新・読書日記 2010_024
『神の雫23』(作・亜樹直、画・オキモト・シュウ、講談社:2010、1、22)
マンガの単行本です。
今回はニューワールド対決の「第七の使徒」。ワインのニューワールドは、アメリカもオーストラリアもどちらも好きだなあ。チリ、アルゼンチン、南アフリカ、ニュージーランドのピノ・ノワールもおいしいです、クラウディ・ベイとか。
ちなみに次、「第八の使徒」は、「ボルドー左岸」対決だそうです。これは本道ですね。
『神の雫23』(作・亜樹直、画・オキモト・シュウ、講談社:2010、1、22)
マンガの単行本です。
今回はニューワールド対決の「第七の使徒」。ワインのニューワールドは、アメリカもオーストラリアもどちらも好きだなあ。チリ、アルゼンチン、南アフリカ、ニュージーランドのピノ・ノワールもおいしいです、クラウディ・ベイとか。
ちなみに次、「第八の使徒」は、「ボルドー左岸」対決だそうです。これは本道ですね。
『ファーストクラスに乗る人のシンプルな習慣~3%のビジネスエリートが実践していること』(美月あきこ、祥伝社:2009、12、10第1刷/2010、1、25第4刷)
ええー、1470円もするのに売れてるんだあ、この本。
著者は元国際線キャビンアテンダント。ちょっと私としては、違う感じのにおいが漂う感じが。なんだろ、この違和感は。そう、あれと同じです、でも言えない、そんなことはストレートには・・・。「叶姉妹」が好きな女性は、この本はきっと気に入ると思います。
この本を買ってきた妻は「勝間本が好きな人は、この本も好きでしょう」と言っていました。
『全国まずいものマップ~清水義範パスティーシュ100三の巻』(清水義範、ちくま文庫:2009、2、10)
30年前に読んだ筒井康隆を思い出した。しかし、筒井康隆は天才的にハチャメチャだが、清水は秀才的、計算されたハチャメチャのような気がする。それに、だんだん正気からずれていって、気付いたら「ホラ」(ホラーではない)の世界に連れていってくれる感じ。常に具体的な現実に対する批判というか、そう、クリティカルな視点を、ワイドショー的に持っている感じがする。筒井は具体的な現実のようでいて、もっと哲学的な、人間の根源のようなものについて、ハチャメチャやっていた気がする。
『京大少年』(菅広文、講談社:2009、11、24第1刷・2009、12、18第4刷)
『京大芸人』の第2弾。第1弾の 『京大芸人』を読んでいないが、小6の息子が買ってきたので、私も読んだ。「雑食」ならぬ「雜読」です。
字が大きいので1時間半ぐらいで読めた。
本で紹介されている、ロザン・宇治原の「大人の勉強方法」は、私のと同じだなあと思った。感想は、「やはりいい友達を、中学・高校の時に作ることは大切だなあ」と。
『22歳からの国語力』(川辺秀美、講談社現代新書:2010、1、20)
タイトルにはたしかに「22歳からの」と書いてあったけど、「から」とあるので、「22歳以上は全部対象」だと思って、買って読んだのだが、この本の対象は「就活をしているような21歳ぐらい~23歳ぐらいまでの若者」でした。ちょっと48歳のおっさんが読むものではなかったような・・・くすぐったさを感じながら読みました。
でも途中からは、「22歳ぐらいの若者に、ものを教える時、どのように教えるかの参考に・・・」と思いながら読んだので、ちょっとそういう意味では役に立ちました。
でも読むのは、若い方におすすめする本です。
(私には☆☆と☆半分)
『100かいだてのいえ』(いわいとしお、偕成社:2008、6第1刷・2009、11第21刷)
売れているそうです。新聞で見ました。アイデアの勝利でしょう。もっと楽しいかと思ったけど、絵本としての楽しさ、わくわく感は・・・期待の方が大きすぎた。
そりゃあ、ブルーナーの伝統と様式美や、せなけいこのアバャンギャルドな暴力的童話の不条理には、かないませんて。
100階までなら、もう少し工夫というかアクシデントを用意してほしい。最初のアイデアである、絵本を「タテ」にするところで全精力を使い果たしたか?残念...。
『辞書を読む愉楽』(柳瀬尚紀、角川選書:2003、3、31)
7年前に出た本かあ・・・僕の『「ことばの雑学」放送局』(PHP文庫)と同じ頃ですね。3ページほどの短いコラムが81編。何気なく本棚から取り出して「おや?まだ読んでいなかったけ?」と読み出した。
さすが柳瀬さん、すごいです。その柳瀬さんが「リスペクト」しているのが山田俊雄先生。端々にその思いが表れている。あと、将棋の棋士も「リスペクト」しているようですね。そうやって自分の好きな分野でリスペクトできる人を持つことって、良いことだと思います。しかも、いろんな分野で持てるということは、「その人がスゴイ」ということの表れだと思います。
先週の土曜日、NHKラジオのニュース(大阪放送局)を聴いていたら、女性アナウンサーが、
「文化財」
のアクセントを「平板」で、
「ブ/ンカザイを」
と読んでいました。それを聞いて私は違和感を覚えました。
「『文化財』は『ブ/ンカ\ザイ』、『中高アクセント』しかないだろう!『平板アクセント』で読んだら、『文化財』の歴史、有り難味が否定される!」
とプンプンしていたのですが、会社でアクセント辞典を引いてみると、なんと、2番目のアクセントとして、
「ブ/ンカザイ」
という「平板アクセント」が載っているではありませんか!
うーん「○○財」も、「●●会」(例・幹事会・2次会)とか「◎◎点」(例・交差点)のように、
「中高→平板」
へとアクセントの変化が起こっているのか、気付かなかった・・・。
でも・・・平板の「ブ/ンカザイ」は、気持ち悪いよお!
1月27日の「情報ライブミヤネ屋」で、ゴルフの石川遼君の新CMを紹介する原稿で、
「新潟県湯沢町」
という町名が出てきました。あの「越後湯沢」ですね、湯沢温泉でも有名な。この「湯沢」には「ゆざわ」とルビが振ってあったのですが、「町」が「まち」なのか「チョウ」なのか、ルビが振っていなかったので分かりませんでした。調べたら、
「まち」
でした。どうやら新潟県の「○○町」の読み方は、全部「まち」のようです。
各都道府県別の「市区町村」の「町」の読み方ですが、『日テレ放送用語ガイド』によると
<「まち」で統一>
秋田県・福島県・茨城県・栃木県・群馬県・埼玉県・千葉県・東京都・神奈川県・新潟県・富山県・石川県
<「チョウ」で統一>
福井県・岐阜県・愛知県・三重県・滋賀県・京都府・大阪府・兵庫県・奈良県・和歌山県・鳥取県・岡山県・山口県・香川県・愛媛県・高知県・宮崎県・鹿児島県・沖縄県
となっていて、大きな傾向としては、
「東日本は『まち』、西日本は『チョウ』」
という感じです。ただこのガイドブックは2003年12月に出たものなので、その後「平成の大合併」などで変わっているところがあるかもしれません。それに例外もあります。
関西のテレビ局のアナウンサーとしては、
「近畿地方の『町』は全部『チョウ』」
なので、つい原稿で出てきたほかの地域の「町」も、
「チョウ」
と読みがちです。今後は「町」にも「まち」か「チョウ」かのルビを振るように、ディレクターや記者にお願いするとともに、わたしたちも今回のように、読む前にきっちりと調べてから読みたいと思います。
『うつから帰って参りました』(一色伸幸、文春文庫:2009、10、10;単行本はアスコムから2007、10)
新年2冊目に読んだ本。(読書日記を書くのは遅くなりました。)それが「うつ」ですわ。時代を反映しています・・・。
脚本家として知られる一色氏だが、「うつ」に陥っていたとは知らなかった。真面目な人ほどかかりやすいとか。思いつめてしまうのね。一色氏が「ライバル」と思っていたのは同じく脚本家・作家の野沢尚氏。彼は・・・自殺してしまった。大きな喪失感があったろう。
文章を読んでいると、どこかやっぱり「作っちゃってる」感じがある。このエッセイ、構成がしっかりしているのだ。ドラマの脚本みたいに・・・。当然と言えば当然なのだが、それが少し「わざとらしさ」を感じさせたり・・・。いわゆる「ええかっこしい」なんでしょうな。だから、その背伸びした分が辛くなってくることがあるのでは?
一色氏は本の中で、「うつ病は心の"がん"だ」と言う。ドキッとする。一般的に「うつ病は心のかぜ」と軽く言われるが、そうではないと力説。なるほどと思う。でも「がん」も、「うつ病」も、"直る病気"になっている、そういうことを言いたいのじゃないかな。
あとがきで、「久米島」に潜りに行くとあった。それを読んで、佐藤優の『沖縄・久米島から日本国家を読み解く』を読もうと思ったのでした。読書って、なんだかつながっていますね。
車の中でNHKラジオの天気予報を聞いていた際に、以前も気になって昨日もやっぱり気になった表現がありました。それは、
「滋賀県南部は北西の風、琵琶湖では北西の風がやや強く・・・」
という言い方です。声に出して、言ってみてください。おかしくないですか?私はおかしいと感じました。
どこがおかしいかと言うと、
「では」
かな。「滋賀県南部」も「琵琶湖」も、同じ「北西の風」なんです。それなのに「では」を使うと、
「滋賀県南部は『北西の風』だけれど、琵琶湖の風向きは『北西ではない』風向き」
のように、私などは「期待」してしまうのです。ところが、
「北西の風」
ですよね。おんなじじゃないか!と突っ込んでいたのです、ラジオに。これは、台風などの時の交通情報の、
「欠航、または欠航を決めています」
と同じようなおかしさです。(「既に欠航したか、これから欠航することを決めています」とした方がわかりやすいし、「これまでに○便が欠航し、今後○○便が欠航することを決めています」と言えば、より分かりやすい。以前書きました。平成ことば事情1332「欠航、または欠航を決めています」をご参照下さい。)
実は、「滋賀県南部」は「北西の風」ですが、
「それほど強くない北西の風」
なんでしょうね。そして「琵琶湖」は、
「やや強い北西の風」
という違いがあるのではないか?でも「やや強く」は風速何メートルなのかが分かりません。単なる「北西の風」と「北西の風がやや強く」はどのぐらい違うんだ?普通に聞いている人は分かるのか?私は分かりません。
また、お天気の小谷キャスターか、ウエザーニュースの人に聞いてみよう!
(2010、1、25)
(追記)
お天気キャスターの小谷さんに聞きました。
「『北西の風』というときと『北西の風がやや強く』という場合は、どのくらい違うんですか?」
「単に『北西の風』という場合は平均風速8メートル未満、『やや強く』は8メートル以上だね」
「やっぱり!その2種類なんですか?」
「いや、無風に近い時は『風おだやか』、平均風速が12メートル以上の時は『風強く』、18メートル以上の時は『風非常に強く』と言うね。」
なるほど!すっきりしました。でも普通に天気予報を聞いている人は、そんな基準なんて知りませんよね。もう少し分かりやすくした方がいいような気がしました。
1月25日の夜、報道のU記者が聞いてきました。
「道浦さん、電気カーペットの数え方は『枚』でしょうか?それとも『台』でしょうか?」
あ・・・そうか、確かに両方、言えそうですね。その記者が手にした1枚の紙は、メーカーから送られてきたペーパー。「不具合があって電気カーペットの回収を始めた」という内容で、そこでは、
「台」
が使われていました。(「116万1681台」も。すごい数です!)
