅田駅から淀屋橋駅の間の真ん中あたりで、こんな車内アナウンスのテープの声が聞こえます。
「列車がカーブを通過します。ご注意ください」
これを聴くたびに思い出すのは、先輩アナウンサーで電車に詳しい(つまり「鉄ちゃん」)羽川英樹アナウンサーのことです。
実はこの車内アナウンス、昔は、
「列車が曲がりますのでご注意ください」
だったのです。それについて羽川さんはいつも、
「あれはおかしい!列車が曲がるのではない、レールがカーブしているのだ!」
と、誰にともなく、かなり強硬に話されていました。私は、
「ああ、たしかにそうですねえ。」
と相槌を打ちながらも、心の中では、
(でも、気にするほどでもないのとちがうかな・・・)
と思っていました。人それぞれ、こだわりのポイントは違うものなのです。
しかし!
羽川さんと同じ「違和感」を持つ人が多かったからでしょうか、いつのころからか、車内アナウンスは、
「列車がカーブを通過します。」
に変わったのです!うーん、信念を持っていると世の中はいつか変わる、ということか?(そんなおおげさなことか?)
しかし!鉄道ネタでは私も負けてはおりません。(鉄ちゃんじゃないけど)
先日、京阪電鉄「北浜駅」で降りたときのこと。ディレクターから指示された仕事(ロケ)先の場所は、
「京阪電車・北浜駅下車、3番出口を出て徒歩3分」
でした。そう書かれたメモを手に「北浜駅」で降りて改札を出ると、その改札(と言っても、ひとつしか改札はないと思う)に一番近い出口には、
「28番」
と書かれていました。
「えー、マジかよ。めちゃくちゃ歩かな、あかんなあ」
と思いながら、それでも元気よく、27、26と数字が減るのを手がかりに歩いて行きました。
かなり地下道を歩いても、なかなか「3番」は出てきません。
「おかしいな、これじゃ『3番出口』は、北浜駅ではなく淀屋橋駅の方が近いんじゃないか?」
関西にお住まいの方の中には、ご存じの方はご存じでしょうが、京阪の北浜駅と淀屋橋駅は地下道でつながっていて、歩いてもせいぜい5、6分という距離なのです。
「17番出口」が見えてきた頃、不安は的中!
なんと「淀屋橋駅」に着いてしまったのです!そこで淀屋橋駅の駅員さんに、
「すみません、北浜駅の『3番出口』ってどこにあるんですか?」
と聞いたところ、
「ああ、それは北浜駅の改札を出てすぐの、"反対側"ですな」
と言うではありませんか!ええ!ずっと数字が減る方へ減る方へ歩いてきたのに反対側?ナンタルチーア!そんなアホな!
で、プンプンむかむかしながら、今来た通路を北浜駅に向けて歩き出しました。地下通路は、節電で冷房が効いていません。流れる汗の中、5メートルおきにあるスーピーカーから大音量で、
「大変ご迷惑をかけております、ただ今人身事故のため、ダイヤが大幅に乱れています。お急ぎのところ大変ご迷惑をおかけいたしております。振り替え輸送のご案内を申し上げます。振り替え輸送は・・・」
というアナウンスが、まるで私を洗脳しようかというぐらいに繰り返し繰り返し流れてくる。仕事場に携帯で電話して、「ちょっと遅れるかも」と伝えようとするのに、スピーカーの音量が大きすぎて、向こうの声が聞こえない。ついにガマンしきれず、駅員室に、
「ちょっとこのアナウンス、何とかなりませんか?仕事先に携帯で電話して電車が遅れていることを伝えようにも、音量が大きすぎて聞こえない。しかも逃げ場なく、5メートルおきに流れて切れ間がない。ええ加減にしてください!」
と、道に迷いながらも言うべき事は言って、北浜駅に到着。既に仕事場への「入り時間」の15時です。しかし!やはり「3番出口」は見つからない。一体どうなんているんだ!?
北浜駅の改札にいた若い駅員さんに聞いたところ、
「ああ、『3番出口』は『京阪電車』じゃなくて、『地下鉄・堺筋線』の方ですから、そこの先の通路を左に曲がった先にあります」
なにー、そんなことどこにも書いてないじゃないか!
「その出口は『京阪』の出口ではありませんで、地下鉄さんのほうの出口なので・・・」
「ほほう、そうですか、じゃあ、『京阪』を利用して『北浜駅』で降りて『3番出口』に出ようとするお客さんは、既に京阪の客じゃないから、どう迷おうが知ったこっちゃないと、そうおっしゃるんですな。」
「そこまでは言いませんが、まあ、・・・」
「それじゃ、地下鉄と連絡通路なんか作るな!塞いどけ!つながっている以上は責任を持って表示しなさいよ、わかるように」
「"上"には、何度か言ってるんですがねえ・・・」
「あなたが"上"に言っても変わらないんですね。じゃあ、あなたに言ってもムダだ。誰に言えば表示をしてくれるんですか?責任者の連絡先と名前を教えてください。直接私が話します」
困った若い駅員さんは、少し年上の駅員さんを呼びました。ところが年上の駅員さんの方がもっと「保守的」で、私の目を見てモノを話そうともせず、ノラリクラリと逃げようとします。(私にはそう感じられました。)そんなことをすれば当然、こちらの怒りは、余計に高まります!
「誰が責任者なんですか!」
「北浜駅には、責任者はいなくて・・・淀屋橋の副駅長ですかなあ・・・」
「副駅長の名前は?」
「○○です」
「連絡先の電話番号は?」
「・・・」
教えていいものかどうか躊躇している年上の駅員の脇から、若い駅員がサッと淀屋橋駅の電話番号を差し出してくれました。
「よし!じゃあ、仕事が終わったら、副駅長に言いに行くから!」
と言い捨てて、仕事場へ。
1時間後。仕事が終わりました。
当然、淀屋橋駅の駅長室に向かい、
「○○副駅長はいますか?」
と言うと、奥の方からのそっと、白髪のおじさんが出てきました。
「2点、要望があって来ました!」
「はあ、伺っています」
既に連絡が届いていたのです。なかなか、やるな。それなら話が早い。
「まず第1点は、構内放送のボリュームが大きすぎる。人身事故で代替輸送という状態での情報は伝えるべき情報だが、その伝え方にもう少し気を配ってほしい。第2点は、北浜駅での『3番出口』を含む『1番から6番出口』は、地下鉄堺筋線側の出口だが、その方向案内を、京阪の『28番出口』などを表示してある京阪・北浜駅の改札を出たところの表示板にも大きく表示してほしい。堺筋線に曲がる手前に、パソコンから打ち出した小さな紙が張ってあるが、あの場所ではなく、改札を出たところに大きく表示してほしい」
と伝えると、
「パネルを作り変えるとなると、お金もかかるので・・・」
と言うので、
「紙でも何でも、わかればいいんだから、すぐに対応してください。見た目がきれいかどうかより、迷う人を減らす方が大事でしょ」
と言うと、
「たしかにおっしゃることとはわかります。すぐに実現できるかどうかはわかりませんが、努力してみます」
という副駅長の答えを引き出せたので、ひとまずはこれでOKと引き下がりました。
2日後。たまたま北浜駅に行くことがあり、京阪の改札を出たところの案内板を見てみると・・・何も変わっていませんでした。
「やっぱりすぐには変わらないのか・・・」
と思ったその時!案内板の横に、ものすごく大きな紙に
「地下鉄堺筋線 1 ~6番出口 →」
という赤い字の表示が張られているではありませんか!
