新・読書日記 2010_159
『愛のスパルタ料理塾~定番レシピにひと工夫でこんなにおいしい』(林裕人、ソフトバンククリエイティブ、:2010、9、7第1刷)
『情報ライブ ミヤネ屋』の中の、お料理の林先生の人気コーナーが「本」になりました!
カラー写真が多くかつコンパクトにまとまっていて、「料理を作りたい!」という気にさせる一冊です。和洋中から30種類のレシピが載っています!是非!
(宣伝も兼ねて☆5つ!)
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『神の雫25』(作・亜樹直、画・オキモト・シュウ、講談社モーニングKC:2010、8、23)
ご存じ(かな?)、ワイン漫画の第25巻。こう暑いと"文字の本"を読みたくなくなるのか、このところよく"絵の本=漫画"を読んでいる気がする。これは最新刊が出たので、すかさず・・・ということで。ちょうどタイミングよく、題材はスパークリング・ワイン。夏向きではないですか。
しかし、25巻発売のことやその内容に関して「中1の息子」から教えられたということは、一体全体どういうことか。まだアルコールは飲めないくせに(当然だ!)、ワイングラスを持ってにおいをかぎ、主人公のライバルのマネをして「オオオーッ」などと言って笑っている中学生というのは、いかがなものか、と思うのである。
なかなか最新刊が出ないから、前の巻(24巻)の内容忘れてしまったので、25巻の冒頭は唐突な気がした・・・のは私だけ?
なかで、実際のビール会社の合併話なども題材に取り込んだりして、時事的でもあるワインマンガである。いやあ、ワインはいいですね。最近は暑いので「白」を飲んでいます。
『ねじ式』(つげ義春、小学館文庫:1995、1、10第1刷・2009、9、20第34刷)
マンガです。
「無能の人」を読んで以来20年近く探していた「ねじ式」を、文庫本で発見!「ねじ式」は、こんな短篇だったのか・・・。奇妙な物語。元メッキ工だった、つげの自伝的な作品も。伊豆の温泉宿の話が気に入った。いまから42年ほど前の作品。解説で佐野史郎が書いているように、たしかに線やタッチが、水木しげるや白土三平に似ている。
それにしても1995年に「文庫」で出てから去年までで34刷・・・根強いファンがいるようです。文庫版のマンガは、老眼が始まった私には、ちょとキツイのですが・・・。
『米中逆転~なぜ世界は多極化するのか?』(田中宇、角川Oneテーマ21:2010、6、10)
難しいテーマ。著者の田中宇(さかい)さんは、面識はないが同い年。繊維メーカー勤務を経て共同通信社。その後マイクロソフト社で「MSNジャーナル」を立ち上げた。フリーになって、「タリバン」「イラク」「アメリカ以後」などなどの著作があり、何冊かは読んだことがあるが、「深く詳しく取材をしているな」という印象で、大変勉強になった。
この本は、ちょうど夏休みでドバイに行っている最中に読んだ。
「米中逆転」は、今までの「パックス・アメリカーナ」の盟主であるアメリカが、単純に中国にその座を明け渡すという形ではなく、今後の世界は、アメリカの「一国リーダー主義」的な形から、中国などを中心とした「多極的な指導体制」への変化にあるのだという主張。その端的な萌芽は、リーマン・ショック後の世界経済の主導権が、英米主導の「G8」から、多くの新興国・発展途上国が参加した「G20」に移ったことに象徴されると。そうか「G8」→「G20」への変化は参加国が増えたということだけでなく、もっと「質的な変化」の象徴だったのか!と「芽からウロコ」状態であった。(ちょっと冒頭部分だけ読むと「トンデモ本」というか、「陰謀説」風の本に見えるが、そうではないと思う)
また、中国は全世界を支配しようというハラはなく、せいぜい「アジアの盟主」であろう。アメリカはこれまでの全世界から「南北アメリカ大陸の覇者」という「地域盟主」になり、ヨーロッパは「EU」。それぞれがある意味"分担して"世界を統治すると。その中で日本は「対米従属」から、アジアにおいての盟主・中国のもとで、いかにポジションを確保するかということを考えなくてはならない。民主党・小沢前幹事長の訪中や、鳩山前総理の外交政策は、その意味で一貫して「アメリカ→中国」へ軸足を移す世界の動向に合ったものであり、沖縄の米軍基地・普天間飛行場の問題も、そういった視点で考えていかなくてはならない。当然、日米安保条約のあり方も考え直す必要がある、というように、巨視的な世界の動きの中での日本のあり方について触れた一冊。
「へえー」という箇所のページを折り曲げていたら、本の上半分が膨れ上がってしまった。
そして、ドバイ。関西空港からドバイへの直行便を運航しているエミレーツ航空の機内から、なんだか「近未来」的な感じが。座席前の「TVモニター」は、昔より随分大きなもので、しかも「タッチパネル」での操作で、何百種類もの映画や飛行機の運航状況、音楽等を好きなように選択でき、しかも映画も自分の好きなタイミングで見られるし見直せる、まさにオン・ディマンド。「ホォー」と思わせるものであった。これは世の中「i―Pad」になるわな、と。つまり「変化」ということを感じさせてくれたのです。
またこの本は、アジアにおけるFTA(自由貿易協定)の持つ意味や、中国のコンクリート生産調整の話(新規施設への投資に融資を認めないこと)などについても書かれていた。日経新聞を注意深く読んでいたら載っている情報なのであろうが、「俯瞰」して情報を見つめ、それを「総合」する作業が無ければ、気にも留めない記事だろう。この本を読み終わった後に中国がコンクリート生産への新規融資(新規設備への投資)をさせないだけでなく、現在の設備による生産調整に入ったという記事が、日経1面の真ん中あたりに(それほど大きくはなく)載っていたのを見た。「アッ」と思った。大きな経済の動きは、普段は気に留めないような具体的な小さな(?)出来事から始まるとするならば、この動きは今後に影響を及ぼすのではないか?などと考えてしまった。
21世紀になって10年、これまでの(20世紀の)あり方を、否応なく見直さなくてはならない大きな転換点に立っていることを、改めて考えさせられた一冊でした。
東京・足立区で、戸籍上は生きているはずの「111歳」の男性が死亡していた問題で、その男性の年金を詐取した疑いで、警視庁は男性の長女と孫娘を逮捕する方針を固めたと、8月27日のテレビニュースで報じていました。その際に使われた、
「孫娘」
という言葉に関して、報道のNさんが疑問を投げかけました。
「『孫娘』とは言うけど、『孫息子』とは言わんなあ」
たしかに。辞書(『広辞苑』『明鏡国語辞典』『精選版日本国語大辞典)を引いていても、「孫娘」は載っていますが「孫息子」は載っていません。
なんでだろう?と考えました。
やはり、こうではないでしょうか?
「昔の家族制度(家系)の下では『孫』と言えばすなわち『男』であり、その例外である孫に関して、新しい言葉が作られた。それが『孫娘』ではないか?」
たとえば、男性がするに決まっている(と社会的に認知されている)職業に関して、もし女性がやっていたら、その職業名に「女」を付けて、
「女弁護士」「女社長」「女医」「女教師」「婦人警官」「女店員」
のように呼んできた経緯があります。「孫娘」は、それと同じなのではないかなあと思います。これまでが「男性社会」であったこと、そして性別と社会における役割、仕事の変化と言うものを感じます。「孫」というのも「社会的役割」を持たされたものだったのかもしれませんね。
その意味では「女性」が社会的に力をつけてきた昨今、これまでだったら単に、
「草食系」
としか呼ばなかった"であろう"ものを、
「草食系男子」
と「男子」を付けたこと(命名者はおそらく女性でしょう)や、自分たちのことを指して(年齢は度外視して)、
「女子飲み」「女子会」「女子力」
など自ら「女子」と名乗る動きは、「男女同権」を通り越して「女性優位」の社会への変化を示しているのかもしれません。Google検索(8月27日)では、
「孫娘」 =214万0000件
「孫息子」= 5万9800件
でした。ネット上では既に『孫息子』使われています。また辞書では、新しい言葉を早く採用することで知られる『三省堂国語辞典』(第6版)が、「孫娘」と並んで「孫息子」を見出しで採用していました。
「孫息子」=孫に当たる、男の子。
「平成ことば事情4126」で書いた「ブーツイン」について実態聞き取り調査をすべく、「ミヤネ屋」の女性スタッフを中心に話を聞いたところ、やはり20代~30代の女性は、普通に「ブーツイン」という言葉を使うということが分かりました。
「女性ファッション誌で見たのが最初ではないか」
という意見もあって、ファッション用語ですね。当然。
また、ズボンの中にシャツのすそを入れることを、
「シャツイン」
「インする」
というような言い方もしているようです。ここで疑問が!