「ネットニュースでは、読売と毎日は『枚』で、産経は『台』を使ってるんですけど・・」
とIデスク。
「うーん、なるほど。確かに『製品』『商品』という意味からは『台』だろうからメーカーは『台』を使うだろうね。けど、『形・形状』から言えば『枚』だね。で、一般の人は買う時は製品として意識するかもしれないけど、普通に使う時の意識から言うと『枚』じゃないかなあ」
と答えておきました。納得してくれたようです。
なお、ネット記事の時事通信は、
「点」
を使っていました。そのほか検索してみると、
NHK=「台」
山陽新聞=「台」
おや、「台」が多いな。そして、読売テレビ系列の日本テレビの「日テレニュース24」のサイトを見てみると、こちらも、
「台」
でやってるではありませんか!うーん、そうか、不具合が生じたのは「コントローラー」の部分、つまり「機械の部分」のようだし、そういう意味で「台」を使っているのかもしれないな。そう思いなおして、
「やっぱり『台』かな・・・」
と、U記者とIデスクに伝えました。
(2010、1、25)
(追記)
1月26日の各紙朝刊で記事を確認したら、
読売・朝日・毎日=「枚」
産経・日経=「台」
でした。
1月22日の朝刊各紙で、「アイフォーン」に対抗して、ドコモが、「アンドロイド」という名前のグーグルのOSを搭載した、
「エクスペリア」
という名前の「スマートフォン」を出すという記事が出ました。なんだかカタカナばかりで、チンプンカンプンなのですが。
この「スマートフォン」というのは、
「アイフォーンのような携帯電話の総称」
のようですが、カタカナ語(外来語?和製英語?)なので、「漢字」(=日本語)で、説明が付いています。それが二つに分かれていました。
(朝日)多機能携帯電話
(毎日)多機能携帯
(読売)高機能携帯電話
(産経)高機能携帯電話
(日経)高機能携帯電話
毎日だけ、「電話」が付いていませんでしたが、要は「多機能」派(=朝日・毎日)と「高機能」派(読売・産経・日経)に分かれたと。
同じことを言うのに「機能」が「多い」のと「高い」のは、どう違うのでしょうか?
思うに、小さな携帯電話に「多く」の機能を搭載していると言うことはつまり「高い」機能を持っているということなので、「現象」だけで言うと「多機能」、それを「評価」して言うと「高機能」ということなんでしょうね。
つまり、たくさん仕事をする人は「仕事量が多い」、そして、他の人より短時間で多くの仕事が出来る人は「能力が高い」と評価されると。そういうことなので、言いたいことは同じなんでしょうね。どちらも間違いではないと、そういうことでしょう。
ところで、「スマートフォン」というのは「普通名詞」なんですよね、きっと。
1月25日NHKのBS―1で放送していた番組で紹介していたGoogleの「ネクサス」と言うスマートフォンは、
「高機能の携帯電話」
と説明されていました。まさにそのGoogle検索(1月26日)では、
「スマートフォン」=445万件
でした。もうすっかり定着しているのでしょうか?『現代用語の基礎知識2010年版』によると(631ページ)、
「スマートフォン」=「携帯電話やPHSと携帯情報端末(PDA)を融合させた端末。原義は『賢い電話』で、日本語に意訳すれば『多機能電話・高付価値電話』等となる。(中略)欧米でのスマートフォンの発達と同時期に日本の携帯電話は独自に高機能化を進めていた。そのため日本においてスマートフォンという概念はきわめて見えにくくなっている。」
とフリーランスライターの青田孝さんが書いていました。
1月13日の「ミヤネ屋」の原稿をチェックしていたら、日米外相会談のニュースの中で、
「日米の外交責任者たちが会った場所は、南国ハワイ」
という表現が出てきました。
「南国ハワイ」
ええ?「ハワイ」は確かにあったかいだろうけど、「南」じゃないじゃない。日本から言うと「東」でしょ。それでも「南国」と言っていいの?という疑問が。
「南国」と言うとやはり「土佐」でしょう・・・(わかる方だけわかってくれれば・・・「♪南国土佐をあとにして」という歌があったのです。)というか、「国内」のイメージですよね、南国は。「宮崎」なんかも「南国」っぽいですね。高知県には、
「南国(なんこく=濁らず)市」
があるぞ。
「ハワイ」の枕詞で一番有名なのは、
「常夏の島(・ハワイ)」
ですね。「常夏」=「とこなつ」と読みます、念のため。原稿では「南国」の代わりに、
「太平洋の楽園・ハワイ」
としました。「太平洋の楽園」は、本当は「パプア・ニューギニア」とか「タヒチ」の冠なんでしょうが、「南国」よりはイメージが湧くかなと思って変えました。
ネットで「南国」を検索してみると、
「南国交通」=鹿児島市
「南国市」=高知県
「南国酒家」=東京・原宿
「ダイビングショップ南国」=神津島
「南国殖産」=鹿児島
「南国百貨店」=沖縄
そして「南国とは」で検索したら、まさにそのサイトが登場。「教えて!goo」で「南国ってどこを指す?」というものです。それを読んでも、はっきりとは答えが出てこない。ただ、昔は確かに方角の「南」の国をさしたのが、「南=暖かい」ということで、
「暖かい国(地方)」=「南国」
という意味が生じたのではないか、というようなことも書かれていました。
辞書引きましょう。『広辞苑』
『広辞苑』=「(1)南方の国。また、南の土地(2)江戸時代、品川遊郭の異称。吉原を北国というのに対していう。南駅。南極(なんごく)。」
へーへーへー(古い!)なんと江戸時代は「品川遊郭」が「南国」だったのか!『広辞苑』、こんなことまで載せて、えらい!
『明鏡国語辞典』=「南方の暖かい国。また、南方の暖かい地方」
うーん、昔は日本国内でも「国」と言ってたけど(「武蔵の国」とか「伊賀の国」とか「信濃の国」とか)、今「国」と言えば「日本、アメリカ、イギリス、ドイツ」のような「国」だから、そこの解釈の違いもあるでしょうね。
*『精選版日本国語大辞典』=「(1)南方の国。また、南方の土地。南州。(2)江戸、品川遊里の異称。吉原を北国というのに対していう。南州。」
*『デジタル大辞泉』=「(1)南方の国。南方の地方。南州。(2)(江戸城の南にあったところから)品川遊郭の異称。新吉原の「北国」に対していう。南。南州。」
大きめの辞書には2つ目に「品川遊郭」が載っているんですね。
*『三省堂国語辞典』=「あたたかい南の国。(例)南国土佐」
そうだよねえ、「南国」と来れば「土佐」だよねえ。じゃあ、南国市は、
「南国(なんごく)・南国(なんこく)市」
かな?
*『新明解国語辞典』=「南の暖かい国(地方)」
シンプル。
*『新潮現代国語辞典』=「南方の国。また、南方、赤道近くの地方。」
おお、新たな記述は、
「赤道近くの地方」
これだと「南」じゃなくても(まあ、「赤道」は日本よりも緯度は低い、つまりそういう意味では「南」ですが)「南国」が使えますね!「ハワイ」は北緯20度ぐらい、東京・大阪は北緯35度ぐらい。ハワイも「南国」でいいのかも。
そして、去年11月に出たばかりの『岩波国語辞典・第7版』は・・・載ってない!見出しになっていない!なんで?何ではずしたの?ショック。今は使われない言葉と判断したんでしょうか?どうなんだろうか?
Google検索では(1月25日)
「南国ハワイ」 = 2万2000件
「常夏の島ハワイ」 =320万0000件
「太平洋の楽園ハワイ」= 3万1700件
「太平洋の楽園タヒチ」= 9万0100件
「太平洋の楽園ニューカレドニア」=1万8600件
でした。やっぱり「ハワイ」は圧倒的に「常夏の島」でしたね。
「ピンストライプ」という言葉を聞いたことがありますか?スーツなんかで、細い縦縞の線が入っているもの。そして、大リーグのニューヨーク・ヤンキースのユニホームのような縦縞の模様もたしか「ピンストライプ」と言いますよね。
ところが、「ミヤネ屋」で宮根さんが「ピンストライプ」という言葉を使ったのを聞いた女性スタッフから、
「ペンシルストライプではないのか?」
と言われました。
え?「ペンシルストライプ」?た、確かにそういう言葉も聞いたことがあるけど・・・「ピンストライプ」は間違いなの?と思って調べました。ネットの「ファッション用語集All About」というサイトに、両方載っていました。
「ペンシルストライプ」=「ペンシルストライプとは文字通り、鉛筆で引いたような細い線で描かれた縞模様のこと。ペンシルストライプは鉛筆で線を引いたような太さの縞模様で、ピンストライプより太く、チョークストライプより細い。ピンストライプよりもカジュアル感が強く、色合いもより濃くバリエーションが広い。(以下略)」
そうなのか!「ピンストライプ」の方が細いのか!確かに「ピン」で引っかいた方が「鉛筆(ペンシル)」で書いたよりも細くなるよね。ついでに「ピンストライプ」も見ておきましょう。
「ピンストライプ」=「ピンストライプとは、もっとも細い縞柄。ピンでひっかいたように、極細の縞柄のこと。細かい点線の縞柄を呼ぶこともある。ピンストライプは、地色と縞の色の濃淡の差が大きい場合が多い。ネクタイ、チーフ、シャツ、ズボンなど、メンズライクなアイテムに幅広く愛用されている。」(以下略)」
なるほどなるほど、「メンズ・ファッション」つまり「紳士用」に使われているので、女性スタッフは知らなかったのかもしれませんね。
ちなみに『精選版日本国語大辞典』『デジタル大辞泉』『広辞苑』には「ペンシルストライプ」は載っていましたが、「ピンストライプ」は載っていません。『三省堂国語辞典』『明鏡国語辞典』『岩波国語辞典』『新潮現代国語辞典』は、どちらも載っていませんでした。
Google検索(1月25日)では、
「ピンストライプ」 =31万7000件
「ペンシルストライプ」=1万8000件
で、ネット上では「ピンストライプ」の方が圧倒的に使われていました。
<去年(2009年)10月に書きかけて,おいてました>
「美しすぎるオーバー30」
は今週(2009年10月27日、本屋さんで確認)の『週刊プレイボーイ』の特集タイトル。
もちろん「目玉」は、このところよく取り上げられる、青森県八戸市の市議会議員、
「藤川ゆりさん」
のこと。彼女の"代名詞"は、
「美しすぎる市議」
です。確かに美人でいらっしゃいます。モデルかタレント、女優と見まごうような・・・でも、私、ちょっと思ったんですね、
「『美しすぎる○○』という表現は、『○○』に入る職業や、その職業のほかの女性に失礼ではないか?」
ということを。つまり、「美し"すぎる"」というのは、
「その仕事をするにしては、"必要以上に"美しい」
あるいは、
「その仕事についている女性にしては、"異例なこととして"大変美しい」
ということですよね。やっぱり、何となく「失礼な感じ」が漂っていませんか?これって、言われている当人に対しても、ほめているようで、茶化していると言うか・・・でも、ご本人も、写真集出しちゃったりしてるか、この場合は。
きょう(2010年1月25日)の『ミヤネ屋』では、自民党の党大会に登場した藤川市議のこともちょっと取り上げ、原稿には、
「美人すぎる市議」
という言葉が出てきていました・・・・。Google検索(1月25日)では、
「美しすぎる○○」=62万7000件
「美人過ぎる○○」=42万1000件
でした。
なお、去年10月27日の『情報ライブミヤネ屋』の、酒井法子被告裁判翌日の特集の原稿には、
「完璧すぎる証言」
という表現がありました。何事も、こう言うではありませんか、
「過ぎたるは 猶 及ばざるがごとし」
『へヴン』(川上未映子、講談社、2009、9、1第1刷・2009、12、3第8刷)
川上未映子、話題の小説「ヘヴン」。遅ればせながら読んでみました。
この本は現代の『若きウゥルテルの悩み』だ。容貌の悩みから心がねじれていく「ウェルテル」ではなく、同じ容貌の悩みから、心が清められていく。『ウェルテル』読んでなかったけど、読みたくなった。(読んでないのに、なぜ「現代のウェルテル」とわかる???)
