4月19日の読売新聞の言葉についてのミニコラム「日本語日めくり」では、
「この際」
という言葉を取り上げていました。
「何か特別な事態が生じ、それにどう向き合うかを述べるには『この際』がふさわしい」
ということのあとに、実はこの言葉、関東大震災の後にはやったということが、ジャーナリスト・宮武外骨の言葉を引いて説明されています。
実は私も2007年に出した拙著『スープのさめない距離~辞書に載らない言い回し56』(小学館)の中で、
「この際だから」
という言葉を取り上げています。宮武外骨の言葉は引いていませんが、それ以外の人の言葉を引いて「この際だから」が関東大震災の後に流行ったということを記しています。
どう書いてあるかは拙著をお読みいただくとして・・・と言っても、せっかく取り上げたのですから、ちょっとピックアップしましょう。紙面の都合で省いたものも入れて、こんな記述があったということで、ダイジェスト版で(ダイジェストの方が、本より長かったりして)
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1923年(大正12年)9月1日に発生した関東大震災。死者9万9331人、行方不明者4万3476人、家屋全壊12万8266戸、半壊12万6233戸、消失44万7128戸、流失868戸。東京では全戸数の70%、横浜では60%が焼失した。
この災害後、被災者が復興を目指した時に、
「この際だから、これまでの生活のあり方を見直そう」
という運動があり、この「この際だから」が合言葉、流行語となった。
戸板孝二『いろはかるた随筆』(丸ノ内出版、1972=昭和47年)では「大正震災かるた」を取り上げている。これは震災から4か月後の1924(大正13)年の正月に売り出されたもので、文章は月の屋案とあり、月の屋という雅号の文人が考えたのだろうが、取り札は川端龍子(かわばた・りゅうし)が描いていて木版のきわめて格調高いものだという。その「こ」の札は、
「此際といふ新熟語」
として、当時「この際」という合言葉があったことを示している。戸板は「こういう時だからこそという意味で、すべてを略式にし、贅沢を戒める挨拶があったわけだ。」と注釈をつけている。この「震災かるた」については、雑誌『太陽』(平凡社)の1974(昭和49)年5月号「特集・大正時代」での特集座談会「大正よもやま話」では、随筆家の渋沢秀雄(1892=明治25年生まれ)、詩人の藤浦洸(1898=明治31年生まれ)、画家の益田義信(1905=明治38年生まれ)の3人が鼎談している中で、渋沢がこう触れている。
「地震の話になりますけれども、震災後、子どもが小学生だったんで、『震災カルタ』というカルタを取ったんです。絵は川端龍子先生が描いているんです。その中で一番印象が深いのは、奥さんが山高と中折を持っている。そして亭主の手が中折れを持っている。それで文句が『この際という新熟語』。震災があってから、すべて略式にしたんですよ、この際ですから、ということで。地震を契機として、すべてフォーマルなことが非常に簡略になったんですね。」
添田唖蝉坊『浅草底流記』(1930)の「仲見世の沿革」には、
「十九年竣工の赤煉瓦が、大正大震災に際して、西側大増寄り八戸を残して焼け落ちた。仲見世の一同は、九月四日、直ちに焼跡に仮建築をして営業に取りかかるべく申し合わせ、
(略)改築許可を乞ふと、市長は『この際』であるから指令を下すこともできぬから黙認するといふことになって、十一月にバラック出来(しゅったい)、営業を開始した。」
と使われ、奥野信太郎の『随筆東京』(1951)の中の「バラックと日本人」というエッセイで、奥野は、社会の習俗やものの考え方に大きな変革をもたらした災厄について、自らの経験の中からは関東大震災と戦災の二つを挙げることが出来ると述べて、