京阪電鉄「北浜駅」「淀屋橋駅」の素早い対応に感謝です。
改札にいたのは、先日とは違う駅員さんでしたが、
「表示、張ってくれたんですね。すぐに対応してくれて、ありがとう!」
とお礼を言っておきました。
話がずいぶんそれたようだけど、つまり、
「言ってみると、世の中変わることもある。黙っていたら、変わらない」
という話でした。
『本当は誰が一番?この国の首相たち』(八幡和郎、ソフトバンク新書:2011、4、25)
2011年8月29日、民主党の代表選が行われ、野田佳彦・財務大臣が、海江田万里・経産大臣との決選投票を制して代表の座についた。あす30日、第95代内閣総理大臣の座につく。
さて本書は、「ミヤネ屋」に以前コメンテーターとしてご出演いただいていた八幡和郎氏の著書。著者は政治家をランク付けした本を他にも出している(知事とか)。本書では、戦後の首相たちを、「独自の基準で」採点していく。だから、必ずしも巷間言われているような評価とは同じではなく、「えー、なんでこの人の評価がこんなに高いの?」という例や、その逆もあるが、「世間の人気」(世論調査や支持率など)とは別に、
「首相とはどうあるべきか」
という「理想」を尺度に判断しているので、「こうあるべき」という方向性を考える(つまり、日本という国の未来を考える)には、良いテキストかも。このタイミングで読むには良い本だと思う。ということで、夏休みのお盆の間に読みました。
「ミヤネ屋」の若いスタッフに、
「『絆』という漢字は、『糸が半分』と書く。半分の糸と糸をつなぎあわせる。だから『絆』なんだね...」
と「相田みつを」ふうに言ったところ、
「そうだったんですか!」
と感心しています。
「ウソやで。思い付きで言いました。ごめんなさい。」
と正直に告白すると、
「え?そうなんですか。本当かと思いました」
と。もしかしたら本当かもしれませんが、たぶん違います。
「絆」の字がどうやってできたかご存じの方、ぜひ教えてください。
よろしくお願いします。そこから「絆」が生まれるかも。
『旅人~ある物理学者の回想』(湯川秀樹、角川ソフィア文庫:1960、1、15初版・2011、1、25改版初版・2011、5、3改版再版)
日本人として初めてノーベル賞を受賞した湯川秀樹博士が、朝日新聞で2年ほど連載されて、朝日新聞社から単行本で昭和33年(1958)ごろに出て、さらに1年以上経って角川文庫から出たものが、今年、改版されて出た。この本に出会えて、湯川博士と出会えてよかった。うれしかった。
湯川さんが京阪電車に乗って京大に通っていたと感じると、同じ(?)京阪電車に乗って会社に通うのも楽しくなる気がする。
表紙の絵も良い。村尾こう「数字の階段」と題されたもので、天へと続くブロックの階段の側面が、よく見ると「数字」になっているのである。気に入った!
理論物理学への道にどうやって入って行ったのか、もし得意な「数学」の道に入っていたら?なんと、湯川博士は、数学を岡潔に習ったことがあったのだ!こうやって、人と人との人生は、時空上の「点」で交差している。
トビラの略歴を読んでいると、1907年生まれの湯川博士は1939年にはもう京都帝大教授になっている。まだ32歳だ。文化勲章を受章した時(1943年)にはまだ36歳である。若い!そしてノーベル物理学賞受賞は1949年、42歳のときだった・・・早熟の天才、なのか?兎に角スゴイ!1981年、74歳で没。
この本はぜひ、若い人にも読んでほしい。高校から大学2年ぐらいまでに読むといいのではないかな。☆5つ!
7月の初めに、大阪は福島の「ザ・シンフォニーホール」で豊中混声合唱団の定期演奏会を聴きました。須賀敬一先輩の振る『水のいのち』。もうお手の物。「豊混」大得意の曲ですが、今回聞いていて自然と涙が流れたのは、
「水=汚染水」
を思い浮かべたからです。そして、東日本大震災と福島第一原発の事故とその収束作業での「いのち」というものを考えながら聴いたからです。
そのステージを見つめる目をふっと横にそらした時に目に入ったのは、ステージの左右にある、
「『禁煙』の文字が白抜きで書かれた赤いランプ」
でした。もちろん、会場内は「禁煙」ですが、その赤いランプは消えたままです。わざわざ「禁煙」と表示しなくても、いまや誰もホール内はおろか会場内でも(喫煙所以外では)タバコを吸いません。しかしこのホールが建てられた1980年代前半には、ホール内に「禁煙」という大きな赤いランプが必要だったのでしょう。その「名残」として、取り外されることなく、残っているのですね。いまはホールで「禁煙」は当たり前すぎて不要なのですが。
その10日ほど後の7月18日、朝日新聞に、
「米ヒット映画消える紫煙」
という見出しの記事が載っていました。アメリカの映画に登場する喫煙シーンが、5年間で半減したことが、アメリカ疾病対策センター(CDC)の調べで分かったと。
記事によると、2005年にヒットした147本と、2010年にヒットした137本の映画で比べると、たばこや喫煙に関係するシーンの数は4152から1825へと半分以下になっているそうです。よう、そんなの数えたなあ。
また「喫煙シーン」は、青少年向け映画では2093~595に減り、成人向け映画でも2059~1226に減ったそうです。アメリカでは喫煙シーンが未成年の喫煙と相関しているとの研究報告があり、映画の喫煙シーンを減らすキャンペーンも実施されているそうです。ワシントン支局の行方史郎記者の署名記事です。
そして、8月にはNHKで「未解決事件」というドラマとドキュメントをミックスしたものを放送していました。「ミヤネ屋」のコメンテーターもしてくださっていた読売新聞の加藤譲さんが、なんと「主人公」で、「グリコ森永事件」を取り上げたものです。私が読売テレビに入社した年(1984=昭和59年)に起きた事件ですので、「かい人21面相」は、私も強烈に印象に残っている事件です。
ずっと観ていて思ったことは、再現ドラマのシーンで、
「新聞記者たちがみんな、やたらとタバコを吸っている」
ということです。これは実に印象が強かった。昔は男はみんなタバコ吸ってたんだなあと改めて感じました。今ならありえない。しかもほんとに記者が「男ばっかり」。今は女性が増えていますから、こんなふうにはならないなあ、きっと。
このドラマの「タバコ」については、かなりインパクトが強かったようで、『週刊文春』のコラムで「小林信彦さん」や(たしか)「青木るえかさん」が、私と同じような感想(やたらとみんなタバコを吸っている)を書いていました。
(追記)
9月23日、慶応義塾ワグネルソサィエティー男声合唱団の現役学生の演奏会を聴きに行ってきました。場所は大阪・茨木市民会館ユーアイホール。おそらく昭和40年代に建てられたと思われる、「よくある市民会館」。音は「デッド」に作られていて、残響はほぼありません。ワグネルの現役学生、人数が30人ほどと寂しく、この人数でこのホールはかわいそうだなと。去年、京都コンサートホールで聞いたワグネルの演奏は、同じぐらいの人数でしたが、とっても素晴らしかったのですが・・・。
それはさておき、ステージの両サイドには、「禁煙」のサインボードが。しかし、シンフォニーホールとの違いが!ここ茨木市民会館では、演奏中もその「禁煙」のボードに赤々と電気がともっていたのです!ふーん、生きているんだな、「禁煙」が。今後、ほかのホールでも注目したいと思います。
ここ数年、
「草食系男子」
の対として、
「肉食系女子」
なる言葉を耳にします。「草食系・肉食系」についての論議はさておき、今回取り上げたいのは、
「女子」
という表現についてです。「10代」の女性に対して「女子」を使うの、「はもちろんOK」です。「20代」も「許容」としましょう。しかし、(非難されるのを覚悟で・・・あまり非難されたくはないが)、
「30代」
ともなると、「女子」と呼ぶには、常識的にはちょっと、
「?」
が付くのではないでしょうか?もう、「いい大人」なんだし。これが「40代」ともなれば「??」ですね。
ところが、2011年2月10日の朝日新聞の「リレーおぴにおん」のタイトルは
「敗れざる40代女子 3」
モデル・タレントの黒田知永子さん(49)を取り上げていました。(ちなみに私と同い年です)この人たちが、数年後~10年後に、
「50代女子」「60代女子」
と言い続けているのか?一体どこで「老い」を受け入れるのか?興味深いところです。
これまでは「女子」とは言わなかった年齢の人たちが「女子」を自ら名乗るのは、一種の
「アンチ・エイジング」
なのだと思います。生き物は、人間は、「オギャア」と生まれたその瞬間から必ず老いて(年を取って)、例外なく死ぬのが「自然の摂理」です。「アンチ・エイジング」は「年を取る=エイジング」に「アンチ=対抗・抵抗する」のですね。言い方がキツイかもしれませんが。
この「リレーおぴにおん」のタイトル「敗れざる」というのは、
「『何に対して』敗れない」
のでしょうか?「年齢」?「自然の摂理」?「自然」に逆らうのは畏れ多くはないでしょうか?え?「女性」に逆らう方が畏れ多いって?ごもっとも。
タイトルの「敗れざる」は、「勝った」とは言ってないですが、「引き分け」かな?