英語の考え方で言うと、「ブーツ」の中に「ジーンズ(=足)」を入れるのであれば、
「ジーンズ・イン・ブーツ」
で、略したら、
「イン・ブーツ」
なのではないか?ということ。例えば「ダンキンドーナツ」の「ダンキン」は、
「ダンクイン」
ですが、これは、
「ドーナツの中に入れる」
のではなく、
「ドーナツを(コーヒーなどの液体の中に)入れる(浸す)」
んですよね。それと同じ考え方です。
それと話をしている中で出てきたのが、なぜブーツの中に入れられるか?という根本的な話で、これは、
「とても細身のズボンが登場したから」
で、そのズボンの名前は、
「スキニー」
というそうです。「スキニー」とは、
「skinny」=やせこけた、骨と皮の
という形容詞で、スリムジーンズをさらにぴったりした感じのものを、
「スキニーデニム」
というそうです。あ、そうか「スキン=皮」ですね。「スキムミルク」なら知ってましたが。
「スキニールック」
などとも言うそうです。一応、Google検索すると(8月26日)、
「スキニー」 =1840万0000件
「スキニーデニム」= 117万000件
「シャツイン」 = 2万7900件
「インする」 = 55万5000件
「シャツをインする」= 5万7900件
「インブーツ」= 7万8200件
でした。「スキニー」がこんなに使われているとは知りませんでした。
あ、そうだ、『現代用語の基礎知識2010年版』を引いたら、
「スキニー(skinny)」=フフのようにぴっちりとした衣服やシルエット。「骨と皮の」の意。
と載っていました。
会社で8月25日放送の「かんさい情報ネットten」を見ていたら、最新鋭のジーンズを作るデザイナーの男の人の特集をしていました。ダメージ・ジーンズって言うんですか、新しいのに「使い古し感」を出すために、ストーン・ウォッシュにしたりする、ああいうジーンズです。
それを買いに来たお客さん(女性)にインタビューを聞いていたら、
「いいんじゃないですか。ブーツインもしやすいし」
と言っていました。ふーん、
「ブーツイン」
って・・・ブーツの中にズボン(ジーンズ)のすそを入れることを言うんでしょうね・・・と近くにいたスタッフの女性に確認すると、
「そうです。」
「普通に使う言葉なの?」
「普通に言います。ブーツインって」
「それは『ズームイン!!』ぐらい普通に使う?」
「『ズームイン!!』より普通に使います』
ということでした。大体、私は「ブーツ」なんて履いたことないし。せいぜい履くのは、
「長靴」
ですから、その場合は、
「長靴イン!」
ということで、特にかっこよくもないし。わざわざ「イン!」って言わなくてもいいし・・・。
世の中、知らないことが、まだまだたくさんあるなあと、49歳を前に思ったわけです。
なおGoogle検索(8月25日)では、
「ブーツイン」=19万4000件
でした。
茨木のり子さんの詩集『対話』から「魂」という詩を読んでいたら、こんな一節が。
「あなたの膝下にひざまずく」
ここで出てきた、
「膝下(しっか)」
という言葉を見て、ハタと膝を打ち叫びました。
「そういうプロトコル(儀礼)か!」
ご説明しましょう。
手紙などに書くお決まりの言葉の中に、
「膝下(しっか)」
「机下(きか)」
といった言葉があります。最近はあまり使われないでしょうから(手紙も書かないし)目にする機会も減りましたし、子どもは使わない「大人の書き言葉」です。
私も言葉としては知っていますが、ほとんど使ったことはありません。せいぜい、
「前略・・・草々」「拝啓・・・敬具」
ぐらいです、使うのは。
その「膝下」は、茨木さんがこの詩で使ったように、
「あなたの膝の下にひざまずきます=従います」
ということを示しているのだと気付いたのです。
それは「握手」が、
「私は武器を持っていませんよ=あなたと戦う意思はありません」
という態度表明の「儀礼」であるのと同じです。手紙に「膝下」と書くのも、それと同じなのだなと、言葉の元の意味に触れて感じたと、そういうわけです。
「平成ことば事情278実家」でも、ちょっとだけ「膝下」に触れていますので、ぜひお読み下さい。
中島みゆきさんの曲は大好きです。
そんな中の一つ、「地上の星」のB面・・・は今はないか、「カップリング曲」である、
「ヘッドライト・テールライト」
例のNHK「プロジェクトX」のエンディング・テーマだった静かな曲です。
『ふたたび、生きて、愛して、考えたこと』(杉原美津子)という本を、このお盆に読みました。1980年に起きた「新宿西口のバス放火事件」で全身の80%に重度の火傷を負った女性が著者です。そんな悲劇の中、生き抜いたのですが、去年「がんの告知」を受けたそうです。(詳しくは「読書日記」をご覧下さい)
この本を読んでいて、BGMとして私の頭の中に流れていた曲が、中島みゆきさんの「ヘッドライト・テールライト」だったのです。あ、同じく中島みゆきさんの「絆」という曲もぴったりです。この2曲で「決まり」です。
そう思っていたら、ふと疑問が。
「曲名は『ヘッドライト・テールライト』だが、普通は『テールライト』ではなく『テールランプ』ではないか?」
たしかに・・・。
ただ、曲名としては「ヘッドライト」の「対」としては、
「テールランプ」
では「脚韻」を踏まないので語呂が悪い。そこで、「ライト」を揃えて、
「テールライト」
にしたのではないか?Google検索では(8月25日)
「テールライト」= 62万6000件
「テールランプ」=1010万0000件
でした。「テールライト」も結構多い。でもその16倍以上「テールランプ」の方が使われていて、なじみがあるのですね。「テールライト」は
「自転車」
では、そう言うようです。
8月12日、報道フロアでお昼のニュースの前に、若い記者が、
「きょうって、もう『お盆』だっけ?」
と、疑問を口にしています。すぐさま私は、
「今日はまだ『お盆』に入ってない!13~16日が『お盆』。13日の夜に『迎え火』をしてご先祖の霊を迎え、16日には、『送り火』をして霊をお見送りするんや。だから『京都の五山で送り火=大文字』をやるやろ。きょうの段階で『お盆休み』に入っている人は、いるでしょうけどね。」
と答えたところ、
「ありがとうございました」
と「礼」を言われました。これは、
「先祖のれい(霊)」
ではなく、
「先輩にれい(礼)」
という「れい(例)」ですね。
つまり、「8月12日」に、
「『お盆に入って』という原稿は間違い」
ですが、
「『お盆休みに入って』はOK」
だということです。
そんなこと言ってる間に、あっという間に今年の「お盆」も「お盆休み」も終わってしまいました。
それにしても、暑いなあ・・・。
2010年8月22日、巨人・朝井秀樹投手が、阪神戦後のインタビューで、
「これからもしびれる試合が続くと思いますが」
と言いました。朝井投手は今年7月28日に交換トレードで「東北楽天」から移籍してきたばかりの投手です。1984年1月1日生まれの26歳、大阪・PL学園高校出身。
このコメントの中の、
「しびれる試合」
の「しびれる」は、
「緊張感のある、緊迫した、息詰まる」
の意味だと思いますが、割と新しい言葉の使い方ではないでしょうか?
少し古い、グループサウンズ世代・・・と言いますから40年ぐらい前に、主に女性の若者言葉として使われた、
「しびれる」「シビレル」
の場合は、
「カッコイイ」「惚れちゃう」「素敵」
というような意味合いでの「しびれる」でしたが、今、スポーツ選手がよく口にする「しびれる」は、意味が違ってきています。
「緊張して手や体が硬直・麻痺するような、そういった緊迫感のある状態」
を指して「しびれる」なのだと思います。プレーヤー(選手)としての言葉です。
もちろん、そういった試合を見た観客は手に汗を握って、
「シビレルー!」
と口にするかもしれませんが、その「シビレル」とは、ちょっとニュアンスが違うように思うのです。
『精選版日本国語大辞典』で「しびれる」を引くと、
「(1)体の全体または一部の感覚がなくなり、運動の自由がきかなくなる。(2)正常な思考能力や感情、気力が麻痺する。激しく感情が高まって酔ったようになる。」
とあります。巨人・朝井投手の「しびれる試合」というのは文字通り(1)の意味もあり、また(2)とは逆に「気力が高まりすぎて麻痺する」状態なのじゃないかなあ。グループサウンズのファンは(2)だと思います。
『日本俗語大辞典』(
「音楽などの強い刺激を受けて非常に興奮する。魅力にとりつかれてうっとりとする。1958年の三橋美智也の節回しに酔いしれる時に「しびれる」と言って、はやった。またグループサウンズがはやった1960年代にもよく使用された。「いかす」と同義。◇『東京新聞』(1962年6月14日朝刊)「『かっこいい』『しびれる』のたぐいはみんな楽隊が作った言葉である」(見坊豪紀『<60年代>言葉のくずかご』から)
グループサウンズよりも前に「三橋美智也」さんがきっかけ、しかも「1958年」と、年代までハッキリしている言葉なのですね、「しびれる」は。そして、明らかに最近のスポーツ選手が言う「しびれる」は、これとはちょっと違う意味で使われていますね。
Google検索(8月25日)では、
「しびれる試合」=5万5400件
でした。
5歳半の娘、いま、文字を書くこと、絵を描くことが楽しくてたまりません。
保育所のお友達に(毎日会っているにも関わらず)お手紙を書いたりしています。
こないだも、紙になにやら書いていました。どれどれと読んでみたら、
「なつはどうしてたの」
あ、やっぱりお手紙か。でも昨日も保育所に行ってる、毎日行ってるのに、
「夏はどうしてたの?」
は何かヘン。そもそも「5歳児」の言葉じゃないな・・・と思いながら、続きの文章を読んでみると、
しいかすきなものいってみよ
すいかかもめめだかかいすいよく
くももくもくくいしんぼう
うなどん※
あ、そうか、これは「歌詞」だ!保育所でよく歌っている「夏の歌」(正式な曲名は知らないのですが)の歌詞で、その最初が、
「夏はどうして楽しいか 好きなもの言ってみよう」
なのです。それが「夏はどうして」の後の「楽しいか」で改行せずに、
「たの」
だけが、1行目に残っちゃったんだね。まだ「文章の区切りで改行して書く」ということは5歳児には無理だもんなあ。
そして「うなどん」の後には、なにやら分からないグチャグチャした文字のようなものが。
「これは、何て字?」
と娘に聞くと、
「つくしの絵」
「なんで、つくしの絵なの?『うなどん』じゃないの?」
と聞いたら、
「好きだから」
わかりやすいがな、「好きだから」。ハイ、わかりました。
それにしても「は」と「わ」の使い分けが、なぜこんな初期の段階からできるのかが、とっても不思議です。
「イカタコウイルス」
と呼ばれる「コンピューター・ウイルス」を作成し、感染したパソコンのファイルを破壊した27歳の男が逮捕されたというニュースが8月4日の新聞各紙に載っていました。
変な名前のウイルスだなあと思いながら新聞を読んでいたら、なぜか「毎日新聞だけ」が、「タコイカウイルス」
になっていました。「タコ」と「イカ」の順番が違います。そもそも「~と呼ばれていた」ということから、「正式名称ではない」ので「どちらでもよい」のでしょうか?
でも、「タコイカ」よりは「イカタコ」の方が言いやすいような気がします。なんで「タコイカ」なんでしょうね?また、なぜ「イカタコ」の方が言いやすいんでしょうか?
「イモタコなんきん」
の影響でしょうか?
母音は「イカタコ」が「いああお」。「タコイカ」は、「あおいあ」。
「イカタコ」は、「カ」「タ」と「あ」の母音が続くので、ややだらしなく楽をして、
「いかーこ」
と言っても、なんとなくわかりますが、「タコイカ」は、一音ずつしっかり言わないとダメだから言いにくい、ということでしょうか?
