今回の配達先は、アメリカ・ロサンゼルス。ジャズシンガーの秦節子さん(38)へ、大阪で暮らす母・清子さん(73)の想いを届ける。娘が渡米したことについて、「歌手で生きて行くのは難しいけど、それでも好きなことをして人生が終わる方がいいと思って、私は一切反対していなかったです」と清子さん。ただこの13年間、一度も帰国していないこともあり、「向こうでどういう風に頑張ってきたか、どこまで自分の技術を身に付けたのかを見たいですね」と期待する。
節子さんがロスでシンガーの活動を始めたのは8年前。ある日は街の中心部にある人気レストランのテラス席をステージに歌っていた。毎回バンドメンバーは自分でギャラを払って集めるので収入としては決して多くないが、少しずつファンも増えてきている。とはいえ、いまだ無名の存在。そこでこの街で勝ち上がるため、4日後に初めてソロライブを開こうとしていた。しかも演目の半分は節子さんのオリジナル曲だ。大きな挑戦だが、節子さんはバンドメンバーに細かく演奏の指示を出し、妥協せず理想の音を探っていた。
幼い頃から歌うことが大好きだった節子さん。大学時代に音楽活動を始め、ポップシンガーとして活躍することを夢見て自主制作盤も発売した。しかし無理がたたり、心の病に。当時は絶望しかなかったが、歌に助けられ、約3年かけて病から抜け出した。そして自分を支えてくれた音楽を深く学びたいとニューヨークの音楽大学に留学。そこでジャズと出会い、自分の進む道が定まったのだった。その後、ロスに移住。コロナ禍で全てがストップした際にはコロラドの音楽大学へ入学し、作曲技術も習得した。ロスに来て8年、ようやくこぎつけたソロライブを一番見てほしい人は、母の清子さんだという。7歳の時に離婚して以来、たった一人で育ててくれた母とはともに寄り添って生きてきた。渡米してからは日本には帰っておらず、13年間で清子さんと会ったのはたった一度だけだが、節子さんは「もちろん会いたいけど、私とお母さんは一体化しているような感覚」だといい、いつも希望を持ち、何があってもポジティブに生きる母を想った歌も作詞作曲した。
ジャズシンガーとしてステップアップするため、絶対に成功させたい今回のライブ。しかし、思いもよらない問題が発生する。本番直前になってプロモーターと意見が対立し、決裂。雑用を含めた準備が全て節子さんの仕事になってしまったのだ。しかも会場のキャパ150人に対し、売れている前売り券は20枚。節子さんは「ミラクルを起こすしかない」と、電話やメール、店舗を訪ねて懸命に広報活動を始めた。
初のソロライブ当日。会場は食事をしながら本格的なステージが楽しめるライブハウスだが、客席のレイアウトも自ら決めなければならない。しかもバンドメンバーが全員揃うのはこの時が初めて。リハーサルやスタッフへの指示などでバタバタと時間が過ぎていく中、いよいよ本番のときを迎える。会場にはレストランでの演奏を聴いてくれた人や声をかけた音楽関係者など、約70人が集まった。ようやくたどり着いた念願のライブで節子さんが一曲目に選んだのは、母への想いを歌った曲。さらにジャズのナンバーを主体に、様々なジャンルを融合した節子さんにしか作れない世界でお客さんを魅了していく。最後はこの日のために書き下ろしたソロライブのテーマ曲を披露。ジャズの世界に入って13年、現時点での集大成として全てを出し切ったステージが幕を閉じた。
こうしてまた新たな一歩を歩み出した娘へ、母からの届け物は古いカセットテープ。そこには節子さんが小さい頃に歌った童謡、さらには両親の声も入っていた。「パパとママと一緒に歌ってたんですね…やっぱり私は歌を歌うのが自然だったんだなって。その自然な感覚を信じて、自然体でいたらいいんだなっていうのを改めて感じました」と涙声になる節子さん。そして「今年は一回帰って、一緒に温泉にでも行きたいですね」と母との再会を誓うのだった。