なお、この本のテーマは「ロンパリ」。これについては「平成ことば事情3819」で書きましたから、そちらもお読み下さい。
なかなかいい本でした
「情報ライブミヤネ屋」で、三船美佳さん出演の「暮らしのドリル」という人気コーナーがあります。結構、本当に、「おばあちゃんの知恵袋」的な生活の知恵を得られて、男の僕でも見入ってしまうことがあるんですが、この間は、「けがをしたときの家庭での救急措置」の後編でした。その際に、「先生」から「生徒役」の三船さんに質問が。
「美佳さんは、平熱はどのくらいですか?」
三船さんが、
「うーん、だいたい、36度3分、ぐらいかなあ・・・」
と答えると、この女性の先生は、こう言いました。
「それでいいと思います」
ええ?何それ!「それでいいと思う」ってのは?「平熱」なんて自分でコントロールできるものじゃないから、いいも悪いもないんじゃないですか?どう、せえっちゅうねん?
たとえば、
「身長は何センチですか?」
と聞かれて、
「うーん、172センチぐらいです」
と答えたら、質問した人が、
「それでいいと思います」
と答えたらヘンでしょ?これが「体重」なら、「ウエイトコントロール」をしているとか「メタボ健診」に際して、
「体重は何キロぐらいですか?」
「70キロです」
「それでいいと思います」
という会話は成り立ちますね。でも「平熱」は成り立たないような気がしましたが、いかがでしょうか?
でも番組(VTR)では、何事もなかったかのように、会話が進行していきました・・・。
去年の1月から隔週で小学館から出ていた落語の「昭和の名人」シリーズのCD。毎回楽しみに聞いていました。(時々抜けましたが。じゃあ、毎回じゃないやん!)名前しか知らなかった名人の声に接することが出来るのが魅力です。その一人、古今亭志ん生。
はあ、こういう感じだったのか、と聞き入っております。
昭和31(1956)年9月3日にニッポン放送が収録した、「志ん生十八番」の一つを聞いていたときのこと。当時、志ん生は66歳。しゃべりがはっきりしていてテンポがよく、落とすところの間がいい。今でも十分通用しますね!やはり、話術は「間」・・・・・ですよね。「くすぐり」のネタは、時代によっては通用しないしないので、時代・時代で工夫が必要となりますが。
で、その中で気付いたのは志ん生が、
「デバート」
と、「パ(P)」ではなく「バ(B)」と言っているのです。
これはどうしたことでしょうか?「パ」と「バ」の区別、あまりなかったんでしょうか?韓国語のような感じなんでしょうか、昔の日本語は?
そうこうしているうちに、先日、関西出身の新人Tアナウンサーが、ニュースで、
「バックが盗まれました」
と読んでいました・・・濁るんだけどなあ、「バッグ」。
ちなみにTアナウンサーに、
「夜、寝るのは?」
と聞いたら、
「ベットです。」
と・・・。濁るんだけどなあ・・・「ベッド」。
去年の夏に行った桂小春団治さんの独演会で披露された新作落語の中に、
「もーする」「うーする」
という言葉が出てきました。もちろん「幼児語」です。
「もーする」
は、うーん説明が難しいですが、幼児がウンチをしたあとに、自分で拭けないので、お父さんやお母さんにお尻を拭いてもらう際に、お父さんやお母さんが、
「はい、モーして」
と言うと、子供は四つん這いになって、お尻を持ち上げる。そのポーズになることを、
「もーする」
と言うんですね。たしかに言います。でもこれ、関西弁やろか?普通の国語辞典引いても載っていません。牧村史陽さんの『大阪ことば事典』で引いてみると・・・・オ、ありました!
「モォスル」=「四つ這いになる。牛のような格好をする意。(小児語)」
これこれ!これでんがな!やっぱり関西弁かあ。女房詞の系統かもしれませんね、語のニュアンスから言うと。Google検索では(1月22日)、
「モォする」= 4件
「モォーする」= 1件
「もーする」=12万2000件
わっ、多い!トップに出てきたのは「出雲弁」。島根でも言うんですね!同じ西日本だなあ。
「もうする」=3万6400件
もう一つは、
「うーする」
これは、そうですねえ、お風呂から上がった子供ののどに、あせもが出来ないように天花粉(ベビーパウダー)を塗る時に、子供に上を向かせて、のどを真っ直ぐに伸ばさせる際に、
「はい、ウーして!」
というふうに使います。これも『大阪ことば事典』を引くと・・・これは載っていないなあ。首を伸ばして上を向くときに、
「ウー」
って声に出して言ったりした覚えがあります、小さいとき。『大阪ことば事典』には載っていなかったけど「関西の幼児語」だと思います。Google検索(1月22日)
「うーする」=1080件
「ウーする」= 393件
でした。
知り合いの小学校の先生から、
「子供からこんな質問を受けたんだけど・・・」
と質問されました。
「物事を始める時は、『手を染める』というふうに『手』を使うのに、辞める時は『足を洗う』となぜ『足』になるの?」
というものです。
うーん、何となくイメージは分かるけど・・・と「宿題」にさせてもらいました。その「宿題の答え」をここに書きますね。
「手始め」「手付け」「手を付ける」「手懸ける」
など、何かを始めるときには、人間はまず、「手」で物事にタッチします。その後、それにどっぷりと全身・からだ全体が浸かって、
「さあ、やめよう」
という時は、やはり「足」から出ないと抜け出せません。「手」だけ出ても、身体の残りの部分が残っていては、
「やめた=足抜けした」
ことにならないでしょう。熱いお風呂に入るときに、最初、「手の指の先」をちょっとつけて熱さの具合を試しますが、お風呂にどっぷり肩までつかったあとに出るときは、「足から」浴槽の外に出ますよね。それと同じかな。
「手を染める」
は、おそらく染色の仕事あたりから出た言葉ではないでしょうか?また、
「指を染める」
という表現もあり、
「一指(いっし)を染める」
という言葉もあるようです。これの意味は、
「少しだけ関与する」
また、「足を洗う」と同じような意味では、ほかに、
「手を引く」「手を切る」「身を引く」
もあります。ただ「足を洗う」は、
「悪事から身を引くこと」
で、「いいこと」をやめる時には使えません。
こんなところでいかがでしょうか?
日本経済新聞の株式欄を見ていたら、目に飛び込んできた銘柄がありました。それは、
「文化シヤッター」
です。なぜ目に留まったかと言うと・・・そうなんです、
「文化シャッター」
ではなく、
「文化シヤッター」
だったんです、会社の名前が。え?何が違うんだって?よく見てください、
「ヤが大きい」
のです。今まで気付かなかったなあ・・・すんごい発見をした気がしました。
そういえば、
「キヤノン」
も「ヤが大きい」会社ですよね。
それが2年ぐらい前の話。そのまま、ほうっておいたのですが、今日(1月21日)、また日経新聞の株式欄で、ホオと思うものがありました。それは、
「鬼ゴムが過去最高益」
え、「鬼ゴム」って何?