Google検索(8月25日)では、
「イカタコウイルス」=66万0000件
「タコイカウイルス」=42万3000件
で、「イカタコ」が多いものの、「タコイカ」もかなりの数、ありました。
いずれにしても、そんな人の邪魔するようなウイルス作って何が楽しいのか、よくわかりません・・・。それにしても「パウル君」といい、最近「タコ」に注目が集まっていますね。
「カリスマ主婦モデル」がショーケン(萩原健一)と交際?というニュースが流れたのは8月19日。この「カリスマ主婦モデル」の人は、既に「離婚」していたのだそうです。そこで疑問。
「離婚したら、既に『主婦』ではないのではないか?そして『カリスマ』は『主婦』の形容詞だから、本体の『主婦』でなくなったら、『カリスマ』でもなくなるのではないか?つまり肩書は『モデル』だけではないか?さらに言うなら、それでも『カリスマ主婦』ということが必要ならば、『元』を付けるべきではないか?」
というものです。
これを聞いたある30代の女性は、
「(現在)結婚してないシングルマザーでも、家事など『主婦業』をしていたら、『主婦』なんじゃないですか?結婚していないと『主婦』じゃないんですか?」
と反論。
うっ・・・僕は、
「結婚していなければ『主婦』とは名乗れない」
と思うけど、この女性の主張したいところは分かります。「主婦」は、
(1)結婚している女性の肩書・地位。
(2)(現在結婚しているかどうかは別にして)いわゆる「主婦業」にあたる仕事を行っている人の呼称。
と考えた場合の(2)も主婦だ、ということですね。
40代半ばの男性の後輩のS君に聞いたところ、
「主婦の本来の意味としては、『結婚した女性』のことですよね。で、ことさら、『専業主婦』なんて言うように、『家事を切り盛りする女性』という意味合いを込めていますよね。ただ、『主夫』が登場したり、『シングルマザー』が一般的に認知されるようになると、『シュフ』というのは、主に家事をする男女のことであって、いま現在において結婚しているかどうか、その経歴があるかどうかは、必要十分条件ではないのかもしれませんね。ま、私は保守的思考なのかもしれませんが、道浦さんが指摘された伝統的な使い方に賛成ですが。」
そうだよな。普通、そう考えるよな。(何が「普通」か分かりませんが)
「主婦」を辞書で引くと、
☆『広辞苑』=(1)一家の主人の妻。(2)一家をきりもりしている夫人。女あるじ。
●『明鏡国語辞典』(妻であり)一家の家事を中心になって行っている女性。◎近年、同様の役割を果たす夫を、これをもじって「主夫」ということがある。
☆『精選版日本国語大辞典』=一家の主人の妻。また、一家の主人である女性。女主人。
★『新明解国語辞典』=その一家の中で、家族の世話をし、家事を取り仕切る立場にあるとされる女性。(多く、「主人の妻」がその役を負う」
☆『三省堂国語辞典』=つまであって、家庭の仕事の中心となる人。
★『岩波国語辞典』=一家の主人の妻で、家事をきりもりする人。◎例えば、主婦の死後に娘が家政を受け持っている場合などにも、言うようになった。
★ 『新潮現代国語辞典』=一家の主人の妻。一家の中心として、家庭をきりまわす婦人。
☆『デジタル大辞林』=一家の家事の切り盛りをする女性。
※「主夫」が見出しで載っている辞書=☆
「主夫」が見出しで載っていない辞書=★
「主夫」が見出しには無いが、本文で触れている辞書=●
この中の『精選版日本国語大辞典』で、「主婦」の「語誌」を見てみました。
(1) 明治時代には、中流家庭あるいは商家や下宿で、家政の采配を振るう立場にある女性をいった。この場合、必ずしも自身が家事労働に携わるわけではなかった。
(2) 大正時代になると、サラリーマン家庭が増加し、その妻たちの多くはもっぱら家庭内で家事労働を担当した。後に「主婦」といえば、特にこのような家事に専従する既婚女性を指すようになる。しかし、1970年代以降、この層でも仕事を持つ者が増え、そのため、家事専従の主婦を指して、新たに「専業主婦」という言い方が生まれた。
とありました。そうなんです「専業主婦」があるということは「兼業主婦」、つまり、
「社会(=家庭外)で働きながら、主婦業をこなす人」
が出てくるのです。その「主婦業」というのは、「家事」であり、「家事」というのは、
「家庭内の仕事」
ですから、
「『家庭』がなければ、『主婦(業)』は存在し得ない」
ということです。さて、「家庭」とはなんでしょうか?『精選版日本国語大辞典』では、
「(2)夫婦、親子を中心にした血縁者の生活する最も小さな社会集団。また、その生活の場所」
やはり、まず書かれているのは「夫婦」ですね。次に「親子」。そうすると、離婚しても、(あるいは夫と死別しても)、
「子どもと住んでいる」
あるいは
「親と住んでいる」
場合には、「主婦」は存在しうるということでしょうか。
「カリスマ主婦モデル」さんは、「夫」は離婚で失ったわけですが、あとは「子どもがいるかどうか」がポイントになりそうですね。
でも、本当に「主婦のプロ」のような人は、テレビなどにのこのこ出て来なさそうな気がします。出てきてそれが「仕事」になると、本来の仕事である「主婦(業)」が出来ないのではないか?「主婦」というからには「主」に「家庭内の仕事」を「全力で」やる職業なのではないか?そうすると、今回の人の「カリスマ主婦」というのは、正確には、
「カリスマ"兼業"主婦」
ということか?うーん、「主婦」も難しいなあ。
毎週金曜日は、できるだけ、コーラスの練習に出ます。男声合唱団です。
今練習している曲の一つは、伊藤整作詞・多田武彦作曲『雪明りの路』です。その中に出てくる歌詞「背を見せ」の音階が、
「セ\ヲ ミ\セ」
となっていることに関して、
「標準語のアクセントとしては『セ/ヲ ミ\セ』ではないか?」
と指揮者から質問を受けました。が、即答できませんでした。考えれば考えるほど、
「どっちだっけ?」
という気になりました。
「調べてきます」
と答えて、その日の練習は終わりました。
翌日、「『背』のアクセント」をアクセント辞典を引いてみました。すると、指揮者の指摘とは違い、「頭高アクセント」の
「セ\(が高い)」
でした。多田先生のアクセントでOKというわけです。そのほか「許容」の形として( )内に伸ばした形の、
「セ\イ」「セ\ー」
も載っていました。
ところが話はここでは終わらず、「背」のあとに続く助詞が「を」、つまり、
「背を向ける」
の場合は、
「セ/ヲ ムケル」「セ\ヲ ムケル」
と、「平板アクセント」と「頭高アクセント」の2通りが記述されています。ということは、「背を見せ」という歌詞だと、指揮者が言うように、
「セ/ヲ・ミ\セ」
という「平板アクセント」も正しい可能性が出てきたことになります。
以上は『NHK日本語発音アクセント辞典』によるものですが、これよりも「東京アクセントを残している」という『新明解日本語アクセント辞典』(三省堂)を引くと、「背中」の意味では「平板アクセント」の、
「セ/(を)」
が載っており、「新しいアクセント」として「頭高アクセント」の「セ\(を)」が( )内に記されています。
それとは別に、「背丈」の意味の「背」は、「頭高アクセント」の「セ\」として載っています。
ここから察すると、昔(もともと)は、
*「背中」の意味の「背」は、「平板アクセント」で「セ/」
*「背丈」の意味の「背」は、「頭高アクセント」の「セ\」
と区別していたのが、時代とともに「頭高アクセント」に収斂してきたのではないか?ということです。
そういえば童謡『せいくらべ』の歌詞は「せ\いのたけ」ですよね。これはもちろん「背丈」です。
1文字や2文字の単語には、時々こういったややこしい例外があります。
たとえば、「上」という言葉のアクセントは、
「ウ/エ(に)」
のような形で「平板アクセント」なのですが、
「~の上」
という形のときだけ、
「~のウ/エ\ニ」「~のウ/エ\で」
のような「尾高アクセント」になる、ということがあります。関係あるのかな?
6月13日に書いた、平成ことば事情4020「渡部恒三氏の福島弁」の続きです。
というか、また渡部さんの「さ行」のしゃべりを耳にしたので、書いておこうかと。
前回は、
「福島弁では、「さ行」のうち「さ」を除く「しすせそ」は、全部「す」になる」
ので、
(し)「ふくしま(福島)」→「ふくすま」
(す)→(す)のまま
(せ)「せんきょ(選挙)」→「すんきょ」
(そ)「そのとおり」→「すのとおり」
ということを前回書きました。今回、耳にしたのは、
(さ)「いすすか」(=いささか)
これは「さ」ですが、やはり「す」になっていました!ということは、
「ふくすま弁では『さ行』は全部『す』になる」
のか!?そのほか、
(し・しゅ)「みんすすぎ」(=民主主義)
(じ) 「だいずに」(=大事に)
(し) 「すんばらく」(=しばらく)
の3語。ちょっとしゃべっただけで、これだけ特徴的に捉えられるなんて、渡部さんは、すんばらすく(素晴しく)見事な「ふくすま(福島)弁」のすんべり(しゃべり)手だなと思いました。
特に「いすすか(いささか)」は、かなり
「息漏れ」
が観察され(=極端な子音の無声化)、ほとんど「すす」の音は聞こえないような感じでした。このあたりの発音もしっかり観察したいと思いました。「みんすすぎ(=民主主義)」もいいなあ。あ、そうか、すもすも(=そもそも)、
「みんすとう(=民主党)」
だもんな。癒やされるー!
『街場のメディア論』(内田樹、光文社新書:2010、8、20)
著者の内田さんは、この「街場」という言葉を使った本を何冊もいろんな出版社から出している。(まえがきによると本書は「街場」シリーズ4冊目だそうです。これまでは「アメリカ論」「中国論」「教育論」だったようです。)これが彼のキーワードのようだが、同じく江弘樹さんという著者の友人(だんじりの人)もこの「街場」をキーワードに使っている。が、読んでもみても、何が「街場」なのかはよくわかりません。全部の「街場」本を読んでいないからかもしれませんが。単に「内田本」の目印か?
で、あまり「内田本」は好きではないと前にも書きましたが、何冊か読んだ「内田本」の中では、これはとっつきやすい。勉強になる一冊だと思いました。神戸女学院大学での授業がベース。こんなレベルの高い授業をやっていて、大学生はついてきているのかな?
「メディアと『クレーマー』」「『正義』の暴走」あたりのメディア論は、概ね「なるほど」と納得のいくものでした。また「本」の未来についても、
「なるほど、『読者』は『消費者』とイコールではないのか」
と一応の納得。理想としてはそうだけど、今はそうなっていない(読者は消費者である、というケースが多い)から、こんな問題が起きているのだろうとは思いましたが。
「書棚の効果」のところは面白かったが、
「電子書籍について論じるときに、誰ひとり『書棚の意味』について言及しないことです。少なくとも僕は『書棚』と電子書籍のかかわりについて書かれたものを読んだ記憶がありません。」
というような断定的な書き方をしているのは、しらけた。そんなことを"断定的に"言えるのはなぜだろう?自分に相当自信があるのだろうな。このあたりの書き方が、私は「好きではない」という原因のように思います。
『人は、なぜ約束の時間に遅れるのか~素朴な『疑問から考える「行動の原因」』(島宗理、光文社新書:2010、8、20)
約束の時間に常々遅れがちな私にとって、とっても魅力的なタイトル。
目次を見ても、
「アイツは○○県民だから△△だ!?」
「人はなぜ、血液型で性格判断しようとするのか」
「人はなぜ、傘を置き忘れるのか」
「人はなぜ公衆マナーを守れなくなったのか」
など興味深い項目ばかり!早速読み始めたが・・・「とっつき」はいいのだが、そのあと著者の専門の「行動分析学」の話に入ると、途端に難しくなって読む気をなくしてしまった・・・。結論から言うと、
「人は『行動のなぜ』を『心』に求めがちだが、それは間違い」
ということ、か。
「あとがき」に書いてあるように、
「約束の時間に遅れるのは『だらしない』からでも、『県民性』のせいでもなく、約束の時間を守るために必要な行動を引き出す先行事象(時刻表など)や強化する環境要因(予定通りに到着する)が欠如していることが原因かもしれない。場の雰囲気にもかかわらず自己主張してしまうのは、『B型』だからでも『積極性』のせいでもなく、自己主張が希望がかなうことで強化され、友達の表情の微妙な変化が自己主張を抑制する先行事象にならなかった学習履歴が原因なのかもしれない。(以下略)」
というところが「キモ」なのだろう。そうすると、私は、
「それには納得できない」
という結論に達するので、「どうだかなあ・・・」という気持ちになってしまった。
森若アナウンサーが、今日の「ミヤネ屋」の前に、こう声をかけてきました。
「アトドリもありますよ」
え、アトドリ?・・・ああ、「平成ことば事情4115 前撮り」を読んだんだな。結婚式・披露宴が終わった「後に」撮影するってこと?
「『前撮り』した人は、披露宴会場にその写真を飾ったりするんですが、式や披露宴前に時間が取れない人などが『後撮り』をするそうです。私がそうでした。」
なるほど、実体験があるのなら力強い証言ですね。
Google検索では(8月24日)
「前撮り」=33万9000件
「後撮り」= 4万5500件
でした。「前撮り」の方が8倍近く多いですね。サイトを見ると、ともに「ウエディング用語」に組み込まれているようです。
また、「前撮り」「後撮り」など「前後」に関係なく、式や披露宴そのものを撮るのではない撮影は、
「別撮り」
というそうです。まあ、そのまんまの表現ですが。「別撮り」はテレビ業界でも使うな。
「別撮り」=5万8500件
でした。
『私の履歴書~広岡達朗』(広岡達朗、日本経済新聞:2010、8、1~)
これ、「読書日記」かどうか・・・「本」ではないのですが、とっても面白いのでご紹介します。
日本経済新聞・朝刊の最終面のご存じ(?)「私の履歴書」。功成り名を遂げた人が、その半生を1か月=30回で綴る名物コラム。これがその後、本になることも多いのですが、今月8月は、元プロ野球監督の広岡達朗氏。これがめちゃくちゃ面白いのですよ。歯に衣、着せぬ冷静な物言いは、現役時代と変わらないのですが、「冷静」という表現は当てはまらないかな、かなりの「偏屈」です。8月1日の第1回の見出しが「屈辱晴らすべく努力」とあって、
「川上(哲治)さんには、自分でまいた種とはいえ、引退してからベロビーチキャンプでの取材を拒否されるなど、冷たく扱われた。だが、それを『それなら巨人を破って日本一になってやる』というエネルギーに変えて頑張る事ができた。時間がたった今、自分に辛くあたった人、球団にはむしろ自分が発奮する手助けをしてくれた、と感謝している。川上さんにも、もちろん、何のわだかまりもない。」
と書いてあるのに、第6回では、自らのファースト(川上選手)への悪送球で逆転負けを食らったあとに、「あのくらいのボールを捕れないファーストがいたら野球なんてできるか」と言ったとか。(第6回)ひえー、大先輩(川上選手)に対してそりゃあ、恨まれるだろう!