「年齢相応に美しく年を取る」
というのも、個人的にはカッコイイと思いますけどね、私は。ネーミングも、
「グッド・エイジング」
とかの方が、マイナスイメージの「アンチ」がない方がいいなあ。
ちなみに「アンチ」と聞いて、
「アンチ・ジャイアンツ」
を思い浮かべるのは、きっと「アンチ・エイジング」が気になる世代=40代以上でしょうね。
『都市住民のための防災読本』(渡辺実、新潮新書:2011、7、20)
数年前に同じ著者の『高層難民』という本を読んだ。高層マンションに住んでいる私としては、もちろん他人事ではなく、気になる問題である。今回の東日本大震災は「都市型」ではない、災害の部分が多かったが(仙台や盛岡などの大都市は除く)、震源地でもなかった「首都圏」が「都市型」の災害を被り、大規模な「帰宅難民」が生じた。都市では、都市だからこその災害が発生する。
本書では、具体的な防災のための方法を書いてある。すぐに実行したと思った。(なかなか実行が難しいものもあったが。)
いよいよ「なでしこジャパン」がロンドン五輪最終予選の地・中国に!
この1か月あまり、ずっと「なでしこ」に注目が集まっていたような気がします。サッカーファンとしては、うれしい限りです。昔、女子サッカー日本リーグができた時に、田崎真珠のチームに「随行」して東京・西が丘サッカー場での開幕戦を取材したのを思い出しますが・・・あれはたしか1989年(=平成元年)の9月、もう22年も前です。
さてその「なでしこ」ですが、「ミヤネ屋」でも以前ご紹介したとおり、
「カワラナデシコ(河原撫子)」
とも呼ばれる可憐な花だそうです。
「ヤマトナデシコ」
とも言うと辞書(広辞苑)には書かれています。つまり、昔よく「日本女性の見本」として挙げられた「大和撫子」ですね。なぜ「ヤマトナデシコ」と呼ぶかについては、
「同属の『セキチク』を『カラナデシコ』と呼ぶのに対していう」
と書かれていました。え?「セキチク」?聞いたことがあるぞ。辞書には、
「セキチク(石竹)=ナデシコ科の多年草。中国原産(中略)からなでしこ」
とありますが、私が知っているのは、
「野石竹」
です。なんで知っているかというと、
「外郎売」
です。アナウンサーが研修でやる、歌舞伎十八番のひとつ「外郎売」の口上の中に、
「かわら撫子、野石竹」
というのが出てくるんです。滑舌練習で使う(つまり早口言葉)ですが、
「しっかわ袴のしっぽころびを 三針はりなかにちょっと縫うて、ぬうてちょとぶんだせ、かわら撫子 野石竹」
てな具合に出てくるのですな。
「野石竹」と聞いて、久々に「外郎売」のテキストを取り出して、眺めたのでした。「なでしこジャパン」と「アナウンサー」の意外な共通点でした。
『漢字が日本語を滅ぼす』(田中克彦、角川SSC新書:2011、5、25)
田中克彦先生の本、ということで、おもしろそう(興味深そう)なので買った。が、読みかけたら手ごわそうなので、2か月ほど寝かせておいた。夏休みに気合を入れて読んだ。
「外来語が日本語を滅ぼす」というのなら、おそらく大半の人が「そうだそうだ!」と同調するだろうが、「漢字が日本語を滅ぼす」といわれると、一般人には「なんで?漢字を使った方が日本語が日本語として存在できるのでは?」と思われるが、落ち着いてよく読んでいくと、「なるほど・・・」と思わせる部分も多い。
しかしやはり漢字(表意文字)の利点もある。たとえ「分かち書」きをしても、平仮名やカタカナだけでは文字数も増えるし、読みにくいと思う。漢字・平仮名・カタカナといろいろな表記手段があるのは合理的ではないが、それこそ、現代日本語の日本語たるところであるように思うのだが・・・。しかし、知的刺激に富む一冊ではあった。
8月4日の日本テレビ「ニュースゼロ」で、広島の原爆に遭遇しその後、放射能汚染を受けた患者を診察し続けてきた医師・肥田舜太郎さん(94)を紹介していました。肥田医師の「広島原爆」のあとの患者治療経験によると、被曝したあと、
「白血病は7年目、がんは8年目にたくさん患者が出た」
ということです。
その一連のニュースの中のナレーションで、
「原爆トーカゴ」
というフレーズが出てきました。それを聞いて私は最初、
「原爆10日後」
かと思いましたが、2秒後ぐらいに、
「あ、『原爆投下後』か!」
と思い至りました。うーん、これはわかりにくい「同音異義語」だ!