記事を読んでみると「鬼ゴム」とは、
「鬼怒川ゴム」
という会社でした。うーん、そう来るか、そんな略し方かい。何でも自動車部品業界が苦戦中に日産自動車のエコカーの部品などを担当していて好調なんだそうです、「鬼ゴム」。
「ゴム」と言えば、「ゴム」のような弾性がこんにゃくの500倍もある、98%水から出来た新しい素材が開発されたという記事も、今日の新聞に載っていました。その素材の名前は、
「アクアマテリアル」
「石油」から作る「プラスティック」ではなく、「水」から作るのですから、これはエコですよね。人工関節の一部や、傷口をふさぐ材料など、医療用にも期待されているそうです。すごいですね。「鬼ゴム」もすごいけど。
大阪出身の芥川賞作家・川上未映子さんの話題の小説『ヘヴン』(講談社:2009、9、1第1刷/2009、12、3第8刷)を読んでいたら、
「ロンパリ」
という言葉が出てきました。
「おいロンパリ、おまえちゃんといただきます言ってから食えよと言って僕のひざを足の甲で勢いよく蹴った」
「おいロンパリおまえなにしてくれたんだよ」
などという、いじめっ子の差別的な呼びかけの文章があったあとに、
「僕の目は斜視だった」
という主人公の少年の"告白"があり、さらに、
「僕はロンパリと呼ばれつづけ、呼び出されて意味のないことを命令されたり、倒されたり、休み時間にはトラックを全速力で走らされたりしていた。」
というふうに出てきます。
私はこの言葉、会社に入るまで(つまり、大人になるまで)知りませんでした。アナウンサーとして、放送人として「言葉」と付き合う中で、
「放送では好ましくない差別的な言葉」
として知りました。普通、想像付かないですよね、なんで「斜視」のことを「ロンパリ」と呼ぶかなんて。
一応辞書を引いてみると、「ロンパリ」は、『広辞苑』『明鏡国語辞典』(電子辞書版)『三省堂国語辞典』『新明解国語辞典』『岩波国語辞典』『日本語新辞典』には載っていませんでした。『新潮現代国語辞典』には載っていました。
「(一方の目はロンドンを、他方の目はパリを見ているの意から)<俗>斜視。
電子辞書版の『デジタル大辞泉』にも載っていました。
「<一方の目はロンドンを、他方の目はパリを見ているの意から>斜視を俗にいう。」
そして『精選版日本国語大辞典』(電子辞書版)にも、用例付きで載っていました。
「(一方の目はロンドンを、他方の目はパリを見ているの意から)奢侈をいった俗語。*紫の火花(1965)<梶山季之>殺人ヘルパー「目は俗にいうロンパリである」
用例は45年前のものです。見出しで載せている辞書の語源は、3冊とも「一字一句同じ」ですね、ちょっと驚いた。梅花女子大学・
「(一方の目がロンドン、他方の目がパリを向いている意)斜視を嘲って言うことば。「ロンパ」とも言う。<類義語>がちゃめ・やぶにらみ◆『週刊朝日』(1952年5月18日号)「『T女史てシャー(シャルマン)やけどちょっとロン・パリやわ』これは片目がロンドン、片目がパリを向いている、つまりひんがら目、籔睨みのこと」◆『銀座牝』ケチ社長・3(1956年)<花登筺>「『ええ、パパはロンドン、ママはパリ』二人合わせてロンパリ、あんたの目と一緒」」
と、具体的な用例(それも1950年代で、『精選版日本国語大辞典』のものより古い)を挙げてています。しかも「ロンパリ」の説明で、単に「斜視のこと」ではなく「嘲って言うことば」としているのが、的確な表現だと思います。
これは単なる想像ですが、「モボ・モガ」の大正モダニズムぐらいの時には、この言葉は既にできていたのではないでしょうか?江戸時代でないのは、たしかでしょうが。
いずれにせよ最近はあまり、耳にも目にもしません。
私はこの川上さんの小説を読んでいて、「ロンパリ」という言葉がいきなり出てきて驚きました。そして、川上さんにとって「ロンパリ」という言葉は「生活語」だったのかどうか?という疑問が浮かびました。つまり、川上さんは生活の中で、この言葉と日常的に付き合っていたのか?ということ。川上さんはいつ「ロンパリ」という言葉を知ったのでしょうか?もう「死語」だと思っていましたが・・・。
文学作品ですから、表現上こういう言葉を使ってはいけないということはないと思いますが、この『ヘヴン』をテレビドラマ化するのは難しいのかなあ。どうなんだろ?映画ならOKなのか?その映画をテレビで放送するのは大丈夫か?そんなことを考えてしまいました。
まだ最後まで読み通していないんですけどね。読み終わったらまた書くことにします。
(2010、1、19)
(追記)
読み終わりました、『ヘヴン』。
うーん、「ロンパリ」はこの小説のキーワードの一つだから、なんとも使わないと仕方がないな。映画には出来るでしょうね。テレビでも問題ないでしょう。
皆さんは、どう、お感じでしょうか。一度読んでみてください。
1月11日の「鏡開き」が過ぎた頃に、妻にひとつ質問されました。
「ねえ、『松の内』っていつまでなの?」
「そりゃあ、本当は15日までだろ、15日は『小正月』って言うぐらいだから。」
「じゃあ、それまで、しめ飾りとか飾っておくの?」
「飾っていてもいいんじゃない?」
「ええーでも大体お店でも7日ぐらいまででしょ、飾ってるのは」
「それは、次の『セール』があるから早めにしまっているんじゃないの?」
ということで、「松の内」を辞書で引いてみました。まず、『広辞苑・第6版』は、
「15日まで、最近は7日まで」
と「15日」と「7日」を併記。「最近は7日まで」なのか!妻の主張が正しかったのかな。『新明解国語辞典』は、家にあった1985年に出た第3版でしたが、この時点ですでに
「七日まで」
と断言!そうだったのか!
会社でもうちょっと色んな辞書を引いてみました。
「元日から七日、または一五日まで」(明鏡国語辞典)
「元日から7日まで、また15日まで」(デジタル大辞泉)
「元日から七日まで。古くは十五日まで」(新潮現代国語辞典)
「半日から七日まで、あるいは十五日まで」(岩波国語辞典第7版)
「元日から七日まで。十五日までの地方もある」(三省堂国語辞典)
お、待てよ。この『三省堂国語辞典』の、
「十五日までの地方もある」
ということは、もしかしたら地域差があったのかも。上方(関西)は15日までで、東京(都会)は7日までとか。そう思って『精選版日本国語大辞典』を引いてみると、
「元日から七日までの称。古くは上方では正月一五日までをいった。」
やっぱり!そうだったのですね、上方は15日までだったんだ・・・日本も狭いようで広いなと思う瞬間ですねえ。
いまは関西もスピード化の時代になって、すっかり「都会」風になって、「松の内」は「7日まで」なんですね、きっと。
しかし、「ハッピーマンデー」で、「成人の日」が「1月15日」固定でなくなってから余計に、「松の内=15日」のイメージが薄れて、子供たちの冬休みが終わる、
「1月7日までがお正月」
というイメージになってしまった気がしますねえ・・・いいのか悪いのか、分かりませんが。で、気が付いたら「松の内」は完全に終わって、1月も下旬です。はやっ!
1月13日、「ミヤネ屋」で、お笑い芸人メッセンジャーの黒田さんの「釈放」のニュース原稿を書いているWディレクターが、
「"保釈"と"釈放"は、どう違うのかな?」
とつぶやいているのを耳にしました。たしかに!法律用語として違うはず、どうだっけ?と、すぐに読売新聞社の『読売スタイルブック2008』を引きました。507ページに載っていました。ここには法令用語の微妙な違いが分かりやすく載っています。それによると、
*「釈放」=容疑者らが拘束を解かれること。容疑者の段階では、処分保留、不起訴などの理由で身柄拘束を解かれること。
*「保釈」=起訴された後、拘束を解かれること。裁判所が決定する。保釈保証金を納めなければならない。
今回の黒田さんのケースは、「起訴猶予」にするということで、広い意味では「不起訴」ですから(まだ起訴される前)、
○「釈放」 ← ×「保釈」
ですね。一部、字幕スーパーで「保釈」としているところもありましたので、事前に「釈放」に直して放送しました。
「ミヤネ屋」で先日、石田純一さんが、とってもグラマーな(なんだか表現が古い!)グラビア・アイドル(もちろん若い女性)と一緒に、ベッドに入りながら映画の試写を見るというイベントの様子を放送しました。その原稿の中に出てきた、グラマーなグラビア・アイドルのことを指した表現に、
「わがままボディー」
というのがありました。この表現、時々耳に(目に)する気はするのですが、一体、「だれが」、「どう」わがままなのでしょうか?
そもそも「わがまま」は、
「言うことをきかない」「ききわけがない」
というような意味ですよね。そんな「ボディー」というのは、どんな身体だ?・・・・と尋ねておきながら、答えは既に出ていて、
「グラマーな身体」
のことなんですよね。なんでそれを「わがままボディー」と言うのか?うーん、つまり、「ききわけがない」というのは、「主張する」ということですから、
「服を着ることで抑制された範囲にとどまろうとしない肉体」
が「わがまま」だということか。でもこれが、
「単に太っていて、服に肉が入らない」
場合には「わがままボディー」とは言わないと思います。
「結構、私の下腹あたりも『わがままボディー』で・・・」
とは言いませんし、かの「デブヤ」という番組に出ていた男性タレントさんのことを正しい意味で「わがままボディー」とは言いません。この言葉は「女性専用」です。そこにはやはり、
「女性のセクシーさ」
が必要なわけで・・。
そもそも「わがまま」は「マイナス・イメージの言葉」だったはずなのに、ここでは「プラス評価」で使っていますね。その意味では、
「期待を裏切る名演技」
のような「裏切る」の使い方や、
「この料理、マジ、ヤバイ!」
というような「おいしい」の意味の「やばい(ヤバイ)」に通じるところも。それと、
「シェフのきまぐれサラダ」
の「きまぐれ」にも通じるところがあるような気がします。本当に「きまぐれ」で仕事をされたのでは、たまったもんじゃあありません。これも、
「シェフの"今日の"オススメ」
という意味での「きまぐれ」ですよね。
答えは出ませんが、今後も「わがままボディー」には」注目していきます!・・って、そういう意味ではありませんので、あしからず。
小沢一郎・民主党幹事長をめぐる政治資金規正法違反事件のニュースの中で、小沢氏のこれまでの政治家人生を振り返るVTRのナレーションを読みました。その中に、去年12月、故・田中角栄下総理の十七回忌に墓参する小沢氏の姿があり、いかに彼が田中角栄・元総理を「師」と仰いでいるかということが印象付けられました。
そう言えば、小沢氏は昨年末、国会議員160人以上の「大訪中団」を率いて中国を訪問しましたが、中国と言えば、田中元総理が日中国交正常化を果たし、歴史に名前を残した国。そして、田中元総理こそ、自民党の中で「数は力なり」という「数の論理」を確立した人。
田中角栄=「日本列島改造論」
小沢一郎=「日本改造計画」
何から何まで小沢氏は、田中元総理の後を追いかけているようではありませんか!
それで、ハッと気付いたことがあります。
事件の中でよく出てくる名前に、小沢氏の政治資金団体である、
「陸山会」
があります。最初、「陸」ではなくて「睦」かと思って見間違えたことがありましたが、その「陸山会」、よく考えたら、田中角栄・元総理の有名な後援会である、
「越山会」
と「一字違い」ではないですか!
それも、田中角栄元総理は地元が、
「新潟=越後」だから「越山会」
で、小沢一郎氏は地元が、
「岩手=陸奥(陸前・陸中)」だから「陸山会」
なのですね!
それに気付いたら(みんな気付いているのでしょうか?「当たり前じゃん」ということだったのでしょうか?気付かなかったのは私だけ?)、いかに小沢氏が、検察と闘う気持ちを持っているか、師・田中角栄がロッキード事件で逮捕されたとき以来の"怨念"というか"検察に対する怒り"を持っていると感じずには、いられません。
「歴史は繰り返す」と言いますが、なんだか三十数年前の出来事がまた繰り返されているかのような錯覚に陥るのは、わたしだけでしょうか。
『週刊文春』の2009年6月11日号、名物コラム『夜ふけのなわとび』第1121回の中で、林真理子さんが、
「一般の方」
という表現について批判していました。
「ダウンタウンの松ちゃんの結婚報道にがっかりした」
という書き出しで、その「がっかりした理由」は、
「相手は一般女性」
ということで「報道を封じ込めようとしたから」だそうです。自分が結婚したときは、夫となる人は「一般人」だったのに、そーっとしておいてくれなかった、というようなことも書かれていました。
実際は、その女性は「お天気キャスター」だったので(その時はもう辞めて「一般の方」になっていたそうですが)、「一般の方」と言ってよいのやら、というところもありますし、「報道を封じ込めようとした」意図があったのかどうかは、議論の余地があると思いますが、たしかにここ数年(?か?)、芸能人の結婚のお相手をさして、
「一般の方」「一般の男性(女性)」
という表現がよく出てきます。
お笑いの「サンドイッチマン」の片方の人が結婚したときも、
「一般人女性と」
でした。俳優の佐藤隆太さんが結婚を発表したときも、相手は、
「一般女性」
でした。確かに多いですね。
2009年12月29日放送の「ミヤネ屋」芸能スペシャルで取り上げられた、芸能人の熱愛報道で、お相手が「一般の方」だったのは、
西川史子=「一般会社員」と婚約
奥菜恵=「一般男性」とデキ再婚
佐藤隆太=「一般女性」とデキ婚約
「デキ婚」は、「できちゃた結婚」の省略された形です。何でも省略するなあ・・・。
「一般人と結婚」と報じられるのは「有名人」のことが多いですが、その「一般の方」も、「年収1億円」
となると、「一般」の方と呼べるのか?という問題も出てきます。どう考えても「一般」の人ではないですね、年収1億円は。でも社会的には「一般」の方になるのかな?一体全体(なんだか古い表現)何を持って「一般の方」としているのでしょうか?・・・・お金ではないのなら、
「有名か、有名でないか」
ということでしょうか?
