新・ことば事情 3804
「心が折れる」
「くじける」「めげる」という意味で、最近よく使われるのが、
「心が折れる」
あるいは、
「心が折れそうになる」
という言葉です。この言葉に対する素朴な疑問は、
「『心』って、折れるものなの?」
ということでした。「折れる」というと「棒」「茎」「骨」「鉛筆の芯」「鉄骨」「箸」など、
「長くて硬いもの」
というイメージがありますが、「心」は果たしてそういった形状なのでしょうか?「心」ってもっと不定形で柔らかいイメージがあるんだけどな。
少し前までは若者の間で、こういったのと似たような状況をさして、
「へこむ」
という表現がよく使われていたように思います。「へこむ」だと「ゴムまり」のように、
「一旦へこんでも、すぐに元に戻りそう」
です。私は既にその頃、もう「若者」ではなかったので「へこむ」という言葉を使ったことはありませんが、よく耳にしました。これは、
「めげる」「落ち込む」
というニュアンスでした。これに対して「心が折れる」は、
「何かある一つの方向を目指して懸命に努力や我慢を続けていたものが、何かのきっかけでその目標に達することが出来ずに挫折してしまい、立ち直れなくなる状況」
のように思います。「へこん」だり「めげ」たりしても、または「なえ」たり「くじけ」たりしても、すぐに(あるいは少し時間がかかっても)立ち上がることができそうですが、「心が折れる」とすぐには立ち上がれず、事実上「断念」を強いられる気がします。それだけ、若者の心に「柔軟さ」がなくなったのか、あるいはそういった柔軟さを許す度量・余裕が、社会(=大人の世界)になくなったのか、あるいはその両方なのでしょうか。
フジテレビでスポーツ実況などを担当している三宅正治アナウンサーは、その著『言葉に魂(おもい)をこめて』(ワニブックス、2009)の中で、何回か「心が折れる」という言葉を使っています。その一番古い例は、2003年大晦日の格闘技イベント番組「男祭り」で、吉田秀彦選手が入場する時のコメントの、
「最強の一族の辞書にギブアップの文字がないのなら、その腕が折れるまで、その心が折れるまで、力を緩めることはやめよう」
というもの。また、2004年アテネ五輪女子柔道52キロ級の銀メダリスト・横澤由貴選手に関する記述でも、
「苦しい練習に心が折れそうになった時、結果が出ずにあきらめそうになった時、別な自分が囁くこの言葉」
と使っています。さらに、この本で紹介している、2008年9月に亡くなった東京アナウンスセミナーでの三宅さんの恩師、故・永井譲治さんのブログに書かれた言葉の中にも、
「(前略)みんなが生きる勇気を持てるように。険しい道でも確かに歩んでいけるように。独りで涙を流さないように。心が折れないように。あきらめないように。くじけないように。曲がらないように。(以下略)」
と「心が折れないように」という表現が出てきます。
このほか、明治大学の齋藤孝教授は著書の中で、
「『心が折れる』という言葉をよく耳にするようになった最初は格闘技の世界で、格闘技ブームによってこの表現が流布して一般化し、そこから日常的に用いられようになった」(『折れない心の作り方』文藝春秋)と述べています。
是か非か、白か黒かの二者択一ではポッキリと折れてしまう心。もっと多様で柔軟な可能性を探る「ゆとりある心」が、必要なのではないだろうか・・・と、実は昨年11月中旬に発売されたブルーの表紙の『現代用語の基礎知識2010』(好評発売中!=宣伝)にも書きました。が、「心が折れる」若者を作り出したのは、一体誰なのか?ということ、今これを書いていて考えてしまいました・・・・。