ここは少しかみ砕いて、
「原爆を投下したあと」
とした方が、絶対良かったよな。もし「10日後」なら、
「原爆投下から10日後」
となって、
「ゲンバク トーカからトーカご」
で、これもちょっとわかりにくいような気がしますが、仕方ないか。それか、
「原爆を落とされてから10日後」
とするか、ですね。
佐野真一『東電OL殺人事件』(新潮文庫)を読んでいたら、
「検束する」
という言葉が出てきました(141ページ)。あまり見慣れない言葉です。辞書(『広辞苑』)を引いてみました。
「検束」
①抑制して自由を制限すること。束縛。
②(法)警察犬により個人の身体の自由を束縛して一次警察署に引致し留置すること。これについて規定した行政執行法は1948年に廃止。
ふーむ、そうすると戦前(と、戦後3年ぐらいまで)は、よく使われていた言葉かもしれませんね。法律の廃止に伴って、使われる頻度が減ったのではないか。佐野眞一さんは、まだ使っている。警察用語としては、まだ生きている言葉なのかもしれません。
Google検索(8月29日)では、
「検束」=4万8110件
「もしかして"検索"?」と出てきましたが、最近は「検束」より「検索」の方が言葉としては使われているのでしょう。それでも4万8000件。
Yahoo!辞書では、
[1] 旧行政執行法で、警察官などが一時的に個人の身体の自由を拘束し、留置の処置をとること。 「泥酔者を―する」 →保護
[2] 取り締まって自由な行動をさせないこと。
「自己の情欲を―せぬのが天真である」〔出典: 善の研究(幾多郎)〕
とありました。
言葉として使われる頻度が減った陰で、もし今も「検束」も行われているとしたら・・・これはコワイことですね。
『原発文化人50人斬り』(佐高信、毎日新聞社:2011、6、20第1刷・2011、7、25第4刷)
昔、今から20年ぐらい前は、よく佐高氏の本を読んでいた。時代がそういう時代だったのか。そのうち読まなくなった。また最近、目に留まるようになった。時代がそういう時代になったのか?はたまた、自らがそういうものを求めるようになったのか。佐高氏は一貫して変わっていないようには感じた。東日本大震災と原発事故の前から『週刊金曜日』誌上で連載していてその後も続けた連載をまとめたものだが、タイトルにもなっている「原発文化人50人」をメッタ斬りという部分は、読んでいて良い気持ちがしなかった。佐高氏の本を読まなくなった原因はまさにこの部分にあるなと、そして「この本を買って、しまったなあ・・・」という気が、前半はしていた。しかし、後半には、原発事故前から原発の危険性を、静かに我慢強く訴え続けた人たちを紹介している。これは読む価値があるなと思った。ということで、前半は☆1つ、後半は☆4つ、平均して☆3つ。
團伊玖磨の『パイプのけむり選集・話』(小学館文庫:2011、6、12)の中の「神々の朝」という随筆を読んでいたら、こんな文章が。
「何等の恒産もなく、三人の幼い子供たちを抱えたおばさんは」(249ページ)
この中に出てくる、
「恒産」
という言葉、聞き慣れない感じがします。目にしたことはありますが。これは、
「不動産」
のことなのでしょうか?
辞書(『精選版日本国語大辞典』)を引いてみたら、
「恒産」=(1)一定の財産。ある定まった資産。また、恒常的に入ってくる作物、金銭などをいう。(2)収入の安定した職業。
ああ、全然違いましたね。たしかに「不動産」を持っていれば「恒産」と呼べるかもしれないが、根本的に違う気がする。そしてこの「恒産」を使った慣用句として、
「恒産なき者は、恒心なし」
が載っていました。「孟子の言葉」だそうです。意味は、
「定まった財産や決まった職業のない人は、定まった正しい心がない。物質生活は人の心に大きな影響を持つもので、それが安定しないものには確固とした道徳心もない。恒(つね)の産なきは恒の心なし。」
そ、そこまで言い切らなくても!フリーターの立場はどうなる!・・・しかしたしかに、
「衣食足りて礼節を知る」
という言葉もありますが・・・。この慣用句は、芥川龍之介の『侏儒の言葉』(1923-27)の中にも出てくるようです。
1年ほど前に(2010年)、平成ことば事情4057「ギネ・海容・Mother」で、
「海容」
について書きました。2009年に日本テレビが放送した「水曜ドラマ」のタイトルが、
『アイシテル~海容』(稲森いずみさん主演)
という、ちょっと難しい言葉だったので、それについて書きました。「海容」の意味は、
「かいよう(海容)」=(海が広くて何物でも受け入れるように)寛大な心で相手の罪やあやまちを許すこと。現代ではほとんど書簡の用語となっている。海恕(かいじょ)。」(『精選版日本国語大辞典』)
それ以来、本に「海容」が出てきました。内田樹さんが神戸女学院大学を退官される際の「最終講義」などを収録した、その名もズバリ、
『最終講義~生き延びるための六講』(技術評論社:2011、7、25)
の中にです。内田さんが講演の最後の方のコメントとして使っています。
「やめていく人間がこの場で過去にそういう罪を犯したことをここに懺悔致したわけですので、どうぞご海容願いたいと思います(笑)」(15ページ)
「これで最後なので、教壇に立って、人を扇動したり、悪い影響を与える機会のない人間の末路ということで、ご海容願いたいと思います。」(94ページ)
なるほど、こんな使い方をする言葉なのか。こういう書き言葉を使うと「賢そう」にも感じられますしね。ちょっと、マネしてみようかな。
あ、「賢い人」に「賢そう」なんて、失礼な表現でしたね。でも本の宣伝にもちょっとはなったと思うので、「ご海容」ください。
スタッフの一人が質問してきました。
「道浦さん『競売』は『キョウバイ』ですか?『ケイバイ』ですか?」
それを聞いてピーンと来ました。ハハーン、アレのことだな、と。
「アレ」とは、8月23日の夜、緊急の記者会見を開いたタレントの島田紳助さんが「引退」を表明した際に出てきた、
「競売」
という言葉です。紳助さんが「競売物件」の購入に熱心で、その関係で暴力団との「黒い交際」があったのではないかというような報道を受けてのコメントでしたが、この際、紳助さんは会見で、
「ケイバイ」
と言ったのです。それを聞いたスタッフは、
「ケイバイ?キョウバイじゃないの?」
と思ったのでしょう。一般的には、
「キョウバイ」
ですよね。でも実は、法律用語では、
「ケイバイ」
と言います。しかし放送では、一般的に知られている読み方の、
「キョウバイ」
と読むことになっています。これに似たものには、
「遺言」
があります。これも弁護士さんなど専門的な人たちは、
「イゴン」
と言いますが、放送では一般的な読み方の、
「ユイゴン」
を使うことになっています。「より、視聴者にわかりやすく」という配慮からだと思います。
先日、「ミヤネ屋」のパネルコーナーで「便秘対策」の特集をしました。その際に、
「女性の天敵 便秘を防ぐためには」
というスーパーが出てきました。それを見て、
「ちょっと待てよ・・・」
と思いました。というのは、少し前、何の本だったかはちょっと忘れましたが、
「最近『○○の天敵』という表現をよく目にするが、この『天敵』の使い方は間違いではないか?」
という文章を読んだ覚えがあったからです。実際、辞書(『広辞苑』)を引くと、
「天敵」=「自然界で、ある生き物の捕食者・寄生者となり、それを殺したり増加を抑制したりする他の種の生物。昆虫を捕食する鳥の類」
とありました。
このときは、「いわゆる、天敵」というニュアンスにするために、
「女性の"天敵"便秘を防ぐためには」
と" "を使いました。
ところが、それから数日後、またもや「天敵」が現れたのです。夏の日焼けはシミになる、ということで、この日は「スキンケア特集」でした。そのスーパーに、
「お肌の天敵"紫外線"」
と出てきたのです。このときは"紫外線"に既に" "が使われてしまっています。そこで考えました・・・あ、そうか、この場合は本来、
「大敵」
なんだ。もしくはシンプルに「天」を取って、
「敵」
でもよい。つまり、
「お肌の大敵"紫外線"」「お肌の敵"紫外線"」
で良いではないかと思い至りました。
おそらく、「敵」だけだとインパクトが弱い感じがするので、「強調語」として「天」を付けてしまうのでしょうが、それだと本来の意味ではないということを考えないといけませんね。それにしても「天敵」は、よく出てくるなあ。きっちりした文章にとって、まさに「天敵」かもしれません。
ただ、新しい方の意味の「天敵」ですが、新しい言葉を取り入れることで知られる『三省堂国語辞典』では、2番目の意味として、
「なんとしてもさけたい、いやな相手(もの)」
という説明文が載っていました。また、『精選版日本国語大辞典』では、2番目の意味として、
「天に対する敵。神の敵」
として1591年の文献から引用していましたが、「お肌の天敵」という使われ方は載っていませんでした。
(追記)
大相撲の鳴戸親方(元第59代横綱・隆の里)が、59歳の若さで急死しました。
11月8日の朝刊各紙の記事を拾ってみると、
(毎日新聞)見出し 「じょっぱり」ウルフの天敵。
(読売新聞)見出し 千代の富士のライバル。
(産経新聞)本文 横綱同士で激闘を繰り広げた九重親方(元千代の富士)
(日経新聞)見出し 千代の富士と名勝負。
(朝日新聞)本文 ただ、当時は北の湖、千代の富士に挟まれていた。
(デイリー)見出し デイリー・ウルフキラー
で、毎日新聞が「天敵」を使っていました。
(2011、11、14)
8月5日に出版した自身3冊目の著書『最新!平成ことば事情』(ぎょうせい)の「第6章」に「言い間違い」について書いたものを集めたページがあり、アナウンサーの言い間違いのほか、うちの娘(6歳)の言い間違いも載せています。
そのことを娘に伝えたところ、「ふーん」としか言ってなかったのに、昨夜、家に帰るとニコニコしながら寄って来て、
「あんなあ、きょう、言いまちがい、してん。」
と言うので、
「へー、どんな?」
と聞くと、
「トーキョッキュー、ああ違う、トーチョッキュー、ああ違う、チョートッキュー(超特急)」
おお、たしかにこれは幼い子どもには言いにくいでしょうね。しかも、「間違い」と「正しい形」を共に再現するのは、かなり難しいことです。単に正しく言うよりも、よっぽど難しい。本にも書いた、
「ドラボンゴール」(正しくは「ドラゴンボール」)
なんてのは、言ってるうちに、
「あれ?これで正しかったんだっけ?