また、
「『打撃の神様』川上哲治さん(中略)神様だけに他人のことは気にしない。(中略)他人のバットを黙って勝手に使い、挙げ句に折ったりする。それがたまたま私のものの場合『僕のバットを誰が折った』と怒ると、『オレの伝票やるからこれで作ってこい』と一言。当時は球団が選手のバット購入用の伝票を支給していた。それにしても勝手に折られてはかなわない」(第8回)
など、いまだに「恨み」に思っているフシが散見され、
「ああ、人間のこういった思いというのは、何十年たっても変わらないのだなあ・・・」
と、ため息ともに、深く考えさせられる。
また、長嶋選手(=後輩)に対しても、1964年8月6日の国鉄(現・ヤクルト)戦。スコア0-2と2点リードされて迎えた7回、1死3塁でバッター・ボックスに入った広岡選手、カウント2-0の場面。
「3球目で三塁走者の長嶋茂雄が猛然と本塁へ突っ込んできた。外野フライでも1点入る場面。セオリー無視でサインもなかったホームスチールである。タッチアウトとなった長嶋を、私は呆然と見つめていた。」(第10回)
投球はボールで、その後2-2から「見逃しの三振」に倒れた広岡選手は、
「私の怒りはベンチに向かった。『やめた、こんなばかな野球ができるか』とバットを持ってロッカールームに直行、そのまま家に帰ってしまった」
という。「ベンチがアホやからやってられへん」と言った江本投手を彷彿させますが、「クールな選手」どころか「かなり熱い選手」だったのですね、広岡選手。そういえばアメリカの飛行機の客室乗務員の男性が、危ない行為をしていた乗客注意したところ、クレームをつけられたうえ殴られて、「やってられるか!」と、缶ビールを1本取って脱出用滑り台から機外へ脱出したというニュースが先週ありましたが、まあ、そんな気持ちなのかな?
しかし、実はこれが「初めてなら、これほど怒りはしない」と広岡さん。実はその「2日前の神宮球場でも、七回2死一、三塁で長嶋が突っ込んできて」「カウント2-2からで、本塁を空けたら、投球がストライクで見逃しの三振に」なっていたというのです。「打者(=広岡)が打てそうもない」と"後輩の長嶋"が判断したからこそ「ホームスチール」を敢行したのだと、当然、広岡さんは思いますよね。「プライド」を、いたく傷つけられたのでしょう。そしてその思いは、それから46年経っても、いささかも薄れることがない、ということなのです・・・・すごい!
とにかく、あと数回の連載ですが、見逃せません!
『ミラクルガール』(大塚弓子、無明舎出版:2010、2、10)
著者は、石巻赤十字病院に勤務するリンパ浮腫セラピスト。「帯」によると、秋田県出身で花の独身31歳。17歳で甲状腺ガン、26歳で再発、30歳で首に腫瘍が。青春をガンと闘い続けた、と。
表紙と口絵の写真、これがものすごい"美人"なのだ!「ああ、秋田美人ってこういう人のことを言うのだな」と。
その著者が高校生の時に「ガン」を告知され手術を受ける。そんな若さで・・・。それから「一生懸命」に生きてきたさまが、読みやすい「生」の文章で綴られている。
ひたすら前向きに、落ち込むこともあるけど、前向きに立ち向かうのだが、なぜ人生は(神様は?)こうも試練を投げかけてくるのだろうかと思うようなことの連続で・・・。こういう女性って、確かにいるよなあ・・・とも思いつつ、その試練を乗り越えて幸せになってほしいと思ったのでした。
暑いですね。
酷暑、いつまで続くんでしょうか・・・。ラ・ニーニャのヤツめ・・・。
さて、先日、家の近くの写真館の店先にこんな看板が出ているのに気付きました。
「七五三 前撮り受付中」
はやいー!もう「七五三」かよ!
「七五三」と言えば11月15日、まだ3か月近くあるというのに・・・。商売熱心です。
最近はこういった記念写真、「その日」に撮らずに「ちょっと早めに撮っておく」方が混まずに済んで、お客さんもお店も便利ということで、一般的になってるんですね。そこで出てきた言葉が、
「前撮り」
なんですね。結婚式の写真も「前撮り」が普通のようで、披露宴の最中にいろんな写真がスクリーンに出されたりして、
「一体、いつのまに撮ったんだろう?」
と驚くことがありますが、「前撮り」なら納得です。最も、「デジタル撮影」の時代ですから、パソコンを通じてスクリーンに出すのはわけもないこととは思いますが。
「フィルムの現像に時間がかかって・・・」
なんてことはないわけですから。
いやあ、改めて、「時代」ですねえ。
Google検索では(8月23日)、
「前撮り」=34万1000件
でした。
『逆立ち日本論』(養老孟司・内田樹、新潮選書:2007、5、25発行・2010、5、15第8刷)
養老先生は好きだが、内田先生はあまり好きではない(文章の書き手として)。その二人の対談本。大変興味深かったが、引っ張っていこうとするのが内田先生ですが、なんとなく「自分の思っている方向へ」引っ張っていこうとしている感じがする。それを養老先生はのらりくらりというか、マイペースで受け答えしていて、内田先生が養老先生に気を遣っている様子が感じ取れ、その意味では面白かった。
内田先生の「決め付けている物言い」が気に障ります。ただ、ユダヤ教関連に関してはさすがに詳しく、勉強になりました。また、興味があったのは、第6章「間違いだらけの日本語論」。概ね「そうだな」と思って読みました。
『思い出袋』(鶴見俊輔、岩波新書:2010、3、19第1刷・2010、6、4第5刷)
意外にも・・・・というと失礼ですが、売れてます!発売3か月で5刷です。岩波の月刊『図書』(本屋さんのレジの前に積んであって、タダでくれる冊子。本当は100円とか120円とかするんだけど・・・販促用の感じの冊子)に2003年1月から2009年12月号まで連載していたコラム(エッセイ)をまとめたもの。ふだん講談社の『本』という冊子は読んでいたが、『図書』はたまにしか読んでいなかったので、知らなかった。
こういった冊子や週刊誌の連載エッセイなどは、それを週に1回とか月に1回読んでいたのでは、なかなか記憶に残らないのだが、こうやって1冊にまとまると、とても興味深く、印象も深くなる気がする。「平成ことば事情」にも書いたが、今年88歳を迎える著者は、正に歴史の生き字引き。いくつも「お!これは」と思う「ひっかかる」記述があった。読む価値のある一冊。
『ふたたび、生きて、愛して、考えたこと』(杉原美津子、トランスビュー:2010、4、5)
1980年8月19日に起きた「新宿西口バス放火事件」で、瀕死の全身火傷を負って生還した著者。当時30代半ばで、50代の男性と不倫の恋をしていた。男性の借金を返すため、身も心も疲れ果てていたところで遭遇した事件。この事件がきっかけで、男性は妻と離婚、自分と一緒になってくれたが、その後も苦労の連続の人生。全身火傷から「ふたたび生きて」「愛し」た男性が、レビー小体型認知症に・・・それを看取ったら、今度は自身のガン告知・・。生きるということ、死ぬということを否応なく考えさせられる一冊。読んでいると、知らないうちに眉根にシワが寄ってしまう、重い本。それでも、生きる!
会社で、
「Wさんのお兄さんがお亡くなりになったのですけど、弔電でどういうふうに表現したらいいですかね?」
と質問を受けました。
「うーん、『お兄様』でいいんじゃないかなあ・・・」
と答えて調べてみると、電報のサイトを見ると、こんな風に載っていました。
父: ご尊父様 お父様 お父上様 父君 ご亡父様 ご先代
夫の父: お舅様 お父上様 お父様
妻の父: ご外父様 ご岳父様 お父様 父上様
祖父: ご祖父様 おじい様 祖父君
夫: ご主人様 旦那様
息子: ご令息様 ご子息様
兄/義兄: 兄上様 ご令兄 お兄様
弟/義弟: ご弟様 ご令弟 弟様
伯父: 伯父様 伯父上様
叔父: 叔父様 叔父さん
甥: ご令甥様 甥御様
両親: ご両親様 ご父母様
母: ご母堂様 お母様 お母上様 母君 ご亡母様 ご賢母様
夫の母: お姑様 お母上様 お母様
妻の母: ご外母様 ご岳母様 お母様 母上様
祖母 : ご祖母様 おばあ様 祖母君
妻: ご令室様 奥様 奥方様
娘: ご令嬢様 お嬢さま ご息女様
姉/義姉: 姉上様 ご令姉 お姉様
妹/義妹: お妹様 ご令妹 妹様
伯母: 伯母様 伯母上様
叔母: 叔母様 叔母さん
姪: ご令姪様 姪御様
家族: ご家族様 皆様 ご一同様
「ご弟様」なのに「お妹様」(「ご」と「お」が違う)のは「?」と思いましたが、これで見るとお兄さんの場合は、
「兄上様」「ご令兄」「お兄様」
の3つが挙げられています。中でも、
「ご令兄」
という表現は知りませんでした。
「ご令嬢」「ご令室」「ご令息」
のように、「令」という字には「敬う気持ち」が込められているようですね。
『精選版日本国語大辞典』で「令兄」を引くと、
「他人を敬って、その兄をいう語。中国では、古くは自分の兄」
と書かれていました。
弔電は結局、分かりやすさを優先して、
「お兄様」
にしたようです。
平成ことば事情2268「尊父と厳父と岳父、ご母堂様」もお読み下さい。
茨木のり子の「おんなのことば」という詩を読んでいたら、こんな言葉に目が留まりました。
「一体全体」
略すと、「一体」でしょうが、「略さない形は、最近あまり目にしないなあ」と思いました。
Google 検索(8月19日)では、
「一体全体」=15万0000件
「一体」 =5810万0000件
でした。辞書(『精選版日本国語大辞典』)で「一体全体」を引くと、
「『いったい』を強めた言葉」
とあり、初出例は、
*二葉亭四迷『浮雲』(1887-89)
「一体全体菊といふものは、<略>自然の儘に生茂ってこそ見所の有らう者を」
* 幸田露伴『不安』(1900)
「一体全体君が有して居る知識々々といふものは何様(どん)なものだね」
と、比較的新しかったです。「疑問」を表す場合は幸田露伴の使い方だそうです。
「児童虐待」
が、まるで流行語のように、毎日のように言われる嫌な世の中ですが・・・。
ただ、そういった報道の中で、
「昔はこんなことはなかった。なぜ『児童虐待』がなぜ増えたのか?」
というような論調を耳にすることがありますが、
「それ(=昔はこんなことはなかった)は、ちょっと違うのではないか?」
と思うことがあります。よく言われる「少年犯罪の増加」というのも、データで見るとそんなことはないのと同じように。
「昔も、子供への暴力はあった」
そのことの証言が、鶴見俊輔『思い出袋』(岩波新書)171ページ「トゥーランドット姫」に出てきました。
《生まれたときから、悪い子だと言われて母親に折檻されて育ったことが、このとき役にたった。私は、あきらかにマゾヒストとしての性格を身につけた。麻酔を倹約して手術をする海軍病院では、この性格は役にたち、軍医にほめられた。》
という一文です。この中に出てきた、
「折檻」
という言葉、これが現代では「虐待」「DV」という言葉に置き換わっているだけではないでしょうか?もっとも、「折檻」という言葉自体は、現代では「死語」でしょうが。
Google検索では(8月19日)
「折檻」 = 59万1000件
「児童虐待」= 95万8000件
「虐待」= 4640万0000件
「DV」=3億9700万0000件
でした。「折檻」、死語ではないですね。使われています、ネット上で。
鶴見さんは1922年生まれ。少なくとも「彼の子供時代」に「折檻」はあった、ということです。だからどうだ、ということはないのですが。
ただ、辞書で「折檻」を引くと、
「(前漢の朱雲が成帝を強くいさめてその怒りをうけ、朝廷から引きずり出されようとした時に檻(てすり)につかまったため、その檻が折れたという「漢書―朱雲伝」に見える故事から)きびしく意見すること。きびしくしかること。転じて、せめてさいなむこと。こらしめのための体刑を与えたりすること。切諌。」(『精選版日本国語大辞典』)
とあり、本来の意味は「(児童)虐待」ではなかったようですが、今は「体罰」を指すように思えます。しかも教育的な「体罰」ではなく「虐待」のイメージが「折檻」にはあります。
『Jポップな日本語』(井上ノリミツ、主婦の友社:2010、7、31)
Jポップの歌詞には特徴がある。それを収集し分析し分類するという、学問的な行動を起こしたら、あーら不思議、世にもおかしな笑える一冊に!