「わたくしの記憶しているところを一二拾つてみるならば、地震といふ一瞬の椿事で一切の社会的な差別がはづされてみると人々は急に一種の謙遜なこころをもつて事にあたるといふふうであつたので、たとへば一流花街の名妓たちもそれぞれ葦簀つぱりで、かひがひしくすいとん、しるこの類をつくつてみづから路傍の客に供し、誰しも会ひさへすれば合言葉のやうに『この際』といふ言葉をさしはさんで必ず平素の無音を謝したり、あるひはまた借金のいひわけをいつたりしたものであつた」
と流行を伝えている。(米川明彦『明治・大正・昭和の新語・流行語辞典』三省堂、2002=平成14年)
鶴見俊輔ほかによる『日本の百年5~震災にゆらぐ』(筑摩書房、1962=昭和37年)には、東京市役所と万朝報社共編による『十一時五十八分』(1924=昭和元年)の中の「東京市日本橋高等小学校調査」での項目「震災でおぼえた言葉」として、「戒厳令、救護班、自警団、配給品、暴利取締、罹災民、避難民」などと並んで「この際!」が挙げられている。そのほかに「おぼえた言葉」としては、「流言蜚語、仮建築、すいとん、恩賜金、帝都復興、バラック、焦土の都、アーケード、やっつけろ、不逞鮮人、巡回病院、マーケット、九死一生」などが上げられており、こういったキーワードを見るだけで、関東大震災後の様子をうかがい知ることが出来る。
また、関東大震災からわずか2年半後の1925(昭和2)年12月、財界人・原三溪(富太郎)らの力によって横浜に誕生した横浜の「ホテルニューグランド」にやってきたスイス人コック、サリー・ワイルは、「ここは、やり甲斐がある」と約20年間その厨房に立ち続け、総料理長として皇族を含めた多くのグルメを唸らせた。それまでコース料理しかなく堅苦しかった「日本のフランス料理」に「アラカルト」(一品料理)を持ち込んだり、ドレス・コードを緩めることでフランス料理を親しみやすいものにしたのは、ひとえにワイルの功績である。「ホテルニューグランド」からは多くの料理人が育ち、彼らがワイル仕込みの味とメニューを全国各地のホテルやレストランに広めたことで、日本の西洋料理界は飛躍的な進歩を遂げたといわれる。サイトの『横浜ホテルニューグランド 初代総料理長 S・ワイル』で、神山典士は、
「この時代、横浜では『この際だから』という言葉が流行ったという。震災をバネにより新しい事にチャレンジしようという市民の気概を示す言葉だ。ワイルもまた『この際だから』呼ばれた料理人だった。」と記している。(『有鄰』平成17年12月10日第457号)
(http://www.yurindo.co.jp/yurin/back/yurin_457/yurin4.html)
また、神山はその著『初代総料理長サリー・ワイル』(講談社、2005)の中で、当初ホテルの名前の有力候補に「フェニックスホテル」という名前があったのだが、それに対して、ホテル経営会社設立委員長で初代会長(社長)に就いた井坂孝が委員会で、
「フェニックス(不死鳥)という名前の会社はみな駄目になっていて縁起が悪い。このさい、ホテルニューグランドではどうか。」
と発言したと記しており、ここでも「このさい」が出て来る。これは『ホテル・ニューグランド50年史』(白土秀次)にも出てくる記述だ。『50年史』にはさらに、関東大震災からの復興を司る「復興院」設立の1か月後に作られた、最初の復興計画案について、
「復興事業立案の目的を『このさいは帝都将来の発達に備うるの計画を基準として、まづ焼失地域における復興を図る』ことにおき」
と出てくる。ワイル来日から80年余り。「この際だから」という言葉が、もしかすると日本における西洋料理普及の大きな原動力になったのかもしれない。
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ということで、今まさに「この際だから」という言葉が口を突いて出てくるような状況にあります。失ったものは大きいですし、二度と取り返すことのできない数々のものがあります。しかしその一方で、「この際だから」生まれる"新しいもの"もあるはずです。
(2011、4、19)