間違ってたんだっけ?」
と不安になって、何度も言い直してしまうくらいです。
「トートッキュー、トーチョッキュー、チョートッキュー」
を何度か必死に言うと、娘は。
「また、本に書いてな!」
と言って、お風呂に入りに行きました。おお、なんとかわいい!・・・・次の本では「親バカ」の章を作らねばならないかも・・・。それまで、娘が口をきいてくれるぐらい、幼いままだといいのですが・・・。
合唱団での練習時間よりも、そのあと飲みに行ってる時間の方が長いのですが、私以上にそういう傾向の強い先輩のF氏に、一緒に飲んでいる席で教わった替え歌があります。早稲田大学出身の人ならおそらくみんな知っている、一番メロディのきれいな応援歌に、
『早稲田の栄光』
という曲があるのです。その替え歌です。しかし歌詞は単に駅名をつなげただけ。
「東京メトロ(地下鉄)東西線の駅名」の羅列です。
♪東陽町、木場、門前仲町
茅場町、日本橋
大手町、竹橋、九段下
飯田橋、神楽坂
早稲田、早稲田、早稲田へ行こう♪
というものです。駅名を繋げただけなのですが、かなり上手くハマルのです。誰が考えたんでしょうね?しかもこれには、
「JR山手線バージョン」
まであるのです。「山手線バージョン」は、「浜松町」から「時計回り」に進みます。
♪浜松町、田町、品川
大崎、五反田、目黒、恵比寿
渋谷、原宿、代々木、新宿
新大久保、馬場で乗り換え
早稲田、早稲田、早稲田へ行こう♪
うまく調子を合わせて伸び縮みをさせる必要はありますが、かなりピッタリとハマります。
特に最後の部分、「高田馬場」と言うと「字余り」だし、
「実は、山手線だけでは『早稲田』には行けない」(山手線に「早稲田駅」はない)
という事実を、
「(高田)馬場で乗り換え」
て、地下鉄に乗り換えて強引に早稲田に行ってしまうというあたりに、「工夫のあと」が見られます。
この「替え歌」を教えてくれたF氏、
「それでさ、この替え歌の曲名、知ってる?」
「いえ、知りません。なんて言うんですか?教えてください」
と聞くと、ニンマリ笑ったF氏、
「『早稲田へ(え)いこう(栄光)』なんだよ」
よーお、できた話やなあ!
『有効期限の過ぎた亭主と賞味期限の切れた女房~綾小路きみまろ独演会』(綾小路きみまろ、PHP:2002、11、20第1刷・2003、2、21第4刷)
「なでしこジャパン」の佐々木監督が、綾野小路きみまろを大好きだと聞いて、本棚に眠ったままの本書を引っ張り出してきて読んだ。勉強になりました。
うーん、立て板に水のあのしゃべりは、キャバレーの司会&舞台で、歌謡ショーの舞台で、そして寄席でと、すべて「現場」で、一つ一つお客さんの反応をチェックしながら練り上げられてきたものなのですね。そういう意味では「アドリブ」ではなく、「古典」のような完成された話芸の一つなのですね。
われわれアナウンサーはそういう部分と即興のアドリブ部分の両方が必要ですが、今、アドリブに比重が偏りすぎているかもしれない。練り上げる話芸から学ぶべきことも多いと思います。
それと、やはり「落として、持ち上げる」、その絶妙なブレンドですね、「間」も含めて。こればかりは「理論ではなく、実戦あるのみ」だと思います、ハイ。
『どこまでやったらクビになるか~サラリーマンのための労働法入門』(大内伸哉、新潮新書:2008、8、20)
軽めの本かと思っていたら、意外と真面目なちゃんとした本でした。
別に「クビにならないギリギリのことをやってやろう」というものではなく、「会社」と「サラリーマン」を繋ぐ「労働」というものは、法律上はどういうものなのかということを、やさしく説いた本。勉強になりました。
『東電OL殺人事件』(佐野真一、新潮文庫:2003、9、1初版・2003、10、5第3刷)
2011年7月25日の夕刊に、「マイナリ受刑者に再審の可能性」という記事が出たのを受けて、買ったままで読んでいなかった本書を本棚から取り出し読んだ。本書は「一審無罪」までを描いているが、その後二審、最高裁で有罪、無期懲役判決が確定している。
沢木耕太郎のよう。ノンフィクションって、思い込み、作り上げの部分が多いなあと感じる。著者の感じたことは、客観ではありえないわけで。だから個性が出ておもしろいのだろうが。
"小堕落"がはびこる中で生まれた"大堕落"が今回の事件だと、著者は書く。"小堕落"を堕落していないように取り繕おうとする社会の動きが"大堕落"を生んだと。著者は、堕落した現代日本を叱咤している。しかし、人間の白でも黒でもないグレーの部分があからさまになる、こういった暗い部分、正直読んでて嫌な気持ちになり、係わりたくないと感じたのも事実。
毎晩のように渋谷の街に立ち売春を行っていた被害者は、間違いなく心の病であったのではないか。そんな"彼女"を生んだのは"家庭"なのか、"社会(世の中)"なのか、何が彼女を追いやり、なぜ彼が捕まらなければならなかったのか。この事件は必然だったのかどうか。考えさせられる一冊だ。
私の所属する合唱団の先輩にFさんという人がいます。同じベース・パート(男声の最低音部)なのですが、私なんかより桁違いに声が大きく、低い音まで出ます。もともとラグビーをしていたので、(身長はさほど高くないですが)堂々たる体躯です。
そのFさんが、飲み屋で、楽譜の記号について話してくれたこと。
「あのさ、俺にとって『p』ってのは『ピアノ』と読むんじゃないんだよね」
「じゃあ、何て読むんですか、『p』は?」
ここでFさん、鼻の穴を広げて力強い声で、
「パワー!」
と答えたのです。
「・・・・じゃあ、『pp』は?」
「パワーパワー!!」
「『mf』は?」
「もっと・パワー!!!」
パワーしかないのか、この人の音楽は?そう思って、
「じゃあ、『f』はどうなんですか?」
と聞くと、今度は、
「ファイト!」
という答えが返ってきました・・・・。もちろん、「mf」は、
「もっとファイト」
で、「ff」は、
「ファイト、ファイト!!!」
道理で、常に大きな声が出るはずだ・・・。