たしかに「永遠」は「とわ」だし、「深夜」は「ミッドナイト」、「瞳」は「め」と読み、「音楽」は「メロディ」。「都会」は「まち」だし「宇宙」は「そら」。
でも、「運命」を「さだめ」、「性格」を「さが」と読むのは、『演歌』でもそうだよね。
日本語表記の複雑さをうまく使ったというか、さらに複雑・高度にしたと言えるでしょう。「超定番なJポップなフレーズ」の中の「世界中を敵に回しても」や「凍えた手あたためてあげる」「遠くから見守っているよ」などは、その昔取材した、「まぐまぐ」の「クサイせりふ研究所」というサイトのようだ。
「遠くから見守っているよ」は、著者が言うように、たしかに「軽くストーカー入ってる」。こうやって、Jポップな男性の恋心は、女性側から「ストーカー」という言葉で排除されてきた、ここ10年だったような・・・。「傷心(ハート・ブレイク)」な「自分(オレ)」・・・。
鶴見俊輔『思い出袋』(岩波新書)を読んでいたら、「トゥーランドット姫」(172ページ)の中にこんな文章が出てきました。
《彼女たちは看護術をオランダ語で学んだので、私がなにかを言うとするときには、はじめはドイツ語にかしぎ、つぎに英語にかしいで何度か言うと、それは的確に伝わった。》
ドイツ語と英語ができる鶴見が、母語がマライ語でオランダ語と日本語をいくらか話す15、16~17、18歳の看護婦たちと話した際のことを書いているのです。この、
「かしぐ」
は、文脈から判断すると、
「翻訳する」
という意味のように思えるのですが・・・「かしぐ」にそんな意味、あったっけ?「傾ける」の意味の「かしぐ」から来ているのでしょうか?
『精選版日本国語大辞典』『広辞苑』にも、「かしぐ」に「翻訳する」という意味は載っていません。これは鶴見さん特有の言い方なのでしょうか?もしくは方言?また、
「言うとするとき」
という表現も、普通は、
「言おうとするとき」(あるいは「言わんとするとき」)
なのではないかなと思いました。?
『春宵十話』(岡潔、光文社文庫:2006、10、20初版第1刷・2010、1、30第8刷)
ちょっとこのところ「岡潔」にハマって、続けて読んでいる。はしがきにある、
「人の中心は情緒である。情緒には民族の違いによっていろいろな色調のものがある。たとえば春の野にさまざまな色どりの草花があるようなものである。」
「数学とはどういうものかというと、自らの情緒を外に表現することによって作り出す学問芸術の一つであって、知性の文字板に、欧米人が数学と呼んでいる形式に表現するものである。」
ここを読んだだけで、「ほほう!」と感服。この本を買って・読んでよかったと思った。
「骸骨」のデザインが流行っているようです。
以前は「ガイコツ」模様といえば、「ヘビメタ」やってる人とか、ちょっとヤンチャな人=不良少年・少女(ぶっている人)とか、はたまた「海賊」が好んで身に着け(「海賊」の知り合いはいませんが)、
「不気味」
というイメージでした。好んで身につけている人たちは「カッコイイ」と思っているのだと思いますが。私はやはり小学2年の時に読んだスチーブンソンの「宝島」のイメージですね。「コワイ」「不気味」「不吉」です。
ところが先日、「ミヤネ屋」に出演している森若アナウンサーが、
「ガイコツ柄のテーブルクロス」
を購入したとブログに書いていましたし、「ミヤネ屋」スタッフが着ていた
「Tシャツ」
の柄に、そして先ほど、電車の前の席に座る若者(ボロボロのジーンズ=たぶんわざと。にメタル・シルバーの仮面ライダーのようなバックルのベルト、あごひげ、20代半ばから後半の男性)の、
「白いTシャツの柄」
までが「黒のガイコツ」。レントゲン写真のようで、キラキラの赤の色紙のような色の角が生えています。般若の面のレントゲン写真みたい?です。
森若アナウンサーによると「ガイコツ」とは言わずに、
「スカル」
と言うそうです。で、「スカル柄はかわいい」のだそうです。かわいいかな?骸骨。
たぶん、ジョニー・デップ主演の映画『パイレーツ・オブ・カリビアン』シリーズのヒットが「スカル=カッコイイ」につながったのではないかなと推測していますが。
「スカル」は、当然「スケルトン」と、関係ありますよね?
(追記)
「スカル」=「skull」=「髑髏(どくろ)」でした。
「スケルトン」=「skeleton」=「骸骨(がいこつ)」でした。
そして・・・「スカル」と言うと、ボートの競技でもありますよね、「シングルスカル」と「ダブルスカル」。両手にオールを持って漕ぐ競技。ただ、ボートの方は、
「scull」
と「c」なのに対して、「ドクロ」の「スカル」の方は「k」ですね。
『勝間和代・上大岡トメの目うろこコトバ』(勝間和代・上大岡トメ、朝日新書:2010、8、30)
タイトルの「目うろこ」というコトバにひかれて、(決して好きではない)「勝間本」なのに購入。上大岡トメさんのマンガがついているが、これってギャグのつもりなのか、勝間さんの主張に批判的である。
一番びっくりしたのは、勝間批判が相当こたえているのか、そういった批判をそらすための"弁明"とも取れるページがあったこと。
そういえば今週の『週刊現代』でも、かの日垣隆氏が、勝間さんを「これでもかっ!」というほど"ボロクソに"けなしていた。けなすほうの品性が疑われるぐらいの書き方で・・・。ちょっと、びっくり。彼女が悪いと言うよりも、そんな彼女を持ち上げるマスコミも悪いような気がする。
あれ?まだ読んでなかったっけ?という感じで。回文歴では負けない私から言うと、回文のレベルは決して高くない。というか、短いインスピレーション型なので、なんてーか、そんなにたいしたことない。内輪で喜ぶ感じ。
ただ、それにイラストを自分でつけたところが新しく、脱力感がよく、おもしろい!
著者は本職は、プロのバンドの「ベーシスト」なんだそうだ。知らなかったけど。こういうの(回文のような言葉遊び)って、「メインボーカル」の人よりも、そういった「ベーシスト」とか、「コントラバス」の人の方がハマるのかも。かく言う私も、趣味のコーラスでのパートは「ベース」である。
『動くが負け~0勝144敗から考える監督論』(岡田彰布、幻冬舎:2010、7、30)
オリックスの岡田監督の一冊。たぶん語り下ろし。シーズン中のこんな時期に(本を)出すんだなあと、ちょっとビックリ。今回は「構成」を、読売テレビ
シーズン前の『岡田監督を励ます会』にここ何年か出席して、「エール」を送っている身としては「読まねば!」という思いで購入。夏休みの旅行中に読んだ。
監督としての選手起用法や、選手の育て方は、会社人としても参考になるような気がした。
また去年、解説者の時には、
「放送禁止用語にも十二分に注意していた。気になる用語はすぐにアナウンサーに確認した。テレビ局のスタッフも私が言葉への意識を強く持っているので、最初の頃は驚いていた。私は普段のたわいもない会話の中でも間違った言葉遣いをする人間がいたら、すぐにツッコミを入れてしまう」
のだそうで、こうも綴っています。
「言葉の持つ影響力は、思っている以上に大きい。だからこそ、正しい日本語を認識し、適切な言葉選びをしなければならない。」
アナウンサーの先輩からアドバイスを受けているような気持ちになりました。
『春の草~私の生い立ち』(岡潔、日経ビジネス人文庫:2010、7、1)
この文庫本(日経ビジネス陣文庫)の雰囲気は、「双葉文庫」のような感じ。呉英智を思い浮かべる。いしいひさいちと。好きな感じ。
「岡潔」は、「2010読書日記104」で書いた小林秀雄との対談集『人間の建設』(新潮文庫)で知って、家の近くの書店の「岡潔」の本が並んでいるコーナーで手に取ったのがこの一冊。今、改めて「帯」を見てみると、
「天才は、いかにして生まれたのか~教育再生に揺れる今、すべての日本人に問う 偉大なる数学者の『私の履歴書』」
とある。あ、そうか「日経文庫」か。なるほど、昔の「私の履歴書」から、なんだ、この本は。道理で字が大きくて写真も入っていて・・・言われてみれば「私の履歴書」です、間違いなく。
ということで、「岡潔」という人の成り立ちがよくわかる一冊です。岡さんは「春」が好きだったらしく、毎日新聞で連載したコラムも「春宵十話」。これも読みたいなと思っています。(その後、すぐに読みました。)
こういった本を読むと、岡さんと中谷宇吉郎、そして寺田寅彦、漱石といったラインがつながって、岡さんにはもちろん会ったこともないけれど(少し時代も違うけれど)、会ったことがある人のように思えてくるのが不思議です。ちっとも古くないです。
『Enchanting Moments』( Disny PRESS)
夏休みに行ったUAE=ドバイの巨大ショッピングセンター「ドバイモール」の中にある「紀伊国屋書店ドバイ店」で、5歳の娘のために購入。56UAEディラハム(1ディラハムは約30円)。米ドルだと13ドル。
ディズニーのヒロインたち、すなわち「美女と野獣」のベル、「人魚姫」のアリエル、「アラジン」のジャスミン、「ムーラン」のムーラン、「シンデレラ」のシンデレラ、「眠れる森の美女」のティアナ、そして、プリンセスオーロラに白雪姫。そういったヒロインの一番いい場面だけを集めた「名場面集」の英語版。
ポイントは、それぞれのページに、見る角度を変えると登場人物が動く『マジックシール』が張ってあって、(これ、私が子どものころ、ゴジラとかギャオスの怪獣もので、同じ仕組みのものがあったが)それがまあ、目新しかったから買った。美女と野獣が踊りまくる、ように見えるのだ。いろいろ考えるのだなあ。同じディズニーの「カーズ」の絵本の動きも、なかなか良かった。買わなかったけど。
『オノマトピア~擬音語大国にっぽん考』(桜井順、岩波文庫:2010、7、16)
著者は1934年生まれのCM作曲家。この本は、現在書き下ろされたのではなく、1986年に出た本に大幅に加筆したもので、第3部にいたっては1971-72年に出たもの。昔のものを、昔のものとわかって読むのは、資料的価値もあり勉強になるのだが、これは困ったことに、「大幅加筆」したおかげで、「時制」が分からなくなっているので、読んでいて大変混乱する。「いつの時点の視点で書かれたのか」が分からないことによって、これほど読んでいて困惑するとは思わなかった。「加筆した部分」は、その旨が分かるような書き方を、なぜしなかったのか、疑問である。江戸時代の本を読んでいたら、急にパソコンが出てきたようなものである。
それはさておき、内容はさすが作曲家、発音に関する分析のプロだなあと思う部分が多々あった。リズムと擬態語から、日本語を幅広くそして深く考えることが出来る一冊。
「平成ことば事情4107」で書いたように、鶴見俊輔の『思い出袋』(岩波新書)という本を読んでいたら
「袖珍」
という言葉が出てきました。「しゅうちん」と読みますね。その意味を調べていて、
「珍」
を『広辞苑』で引いたときに、横にあったカタカナの、
「チン」
に目が゙止まりました。2種類の「チン」があったのです。2種類というか「2か国語」でしょうか。
「朝鮮語」では、「韓国のゴング、鉦」。
そして、
「タイ語」では、「タイの小型シンバル」
と書かれていたのです。
つまり、「擬音語」が「東アジアでは同じ」ということなのでしょうか?