「報道を封じ込めようとした」かどうかは別にしても、少なくともこの傾向は、昨今の
「プライバシーの保護」
の社会的な動きと連動していますね。「取材拒否」なんかも関係あります。
しかし、もっと昔だったら、「一般の方」という言い方でなく、
「一般人」
だったかもしれません。しかし「一般人」では「何かちょっと見下した感じがする」ので、
「一般の方」
と、敬意を表す表現になっていますね。「一般人」は更に略されて「パンピー」なんて呼ばれたりもしましたしね(一方的に)。
私がこのことを書くための「メモ」として、自分のパソコンに、
「一般人女性」
のタイトルをつけてケータイメールを送ったら、なぜか勝手にパソコンが、
「SPAMメール」
に分類していました!迷惑メール、エッチメールに「一般人女性」という言葉がよく使われているのでしょうね。なんだかなあ・・・。
去年12月17日の「ミヤネ屋」で、民主党の小沢幹事長ニュースを放送しました。その原稿のした読みをしているとき、原稿に、
「かつてから剛腕と恐れられる」
という文章が出てきて、「かつてから」は日本語としておかしいので削除して、
「剛腕と恐れられる」
としました。ところでこの「ごうわん」ですが、
「豪腕」か?「剛腕」か?
という問題があります。Google検索(2009年12月17日)では、
「豪腕小沢」= 5万1700件
「剛腕小沢」=15万0000件
で「剛腕小沢」の方が3倍多かったです。
辞書を引いても、特に使い分けは書いてありませんが「剛腕・豪腕」の意味は、去年11月に出たばかりの『岩波国語辞典・第7版』によると、
「野球で、剛球や速球を投げることが出来る投手の腕力。比ゆ的に、力ずくでことを行うこと。その能力。(例)「―――政治家」
とありました。
「ミヤネ屋」では「剛腕」でいくことにしました。
(2010、1、15)
(追記)
2010年1月21日の日刊スポーツには、「今年注目の世界の指導者」で小沢一郎氏が3位にランクインしたという記事で、
「豪腕」
と出ていました。思うにこれって、
「『剛速球』か?『豪速球』か?」
も同じ悩みですよね。これも検索してみましょう。(1月21日)
「剛速球」=10万1000件
「豪速球」= 3万5600件
これは「剛速球」の勝ち!ですね。
私は、「豪」には「豪快」「豪傑」のイメージがあって「プラスイメージ」がありますが、「剛」は「とにかく強い」「融通が利かない」「一本気」というような、「プラスの中にもマイナスイメージ」があるように感じました。
『思考の整理学』(外山滋比古、ちくま文庫:1986、4、24第一刷、2007、5、15第3版)
「東大生・京大生に一番読まれている!」というのを宣伝文句に、なぜだか売れていて、実は静かな「外山滋比古ブーム」が起きているのではないかと。この本以外の、昔出た外山さんの本が書店に並んでいたりします。読んだからと言って、東大生・京大生になれるわけではありませんが。
外山滋比古と言えば、私の大学生時代、それこそ30年ぐらい前に読みました。おもしろかったです。今読んでもおもしろいけど、ちょっと古い感じもします。この本は2年前に買って、まだ売れてる、ロングセラーですね、書かれたの(第1刷)は24年も前なんだよ!すごい!それと、大学生ぐらいの時期に読むのがいいんじゃないかな、そんな気のする一冊でした。
1月18日の「ミヤネ屋」で、元プロ野球巨人&阪神のエース、小林繁さん急死のニュースをお伝えしました。その原稿の字幕スーパーを事前にチェックしていたら、
「端正ないでたち、甘いマスク」
というものが。「端正ないでたち」って、あまり聞かないなあ。普通「端正な」と来ると、
「顔立ち」「容貌」「マスク」
ときますよね。でも、原稿(スーパー)はそのあとに「甘いマスク」と「顔(マスク)」を使っていたので、ここは仕方なく、
「端正なスタイル」
としました。
『広辞苑』によると、この意味での「たんせい」は、
「端整」
となっていて「端正」と使い分けをしていますが、『新聞用語集2007年版』では、
「端整→端正」
となっていて、新聞・放送の表記は「端正」に統一しているようです。
その日の夜、大阪出身の芥川賞作家・川上未映子さんの『ヘブン』(講談社:2009、9、1第1刷)という小説を読んでいたら、
「学年でスポーツが一番できて、成績も優秀で、誰が見てもきれいだと思うような端正な顔つきをしていた。」
というように「端正な顔つき」という表現が出てきました。やっぱり「端正な」のあとhが「顔」ですよね、普通は。Google検索では(1月19日)、
「端正な顔つき」= 27万7000件
「端正な顔立ち」=3600万0000件
「端正なマスク」= 28万7000件
「端正な容貌」= 14万2000件
「端正ないでたち」= 1870件
「端正なスタイル」= 7万9700件
「端整な顔つき」= 5万8800件
「端整な顔立ち」= 151万0000件
「端整なマスク」= 9730件
「端整な容貌」= 6万4900件
「端整ないでたち」= 72件
「端整なスタイル」= 9万9400件
でした。
『沖縄・久米島から日本国家を読み解く』(佐藤優、小学館:2009、10、6)
タイトルが示すユニークな視点と、読み解くという言葉にひかれて購入、ちょっと難しそうなので、お正月休みにゆっくり読もうと思っているうちにお正月休みが終わってしまい、やっと読めた。
冒頭、ロシアでの話が出てきた。それは、著者の母の故郷である沖縄・久米島からの視点で考え書くことになったきっかけの説明なのだが、そのことを忘れさせるような興味深い話でもある。
一方、本のなかば(この本のキモは、実は"ここ"なのだが)、沖縄の文献を引っ張りだしてきて解説・説明している部分には、あまり興味を持てなかった。
ただ、もしかしたらこれの参考になるのではないかと思ったことがある。久米島は、その歴史の中で、中国と日本という大国のはざまで如何に自主自立ということを考えていたかということである。これが「橋下・大阪府政」との関連で気になったのだ。
というのも、これまでは、橋下大阪府知事の過激な道州制や伊丹空港廃止論などに嫌気がさしていたのだか、正月の「大阪府知事メルマガ」を読んでいて、橋下知事の考え方が少し分かったような気がした部分があるからだ。知事の主張が、たんなる道州制や地方分権をいうだけなら「何を言うてんねん」という感じだが、実は橋下知事は、「関西州の日本からの独立」を考えているのではないか?それはオーバーにしても、「合衆国型への国の改革=連邦制」を考えているのではないかと思ったからだ。
もちろん来年とか再来年という短いスパンでの視野ではなく、20~30年先を見据えたものだが。そうすると橋下知事の目論みは、クーデターというか革命に近いものではないか?そう言えば、メルマガのタイトルは「維新通信」。以心伝心のだじゃれでもあるだろうが、海外から見た明治維新は「市民革命」らしいから、知事のいう「維新」も「革命」なのではないか。そんな考えが、本書とつながった。
『あの素晴しい曲をもう一度~フォークからJポップまで』(富澤一誠、新潮新書:2010、1、10)
ああ、こういう本、つい読んでしまうわあ。買ったその日に一気読み。一口でフォークといっても、初期のフォーク・関西フォーク・プロテスト・フォーク・四畳半フォークなどと分類できるが、それがどういう背景で移り変わったのかが述べられている。
ひとことで言ってしまえば、「歌は世につれ、世は歌につれ...」ということになるが。
巻末におすすめフォークの「ベスト50」が挙げられているが、もちろん全曲知っているし、ほとんどの曲は歌える。これらのフォークに、歌謡曲やロック、ときにはクラシックなども寄り添い、日本の歌が築き上げられて来たんだなあと、感慨に耽(ふけ)ってしまった。
『「を」「に」の謎を解く』(竹林一志、笠間書院:2007、6、30)
本書を読んで、タイトルの「を」と「に」の謎は解けなかった・・・。ただ、いろいろヒントは与えてもらった。
それにしても、論文は読みにくいし分かりにくい。悪文の見本のようだ。もっとわかりやすく噛み砕いて書けないものか?わざと、わかりにくくしていませんか?
私が期待していたのは、後ろに来る動詞が漢語で、意味を複合するケース、たとえば「参拝する」「放火する」などの前の助詞が「を」か「に」か。答えは、「参拝する」は「を」「に」どちらも可だが、「放火する」は「に」だけ。それなのに逆に使う人が増えているのはなぜか?という問題だが、それに関しては書いてなかったなあ。
用いられ方の違いは、助詞『に』に意味があるのではなく、そのあとに続く動詞の意味用法に違いがあるのではないか?「を」は移動の起点、移動の経路、動作・行為の対象。『「穴を掘る」型表現の本質」がおもしろい。「湯を沸かす」「本を書く」などは、その動作をスルコトによって生成されるものを、最初にもってきているので、アタマが固い人には「使い方がおかしい」となるのだろう。でも私も「波紋を投げかける」は、ちょっとおかしいと思う。アタマが固いのか?
禿鷹シリーズ第5弾。前作で死んだはずなのに・・・いやあ、久々に一気に引き込まれるハードボイルド・ピカレスク警察小説、一晩で546ページ、読んでしまいました!おもしろかった!禿鷹シリーズでも一、二を争うんじゃない?
ちょっと気になった表現と言うと、
「ハナキンという古臭い表現に、もう少しで吹き出しそうになる」(110ページ)
たしかに今どき「ハナキン」は死語でしょうが、わざわざ使うところが、何でかな?
『嵯峨俊太郎はすぐに応じた。「きみがぼくにほの字だな、と解釈しただろうね」』(127ページ)
の「ほの字」、いまどき20代の若者(登場人物)は言わんだろ。「カギカッコ」も付けずに。私も使いません。そして、
「今どき見かけない、切手のコレクション」(291ページ)
いいじゃん別に、切手をコレクションしていても。と、ここでハッと気付いた。逢坂さんはこういった自虐的な書き方をすることで、実はこういったことを好む自身の趣味・傾向をあらわしているのだと。
『大阪のことば地図』(真田信治監修、岸江信介・中井精一・鳥谷善史編著、和泉書院:2009、9、25)
大阪の言葉を取り上げて、その分布を地図でしっかりと示し、後半にはそれぞれの言葉に関する解説を載せた本。専門書(論文)ではあるが、分布地図を見るだけでも楽しい。ひとことで「大阪弁」と言っても、その狭い地域の中でもしっかりと分かれている実態が、手に取るように分かる。
取り上げた言葉は129。中でも私が気になった言葉の分布は、「おいしくない」の言い方として「まずい」と「おいしない」「うまない」「もみ(む)ない」という分布があること。私は「おいしない」を使いますね。
また「ゴキブリ」も、私の子供の頃は「あぶらむし(油虫)」と言って、大きくなってからは「ごきぶり」と言っていた気がするが、分布図を見ると、小学生の頃住んでいた「堺市」は、たしかに「あぶらむし」が、そしてそれ以降住んでいる「枚方市」は「ごきぶり」となっている。同じ大阪でも違う!
