今回の配達先は、アフリカ大陸の北西にある島国・カーボベルデ。ここでヒップホップダンサーとして奮闘する北尚果さん(32)へ、兵庫県の淡路島で暮らす母・実佐誉(みさよ)さん(60)の想いを届ける。
北大西洋に浮かぶカーボベルデ共和国は9つの島の面積をすべて合わせても滋賀県ほどの大きさ。1975年までポルトガルの植民地だったため、アフリカとヨーロッパが融合した風景が広がる。尚果さんはそんな国で暮らすたった一人の日本人だ。彼女が踊るヒップホップダンスは、1970年代にニューヨークのサウス・ブロンクスでアフリカ系の人々が生み出したストリートダンス。尚果さんが街の公園に出て音楽を流すと、現地のダンサー仲間が次々とやってきて、それぞれが即興で踊る「フリースタイル」というジャンルのヒップホップダンスを披露する。こうして多い時は週3回、何時間も互いにダンスを見せ合い技を磨いている。
3年前まではインストラクターとして、西宮市のダンススタジオで150人以上の生徒にヒップホップダンスの楽しさを教えていた尚果さん。しかしコロナ禍で何もかもが一変。スタジオやイベントで人が集まることに世間が過敏になり、自身も思うようにダンスを教えることができなくなってしまった。精神的に追い込まれた尚果さんは思い切って日本を飛び出すことを決意し、ヒップホップダンスの原点ともいえるアフリカへ行くことに。そしてコロナ禍でも入国できたのが、たまたまカーボベルデだった。こうして2021年6月に海を渡り、まずは自分のレベルを試そうと現地のダンスバトルの大会に出場。すると見事優勝し、その後もヨーロッパの大会に次々と出場する。しかし、活躍すると同時に世界を相手に戦うことではっきりと人種の壁を感じた尚果さんは、ルーツを一から学び直すためカーボベルデのストリートでダンスの武者修行を始め、悪戦苦闘しながらさまざまな動きを吸収しようとしている。
ヒップホップダンスとの出会いは中学2年生のとき。当初、母・実佐誉さんには反対されたが、物静かな父・匡隆さんは口には出さずともダンスに明け暮れる娘をいつも応援していた。しかし、尚果さんが大学に入ってすぐ、突然匡隆さんが47歳の若さで帰らぬ人となった。その後、尚果さんと弟、2人の子どもを育てた実佐誉さんは現在、淡路島にあった祖母の実家で小さな民宿を営んでいる。宿泊業は未経験だったもののいつかやってみたかったそうで、実佐誉さんは「人間はいつ死ぬかわからへんから、とりあえず後悔のないように。やりたいって言ったらやらせる。自分が納得するまでやり切れ…“おとう”もそう思っていると思います」と、自身の夢を叶えたのだった。一方、尚果さんも「自分もいつ死ぬかわかんないから、死ぬ瞬間まで全力で生きたい、命を燃やしたいと思うようになった」と影響を明かす。そんな尚果さんの今の目標は、8月にフランスで開かれる世界大会での優勝。「1分、1秒でも時間があったら踊りたい」と言い、生計もすべてダンスの指導で立てている。そんな中、2026年にダカールで行われるユースオリンピックで、ブレイキンというダンス競技のカーボベルデ代表トップコーチに任命された。さらにこの夏パリで開催されるパラリンピックのアンバサダーにも就任し、障害がある人たちにダンスを教えている。
コロナを機にたまたまやってきたカーボベルデ。それが今ではこの国に無くてはならない存在になった娘へ、母からの届け物は1枚のDVD。亡き父が保管していたもので、高校2年生のとき地元のダンスフェスティバルで踊った映像が収められていた。母の手紙には、「“やりたいことはさせてやれ”はおかんへの約束。“自分が決めたことは簡単にあきらめず続けること”は子供への約束。無口なおとうがたまに言うと心に残りました。決めたことは自分の気持ちが納得するまでやり切ってください。おかんもなりたい自分への道を進んでいます」とのメッセージが。初めて両親の間で交わされた約束を知った尚果さんの目には涙がにじむ。そして「親からダンスの贈り物が来る日が来るとは思ってなかったからうれしいです。やってていいんやな、踊ってていいんやなって」と喜び、天に向かって「ありがとう! 私は今日も踊ります」と感謝を伝えるのだった。