2011年7月15日の日経新聞夕刊の1面下のコラムで、落語家の桂三枝さん(来年、文枝を襲名)が、
「礼儀と自己主張」
というタイトルで書いてらっしゃいました。その中に驚くべき記述が!それは、
「なぜ寄席やテレビ局では、夜でも『おはようございます』と言うのか?」
ということについてです。
私ももう習い性になって夜でも昼でも、その日初めて会った人には、
「おはようございます」
と言ってしまってますが、「なぜ」かは知りませんでしたが、そこにはこう、「2つの理由」が書かれていたのです。それは、
(1)「『こんにちは』『こんばんは』は、お客さまが『来ん』につながるから忌み嫌って使わない」
(2)「『おはようございます』は目上にも仕える丁寧語だから」
ホー、そうだったのか!三枝さんは、さらに続けて、
「先輩師匠に『こんにちは』は使えない。出入りの多い楽屋ではともかく『おはようございます』と言っておけば間違いないからでもある」
と綴っています。
いやあ、そうだったのか!それがテレビの世界でも・・・私はほかのテレビ業界用語と同じように「ジャズ屋さん」(ミュージシャン)から入ったのだと思っていましたが・・・そういった芸能関係では共通して使われていたのかもしれませんね。
私はというと、大学時代に所属していた「グリークラブ」(男声合唱団)でも「おはようございます」は朝昼晩、使われていた(ような気がする)ので、それほどテレビ局での「おはようございます」には違和感はありませんでした。あ、でも学生時代は、
「チワッ(こんにちは)」
だっけかな?それは高校時代のサッカー部か?こんがらがってきました。
7月20日が、大阪府は小学校の一学期の終業式でした。でも今年は台風のために、20日は休校。それが予想されていたので、前日の19日に終業式を行いました。
小学1年生の娘が、「初めての通知表」を持って帰ってきました。
「『あゆみ』もらったで。ぜんぶ、まる(○)やった!」
と少し自慢げ。
「ほう、それはがんばったね。良かったね」
と言ったところ、妻が、
「まるって、全部○やん。その○が付くところが『よくできる・できる・もう少し』の3段階なんやろ」
とタネをばらしましたが、娘は真剣に、
「ぜんぶ、まる」
と喜んでいたようです。
その「あゆみ」を見てみると、なんと1年生の1学期は、3段階ですらなく、
「できる・もう少し」
の2段階評価!ようやく「2・3学期」の欄は「よくできる・できる・もう少し」の3段階になっていました。
ま、それはまあ、それでよしとして、「通知表」「通信簿」のことを「あゆみ」と呼ぶのはいつごろ始まったのでしょうか?大阪府だけ?ほかの都道府県ではどうなんでしょうか?
少なくとも私が小学生だった40数年前ぐらいは、大阪では単に、
「通知表」「通信簿」
と呼んでいましたし、そう表紙にも書かれていました。そんな、
「ブルーライト・ヨコハマ的な名前」
(あ、「あゆみ」と言うと「いしだあゆみ」さんを連想するもので・・・)は付いていませんでしたが・・・。いつから変わったのかなあ?ご存じの方、教えてください。
『不思議なキリスト教』(橋爪大三郎×大澤真幸、講談社現代新書:2011、5、18)
橋爪大三郎が1948年生まれの東工大教授、大澤真幸が1958年生まれで京大教授、ともに社会学者。その二人が「宗教」に関して、それも「キリスト教」について話し合った対談集。主に年下の大澤が司会というか「質問者」として疑問を提示していき、それに橋爪が答えるという形。ただ大澤も単なる質問者ではなく、持論も展開していく。
現在の世界の資本主義・民主主義を理解するにはやはり「キリスト教」を理解しなくては始まらない、とそういった感じで始まっていく話は、大変、知的好奇心を刺激する。日本的な仏教的なもの、儒教的なものとは違うキリスト教、その違いは?ユダヤ教と、どこでどう変わってきたのか、イスラム教徒は?という比較を通じて「キリスト教」の姿が浮かび上がってくる。317~318ページあたりには「キリスト教と資本主義の結びつき」という前提が、21世紀現代においては崩れて来ているのではないか?という疑問も湧いてきた。「西洋」の不思議をたっぷり味わえる本といえるだろう。
あ、そういえば今年は5月に「読書日記087」で『キリスト教で見るもう一つのアメリカ』(石黒マリーローズ、日経プレミアシリーズ)という本も読んだなあ。やっぱり「キリスト教」についても考えないと「現代」は、ちゃんとわからないのかもしれない。
「ミヤネ屋」スタッフからの質問です。
「『ピンポン球の中にパチンコ玉を入れた』という言葉を、テロップとナレーションで使いたいのですが、(ナレーションは発音だけなので両方「ダマ」と読むとして)テロップの表記はどちらが正しいのでしょうか?
⇒ピンポン球 or ピンポン玉
⇒パチンコ球 or パチンコ玉
それぞれの『ダマ』の字で正しいのはどちらでしょうか?」
これに対しては、こう答えました。
「おそらく、
『ピンポン球(だま)』(=ルビを振る)
『パチンコ玉』
でしょうね。『ピンポン』の方は『球技』の『ボール』ですから単なる形の『玉』よりも『球』を使った方がいいでしょう、『ピンキュウ(球)』とも俗に言いますし。
一方の『パチンコのたま』は、球技の『ボール』ではなくその形状から『玉』ですので、そのままで。また、『球』を『たま』(あるいは「だま」)と読ませるのは『表外訓』なのでルビが必要です。」
ということで、一件落着!
7月25日の「情報ライブ ミヤネ屋」で、エイミー・ワインハウスさん(27)が亡くなったというニュースをお伝えしました。
その際に、エイミーさんは、「27歳」で亡くなった偉大なミュージシャンとして、
「ジミヘン」
こと
「ジミ・ヘンドリックス」
を尊敬していたという内容がありました。その「ジミヘン」の名前の表記について、
「ジミー」と伸ばすのか、伸ばさないか?「リクス」か「リックス」か?「・」が入るのか、入らないか?
など、いろんなパターンが考えられました。どれが正しいのか?