さらに「じゃんけん」のことも、「じゃんけん」「じゃんけんほい」「じゃいけん」「じっしん」「じゃっけん」「じゃっこん」「じゃっしん」「いんじゃん」「ちっちく」「ちょいちょ」「どっこい」「ほっちん」「まーか」「まんか」「あいちゃん」と15種類もの呼び名があることを、初めて知った!しかも地域で分布が違う!!
「じゃんけん」は「石拳」の「しゃくけん」が訛ってできたのではないかとか、「本拳」という遊び(二人が向き合って同時に任意の数の指を伸ばして手を出し合い、二人の伸ばした指の合計を言い当てた方が勝ちという遊び)の「二」が「二(りゃん)拳」→「じゃんけん」になったとか、また「いんじゃん」という呼び方も、本拳で、「一、二」のことを中国語で「イー、リャン」と数えることから、その「イー、リャン」→「インジャン」に変わったのではないかなどの説も解説に書かれている。おもしろいー!!
また、山形県民謡の「最上川舟歌」の掛け声で「マーカショ」と言うのがあるが、大阪府内にじゃんけんのことを「まーか」というところがある。これって関係あるのかな?
いやあ、言葉って本当におもしろいですね!
『国語教科書の中の「日本」』(石原千秋、ちくま新書:2009、9、10)
舌鋒鋭い石原節が、小・中学校の国語の教科書に載せられた文章と、その題材を採択した教科書会社に向けられる。その中(執筆者)には、知り合いが何人かいて、また知り合いが勤める教科書会社もあったので、「あーあ、斬られちゃってる・・・」と。
もし、これが我が身なら・・・と、やや、おののきながら、途中から読んだ。
「日本の『国語』の教科書は『道徳の教科書』である」
と喝破した著者の目は鋭い。長年教科書作りに携わってきた経験が、その説を裏付けているように思う。
去年12月22日、「ミヤネ屋」でスーパーをチェックしていたら、)自民党の原稿で、
「野党に下った自民党」
という表現が出てきました。これは正しくは、
「野党となった自民党」
ではないでしょうか?
「野(や)に下る」
という表現はありますが、意味は、
「公職・官職を離れて民間の生活に入ること」
です。(昔「のにくだる」と読んで笑われました・・・)これは、
「下野(げや)」
とも言い、『広辞苑』によると、
「政権を失って野党になること」
も「下野」と言います。が、「野党に下る」という言い方には違和感が。これは、
「『野に下る』と『野党になる』の混交表現」
ではないでしょうか?
しかし、OA後にGoogle検索してみたら(12月22日)
「野党に下る」=6万0400件
もありました。しかしYahooではたったの667件・・・。一方「野に下る」は、
Google=39万2000件
Yahoo= 4万3900件
やはり「野に下る」の方が人口に膾炙(かいしゃ)した言葉と言えるでしょう。
なお「野党になった」は、
Google=74万5000件
Yahoo= 9万3500件
でした。
『亡国の中学受験~公立不信ビジネスの実態』(瀬川松子、光文社新書:2009、1、20)
本文中で、「日能研」は名前出して批判してるけど、問題のある私立中学はA学園、B学園、C・・・・G学園のような匿名で出しています。仕方がないのかもしれないけど、自らが取材した上での背景が事実であるなら、実名で出してほしいなと思いました。
東京都・準中堅女子校・高1への聞き取りの内容、
「公立のいじめは、百均の安い化粧品で目だけメイクしてるような子が加害者。私立のいじめは、ソニプラで売ってるけっこう高い化粧品でナチュラルにフルメイクしているような子が加害者。私が言ってること、分かりますか?」
あたりは、ふーん、なるほどと思いました。『AERA』の記事を読んでいるような本でした。
『解説・戦後記念切手Ⅶ~昭和終焉の時代1985ー1988』(内藤陽介、日本郵趣出版:2009、12、15)
ついに内藤さんのライフワークの一つ「解説・戦後記念切手シリーズ」が完結!8年で7冊(年賀切手に関する別冊を加えると8冊)のエンサイクロペディア(百科事典)的読み物。
8年の長きにわたりこのような労作を(一大事典ですからね、本当に)一人の筆で完成させた功績は素晴らしいものだと思います。
とにかく内藤さんは博覧強記。切手に関することだけでなく、その周辺の「注」だけで、何冊もの本が出来るのではないか(実際、おそらくこの本を書くために調べたことをベースに、既に何冊も本を書かれている)。今回も「へえー、そうなのか!」ということが、いくつも。そのうちの一つは、「建築」という言葉の成り立ち。明治時代、「建築」という言葉が生まれる前は「造家」だったというのだ。知らんかった!そのあたりの記述を引用すると・・・
「1886(明治19)年4月9日、Architectureに関する学術・技術・芸術の進歩発達をはかる目的で26名の会員で『造家学会』設立。"Architecture"の訳語は当初"造家"だった。建築家の伊藤忠太が1894(明治27)年に発表した論文で造家学会の改名を望み、建築という訳語がふさわしいと主張。これを受け、1897(明治30)年7月に建築学会に改称、翌1898(明治31)年に東京帝国大学工科大学造家学科は建築学科に改称された。建築学会は1947(昭和22)年に日本建築学会と改称され、現在に至る。」
ふーん、「建築学100年の記念切手」が1986年に出ていたとは!
実を言うと、この本に出てくる切手は、ほとんど見たことがない。1985年から1988年というのは、私が会社に入って仕事に邁進、切手どころではなかったであろう時期。これまでの本(6巻まで)に出てきた切手には親しみがあったのですが。
それから、東京に「攻玉社」という進学校があることを、ついこの間知ったのですが、この学校は歴史のあるものだったのだなと、本書を読んで知りました。もととなった「攻玉塾」は、「明治の六大教育家」の一人の近藤真琴の「私塾」なのだそうです。「六大教育家」というのは近藤のほか、「帝国四大私塾」(そんなのもあるんだ!)の創立者、中村正直、新島襄、福沢諭吉、それに学制改革に尽力した官僚、大木喬任、森有礼の6人だそうです。へえー。
もう一つ「おお!」と思ったのは、81~84ページの「天皇御在位六十周年」の切手に関する記述。それによると、この記念式典が行われたのは、天皇が践祚(せんそ)された12月(26日。1926年=大正15=昭和元年)でもなく、即位の大礼が行われた11月(1928年=昭和3年)でもなく、天皇誕生日の4月29日。これは、7月に控えた「衆参同日選挙」への中曽根総理の周到な準備のため。自民党総裁任期切れの11月の前に政治ショーとして在位六十周年の記念式典を行おうとしたと記してある。それを読んで「あっ!」と思ったのは、昨年末の民主党小沢幹事長のこと。「天皇の政治利用」は、何も小沢民主党の専売特許ではないのだ!政治家は利用できるものは何でも利用するということか。
シリーズを通して感じた「切手はメディアである」という内藤さんの主張は正しいと思います。ただ、最近は民営化されて、国が使うメディア(宣伝・教化)としての価値・重要性は下がったのではないかと私は思っていましたが、実は、「記録する」という意味での「メディア機能」の重要性は、いささかも減じていないことに、この事例で気付かされた気がします。まさに切手というメディアは「記録媒体」であり、「歴史の教科書」なのですね!
切手のデザイン者として頻繁に名前が出てくる、久野実、大塚均、渡辺三郎といった人について、内藤さんは書かないのかな?書いてほしい気がします。読みます!
近くのお肉屋さんでよく買うハムに、
「骨付きハムの切り落とし」
というものがあります。おいしいんです。でもちょっと疑問が。このハムには、
「骨は付いていない」
のです・・・。たとえば、
「骨付きカルビ」
は、「カルビのお肉"に"骨が付いて」いますよね。なぜ、「骨付きハムの切り落とし」には、骨が付いていないのでしょうか?お店でその理由を聞きました。すると、
「骨"が"付いているのではなく、骨"に"付いているハムだ」
とのこと。ああなるほど、あれと同じですね、
「社長付きの秘書」
これも「社長がくっついてくる」のではなく、「社長"に"くっつく秘書」のこと。ただこの場合は、濁って、
「社長づきの秘書」
になりますね。(同じことを逆から言うと「秘書つきの社長」。)てことは「骨付きハムの切り落とし」も読み方は「骨つきハム」ではなく、濁って、
「骨づきハム」
なんかいな?そうは言ってなかったような・・・。
なんてことを考えていると、おなかがグーッと鳴りました。ま、どっちでも、おいしければいいか!買って帰って、さっそく家でラーメンに入れて食べましたとさ。
2010年1月8日の朝日新聞に、こんな見出しが。
「『3原色+黄色』で1兆色 シャープ液晶 世界初」
このニュースは各紙朝刊に載っていましたが、それにしてもすごいですねえ!皆さん、
「1兆色」
ですよ!数えられますか?・・・・数えられません。
記事によるとシャープは、これまでの「光の三原色」=「赤、青、緑」に「黄色」を加えた4色を混ぜ合わせることで、従来の1000倍にあたる1兆色を表現する、世界で初めての技術を開発したということです。
テレビの「色の種類」と言うと、以前、何か同じようなことについて書いた覚えがあります。あの時はどうだっけ?ちょっと検索してみると・・・あった、あった「平成ことば事情1780」のタイトルが、
「36億色」
2004年の6月に、M社(今はP社と社名変更したあの会社です)が開発した大型のプラズマテレビの最大の特長が、
「世界最高、36億2000万色」
の色が表現できるということでした。それが5年半で「1兆色」ですか。
「360000000色」
だったのが、
「1000000000000色」
になったのですね・・・って、こんな書き方しなくても、桁数でいうと「3ケタ」違います。朝日新聞は「従来の1000倍」と書いていますが、「1兆色」は、
「5年半前の『36億色』の『約300倍』」
ですね。あれ?おかしいな。計算が3倍ほど違う。「プラズマテレビ」と「液晶テレビ」だから違うのかな。
ま、実はそんなに変わらないんじゃないかという気が、しないでもないですねえ・・・。
今年の冬は、気象庁の「暖冬」という予報が外れて、雪がたくさん積もる「寒い冬」になっているという記事が、新聞に出ていました。たしかに今年は、わりと寒いお正月でした。
そこで、「ミヤネ屋」のエンディングで紹介する「天気予報」の原稿に、こんな表現がよく出てきます。
「真冬並みの寒さ」
この「並み」ってちょっとおかしくないか?という質問を、N氏から受けました。つまり、
「今はもう『真冬』なのに、『真冬並み』というのはどういうことか?」
という疑問です。つまり、ここでの疑問の一つは、
「『真冬』とは、いつを指すのか」
ということ。これはやはり暦の上で言うと、二十四節季の「小寒」から「大寒」を経て「立春」になるまでの間、今年だと1月5日の「寒の入り」から、2月3日の「節分」までが「真冬」なのではないでしょうか。
そして、もう一つの疑問。「真冬並み」という表現は、
「もし今が『真冬』(という季節)なら、『真冬並み』なのは当たり前なので、『並み』を付けるのはおかしいのではないか」
ということです。ここは、
「真冬の寒さ」
という言い方で良いでしょう。そして、「『真冬』は(季節の)ある『期間』をさす」のであって、「並み」を付けて「寒さの"程度"」を表すのなら、本来は、
「『真冬の寒さ』並みの寒さ」
となるはずです。しかしこれでは、いかにもモッチャリとしているので、
「真冬(の寒さ)並みの寒さ」
という言い方が出てきたのではないでしょうか。
いずれにせよ、もしまだ「真冬の期間ではない」のにめちゃくちゃ寒い時は、
「真冬のような寒さ」
既に「真冬の期間」に入っていたら、
「真冬の寒さ」
という表現で良いものと思われますが、いかがでしょうか?
