新・ことば事情
3849「朗読と語り・ナレーションと吹き替え」
<ああもう5年近く前の話になってしまいましたが、2006年3月に書きかけたものです>
昨年の秋に、中学校の現役の先生たちと飲んだ時に、「朗読」と「ナレーション」の違いについて、という話題になりました。先生方が言うには、
「アナウンサーは、朗読が上手なんでしょ」
とのこと。ところが、ラジオドラマとかをやっている局のアナウンサーは別にして、必ずしも「アナウンサーが朗読が上手」とは限りません。何より、放送で「朗読」をする機会なんて、テレビ局のアナウンサーにはほとんどないのですから。私の主張は、
「朗読」=書き言葉の音声化で二次元的
「語り・ナレーション」=現象の音声化であり三次元的
というもので、「書き手の意図を忠実に再現しようという」のが「朗読」。「読み手の解釈を交えて音声化する」のが「語り・ナレーション」。集合論でいうと、「ナレーション」の範疇の一部に「朗読」が入ると。
先生方の話を聞いていると、どうもちょっと解釈が違う感じでした。「教育指導要領」の説く「朗読」は、実は「狭義の朗読」ではなく「狭義の語り・ナレーション」をさしているようなのです。ですから「朗読」と「ナレーション」は同じくくりにされてしまっているようです。
この辺までが5年前の話。
最近私は「ミヤネ屋」でよく「吹き替え」を頼まれます。最近では朝青龍や高砂親方、ちょっと前は天皇陛下に、小室哲哉、酒井法子のだんなや裁判官。まあ、色んな声の出演を頼まれます。去年、一番「似てる」と言われたのは、「中田カウス」さんの吹き替えでした。関西弁の口調が似ていたのかもしれません。小室哲哉は似ていたようですが、吹き替えとしては違和感がありました。なぜなんだろう?と考えた時に、
「吹き替えは、物もね・声色を似せるのではない」
ということに気付きました。似せる、というよりはあくまで、
「その人の心情に沿う」
ことが大事です。
これに関して、「ああ、やっぱり!」と思ったのは、今年(2010年)1月3日の日経新聞で、文楽太夫の竹本住大夫さんと、元NHKアナウンサーでエッセイストの山川静夫さんの対談を読んだときです。そこでは、司会者が、
「声色と言えば、師匠、浄瑠璃は声色で語ったらいけません。」
と話を振ったのに対して、竹本さんが
竹本「そうでんねん。浄瑠璃ではね、老若男女いろんな人を声をこしらえずに語り分ける。音(おん)で切り替えるんですわ。同じ若い女でも違いまっせ。やりましょか?(拍手)商家の娘なら『ものをお頼み申します』とおっとり語る。農家の娘はテンポを速めて『用があるなら入らしゃんせ』(拍手)。」
山川「声は同じでもリズムが違うと別人になりますね。音と言えば、駅員さんの『とうきょう~、とうきょう~』のアナウンス、師匠はあれも音だと言われた。」
竹本「節に何や、こう、ムードがあってね、聞いてて気持ちいい。それが音なんです。」
そして、若いアナウンサーに向けてのアドバイスもされていました。
竹本「アナウンサーでも、ええ口してる人がおまっせ。口を素直に大きくあけて息が出てはる。」
山川「若いアナウンサーはペラペラ、ペラペラやりがちです。私もそうでした。『伝える』と『伝わる』は違う。聞いてくださる人たちを納得させるのが『伝わる』。長い修練が「必要です。太夫もそうですよね。」
竹本「そう、そう。息がしっかり出てれば、声は小さくても隅々まで伝わる。浄瑠璃の場合は文章で言うとテンやマルでプツンと切ってはダメですわ。音曲やから流れがないと。」
大変勉強になる対談でした。