そこで、インターネット検索(Google)の件数で多いものを採りました。(7月25日検索)
<「・」が入る>
ジミ・ヘンドリックス =98万5000件
ジミ・ヘンドリクス =10万8000件
ジミー・ヘンドリックス= 6万5300件
ジミー・ヘンドリクス = 7850件
<「・」が入らない>
ジミヘンドリックス =98万4000件
ジミヘンドリクス =10万7000件
ジミーヘンドリックス= 6万5200件
ジミーヘンドリクス = 7840件
ということで、「・」が入るか入らないかにかかわらず、一番多いのは「ジミ」と伸ばさず、後半は「リックス」と小さい「ッ」が入る表記でした。放送では、一番数が多かった、
「ジミ・ヘンドリックス」
にしました。
ちなみに英語表記では、
「Jimi Hendrix」
でした。「Jimmy」ではなかったのですね。なお本名は、
「ジェームズ・マーシャル・ ヘンドリックス(James Marshall Hendrix)」
でした。日本では「ジミヘン」ですけどね。
翌日、7月26日の読売新聞朝刊の、エイミー・ワインハウスの追悼記事で、音楽評論家・大友博氏は、
「ジミ・ヘンドリックス」
と書いて(表記して)いました。
拙著『最新!平成ことば事情』(ぎょうせい)出版のお知らせメールを送ったところ、たいこめ仲間のOさんからメールが来ました。その中で、昨年7月に東京・銀座で開かれた「たいこめ15周年の会」で出た様々な議論について教えてくれました。議論の中に、こういうものがあったそうです。
「『真逆』という言葉はおかしい。正しくは『正反対』。でも、うっかりするとわたし自身も『真逆』を使ってしまっていそう。先日、大半大学免疫系医学の先生も『真逆』と言っておられた。」
そうですね。わりと「真逆」と言う言葉は耳にしますね。私は使いませんが。これは「若者言葉」の一種ではないでしょうか。
今年3月に、私も所属している日本新聞協会の新聞用語懇談会 放送分科会が出した『放送で気になる言葉2011』の中にも、
『「正反対」の意味で近年よく使われるようになった。「真」という言葉には「真冬」「真上」のように次に来る言葉を強調する働きがあり、「逆」の強調表現として「真逆」と誤用されたようだ。若い世代には抵抗感なく使っている人も多いが、業界用語から転用された新しい言葉であり、一般には使わないほうがよい。「正反対」「180度違う」等の表現が望ましい。』
と新たに採用されて、注意喚起している言葉です。
『広辞苑』『明鏡国語辞典』『デジタル大辞泉』『精選版日本国語大辞典』には「真逆」は載っていませんが、新しい言葉をいち早く載せることで知られる『三省堂国語辞典・第6版』(2008年1月刊)では「真逆」を見出し語として載せています。
「真逆」=(俗)まったくの逆。正反対。(例)「自分とは真逆の性格」
「俗語」の扱いです。用例に出ている文章についてですが、この辞書の編纂に当たった早稲田大学非常勤講師の飯間浩明さんは、「真逆」という言葉を何の気なしに使う人たちとは「真逆」の日本語感覚をお持ちではないかなと推測します。
あ、冒頭の「たいこめ仲間」の「たいこめ」について、説明していませんでしたね。
「回文」というのをご存じでしょう。
「たけやぶやけた(竹薮焼けた)」「わたしまけましたわ(私負けましたわ)」
のように、「上から読んでも下から読んでも同じ文章になるもの」です。この回文の仲間が「たいこめ」です。これは「上から読んだものと下から読んだものが別の文」になっていて、「しかも呼応しているもの」を指します。名前の由来は、
「タイ釣り舟にコメを洗う」
という文章です。さかさまから読むと・・・ちょっとエッチな文章になります。
1994年に『週刊文春』誌上に読者投稿による「たいこめ」コーナーがあり、私も一度だけ、掲載されたことがあったのですが、その雑誌の連載終了後、その時の「たいこめマスター(読者投稿の選者)」だった、某大手広告代理店のコピーライターのO氏を中心に、雑誌に掲載されたことがある人達で創作活動を続けようということになったのです。名づけて「たいこめの会」。会員は約40人で、事務局長は某大手メーカーの人事部長さん(当時)。会員には、名門進学高校の教師からカメラマン、地方議会の速記者、主婦、新幹線の車内販売の売り子さんなど、ひと癖もふた癖もありそうな面々が揃っています。毎月、皆が3作品ずつ事務局に郵送で(!!)投稿して、その作品(無記名)に皆が5票、投票する。得票の多いものから順にランキングが発表されるものでした。今だったら「メール」あるいは「ツイッター」でしょうか。SNSでサイトというか掲示板というか、そういったものを使ってやっているでしょうね、きっと。
当時の優秀作(私の独断と偏見で)としては、
*「どれ、携帯電話か・・・」=「買わんでいたいけれど・・・」
*「お、済まないな、カツオ!」=「おっかないな、マスオ」(岡田直也氏)
*「よし、行こっと」=「どっこいしょ」(石原正雄氏)
*「時計、朝、鳴るね」=「寝るな!さあ行け!と」(金子厚典氏)
*「そう、流れ星に願いを」=「おい、かねにしぼれ。かなうぞ」(加藤穣氏)
*「適材適所」=「ヨシ、来て!イザ、来て!」(阿奈井文彦氏)
*「内閣改造」=「ウソ!威嚇かいな」(拙作)
といったもののほか、タイトルを付けて状況設定したものもあります。
(背中の子どもが指をさし)「柿、赤トンボ、パパ!」=「はは、ほんとか、秋か・・・」(石原正雄氏)
中には、片方の文だけで273文字という長大なものもありました。残念ながら、長過ぎて、また「下ネタ」過ぎるため、品位あるこのページには載せられないのですが。
この「たいこめ」に夢中になっていた頃は、街で看板などの文字を見ても、すべてさかさまから読むクセがついてしまいました。あまりに熱中したので「これは、いかん」と、ひと月のうち「たいこめ」に取り組むのは「1日だけ」と自己規制をかけたこともありまあした。しかし、会員にとっても、やはり毎月毎月コンスタントに作品を作るのは難しい上、事務局長の本業が忙しくなったこともあり、この会の活動は2001年12月、6年半の歴史を閉じました。時々、OB会のお知らせが「ハガキで」届きます。
『先送りできない日本~"第二の焼け跡"からの再出発』(池上彰、角川oneテーマ21:2011、5、10)
5月に出た本だが、第1章から第5章まで、つまりこの本の大半は、3月11日の震災以前に既に書かれていたのではないか。それに「まえがき」と「第6章」の一部を付け足して書いたような感じです。ということは、「震災後の日本」がどうすべきではなく、「震災前の日本」がどうすべきかを主に書いてある。それに「震災」という、さらなる課題が積み重なったのです。「震災前」でも「先送りできなかった」のに、震災でもう一刻の猶予もならない、再出発を切るのはいまだ!と大きな決断を迫っています。しかしこの本が出てから3か月近く、いまだに大きな判断ができずにいるように思えます。いや、「脱原発」など大きな「発言」はしましたが、それを国民に納得のいくような「説明・裏づけ・行動」を取っていない。言うだけ言って、ほったらかし。そんな印象があります。それでは「決断をした」とはいえない。ジリジリと後退を続けているだけに見えます。
世界の流れの中でどう生き残り復興を果たすか、大きな視野で考え、発言し、行動すべきでしょう。
『<麻薬>のすべて』(船山信次、講談社現代新書:2011、3、20)
ちょうど東日本大震災が起きた頃に読み出して、中断して、ようやく読み終えた。
「麻薬」など、普段関わりのない私たちは、ニュース報道の現場で「麻薬」やら「大麻」やら、ややこしそうなものの「情報」に触れる。しかし、実になんとも、これらはややこしく分かりにくい。なんとなくイメージでしか捉えていなかったものを「頭で」理解しようと、この本を読んだのだが、やはり、ややこしい。いや、これまでに法律でのとらえ方も歴史の中で変わってきていて、画然と線引きができてはいないように見える。その名残が、よけいにややこしさを増幅させているようである。
この本の「はじめに」で触れている言葉に目が止まった。