なお、6年前にも「平成ことば事情1552」で「真冬並みの寒さ」について書いていますので、読み比べてみてくださいな。
1月7日、神戸のスカイマークスタジアムで今年の「練習初め」を行ったマリナーズのイチロー選手のニュースを読みました。その際に、イチロー選手がはいていた「スパッツの柄」のことを、原稿には、
「ブラ柄」
と書かれていました。何?「ブラ柄」って・・もしかして・・・・その・・・・「ブラジャーの柄」?意味わかんない。もう本番直前でしたが、このまま読むわけには行きません。緊急事態、緊急事態!
「ディレクターに確認して!」
と、インカムを付けてフロア・マネージャーをしているアシスタント・ディレクターに頼んだところ、返事が返ってきました。
「『ゼブラ柄』だそうです」
なぬ、「ゼブラ」?・・・あ、「ゼ」が抜けとったんか!もうー、何すんねん!あやうく「ブラ柄」と全国放送で読んでしまうとこやったやんか!危ない危ない・・・。
こんな落とし穴が、「生番組」では、いたるところに仕掛けられているから、スリリングなんです。
『落語・昭和の名人決定版25 五代目春風亭柳昇、四代目柳亭痴楽、九代目鈴々舎馬風、九代目桂文治~新作・漫談で風俗を活写』(小学館:2009、12、22)
年末に聞いていました。これを聴いたのがきっかけで、これまで買ってはいるけど聴かないまま置いてあったこのシリーズを、また「聴こう」という気になったのです。
柳昇『結婚式風景』、痴楽『ラブレター』、馬風『権兵衛狸』、九代目桂文治『大蔵次官』。
サブタイトルにあるように、新作の人ばかり4人集めました。中でも柳昇は、「三平ではなく、柳昇こそ昭和の爆笑王だ」という人もあるのがうなずける出来。もう7年前に82歳で没しているんですね。まだ生きているような気がしていました。小さんは死んだとわかっているけど・・・。柳昇は、戦争でのケガで指をなくし、扇子や手拭いでの仕草ができないので、古典をあきらめて新作の道に進んだそうです。知らなかった。「柳昇」だけでCD1枚にしてほしかった気もしました。
『落語・昭和の名人決定版23 二代目・桂小南~上方噺で咲かせた"自分だけの花"』(小学館:2009、11、24)
桂小南(1920(大正9)年~1996年)。生まれ育った京都訛りをハンディから個性に転換して、東京でも上方でもない"小南落語"を確立したと。たしかに、東京でもない上方でもない喋り方をしはるが、そのバランスの取り方が、先輩で京都出身のアナウンサーの喋り方にちょっと似ている気がした。
☆「いかけ屋」昭和50年頃、東宝名人会。「お屋敷でおぼっちゃま、おぼっちゃまと言われた・・・子と一緒に遊んでいた頃」という振り方、ああ、ここにもあったのか!と。「間」がすべて。このネタは、「いかけ屋」がなくなった現代ではきつい。「鰻屋」でのてんやわんやは、おもしろい。別の、現代的な商売でも置き換えて出来そう。
☆「しじみ売り」(昭和60年12月18日)まずまず。
☆「ぜんざい公社」(昭和56年5月25日)。「ビルヂング」、「ビルディング」ではなく。しゃべりが、上方の人が喋る東京弁。東と西の間で悩んだあとに、「これでいいのだ」と気付く、そういう瞬間があったのだろう。
小南の句だという「河岸の雪、明治は遠くなりにけり」。中村草田男の本家取りか。
昭和43、44年連続で芸術祭賞のときに、以前、師匠の金馬に「本当の大阪落語は、東京じゃ受けないよ」と言われたことを思い出したという。「東京でもない、上方でもない」独特のスタイルを生むきっかけになったか?
小南は「目は人間。マナコなり」と高座でよく言っていたそうだ。また、目線の使い分けで登場人物の気持ちを表現することを大切にしたとも。
初詣は、もう行かれましたか?
よく言われることですが、日本人って、お正月は「神社」に参り、お盆やお彼岸には「お寺」にお墓参り行き、「クリスマス」を祝うと言う・・・「宗教」は何でもありというおもしろい民族ですが、私もご多分に漏れず、初詣、行きました。今年は大阪天満宮。天神さんです。1月の2日に行ったのですが、これが予想以上の人出!狭い境内がもう人でいっぱい!!・・・・と言うより、なかなかその境内に入れません。外の一般の道路に100メートル以上の列が。しかも一列に20人ぐらいは並んでいる、横幅の広い列です。警備員がいっぱい出ていて、南側から北側への一方通行なのです。これにはほんとに驚いた!もう、引き返して帰ろうかと思いました、並ぶぐらいなら。しかし、
「せっかく来たんだから・・・」
と妻に説得されて、列の後ろに並ぶと、意外と早く列が進みました。
昔、読売テレビの社屋が大阪天満宮の近くにあった頃(20年以上前ですが)には、大晦日の泊り勤務を終えて、大阪天満宮に初詣してから家に帰ったものですが、閑散としていましたよ、その頃は。
その警備員のおじさんが、拡声器片手に、こう言っていました。
「ただいま『けいだいない』は大変混雑しております。押し合わず、順番にお進みください!」
え?なんだって?
「けいだいない」
って、もしかしたら漢字で書くと、
「境内内」
かな?それって、重複していない?「境内」でいいんじゃないの?
「炎天下の中」
って言うような感じだな。
思うに、昔は人間界と神様の間に「境」があって、神社はその「境」、結界のようなものが感じられたのでしょうね。その「内」にあるから「境の内」で「境内」だったのでしょうが、そのうち「境内」という言葉がよく使われ、慣れてくることで、単なる「場所」を示すことばになってしまったので、「その内側・敷地内」を強調しようとすると、
「境内内」
になってしまったのでしょうね。そういうことを考えていたので、列が早く進んだように感じたのかもしれません。
その「境内内」で買って食べた「ベビーカステラ」、あったかくておいしゅうございました。でも、一袋1000円は、高いやろ。お正月ですから、特に文句は言いませんでしたが。
去年の大晦日に、甥っこや姪っこたちへのお年玉を入れる袋を見に行ったときのこと。私が行ったスーパーのコーナーに置かれたその商品には、こう書かれていました。
「プチ袋」
ありゃあ?あの袋、普通は、
「ポチ袋」
って言うんじゃなかったけ?たしかに、お年玉を入れる「小さい方の袋」ではあったから「プチ」と言われれば「プチ」ですが。
そして、お札を折らずに伸ばしたまま入れられる大きな袋の方には、
「おわたし袋」
と書かれていました。
いつからこんな名称が付いたんでしょうね?Google検索(1月7日)では、
「ポチ袋」 =31万3000件
「プチ袋」 = 4万6200件
「おわたし袋」= 8件
でした。やはり「ポチ袋」が優勢ですが、「プチ袋」も結構、出てきました。
『落語・昭和の名人決定版19 六代目・笑福亭松鶴』(小学館、2009、9、29)
CD付きの落語本シリーズ。
笑福亭松鶴は、鶴瓶さんの師匠として知っていたが、ちゃんと聞いた覚えはないので、興味深く聴いた。声はダミ声であまり好きではない嫌い。しかし「酒飲み」のシーンは、さすがだと思わせた。
*『猫の災難』(昭和41年10月14日)大淀・ABCホール。「たこの足八本」を「はちほん」と言っていた。「はっぽん」ではなく。「生けの鯛」の値段設定が「2500円」。この話は面白かった。
*「三十石」(昭和50年9月24日)。聴いているうちにウトウトと・・。
*「天王寺詣り」(昭和50年3月25日)、難波・高島屋ホール。
「半分残しといたろとおもたけど、ちょっとはかり込んだな」の「はかり込んだ」は、新鮮な言葉であった。
『日本再生論~Re:boot Japan』(魏晶玄=ウィ・ジョンヒョン、エンターブレイン:2009、10、9)
会社の同期のI君が、このお正月に読んで「刺激を受けた」と勧めてくれたので、借りて読んだ。
著者は日本(東大)で10年勉強していたという「親日派」(だと思う)。その視点から、日本に欠けているものを提示。しかし「こうすれば日本は再生する!」という決め手をビシッと提示したものではなく、アイデアを羅列した感が・・・。読み進めば論が構築されて結論が出るということを期待して読むと、どこまで行っても散漫で、特に目新しいものはなかった。
それと、この本は著者が日本語で書いたのか、それとも翻訳か?と気になって奥付を見ると、「編集」という仕事で別の人間がついている。これは「語りおろし」なのだろうか?そのあたりが結構、気になった。「編集」の人は本の構成を考えただけなのか?
