2013年6月22日(土)
午前10:30~11:25
今や東京で“ひな壇芸人”として確固たる地位を築き、バラエティー番組などで大活躍中のFUJIWARA。だが、ここに至るまでの芸人人生は“絶頂”と“どん底”の繰り返しで、浮き沈みの激しい芸能界の厳しさを嫌というほど味わってきたという。トークでは、そんなFUJIWARAの歴史をブロックに分け、それぞれの時代に藤本、原西が感じていた“幸福度”を明かしながら紐解いていく。
まずは、1989年の結成から94年までの5年間。藤本の幸福度は91年に“100%”とマックスに跳ね上がるが、その理由は同年結成された伝説の若手ユニット・吉本印天然素材(以下、“天素”)にあるという。雨上がり決死隊、FUJIWARA、バッファロー吾郎、ナインティナイン、チュパチャップス(現 ほっしゃん。・宮川大輔)、へびいちごと当時の活きのいい若手を集めたユニットは東京で華々しくデビュー。実は月亭方正は、ごく初期の天素に加わるもまもなく脱退した“元メンバー”だったが、「みんなのネタを見てスゴイ!ってビックリしてん。あの頃はダウンタウンさんの“引き”の静かな笑いが主流やったのに、この子らは元気いっぱいやったの!」と、舞台狭しと飛び回るFUJIWARAら天素メンバーのアクティブなコントに衝撃を受けたという。そんな若さ溢れる天素は若い女性たちの支持を受け、人気はアイドル並に。藤本は「番組の収録に行くと、最寄りの駅から収録現場までファンがずらっと並んでて、花道みたいになってた!」と当時の熱狂ぶりを振り返るが…。そんな、人気絶頂期のFUJIWARAの様子を、雨上がり決死隊の宮迫がVTRで証言。「ファンにチヤホヤされて、天狗になってた」と語る藤本は、若さゆえの(?)当時の恥ずかしい行為を宮迫に暴露されて大慌て!?
ところが1994年、幸福度はなんと“マイナス100%”のどん底にまで落ちてしまう。同年、ナインティナインが脱退したのを機に天素の人気に陰りが見え始めたのだ。「こんな人気は長く続かない」と早くから危機感を抱いていた雨上がり決死隊も2年後には天素を離れるが、FUJIWARAは「人気がなくなることに気づかなかった。こんなに勢いのある天素を抜けるなんて、ナイナイはアホやな〜と思ってた」とのんきなものだったという。しかし、冠番組が終了し、劇場の集客も目に見えて落ち始めた頃、さすがに「このままじゃアカン!」と焦ったFUJIWARAは残りの天素メンバーとともに活動の拠点を大阪へ。ところが当時、千原兄弟や陣内智則、ジャリズムらが絶大な人気を誇っていた天神橋筋2丁目劇場に彼らの居場所はなかった。デビューまもなく東京に行ってしまったため、「大阪での知名度が全然ない状態やった」と振り返る原西。当然、劇場のファンの反応は冷たく、藤本いわく「ものすごいアウェー」だったという。陣内ら後輩たちも、馴染みのない先輩を「どう扱っていいのかわからなかった」と当時の複雑な胸の内を明かす。そんな中、なんとか後輩たちに溶け込もうと、藤本が楽屋で放ったある“秘策”を陣内が暴露!藤本にとっては必死の作戦だったが、実は後輩たちにドン引き(?)されていたという悲しい“秘策”とは?
その後、プライドを捨てて若手の番組のオーディションを受けるなど地道な活動を続け、深夜のバラエティー番組『吉本超合金』の体当たり企画で関西の若手トップに躍り出たFUJIWARA。幸福度は再び“100%”に急上昇するが、2000年にはまたもマイナスに急降下!若手の番組が次々と終了して大阪での仕事がなくなり、「東京でイチからやるしかない」と2001年に再び拠点を東京に移すことを余儀なくされたのだ。しかし、東京でも仕事はほとんどなく、たまに入る劇場出演や営業を細々とこなすしかない苦悩の日々。天素の解散に次ぐ2度目の“どん底”から、FUJIWARAが人気芸人へと復活を遂げた理由とは?
そして現在、それぞれに幸せな家庭を築き、仕事も順調で「今が一番楽しい」というFUJIWARA。そこで番組では、それぞれの奥さまが撮影した、藤本、原西の家庭での“パパぶり”が垣間見えるVTRをオンエア!2人の愛娘にギャグを指南する原西のほほえましい姿や、妻・木下優樹菜の厳しい(?)指導で娘の育児に奮闘する藤本の様子を大公開する。さらに、今後のFUJIWARAに期待することを大阪の街行く人に直撃!「そりゃ僕らだってそうなりたいけどムチャやわ!」と藤本、原西を驚かせた、関西人が望むFUJIWARAの未来像とは?