新・読書日記 2011_045
『流言とデマの社会学』(廣井脩、文春新書:2001、8、20)
「流言蜚語は、報道の形式を取った世論である。」
この本で著者はこう論じている。
10年も前(「9・11」よりも前!)に出た本だが、それまでもそのあとも、何かことが起こるたびに「流言蜚語」は繰り返されているのだ。今回の震災でも新しいメディであるインターネットやフェイスブック、ツイッター、ケータイメールなどで「デマ」が飛び交い、注意を促す"報道"もなされた。
一般的には「デマ」は悪意を持って意図的に流されるもの、「流言」は不安などが原因で、悪意の有無にかかわらず(ある場合は「善意」でもって)流される「事実ではない情報」である。そしてそれらはたしかに「報道の形」をとって、「一般の報道機関ではないところ」から伝わる。その「情報伝達メディア」として一番信用を置かれるのが「知人などの"口コミ"」である。
私が阪神大震災のあの朝、泊まり明け勤務でニュースを読む際に一番に心がけたのは、
「関東大震災での朝鮮人虐殺に繋がったデマのような情報は、決して流すまい」
ということだった。つまり、
「速報よりも、信頼性に重きを置く」
という姿勢だった。
また、
「紙の不足・統制は『言論統制』に繋がっていく」
という指摘は「そうなのか!」と思った。今、東北にあった製紙会社やインキ会社が被災して、「印刷物」が不足気味だと新聞で報じていたが、影響はないか?もっとも、現代においての「紙」は、「ネット」であり「テレビ」であるとは思うのだが・・・。
こんなときだからこそ、冷静に情報の取捨選択をする「メディア・リテラシー」を発揮しなくてはならない、と思う。
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