2013年12月14日(土)
午前10:30~11:30
1990年、NSC(吉本総合芸能学院)に入学(9期生)し、翌91年には宮川大輔とお笑いコンビ「チュパチャップス」を結成したほっしゃん。。同年には同期のナインティナイン、雨上がり決死隊ら若手芸人たちによるユニット「吉本印天然素材」に参加し、大人気を博した。だが、次第にナイナイ、雨上がりの単独活動が増え、彼らが脱退してからはユニットの人気は急降下。99年にはユニットもコンビも解散した。それからは本人も「思い出したくない」というほど仕事のない時期を経験。そんなどん底からの奇跡の復活の陰には何があったのか?その人生を、年齢を横軸、幸福度を縦軸に表した「幸せ・不幸せグラフ」で振り返る。ほっしゃん。を間近で見てきた芸人仲間らの証言も織り交ぜ、彼の知られざる真実を明かす!
NSCに入学して「吉本印天然素材」に参加した1年後には幸福度が50%に上昇。当時すでに収入が月に70~80万円もあったという。陣内智則は「100%やないんや」と意外がるが、ほっしゃん。は「僕らは一番年下のコンビやった。まだ若くてつたなくて、兄さんたちのように楽しくはできなかった」という。
実は、高校時代は「3年間で合わせても10分しか喋ってないぐらい暗かった」というほっしゃん。。芸人になっても人を笑わせる方法がわからず、つまようじを頭に刺したり、鼻にうどんを通すなど、「自分を傷つける芸ばかりやって、もがいていた」と明かす。同期の矢野・兵動の兵動は「確かに彼は暗かったけど、2人はポップなネタをやって、キラキラしていた」と証言。周囲は本人が思うのとは少し違った見方をしていたようだ。また、相方だった宮川は、ほっしゃん。が家のガス栓を閉めたかどうか心配になり、仕事先の名古屋から大阪までタクシーで確かめに帰ったという、豪快なお金遣いをしていたエピソードを暴露する。さらに、“天素”時代をよく知る雨上がりの蛍原も、証言者としてVTRに登場。ほっしゃん。がネタ作りで煮詰まってしまい、普通大人ならやらない唖然とすることをやってしまったと明かす。ほっしゃん。が「今でも大きい仕事の前にはしてしまう。やっちゃダメと思うとやってしまう」という、本人も困惑している大人げないこととは?
ところが、人気の突出したナイナイ、雨上がりが上京し、脱退してしまうと、ユニットの勢いはなくなり、コンビも開店休業状態に。さらに宮川までもがひとりで上京してしまい、大阪に残ったほっしゃん。とはネタ合わせもできない状況に。話し合うために上京したほっしゃん。に、宮川が告げたのは、なんと「解散したい。東京で芝居がやりたい」という言葉だった。コンビを続けたかったほっしゃん。だったが、何も言わず宮川の希望を飲んだのは何故だったのか?その真意が明かされる。
その後、ピン芸人となったほっしゃん。も上京するが、29~32歳までの4年間に、仕事がなんと3日だけというどん底の日々が続いた。ナイナイや雨上がりが食事に誘ってくれても、出かける電車代もなかったという。やがて売れている仲間に悪意さえ抱くようになり、「あのころは悪魔に取りつかれていた」とほっしゃん。。久々の仕事では、どん底から這い上がるために、命を張ってでも笑いを取ろうとするほっしゃん。を、蛍原が思わず止めたというエピソードも。陣内も「芸人の切羽詰まった行動は本当に怖い!」と驚いた、そのとんでもない言動とは?
そんな不遇の時代を抜け出したきっかけは、東京にできた劇場「ルミネtheよしもと」で活動ができるようになったからだという。「考えたネタがすぐに劇場でできるのがうれしかった」とほっしゃん。。そこでさまざまな芸人たちと交流ができ、「人志松本のすべらない話」 に声がかかり、またたく間に注目されるようになった。そして2005年には「R-1ぐらんぷり」で優勝し、幸せ度も一気に最大値に。ほっしゃん。は「扉が開いた感じだった」と振り返る。
さらに芝居にも才能を発揮し、NHK朝ドラにも出演。今や「お友達」にはそうそうたる俳優陣も名を連ね、そんな中の一人、はるな愛からも証言が。知り合った頃、はるなが何度「自分は元男だ」と言っても信じず、本気ではるなを好きになってしまったというほっしゃん。。陣内が「どんだけ好きやねん!?」と呆れるその求愛行動とは?
そのほか、「子供と会っているときが一番幸せ」という4歳になる子供や、再婚について、また”天国”と”地獄”を見たからこその、こうありたいと望む理想の芸人像とは?そして、解散して共に人気芸人となった宮川から「こんなコンビはほかにない。誇っていい!」と熱いエールが届く。