本では、これまでのような精密なインテグラル(一体型)の形のものづくりではなく、ある程度大雑把(臨機応変に対応できる)で目的・用途に合わせて形を変えてくっついて仕事のできる「モジュラー型」の仕事の仕方が必要で、それはブロックのおもちゃ「レゴ」にたとえられると著者は言う。しかし、「レゴ」は「一つ一つのブロックの規格が統一」されているから、自由にくっついたり離れたり大きさを変えることが出来るが、世の中、「レゴ」のようにみんなが「同じだけの能力という規格」が統一されていない。「レゴ」のようにするためには、選別をして選び抜かれたスタッフをそろえるのがまず大前提で、それが出来るなら、誰も苦労はしないのになあ・・・とため息をついたのだった。
『偽善エネルギー』(武田邦彦、幻冬舎新書:2009、11、30)
現在のエコロジー、石油節約、エコカー、エコ減税、レジ袋廃止・有料化、ハイブリッドカー、太陽光発電などなどは、すべてエコではなくエセ、偽善であると言い切る著者の論は歯切れがよいし説得力もある。うすうす、どうもそうではないかと思っていたことが、やっぱり!と思う部分も。中には二三、えー?、それは違うでしょという部分もあったが、概ね納得できた。世界の石油消費量の52%がアメリカなのに、なぜそのアメリカが石油消費を減らそうとしないのに、消費量6%の日本が、減らそうとするのかという数字、京都議定書でCO2削減目標の基準としている1990年は、ドイツは、環境後進国の東ドイツと一緒になって、数値が悪くなっていたときであるという指摘は納得できた。
「くじける」「めげる」という意味で、最近よく使われるのが、
「心が折れる」
あるいは、
「心が折れそうになる」
という言葉です。この言葉に対する素朴な疑問は、
「『心』って、折れるものなの?」
ということでした。「折れる」というと「棒」「茎」「骨」「鉛筆の芯」「鉄骨」「箸」など、
「長くて硬いもの」
というイメージがありますが、「心」は果たしてそういった形状なのでしょうか?「心」ってもっと不定形で柔らかいイメージがあるんだけどな。
少し前までは若者の間で、こういったのと似たような状況をさして、
「へこむ」
という表現がよく使われていたように思います。「へこむ」だと「ゴムまり」のように、
「一旦へこんでも、すぐに元に戻りそう」
です。私は既にその頃、もう「若者」ではなかったので「へこむ」という言葉を使ったことはありませんが、よく耳にしました。これは、
「めげる」「落ち込む」
というニュアンスでした。これに対して「心が折れる」は、
「何かある一つの方向を目指して懸命に努力や我慢を続けていたものが、何かのきっかけでその目標に達することが出来ずに挫折してしまい、立ち直れなくなる状況」
のように思います。「へこん」だり「めげ」たりしても、または「なえ」たり「くじけ」たりしても、すぐに(あるいは少し時間がかかっても)立ち上がることができそうですが、「心が折れる」とすぐには立ち上がれず、事実上「断念」を強いられる気がします。それだけ、若者の心に「柔軟さ」がなくなったのか、あるいはそういった柔軟さを許す度量・余裕が、社会(=大人の世界)になくなったのか、あるいはその両方なのでしょうか。
フジテレビでスポーツ実況などを担当している三宅正治アナウンサーは、その著『言葉に魂(おもい)をこめて』(ワニブックス、2009)の中で、何回か「心が折れる」という言葉を使っています。その一番古い例は、2003年大晦日の格闘技イベント番組「男祭り」で、吉田秀彦選手が入場する時のコメントの、
「最強の一族の辞書にギブアップの文字がないのなら、その腕が折れるまで、その心が折れるまで、力を緩めることはやめよう」
というもの。また、2004年アテネ五輪女子柔道52キロ級の銀メダリスト・横澤由貴選手に関する記述でも、
「苦しい練習に心が折れそうになった時、結果が出ずにあきらめそうになった時、別な自分が囁くこの言葉」
と使っています。さらに、この本で紹介している、2008年9月に亡くなった東京アナウンスセミナーでの三宅さんの恩師、故・永井譲治さんのブログに書かれた言葉の中にも、
「(前略)みんなが生きる勇気を持てるように。険しい道でも確かに歩んでいけるように。独りで涙を流さないように。心が折れないように。あきらめないように。くじけないように。曲がらないように。(以下略)」
と「心が折れないように」という表現が出てきます。
このほか、明治大学の齋藤孝教授は著書の中で、
「『心が折れる』という言葉をよく耳にするようになった最初は格闘技の世界で、格闘技ブームによってこの表現が流布して一般化し、そこから日常的に用いられようになった」(『折れない心の作り方』文藝春秋)と述べています。
是か非か、白か黒かの二者択一ではポッキリと折れてしまう心。もっと多様で柔軟な可能性を探る「ゆとりある心」が、必要なのではないだろうか・・・と、実は昨年11月中旬に発売されたブルーの表紙の『現代用語の基礎知識2010』(好評発売中!=宣伝)にも書きました。が、「心が折れる」若者を作り出したのは、一体誰なのか?ということ、今これを書いていて考えてしまいました・・・・。
いま、「ひらがな」を始め、「カタカナ」「漢字」「アルファベット」と、とにかく「文字」に興味がある4歳児(まもなく5歳)の娘。家で時間があれば、「勉強」と称して、ノートやら広告の裏に文字を書いています。
きのうも、何か一生懸命、書いていました。できたら持ってきて見せてくれます。ノートには次のような文字が。
「れねわぬが、れねわぬがびよ、れねわぬが」
???なんじゃ、こりゃ。何となく七五調ですが・・・。でもここは、ほめるところです。
「上手やねえ・・・でも何て書いたの?」
と聞くと、
「『れんしゅう』って、かこうとして、しっぱいしてん」
ふむ。意味は分からないけど、この七五調、なんとなく、
「はっぱふみふみ感」
が。娘はまた、部屋の隅に行って、次は、
「きもの」
と書こうとして、こんなふうに書いてきました。
「きもるのらんは」
七五の切れ目に「は」「が」という格助詞を入れると、わけがわからないなりに、文章のような体裁になりますね。その後も娘は、
「くすへしてつろ」「そとこいりうに」「たさちほまけめ」
各2回、ノート1ページのマスを埋めていました。まるで祝詞みたい!
言葉っておもしろいですね!
『女はトイレで何をしているのか?~現代ニッポン人の生態学』(毎日新聞夕刊編集部、講談社文庫:2009、10、15)
2010年1冊目は、年末から読んでた本ですが、去年10月に文庫オリジナルで出た本。えらいタイトルでんな、新年早々・・・。毎日新聞夕刊に連載された人気コーナーらしい。連載時は知らなかったなあ。でも、素朴な疑問を追求するその形は、私も大好きです!
26編に及ぶ、くだらない、でも重要!な追求の中でお気に入りを3つ挙げるなら、
「なぜヒトはダジャレを言うのか」
「高級化粧品が売れている」
「夏の電車は寒すぎないか」
あたりかな。こうして見ると、もう一歩、突っ込みが足りない気がしてきたが、目の付けどころは悪くないと思う。タイトルもいいです。目の付けどころはいいが、それだけに結果に意外性がないのがマイナスポイントかな。
明けましておめでとうございます。
今年もよろしくおねがいします。新年(2010年)になって初めて「平成ことば事情」を書きました。1月1日と2日に出たのは、配信予約を年内にしておいたものです。
さて、新年。まもなく5歳を迎えるわが娘との、お正月のある一日の会話です。
娘曰く、
「つめ、伸ばしたいなあ、つめ伸ばしてマニキュアしたいねん。ピカピカの。」
やはり女の子です。おマセさんです。時々母親と一緒にネイルのお店に行って、指1本だけ、赤いマニキュアを塗ってもらったりして、マニキュアというものの魅力を知っています。
その娘が、続けてこう言いました。
「ひとり暮らしするときに、すんねん」
驚いた私は、
「ええ?いつ『ひとり暮らし』すんの?」
娘は、当たり前だという感じで、こう答えます。
「うん?おとな。」
ちょっとホッとしながら、
「いつ、おとなになるの?」
と聞くと、
「うーんと、12月。」
ええ!年内かいな・・・って、まだ1年あるけど・・・小学校上がる前の12月に『ひとり暮らしぃ』!?
「いつの12月?」
と聞くと、これも「当たり前だ」と言わんばかりの言い方で
「おとなの、12月」。
まもなく5歳児との会話は、時として「禅問答」のようです。
でも「ひとり暮らし」なんて言葉、一体どこで覚えてきたんだろうか?不思議です。
『京都奈良「駅名」の謎~古都の駅名にはドラマがあった』(谷川彰英、祥伝社黄金文庫:2009、10、20)
著者は筑波大学の教授・副学長を経てノンフィクション作家に転じ、地名の「探求」を続けている。前に、同じ祥伝社黄金文庫から出ている著者の本である『大阪「駅名」の謎~日本のルーツが見えてくる』(2009、4、20)を読んだが、大変勉強になった。今回はその「京都」「奈良」の「駅名」編。うしろにちょこっと「神戸」の駅名も出てくる。オマケか。
これも「へえー」と思うことの連続で、大変おもしろかった。
著者は長野県出身ということだが、長野の「安曇(あずみ)」と滋賀県の「安曇川(安曇川)」とのつながりや、「当麻寺」の「当麻」は、なぜ「たいま」と読むのか?なども興味深い。これは実は、昔は「たぎたぎしい(古語で「でこぼこのあるさま」)」から来た言葉で「当岐麻(たぎま)」だったのが「ぎ→い」に転化して「岐」の字が脱落したので「当麻」になったとか、とにかく、「地名」もそうだが「駅名」も、結局その土地の「歴史」に触れることが出来る(「歴史」そのもの!)だけに、奥が深いのだ。「平成の大合併」で、そういった地名の多くが消えてしまったのは、返す返すも愚かな行為だった気がします。
『青年の条件~歴史のなかの父と子』(河原宏、人文書院:1998、10、25)
著者は私の大学のゼミでの恩師。10年ほど前に早稲田大学を退官されたときに、ゼミのOBが集まる会があり、その席でいただいた本・・・・を今まで読んでなかったのか!と言われると、面目ありません・・・。
この本を読んだきっかけになったのは、先月(11月)出席した、京都大学の佐藤卓己先生の勉強会。このときのテーマは「NHK青年の主張」。佐藤先生が次に出版される予定のテーマだそうだ。『青年の主張』という番組はどう変遷し、そして消えていったのか?その背景を、時代の流れと絡めて捉えたユニークなものだが、そこで出てきた根本の「青年」とは一体?と考えた時に、「そうだ、河原先生の本に『青年の条件』があった!あれを読めば、そのあたりが分かるのではないか!」と思い出したのです。思い出したということは、つねづね、この本を読んでいないことが気にかかっていたということで・・・。
河原先生は、「はじめの問い」としてゴーギャンの代表作の一つ「われらはいずこより来たり、何者であり、いずこに行くのか」を取り上げて、この「人間は、何処から来て何処へ行くのか」はすなわち「歴史と未来」であり、その形は「父と子」に収斂するが、それを求めて葛藤するのが「青年」だ、というように話がつながっていく。その「青年」の時代における変遷を、
・幕末から明治期(「志」の時代)
・明治後半から大正(「煩悶」の時代)
・大正期(「らしく・ぶる」時代)
・戦前昭和期(「不安」の時代)
・戦中期(「死生」の時代)
・ 現代(「抽象」の時代)
と分類して分析している。ゴーギャンの作品、言われて思い出したが、おととし(2007年)、「エルミタージュ美術館展」が京都で開かれた時に実物を見ていたが、全然そんなことだとも思わずに、ボーっと見ていた・・・。
河原先生はこの本が出た11年前に、既に「サブプライムローン」や「リーマン・ショック」といった金融中心のアメリカ経済の破綻を予言していることにも気付いた。1995年の阪神大震災とオウムの地下鉄サリン事件が、その狼煙を上げていたのだ。当然まだ、2001年の「911」のテロは起こっていなかったのだが。
その中で気になった記述や感想をメモしておく。
*欧米は「父」の文化、日本は「母」。「ナショナリズム」と「パトリオットシズム」の違い。
*父の不在。1995年3月20日、地下鉄サリン事件でのオウムの出現の意味。その6年後の2001年9月11日、ワールド・トレード・センタービルへの自爆テロも、何か通じるものが。
*ジョン・ロックが紀元1~2世紀ごろのローマ帝国時代の詩人ユヴェナーリスの言葉を復活させ、「健全なる身体に健全な精神が宿る」と断定した。ロックは、これこそがイギリス紳士そのものだとみなしていた。
*「国がまえ」の中は「民」と書く「クニ」の字。地方分権の道州制だ!
ユニークな論文であると感じた・・・って、「上から目線」か!