そもそも「シンバル」の語源は?「シン=チン」なのかな?
と思って『広辞苑』で、「シンバル(cymbal)」を引くと、
「打楽器。東洋の鈸(はち)をヨーロッパで採用したもの。凹面の金属円盤を打ち合わせ、またはスティックで叩いて音を出す。」
とあるではないですか。「シンバル」は、「東洋」(=アジア)から「ヨーロッパ」に行ったのか!では、アジアの「擬音語」が、そのネーミングの元かもしれない!
「鈸(はち)」を引くと、
「(バチとも)シンバル状の二枚一組の体鳴楽器。仏具の一種で、法要の際に鐃(にょう)と組み合わせて用いられる。鉢。→にょうはち。 」
とあり、「鐃(にょう)」を引くと、
「①広義には、中国・朝鮮・日本の青銅打楽器の総称。鉦(しょう)・銅鑼・鈴・鈸(はち)のあらゆる種類を指していう。②狭義には、①の銅鑼の一種。銅製の浅い鍋型で、円周の二点に紐をかけて吊り、桴(ばち)などで打つもの。仏具としてふつう鈸(はち)と組み合わせて用いる。③全長二○センチメートルほどの銅製の柄付きの鈴。法隆寺・東大寺などで法会に用いる。」
「仏具」ということは、天竺=インドが原点かな?
・・・と『広辞苑』を机の上で広げるだけで、ここまで旅することができました。
そしていま、日本語で「チン」は、
「電子レンジで調理する」
という意味になってますけどね。電子レンジはもはや「チン」とは言わずに、
「ピピピッ」
って言うんだけど、我が家では。
鶴見俊輔『思い出袋』(岩波新書)という本を読んでいたら、94ページの「言葉は使いよう」に、
「袖珍版のオックスフォード小辞典」
という言葉が出てきました。これまでにも見たことのあった、
「袖珍(しゅうちん)」
という言葉ですが、特に意味を確認することなく過ごして来ました。
常用漢字ではない「袖」は、訓読みで
「そで」
というのは誰でも読めますが、音読みの
「シュウ」
が読める人は少ない。熟語で言っても、
「(派閥の)領袖(りょうしゅう)」
ぐらいでしか、音読みの「しゅう」は使われていないのではないか?とかねがね思っていたのですが、そうそう、この「袖珍」がありましたね。
意味を調べると、何のことはない、
「袖珍=袖に入るぐらいの」
とあります。この「袖」は、「洋服」をイメージすると入らないな。もちろん「和服」。
「着物の袖=袂(たもと)」
ですね。お正月におじいちゃんの「お年玉」が出てくる、あの「袖」でしょう。え?おじいちゃんはお正月にも着物は着ていない?うちも、私の祖父までは着ていましたが、今の私の子どもたちのおじいちゃん(=私の父)は、着物を着ていませんから、袖からは何も出てきませんが。
話がそれましたが、「袖に入るぐらいの」は今で言う、
「ポケット版」
のことですね。「ポケットに入るぐらいの大きさ」なら、洋服でもわかりやすい。和服だと分かりにくいか。そんなこともないでしょう。そうすると、「珍」には
「隠す」
という意味があるのか?と思って漢和辞典(『新潮日本語漢字辞典』『新版漢語林』)を引いてみたのですが、「珍」には文字通り、
「めずらしい」「きちょうな」
という意味しかなく、「隠す」という意味はありませんでした。ただ『新潮日本語漢字辞典』には、
「貴重なものとして大切に扱う」
というところの例として、
「珍重・袖珍本・珍蔵」
とあって、「袖珍本」がありました。「袖珍本」は「袖に入る」のではなく、「貴重」なのか?
そこで『精選版日本国語大辞典』で「袖珍本」を引くと、
「袖の中に入れて持ち歩きできるほどの小さい本。袖珍版。袖珍」
とありました。うーん、堂々巡りのような感じになってきたぞ。うーん。
あ、そうか!
「袖珍本」というのは、元の意味は『新潮日本語漢語辞典』の言うように、
「珍しく貴重な本」
だったんだ!だからこそ、
「肌身離さず持ち歩いていた」
のではないか?しかし、本の大切さ・貴重さというのは持っている本人しか分からないことであって、周囲の人間から見ると、
「いつも持ち歩いている」
というところのみ、分かるので、
「いつも持ち歩いている本のことを『袖珍本』と言うように意味の変化があった」
のではないでしょうか?
まったくの「あてずっぽう」ですが、「珍」に「(袖に)入れる」とか「隠す」という意味がない以上、やはり「珍しい」「貴重」というところが出発点と考えざるを得ません。
いかがでしょうか?ご意見、お待ちしています!
しかし「袖珍」、「死語」もしくは「古語」ですよねえ。『新明解』だと「老人語」かな?一応、引いてみるか・・・。
「袖珍本=ポケットの中に入れて持っていける、小さい本」
特に「老人語」ともなんとも書いてありませんでした。
先日、家でビールを飲んでいて、忽然とこんな疑問が湧き上がりました。
「『政治』とは何か?」
わたくし、大学では「政治学科」を卒業しましたが、こんな根源的な疑問が湧いてきたのは初めてです。そして、この疑問に対する私の理解(=答え)は、
「国民がよりよい生活を送れるような仕組みづくりと、それがきっちりと執行されているかの監視、及び修正を行うこと」
というような辞書のような答えでした。辞書は引いてないけど。
で、ここまで考えたあとで、家にあった辞書を引きました。
『広辞苑・第六版』は
「人間集団における秩序の形成と解体をめぐって、人が他者に対して、また他者と共に行う営み。権力・政策・支配・自治にかかわる現象。主として国家の統治作用を指すが、それ以外の社会集団および集団間にもこの概念は適用でかる。」
『新明解国語辞典・第5版』は、
「住みやすい社会を作るために、統治権を持つ(委託された)者が立法・司法・行政の諸機関を通じて国民生活の向上を図る施策を行ったり、治安保持のための対策をとったりすること。」
そして、『三省堂国語辞典・第四版』は、
「社会を住みやすくするため、国や地方の大きな方針を決めて実行すること」
というものでした。
学問的に調べていけばもっと詳しく書けるのだろうけど、そういうことでなく、ふと感じたのは、
「何のために『政治』があるのか?」
ということ。それは当然「国民・市民のため」でないといけないということを確認したかったのでした。
大阪出身の詩人・茨木のり子さんの詩集『対話』から「対話」を読んでいたら、
「地と天のふしぎな意志の交歓を見た!たばしる戦慄の美しさ!」
という一節が出てきました。この中の、
「たばしる」
って何でしょう?初めて見かけた言葉です。『広辞苑』を引いてみたら、
「たばしる」=(タは接頭語)勢い激しく走り飛ぶ。ほとばしる。万葉集二○「霜の上に霰(あられ)たばしり」
とありました。「た」は接頭語で「勢いの良さ」を表すようですね。
ほかにこういった「た~」はあるのかな?と思って調べると、
「たやすい」「たばかる」「たなびく」
が出ていました。「たばかる」も・・・あ、「はかる」の上に「た」が付いているのか。
また、接頭語「た」を引くと、
「名詞・形容詞・動詞の上に添えて、語調を整え強める。」
とありました。なるほどね。「た」を付けると勢いが出るんだな。
しかし「たばしる」は、詩人でもないと、なかなか出てこない言葉だなあと感じました。
Google検索では(8月18日)
「たばしる」= 4780件
「たやすい」=18万7000件
「たばかる」= 1万2400件
「たなびく」=15万0000件
でした。なぜだか「たばしる」が出ているサイトは、「和菓子」のサイトが多いようでした・・・「茶柱」と関係が?・・・・ないか。
アサヒビールが出しているチューハイ「アサヒSlat(すらっと)」という商品のCMを見ていたら、
「果肉が入ってカロリー最少級」
と言っていました。
「最大級」は聞いたことがありますが、「最少級」は初めて聞きました。もちろん「級」が付かない「最少」はよく使う言葉ですが。
Google検索では(8月18日・日本語のぺージ)、
「最少級」= 2250件
「最大級」=5040万0000件
やはり圧倒的に「最大級」の方が使われていますね。「最少級」という言葉の使われ方は、言葉どおり「最少級」です。ざっと見たところ、ほとんどがこの「すらっと」関連のもの。もしくは「最小級」と書くべきところを間違って「最少級」と書いてしまったもののようです。ということは、この言葉を「造った」のは、「アサヒ」さんなのかな?(広告代理店さんかな?)
家電製品ではもう数年前から、
「最薄(さいうす)」
という言葉が出来て、どんどん「薄さ」を競っていますが、アルコール飲料業界では数年前に「ゼロ」が流行、「糖質」や「脂質」、「プリン体」などが「ゼロ」なってきて、ついに今年は、「アルコール・ゼロ」の、
「ビール味のアルコール風飲料」
が大人気のようですが、「アルコール・ゼロ」なら、もう「お酒」とは言えないわけで、そうすると、
「会社で勤務時間中に(缶コーヒーを飲むように)アルコール風味のアルコール・ゼロの飲料を飲んでもいいのか?」
「車を運転しながら、アルコール・ゼロのアルコール風味飲料を飲んでもいいのか?」
「子どもがアルコール・ゼロのアルコール風味飲料を飲んでもいいのか?」
という問題が出てきます。(出て来ないですか?)
これってOKなんでしょうか?