「ものをこわがらな過ぎたり、こわがり過ぎたりするのはやさしいが、正当にこわがることはなかなかむつかしいことだと思われた。」
という『寺田寅彦随筆集 第五巻』(小宮豊隆編、岩波文庫)の中にある、浅間山の噴火に際して寺田が書いた随筆「小爆発二件」の中の言葉。これを著者は、
「麻薬にも同じことが言えると思う」
ということで引用している。私は、現在の「福島第一原発」の「放射性物質」などの「放射能」に関してこのことを思ったのだが、人間「よく知らないこと」については不安に思うものだということ、またそういったものは、えてして「ややこしいもの」であることもよくわかった気がする。
『「患者様」が医療を壊す』(岩田健太郎、新潮選書:2011、1、25初版・2011、5、20第5版)
著者は1971年生まれとまだ若いが、アメリカ・中国の病院での勤務経験も持つベテラン医師。かなり「挑戦的」なタイトルに引かれて買ったが、売れているようだ。出版から4か月で5刷。「新潮選書」という「固い」本だが、中身の文体は思いのほか「軟らかい」。つまり、読みやすい。「です」「ます」調の語りかけ口調の文章が、なじみやすい。
本書は1~3章で構成されており、シンプル。3章はいわば「まとめ」にあたるので、実質「2章」だと思っていい。そして親しみを持って「フムフム」と読めるのは「第1章」。「言葉は大事」と言いながら「言葉なんてコミュニケーションの道具にすぎない」とすぐそのあとに書いたりして「どっちやねん!」と言いたい部分もあるが、つまりはその両方が「本当」ということなんだろう。ちょっと「軽い」ので、「どうかな・・・」と思う部分もあるが、総じて読みやすく、「医療」「治療」のためには「患者様」という呼び名で示すような「サービス業」ではダメなのだ、患者と医師が協力して"対等"であらねばならぬという主張が透けて見えてきた。(☆4つ)
『いつだって大変な時代』(堀井憲一郎、講談社現代新書:2011、7、20)
著者は『週刊文春』のコラム「ずんずん調査」で知られるが、この講談社現代新書でも、もう5冊目になる。落語関係の著作も多いが、今回は「生き方」の本。講談社現代新書の「メールマガジン」に2010年9月から2011年4月まで連載していたものをまとめたもの、だそうだ。
ということで、「東日本大震災」については「まえがき」と「第7章」「第8章」「終章」で触れている。少し、世の中の見方とは違った角度からの指摘には「なるほど」と思う部分もある。「記憶は上塗りされる」というのは養老先生の話と重なる。また、「東日本大震災」の起きる前に書かれた「第6章」の「無縁社会はみんなの努力の結果である」には、「たしかにそうだ。都市化を進め、核家族を進めてきた人たちが、そろそろ寿命になってきたのだから、当然の帰結として"無縁化"する」と感じた。つまり何事も"中庸""ほどほど"が良いのだ。その"バランス"がいかに難しいかという話かな。「科学だって妄想に過ぎない」という「第2章」も、「そうだ、そうだ」と思った。
『女子アナ以前~あのころのわたしと、いま考えていること。』(小島慶子,大和書房:2011、8、5)
あまり・・・というか全然、小島慶子アナウンサーという人を知らない。名前だけしか知らない。ただ小林信彦がコラムで褒めているのを何度か読んだので、知っているだけである。それでちょっと興味を持っていたら、本屋さんでこの本を見かけたので買った。
書かれている内容は、ほぼ共通して同感だが...それを書いてしまい、しかもそれを売ってしまうと、ちょっとなあ...という感じです。「扱いにくい」人なんでしょうね、きっと。そこが魅力か?
最後まで読んだら、これは「書き下ろし」ではなく「語りおろし」=自分で書いてないことが判明!「あとがき」を読むまでそれが分からないから、「☆半分」減点です。
うちのアナウンス部文庫にでも寄贈して、"女子アナ"たちに読んでもらおうかな。どんな感想を持つでしょうかね?
『復興の精神』(養老孟司・茂木健一郎・山内昌之・南直哉(じきさい)・大井玄・橋本治・瀬戸内寂聴・曽野綾子・阿川弘之、新潮新書:2011、6、10)
帯によると「『これから』をどう考えるか~3・11以降を生きる杖」とあり、養老孟司・茂木健一郎・山内昌之・南直哉(じきさい)・大井玄・橋本治・瀬戸内寂聴・曽野綾子・阿川弘之の9人の文章が載っている。各人の文章の「タイトル」を「目次」から写すと、全体像が分かると思う。
養老孟司=「精神の復興需要が起きる」
茂木健一郎=「変化への希望」
山内昌之=「公欲のために私欲を捨てよう~『災後』の歴史認識』
南直哉(じきさい)=「無力者の視線」
大井玄=「プロメテウスのように」
橋本治=「無用な不安はお捨てなさい」
瀬戸内寂聴=「無常――どん底は続かない」
曽野綾子=「いきてるといいね」
阿川弘之=「大丈夫、必ず復興しますよ」
この中で一番心を打たれたのは、曽野綾子さんの「いきてるといいね」のエピソードである。大井玄さんの「プロメテウスのように」は、「原発」を「太陽を盗んだプロメテウス」に喩える話かと思ったら、全然違った。南直哉さんは「なおや」じゃなくて「じきさい」さんだったのね。思っていた人とは別人でした。
『パイプのけむり選集・話』(團伊玖磨、小学館文庫:2011、6、12)
あの「パイプのけむり」の「選集」が、文庫でこの6月に出た!「解説」は、オペラ歌手で團と親交のあった佐藤しのぶさんが「マエストロDANの思い出」として書いているが、これだけでもこの本を読む値打ちあり!團は、戦災で焼け野原になった東京を「花の街」の曲で歌われたような花でいっぱいの街に復興するのだと、あの名曲が生まれた背景・思いを佐藤に語ってくれたという。佐藤は記す、
「2011年の日本を見たら先生はなんとおっしゃるだろう・・・」と。
コラムの中に、その名もズバリ「地震」がある。團は別荘・・・というか書斎を、なんと八丈島に持っていた。本土から遠く離れたその八丈での地震の話など、興味深い話が多い。ただ、そのエッセイが「いつ書かれたか」が記されていないのは大変残念。時代背景は類推するしかない。1964年から2001年の「アサヒグラフ」と巻末に記されているだけで、「そりゃない」よと思った。
今までも官僚の告発本はいろいろあったが、これまでの人は"変り者"で、あきらかに組織になじまない人が多かったように思う。しかしこの本の著者は、ちょっと違う気がする。
この本は、「あとがき」の「あとがき」がある。「あとがきを書き終えたあとで」として、校了の3日前の2011年6月24日に、経産省の松永和夫事務次官から退職勧告を受けたと。期日は2011年7月16日だと。もう過ぎてるやん!どうなったんだろ?
そうこうしていたら、8月4日の午前10時のニュースで、海江田大臣が松永事務次官ら3人を更迭すると発表!事務次官側が、斬ったつもりが斬られたか!?
「国のため」を思うのがあるべき姿なのに、「省のため」と矮小化してしまうところに官僚の問題点があるとバッサリ。原発の問題も、監督官庁が原発推進の省内にあるのはおかしいと、これも正論。海江田大臣は、古賀さんの主張と同じ方向に舵を切っているように見える。
宣伝です!
私自身4年ぶり、3冊目の著書、
~抱腹舌好調!現役アナの日本語教室』
【ぎょうせい・1500円(税込み)】
が、この8月5日頃には、大きな書店に並ぶと思います。部数の関係で(初版3000部)、小さな書店には残念ながら並ばないかと思います。「本屋にないよ」という場合には、お手数ですが「アマゾン」などのネットでお捜しの上、お買い求めください。
内容は・・・タイトルが表すとおり、この「平成ことば事情」の連載から、最近1年ぐらいのものを抜粋し、読みやすいように分類して「章分け」しています。自分で言うのもなんですが「おもしろい!」と思います。
ネットでは「横書き」の本稿も、「縦書き」だと本当に「本」らしく読みやすい!と思います。表紙も素敵です。(自分で言うか!でも、本当です。)
どうぞよろしくお願い致します!
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