我が家でも中1の息子が、「アルコール・ゼロ」の缶飲料を指さして、
「これって、ボクが飲んでもいいんやんな?」
と聞いてきたので、即座に、
「アホか、アカンに決まってるやないか」
と答えたら、
「だって、お酒とちゃう(違う)んやろ」
と言われて、グッと言葉に詰まりました・・・。
法律的にはOKですが、結局、
「倫理的に」「世間的に」
というところが判断材料になるわけですが。
もし、これがクリアされて、みんなが平気で職場で(缶コーヒーを飲むように)アルコール風味のアルコール・ゼロ飲料を飲むようになったら・・・おそらくそれにまぎれて、
「本物のアルコール(=ビール)」
を昼間から会社で飲むヤツが出てくるのではないか、車を運転しながら本物を飲むヤツが出てくるのではないか。
そう考えると、やはりここはアノ言葉、
「李下に冠を正さず」
でしょうね。
「机下(きか)に缶ビール(風飲料)を飲(いん)さず」
というところでしょうか。
念のため、「小」を検索すると
「最小級」=3万3600件
でした。なお、その「最少級」のカロリーは、1缶(350ミリリットル)あたり「88キロカロリー」なんだそうです。
奥田民生さんの新アルバムのタイトルが、
「OTRL」
というのだそうです、8月3日の日本テレビ「スッキリ!」で放送していました。
これを見て私が思い浮かべたのは、
「人が四つんばいになって、頭を下げているイラスト」
です。以前この「平成ことば事情」でも書きましたよね。2ちゃんねるとかでも使われる「アスキーアート」で。(平成ことば事情2284「OTL」)
でも、一応奥田さんのこのアルバムではそれぞれ意味があって、「RL」は、
「レコーディング・ライブ」
の略だとか。つまり、「ライブ盤」のような形だけど、「コンサートのライブ盤」ではなく、「ライブ形式でのレコーディング」というちょっと倒錯した感じのもの。
そして、「OT」はもちろん、
「奥田民生」
のイニシャルか。でもこの形、謝っているように見えるなあ。
「OTL」でも、「奥田(O)民生(T)ライブ(L)」の略ですけどね。
日経新聞に載っていた記事で、最近ファストフード店で、
「骨なしチキン」
が人気だということが書かれていました。それって、いわゆる、
「ナゲット」
と、どう違うんだろう?歯ごたえ?部位?よくは分からないんですが・・・。(どうやら「骨なしチキン」)を売り出したのは「ケンタッキー」らしいので、もしかしたら「ナゲット」<=はマクドナルドか>と同じようなものかも)
それよりも気になったのは、「チキン」って「弱虫」の意味でも使われますよね。その「チキン」が、あろうことか「骨なし」って・・・どんだけ弱いねん!と、一人、突っ込みを入れたのでした。でも、人気なんだって。
Google検索(8月12日)では、
「骨なしチキン」=29万9000件
でした
『明日のテレビ~チャンネルが消える日』(志村一隆、朝日新書:2010、07、30)
テレビ局関係者としては、読まずにはいられない一冊。ここ数年、こういった本がたくさん出ている。以前も出ていたのに、目にあまり留まらなかっただけかもしれないが。
間違いなく日本の(もちろん世界の・アメリカの)テレビ業界も、大きな変革期を迎えているのは、言うまでもない。これまでのビジネスモデルでは立ち行かなくなる、大きな動きである。
著者は、2か月に1回アメリカに行くという生活を通じて、アメリカのテレビ事情に精通している。アメリカのテレビは、リモコンの裏が「キーボード」になっていて、テレビ受像機がそのまま「パソコン画面」のように双方向のメディアになっているという。そんなリモコン、日本では見たことなかったが、先日夏休みにUAEのドバイに行った時に乗った、「エミレーツ航空」の座席の前のTVモニターの下についている「リモコン」は、裏を返してみると、はたして「キーボード」が付いていた。
それよりも驚いたことは、TVモニターが「タッチパネル」になっていて、映画なんかは、何百種類も、それも日本語吹き替え版だけでも何十種類もが用意されている事。それも「アバター」や「アリス・イン・ワンダーランド」「2012」など最新(と言っていいだろう)のものが。乗客は、好きなときに好きな映画を、しかも巻き戻したりすることもできるし、色んな言語で聞く(見る)ことができるのだ。最初はタッチパネルに戸惑ったもの、すぐに慣れた。これは便利。キーボードより便利だ。これを見て、
「ああ、これは『i-Pad』が人気なわけだ」
と肌で感じ、間違いなくそういった時代に変わるなと確信した。
ドバイでは、巨大なショッピングモールの中にある大きな「案内板」がまた、「タッチパネル」だったのだ。カーナビなどが「タッチパネル」になっているのと同じ理由である(我が家の車にはまだ、カーナビはないのだが・・・)
おそらくその次のステップでは、これが「3D」になって案内してくれるだろう。「アラジンの魔法のランプ」をこすった時のような状態かも。が、カーナビが「3D」になったら、事故が起きそうな気がするが・・・。
ただ、高齢社会になる中で、中高年の指は若者ほど「脂分」がないので、タッチパネルが反応しにくい。この辺りの改良は必要だろう。また視覚障害者への対応どうするか(音声案内など)も、考える必要があると思う。
とまあ、この本の中身とは少し話がそれたかもしれないが、いろんなことを考えさせられた一冊。サブタイトルの「チャンネルが消える日」は、エミレーツ航空の機内の映画のように、数百という選択肢になった場合、「チャンネル」というものが意味をなくすということであり、それは結局「視聴者の希望を優先した結果」なのだろう。しかし、その先には「あんまりたくさん番組がありすぎて、わからない。もっと少なくてもいいから、私の好みのものだけ選んでくれたら助かる」という人たちも出てくるような気がする。そこに「ビジネスチャンス」が、ありはしないかだろうか?
「会社からの帰り携帯電話が鳴りました。ミヤネ屋」のスタッフから、質問の電話です。
「『どれくらい』と『どのくらい』の違い、使い分けはどうすればいいでしょうか?」
なるほど、ほぼ・・・というか、まあほとんど同じ意味ですね。使い分けがあるのかどうか。アニメの「一休さん」のように少し考えたら、ひらめきました。
「『どれくらい』は、何かと比較して『あれと同じぐらい』『あれより大きい(多い)』という比較が出来る場合なのに対して、『どのくらい』は単に『量』や『数』『大きさ』の単位を基準にして測る(計る)ような場合に使うのではないかな」
と答えると、スタッフは、
「なるほど、わかりました!」
と納得してくれました。
が、今こうやって文字にしてみると・・・どうなんだろう、どっちでも使えるような気がするな。特に違いはないのか?
『精選版日本国語大辞典』を引いて見ると、
*「どれくらい」=(「どれぐらい」とも)どんな程度。どの程度。副詞的にも用いる。(例)「弔花」(1935)<豊田三郎>「都会にゐる方がどれ位危険だか」
*「どのくらい」=程度の不定のことを示す語。副詞的に用いて、主として程度のはなはだしいさまをいう。(例)俳諧・志多良(1813)二「汗の玉草葉におかばどの位」
うーん、「どのくらい」の方が具体的な例を指している(求めている)よう感じがしますね。じゃあ、最初の解答でよかったのかな。ということで。ご意見、お待ちしています!
5歳6か月になった娘のコトバの話。
天気予報でどういう予報をしていたか、という話になったときに娘が、
「『はれのうち、あめ』って言ってたで」
と言いました。
「晴の内、雨」?
ああ、
「晴れ のち 雨」
ですね。5歳児の語彙には、
「のち」
は「ない」ですね。「のち」は「口語」ではなく「書き言葉」なのだなあと、改めて確認することが出来ました。「天気予報用語」と言うことも出来ますね。
それと、「まだまだ、子ども」と実感できる、もう残り少ないコトバになってきたのが、
「しむ」
です。これに関しては、「平成ことば事情3658ハッピ」で、去年の7月14日に書きました。娘が4歳半の時です。
「ザニガニ、ハッピ(脱皮)したら、しむ(死ぬ)ねんで!」
と言ったという話。
それから1年たったある日のこと。夕飯でビールを飲んでいたら、娘が、
「あんなあ、ななせちゃん、ビールなめたけど、しまんかってんて」
と言いました。しまんかった?染みる?歯に?
って言うか、あかんやん、保育園児がビールをなめたら!
ふだん娘には、
「ビールやお酒は、子どもが飲んだら死ぬ」
と言っているのです。ということは、「しまんかった」は、
「死なんかった」
か!よかった、しまんくて。「しむ」だから活用すると「しまない」なんですね。
「ダメ」と言うと、やってみたくなるのが子ども。でもこれはやはり「ダメ」と言い続けなくては。本当は、家では(子どもの前では)飲まないようにしたらいいんですけど・・・。
8月3日に読売テレビの夕方の番組『かんさい情報ネット ten!』で、天橋立の町起こしのイベントとして「コスプレ大会」が計画されたという話題を、特集で放送しました。
その中で、コスプレイベントを企画した市役所の観光課の女性から、
「コスプレって、知ってますか?」
と聞かれた、天橋立の地元・京都府宮津市の井上市長が、こう答えていました。
「まあ、ぼんやりと認識している」
これって、政治家用語ではなく普通のコトバに翻訳すると、
「知らない」
ということですよね。「知らない」の「婉曲表現」です。なぜこのような言い方になるのか、井上市長の心のうちを推測すると、
「『「知らない」とダイレクトに答えると、『関心がない』と受け取られて、せっかくの提案に否定的な見方をしていると思われるおそれがある。決して熟知しているわけではないし、それどころか、ほとんどよくわからないが、そういったことをやること自体の是非については、知っている・知らないの次元を越えて考える必要があると思い、真摯に対応する気持ちの準備はある」
というようなことを一言で答えようとすると、
「まあ、ぼんやりと認識している」
という一言に集約されるのではないでしょうか?
政治家は、えてして直接的な表現を避けるということが、この一言に見事に凝縮されているなあと思いました。もちろん、なぜそうなるのかは、
「発言に大きな責任を伴う立場だから」
「影響力が強いから」
ということですが。
「ミヤネ屋」の翌日のテレビ・ラジオ欄の予告文言を作っていた時のこと。
「刺客の攻撃」
とキーボードを打ったつもりが、出てきた文字は、
「鹿君の攻撃」
・ ・・。
こ、これは結構笑える!しかもその日の「ミヤネ屋」には、地上デジタル放送への完全移行まで、あと1年を切ったことをPRするために、
「地デジカ」
君が出演予定だったのですから、「これはこれでいいかな」とちょっと思ったのでした。
「誤変換」は、作成段階では楽しいですね。でも、これが本当に「新聞のラテ欄」に出ていたら・・・夏なのに涼しくなるところでした。
『ニホン英語は世界で通じる』(末延岑生、平凡社新書:2010、7、15)
著者は1941年兵庫県生まれの関西人。神戸女学院の高校中学、関西学院の高等部、兵庫県立大学などで英語の先生をしていた人だそうだ。その中で、ずっと「欧米人の英語の発音をまねする必要はない。日本人はニホン英語の発音でよいのだ」という信念を持ち続けてきた。この本はそのある意味"闘いの歴史"を記したものと言えるかもしれない。帯にあるように「日本人のカタカナ英語は、世界でもわかりやすい発音なのだ!」は、これまで「発音がカタカナ英語だから、外国人に通じない」と思い込んでいた人たちにとっては「目からウロコ」の発言だろう。また、文部科学省をはじめ、日本の英語教育の王道からは認められない、"邪道"と言われるものかもしれない。でも、事実は事実。邪道で結構、通じたもん勝ち!という人には福音書。
思えば「標準語しか日本語ではない」という日本語の「標準化」のこれまでの歴史と、「方言は豊かである」「方言はおもしろい」という昨今の情勢に似たところがあるよなあと思いながら読みました。
『桐島、部活やめるってよ』(朝井リョウ、集英社:2010、2、10初版・2010、3、30第5刷)
「第22回小説スバル新人賞」受賞作品。ずいぶん前に、読売新聞の書評欄で、小泉今日子が激賞していたっけ。
自分では買わなくて、妻が買って読んで「もう全然、つまらなかった」と言っていたので読まなかったのだが、なぜだか気になっていて、ある日リビングの机の上に置いてあったので読み出した。
たしかに最初は文章が読みにくい。若者言葉を文字化されると読みにくいということか。しかし、徐々に馴染んでくると、話も面白くなってくる。
菊池宏樹、小泉風助、沢島亜矢、前田涼也、宮部実果という5人の高校生の立場から、章ごとに語られる形式。最後に菊池宏樹に戻る。
全体としてのお話は、何気ない「青春スケッチ」だが、話の中で重いというか「物語だな」と思うのは、宮部実果の話。ここだけ読んでもいいかもしれない。「青春スケッチ」と言ってしまえばそれまでだが、誰もが青春時代・高校時代に少しだけ戻れる小説、か。
ちなみに、著者は現役の大学生。まさに(ほぼ)リアルタイムの青春を生きている中での小説・・・と、遥か昔に青春を過ごした者からは思うが、大学生にとって高校時代は、「既に確定した過去」なのかもしれない。
『世界は日本サッカーをどう報じたか~「日本がサッカーの国になった日」』(木崎伸也、ベスト新書:2010、8、5)
「日本人」は世界からどう見られているか、というような本はあるが、「日本人」ではなく「日本のサッカー」にポイントを絞ったのは確かに新しい。しかも、南アフリカワールドカップが終わってたった2週間で、1冊の本として刊行するというのも「すごい」と思った。南アフリカワールドカップでの日本の試合を海外メディア、新聞と放送がどう評したかを、リアルタイムで書きとめたもの。放送での実況コメントまで拾っているのはすごい。
著者は、生の「ギュンター・ネッツアー」とも話をしたんだ!
これを読むと、意外と日本サッカーの将来は明るいんじゃないかなと思うし、「課題」もしっかりと見えてきた気がする。著者の木崎さんの本、知らない間に過去に私、読んでいましたよ。
ビキニ環礁が、ユネスコの世界遺産になったというニュースを8月2日のお昼のニュースで伝えていました。
その中で「ユネスコ」のアクセントを、日テレのアナウンサーは「平板アクセント」で、
「ユ/ネスコ」
と読んでいました。それを聴いた大田アナウンサーは、
「ええ!ぼくは『ユ/ネ\スコ』やなあ」
と言っていました。大田アナウンサーは「ミヤネ屋」本番でも、しっかり「中高アクセント」で、
「ユ/ネ\スコ」
と読んでいました。
『NHK日本語発音アクセント辞典』を引いて見ると、
「(1)ユ/ネスコ〔平板〕、(2)ユ/ネ\スコ(中高)」
と両方載っていました。「中高」の「ユ/ネ\スコ」の方が「伝統的なアクセント」なのかもしれません。
似たような4文字の外来語の「○○○コ」でいうと、
「ナ/ビ\スコ」
は「中高」しか言いませんしね。「ナ/ビスコ」は、ないでしょう。
ただ「○○○コ」という言葉には、
「メリケン粉」「小麦粉」「薄力粉」
など「粉」を「コ」と読む4拍の言葉がたくさんあって、それらは「平板アクセント」なので、それにつられて「平板」になる傾向があるのかもしれませんね。
『ニッポンの海外旅行~若者と観光メディアの50年史』(山口誠、ちくま新書:2010、7、10)
最近の若者は、海外旅行に行かなくなっている。これは『内向き』になっている証拠で、情けない。けしからん。バーチャルな世界に閉じこもっているから、そんなことになるんだ。そんな論調がある。というか、私もそうだと思っていた。しかし、若者が海外旅行に行かなくなったのは最近のことではなく、もう10数年前からだった。
この本は、若者を海外に駆り立てた「ガイドブック」の変化を通して、どういう形で若者たちが「海外」へ憧れを持っていったかということを、解き明かしてくれる。その意味では「ガイドブックから見た若者論、社会論」と言える一冊。これを読むと、私もしっかり「ガイドブック」と時代の波に乗って踊らされていたんだなあと感じた。「地球の歩き方」「深夜特急」「個人旅行」・・・そしてネットの時代。旅の形はこれから、どう変わってゆくのかなあ・・・。
劇団四季の『クレイジー・フォー・ユー』を京都劇場で見ました。7月30日から始まったばかり。その翌日、「招待席」で見させていただきました。招待されたから言うんじゃないけど、素晴しかったです。主演の2人、ボビー役の加藤敬二さんと、ポリー役の木下花代さん、素晴しかった!特に私は、木下さんが・・・。
しかしいつも思いますが、よくあれだけ踊って動きながら、息も切らさずに歌うことが出来るなと、驚かずにはいられません。
コミカルなシーンも面白かった。もっと"笑い"がおきても良かったと思いましたが。京都の皆さんはおとなしいんだっしゃろか?
カーテンコールでは、スタンディング・オベーションが、たぶん劇場全体。もちろん私も。公演2日目で、もう最高潮という感じでした。
また、パンフレットに「ミヤネ屋」月曜日でおなじみの「うつみ宮土理さん」が1ページ分、コメントを寄せてらっしゃいました。ちょうど今日、「ミヤネ屋」にご出演だったのでお帰りの際に、
「劇団四季の『クレイジー・フォー・ユー』観てきました!パンフにコメントを寄せてらっしゃいますよね」
と言うと、
「四季、すごかったでしょ」
とニッコリされてました。
さて、公演が終わったのが午後8時半。夕飯をと探して入ったのが、JR京都駅構内のとあるレストラン。スポーツ・バーのような感じのオシャレなカフェで、前にも一度入ったことがあります。一人でも入りやすい感じなのです。
そこでビールと食べ物を頼んで、「もう一皿、なにか・・・」と思って頼んだのが、「イカのリングフライ」。確か前に来た時にも食べておいしかったから。待つこと5、6分で注文の品が出てきました。その時のウエイトレスさんの一言は、
「お待たせしました、イカリングになります」
と。この言葉が、実は全く違和感なかったんですよ。
そのことに気付いたのは、一つ目のイカリングを食べ終わったとき。「あっ!」と思いました。
思えば、東京出張の帰りに、JR東京駅構内のレストランで食べた際にウエイトレスさんに言われた、
「伝票のほうになります」
が気になってから約10年。歳月を感じました。(今検索してみたら「ことば事情23 になります」が書かれたのは、1999年10月8日でした。)
すっかり「になります」は定着したようです。
そうそう、けさ(8月2日)の読売新聞朝刊に「正しい日本語で心豊か」という特集記事。作家の椎名誠さんと、同じく作家の角田光代の対談の様子が載っていました。その中で椎名さんが、こんな発言をしていました。
「奇妙なマニュアル化も進んでいる。『こちらおでんになります』と、コンビニの店員さんが言うことがある。スイカがおでんに変わるわけじゃないから変ですよね。言葉の貧困ぶりがあらわれているのではないでしょうか。」
そうかなあ。椎名さん、コンビニでおでん、買うんだ、と思いました。
「関西人は1拍の語も、母音を伸ばし2拍にする。関東人は歯切れよく1拍で言う。」
ということはよく言われます。具体的には、「目」「手」「歯」を
「目ェー」「手ェー」「歯ァー」
というような関西アクセントの言葉です。関西では「母音の無声化」がないことも影響していると思います。それに関して先日「ハッ!」と気付いたのは、
「2拍になるとアクセントが変わってくる」
ということ。「1拍」だと"あまり"アクセントの違いは気になりにくいのですが、「2拍」だとその辺りが単語単位で明らかになってくる。
具体例を見るために、「1拍(1字)の単語(意味を持つ語)の例を「あ」から挙げてみましょう。
亜、胃、鵜、絵、尾
蚊、木、九、毛、子。
差、詩、酢、背、祖。
田、血、津、手、戸。
名、荷、ぬ?根、野。
歯、日・火、麩(府)、屁、穂。
場、び?、ぶ?、ベ?、ぼ?
間、身、無、目、喪(藻)
矢、●、湯、●、世
等、利、る?、れ?、炉
輪(和)、●、●、●、を?
ということで、ほとんどの音に「1字語」がありました。そして、「1拍」で読む標準語であるならば、アクセントは、
「平板」か「尾高(=頭高)」
の2通りのアクセントしかありません。その区別はこれらの「1字語」の後に助詞の「が」をつけたときに、「が」の前で音が下がれば「尾高(=1字なので「頭高」でもある)」、「1字語」と助詞「が」の間に音の高さの変化がなければ「平板アクセント」となります。
ところが、母音を伸ばして「2拍」にすると、次のようになります。
亜、胃\、鵜、絵/、尾/
蚊、木/、九、毛\、子
差、詩、酢(酢/)、背\、祖。
田/、血、津、手/、戸。
名\、荷、ぬ?根/、野。
歯\、日\・火/、麩(府)、屁/、穂/。
場、美、ぶ?、ベ?、ぼ?
間、身、無、目/、喪(藻)
矢/、●、湯/、●、世
等、利、る?、れ?、炉
輪/(和)、●、●、●、を?
斜線が入っていないものは、「高い音で平板で引っ張るアクセント」です。これを「/」(上昇アクセント)と「\」(下降アクセント)、それに「高い音で平板アクセント」で分類したら、
「/」=絵/、尾/、木/、(酢/)、田/、手/、根/、火/、屁/、穂/、目/、矢/、湯/輪/
「\」=胃\、毛\、背\、名\、歯\、日\
「高い音で平板」=亜、鵜、蚊、九、子、差、詩、酢、祖、血、津、戸、荷、野、麩(府)、場、美、間、身、無、喪(藻)、世、等、利、炉、(和)
といった具合になりました。
助詞の「が」も付けてみると、次のように分類できます。
(1)「胃」、「歯」=「イ\ー・が」、「ハ\ーが」=頭高
(2)「目」、「手」=「メー/・が」、「テー/・が」=平板?尾低?
(3)「喪」、「身」=「モー・が」、「ミー・が」=完全<高>平板?
(4)「湯」、「輪」=「ユー・が」、「ワー・が」=完全<低>平板?
というようなパターンに分けられるのではないかと思います。このうち(2)(3)(4)は、標準語には「ない」アクセントパターンです。つまり1音目と2音目に高さの違いが「ない」のです。
単に母音を伸ばすというだけでなく、アクセントのパターンも複雑になるという面が、関西弁にはあるのではないでしょうか?と思ったのでした。
「ミヤネ屋」のスタッフのO君から質問を受けました。
「WHOの読み方はどう読めばいいでしょうか?」
「ダブリュー」はよいとして(=「ダブル」ではない)、「H」は「エッチ」か「エイチ」か?ということですね。私は「『エイチ』かな」と思っていたのですが、国語辞典を引いてみると、驚いたことに国語辞典は、
「エッチ派」
なんだったのです!この質問、もちろん会社で受けたのですが、
「ええ!『エッチ』だけか!?」
と大きな声を上げたら、周囲の人(特に女性)に変な目で見られ、釈明に苦労しました。O君と「往生」しました。O嬢の物語。皆さんも気をつけましょう。声を出すのは「TPO」が大事ですね。Oh、ミステイク。
「国語辞典が『エッチ派』」という根拠は、
「『エイチ』は『空(から)見出し』」
で、「エイチ」を引くと、
「エッチを見よ」
という印が付いている。『精選版日本国語大辞典』『三省堂国語辞典』『広辞苑』『明鏡国語辞典』『新明解国語辞典』はそうでした。
『新明解国語辞典』は、「エッチ」の解説の最初に、
「エイチの俗な発音」
と書かれています。
また、『三省堂国語辞典』は、「H」の「エッチ」と、「hentai」の頭文字のHからきた「エッチ」とを「見出しで別項目」にしていて、後者の「エッチ」は「(俗)」というマークをつけた上で、
「(1)性的なことを好むようす。(2)性交。」
と記していました。
『新潮現代国語辞典』は、ちゃんと「エイチ」の項目を立ててきっちりと解説をし、そこに、
「(エッチとも)」
となっていて、「『エッチ』の方が、空見出し」です。「エイチ」の意味は、
(一) 英語のアルファベットの第八字。
(二) (1)【H】水素の元素記号。(2)(hardの略)鉛筆の芯の硬さを表す記号の一。HBの上の硬さ。(3)(hipの略)腰周り。ヒップ。
(三)【h】(1)(hectoの略)ヘクトの記号(2)(hourの略)時間の単位で【時間】の記号。
と、きっちり「エイチ」と発音するものの意味を大文字と小文字に分けて記しています。随分「エイチ」はありますね、略号が。
そして性的な意味の「エッチ」に関しては、見出しがひらがなで「えっち」となっていて、
「(「変態」をローマ字書きしたhentaiの頭文字からか)(俗)卑猥(ヒワイ)」
とあります。今は「卑猥」の意味だけじゃないんだけど・・・。
「今は」という部分に関して『岩波国語辞典・第7版』は(「エイチ」の立項はなく)、「エッチ」の説明に、
「<俗>(1)性的にいやらしいこと。そういう人。特に男。」
というふうに、対象を「男」と強調しています!そ、そうだったのか!また、
「(2)性的行為、特に性交。普通「エッチ」または「H」と書く。「変態」のローマ字書きの頭字Hから。以前女学生の隠語だったのが、1965年ごろ一般化し、80年ごろから(2)の意が広まった」
というように、「具体的な年代」が記されています。これは貴重だ!たしか「十手」が「じゅって」(正しくは「じって」)と間違って言われるようになった年代も具体的に書いていたな、この辞書は。
それにしても私個人は、「エイチ」と読む方が「英語っぽい」感じで、「英知」を感じます。
家にあった『広辞苑・第4版』では、なんと「『エイチ』の見出し」すらなし!「エッチ」のみです。あんたも好きねえ。
あ、それで結局「WHO」は、
「ダブリュー・エイチ・オー」
と「英語らしく」読むことにしました。